LOGIN朝、椿が目を覚ました時、最初に視界へ入ったのは見慣れない天井だった。
「……え」
声にならない息が漏れる。
白い天井。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。 視線を横へずらせば、見慣れた自室の本棚も机もない。一拍遅れて、昨夜の記憶が一気に戻った。
ふらついた身体。
額へ触れた手。 抱き上げられた感覚。 ベッドへ下ろされた時のシーツの沈み込み。そして理解する。
ここは、蓮の部屋だと。「……っ」
指先が無意識にシーツを掴む。
熱は昨日より明らかに下がっている。
頭の重さも、身体のだるさもかなり軽い。それでも胸の奥だけが、まったく落ち着かなかった。
昨夜、自分はこのベッドへ運ばれた。
その事実を認識した瞬間、耳まで熱くなる。さらに、記憶がもう一つ浮かび上がる。
『すぐ戻るから』
蓮が感情に名を与える少し前。 椿が蓮の部屋を出た朝――。 マンションの自動ドアを抜けた瞬間、椿は思わず足を止める。 胸の奥が、落ち着かない。 熱はもう下がっている。 身体のだるさもほとんどない。 歩くことに不安はないはずなのに、心拍だけが朝からずっと速かった。 原因は分かっている。 数分前までいた場所。 見慣れない白い天井。 柔らかなシーツの感触。 そしてなにより、まだ微かに残る、知らない枕の匂い。「……っ」 思い出した瞬間、耳の先まで熱くなる。 昨夜の記憶は、熱に浮かされて曖昧なはずだった。 それでも、ところどころだけ妙に鮮明に残っている。 ふらついた身体を支えられた腕。 背と膝裏へ回った手。 抱き上げられた感覚。 そして今朝。 額へ触れた掌の熱。 近づいた距離で、真っ直ぐに向けられた視線。「……何よ、もう」 小さく零した声は、朝の道路に溶けるように消えた。 バッグの中で弁当箱が小さく揺れる。 その重みが、また胸をざわつかせた。 いつもなら、自分が作るはずだったもの。 自分が蓮の体調と練習量を考えて組み立てるはずだった昼食。 それを、今日は彼が作った。 ただその事実だけで、胸の奥に熱が灯る。 歩きながら、無意識にスマートフォンを取り出す。 画面には今朝送ったメッセージが残っていた。【昨日は、ありがとう】 たったそれだけ。 本当はもっと言いたかった。 助けてくれたこと。 看病してくれたこと。 朝食まで用意してくれたこと。 でも、面と向かっては言えなかった。 あの場で言葉にしようとしたら、きっと平静ではいられなかった。 椿は小さく息を吐き、画面を閉じた。 そのまま校門を抜け、栄養科棟へ向
放課後のグラウンドは、全国大会へ向けた熱をそのまま地面へ焼き付けるような強度で回っていた。 ミニゲームのテンポは速い。 中盤の圧縮も、切り替えの速度も、予選決勝を経て一段階上がっている。「天根センパイ!」 若葉の声と同時に、中央へ鋭い縦パスが差し込まれる。 蓮は半身で受けた。 右足の面で勢いを殺しながら、背後のプレッシャーを受けるより先に視線を前へ走らせる。 桐生が左へ流れる。 サイドが裏へ走る。 若葉がリターンを受ける位置へ顔を出す。 選択肢は三つ。 その中で最も速く、最も次の展開へ繋がる一本を選ぶ。 ワンタッチで桐生へ流し、そのまま自分も前へ出る。 返ってきたボールをダイレクトで右へ散らすと、サイドがそのまま深く抉った。「いい感じっすね!」 若葉が思わず声を上げる。 プレーに乱れはない。 身体も軽い。 だが、どこか思考の一部だけが別の場所に残っている感覚があった。 給水のタイミングで若葉がボトルを持ったまま首を傾げる。「天根センパイ、今日ちょっと上の空じゃないっすか?」 蓮はボトルを受け取りながら短く返した。