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6食目

Autor: はるくぼ
last update Fecha de publicación: 2026-08-10 18:20:40

 蓮の部屋のキッチンを見た椿は、最初に冷蔵庫を開け、次に調味料の棚を確認し、最後に作業台に並べた食材を見た。

「思ったよりは片付いてるのね」

「使ったものは戻すようにしてるからな」

「そんなことでドヤ顔しないで。

 ......そこはできるのに、献立は組めないのね」

「関連性が見えない」

「あると思うけど」

 椿はそう言いながら、白身魚のパックを手に取った。

 さっきまで蓮にはただの食材に見えていたものが、椿の手に渡ると、次に置かれる場所まで決まっているように見える。

 椿は手を洗い、袖を少し捲った。

 包丁を持つ手つきは、慣れていた。

 小松菜の根元を落とし、白身魚に軽く塩を振り、鍋に水を入れる。動きは速いが、雑ではない。使った道具はすぐ横へ寄せ、次に必要なものが置ける場所を自然に空けていく。

 蓮は少し離れた場所で、その手元を見ていた。

 ピッチ上の動きに似ている。

 無駄な移動がない。

 次に何をするかが決まっているから、迷って止まる時間がない。

「見てるだけじゃなくて、米」

「米?」

「炊くんでしょう。練習後なら抜かない。量は……あなたの茶碗、どれ?」

「これ」

「じゃあ、今日はそれで一杯半くらい。足りなかったら明日以降調整。いきなり完璧を目指さなくていいから」

「一杯半」

「そう。覚えて」

「分かった」

 蓮は言われた通りに米をよそい、炊飯器の残りを確認する。

 椿はその間に、白身魚をフライパンへ置いた。油は少量。火は強すぎない。小松菜はさっと茹で、冷水に取ってから水気を絞る。

「油は使うんだな」