「そんなことない」 だが、横でタオルを首にかけた桐生が小さく笑う。「いや、若葉の言う通りだな。プレーはいつも通りだけど、たまに思考飛んでるぞ」 蓮は少しだけ眉を寄せた。「……別になんでもないです」「いや絶対なんかあるやつじゃないっすか!」 若葉が食い気味に身を乗り出す。 その勢いに桐生が肩を竦めた。「おいこら柏原。ちょっと落ち着け」 だが桐生自身も、探るような視線を蓮へ向けていた。 ミニゲーム終了後、三人はベンチ脇へ腰を下ろした。 夕方の風が、汗を冷やすようにグラウンドを抜けていく。 少しの沈黙のあと、蓮がぽつりと口を開いた。「……この
朝、椿が目を覚ました時、最初に視界へ入ったのは見慣れない天井だった。「……え」 声にならない息が漏れる。 白い天井。 カーテンの隙間から差し込む朝の光。 視線を横へずらせば、見慣れた自室の本棚も机もない。 一拍遅れて、昨夜の記憶が一気に戻った。 ふらついた身体。 額へ触れた手。 抱き上げられた感覚。 ベッドへ下ろされた時のシーツの沈み込み。 そして理解する。 ここは、蓮の部屋だと。「……っ」 指先が無意識にシーツを掴む。 熱は昨日より明らかに下がっている。 頭の重さも、身体のだるさもかなり軽い。 それでも胸の奥だけが、まったく落ち着かなかった。 昨夜、自分はこのベッドへ運ばれた。 その事実を認識した瞬間、耳まで熱くなる。 さらに、記憶がもう一つ浮かび上がる。『すぐ戻るから』 服の裾を掴んでしまった、自分の指先。「……なにしてるのよ、私……」 枕へ顔を埋めたくなる衝動をなんとか押し留めた、その時だった。 ――トントン。 部屋の外から、包丁の音が聞こえた。 続いて、換気扇の低い駆動音。 フライパンに何かが触れる、油の小さな弾ける音。「……え?」 数秒、思考が止まる。 音の意味を理解した瞬間、椿は慌ててベッドを出た。 部屋の扉を開けると、リビングの先のキッチンに蓮が立っていた。 フライパンを片手に、朝食の準備をしている。 リビングへ出たところで、ソファに置かれた毛布が目に入った。 昨夜、蓮がどこで眠ったのかを理解し、椿はまた視線を逸らした。「……起きたのか」 振り返った声は、いつも通り落ち着いていた。 その平静さが、逆に椿の心拍を跳ね上げる。「……え、ええ」 視線が合った瞬間、昨夜の記憶
リビングへ戻った蓮は、テーブルの上に開きかけた本を一度閉じ、先にスマートフォンを手に取った。 検索欄へ打ち込む。 ――発熱 食事 おかゆ 出てきた情報を上から順に確認する。 消化負担を抑えること。 水分量を多めにすること。 味付けは薄く。 必要な情報だけを抜き出し、すぐにキッチンへ立つ。 鍋に水を張り、米を入れる。 火加減を弱め、蓋を少しずらす。 静かなキッチンに、鍋の中で米がほどけていく小さな音だけが残る。 その間にも、意識は何度も隣の部屋へ向いていた。 熱。 呼吸。 意識。 蓋をずらすたび、耳は鍋の音より先に隣の寝息を拾おうとしていた。 椿の状態は、さっきより少し落ち着いているように見えたが、安心するにはまだ早い。 蓮は時折部屋を覗きながら、鍋の中身を木べらでゆっくりとかき混ぜる。 思っていたより時間がかかった。 それでも、ようやく形になったおかゆを小さめの器へよそう。 スプーンを取り出そうと、食器棚へ目を向けた時、未開封のレトルトのお粥が目に留まった。「......しまった。これを買ってたんだった」 小さくため息をつきながら首を振ると、スプーンを取り、器と一緒に寝室へ持っていく。 ベッドの上で、椿は薄く目を開けた。「椿。飯、食えるか?」 ベッド脇へ腰を下ろし、器をサイドテーブルへ置く。 椿は身体を起こそうとして、また少しふらついた。 蓮はすぐに背へ手を回す。「だから無理するなって」 半身を支えたまま、椿の体勢を整える。 蓮は一瞬だけ器へ視線を落とし、スプーンを手に取った。「持てるか?」 問いかけると、椿は小さく頷いたが、その手にはほとんど力が入っていない。 蓮は短く息を吐き、器を持ったままベッド脇へ腰を落ち着けた。「……少しずつでいいから」 ひと
揺れた皿が手元から滑りかけた瞬間、蓮の腕が先に伸びていた。 片手で皿を受け止め、もう一方の腕で椿の身体を抱き留める。 皿を食卓へ置くと、空いた手をそのまま額へ伸ばした。「……熱いな」 掌に触れた温度は明らかに高い。朝、食卓で感じた微かな違和感とは比べ物にならない熱が、皮膚越しに直接伝わってくる。 椿は視線を上げたものの、焦点がわずかに定まっていない。「……だい、じょうぶ……」 言葉が遅い。 呼吸も浅い。 蓮は眉を寄せたまま、支えていた腕に少し力を入れる。「大丈夫なら、今ふらつかないだろ」 低く言い切ると、椿は小さく首を振った。「……ごはん、あと少し……」 視線の先には、食卓へ運ばれかけていた皿。 湯気がまだ薄く立ち上っている。 この状態でもまだ、自分の食事を優先している。 その事実に、一瞬だけ言葉が詰まる。「大丈夫、もうできてる。 今日はもういいから。部屋に戻って寝てろ」 はっきり告げる。 だが椿は、蓮の腕を支えにしながらも身体をキッチンへ向けようとした。「……今日の練習……強度、高かったでしょ……?」 途切れがちな声。 次の一歩を踏み出した瞬間、膝から力が抜けた。 ふっと身体が崩れる。「……っ」 考えるより先に、蓮の腕が背と膝裏へ回り、そのまま身体を抱き上げた。 腕の中へ収まった椿は、思っていたよりもずっと軽い。 その小さな身体で、毎日自分の練習量を読み、食事を組み立て、回復まで支えていた。 抱き上げた軽さより、その事実の方が胸に残った。「れ、蓮くん……?」「いいから。喋るな」 短く返し、そのまま寝室へ向かう。 廊下を数歩で抜け、ベッドへそっと身体を下ろす。シーツへ沈んだ椿は、いつもキッチンに立っている時よりずっと小さく見えた。 蓮はすぐにもう一度額へ手
今日の部活動、蓮の身体は驚くほど軽かった。 足が自然に前へ出る。 視界が広い。 ボールを受ける前に、次の二手先まで線が引ける。 理由は明白だ。 朝食も昼食も、久しぶりに“止まらずに食べられた”。 身体の回復速度が違う。 筋肉の張りも、昨日までより明らかに抜けている。 食事が身体へそのまま変換されている感覚。 いつものコンディションだった。 全国へ向けた強度の高いメニューにも、思考はまったく鈍らない。 終盤の対人練習でも同じだった。 志岐との一対一を思い出させるような狭い局面で、蓮は半歩のステップだけで若葉の重心を外し、中央を割る。「うわ、今の見えなかったっす……」 若葉が目を丸くしてついてくる。「今の、足どっちから入ったんすか?」「右股関節が開いてた。だから左から行けば遅れる」「いや、その判断が速すぎるんすよ!ってか、見えすぎっす!」 周囲に小さく笑いが漏れる。 キレは完全に戻っていた。 むしろ、ここ数日で一番いい。 ふと、蓮の視線がグラウンド脇へ向く。 フェンスの外。 記録用のバインダーを持った姿が、いつもならある位置。 だが―― 今日はそこには誰もいなかった。 周囲を見渡しても、その姿は見当たらない。 ほんの一拍、思考が止まる。 次のボールを受けながらも、視線だけがもう一度外へ流れる。 やはり、いない。「……?」 違和感が、胸の奥に小さく残った。 給水のタイミングで、若葉がボトルを持ったまま首を傾げる。「あれ、橘先輩いないっすね」 桐生もタオルで汗を拭きながら周囲を見渡した。「そういや、今日は見てないな。まだ実習から戻ってないのか?」 蓮はボトル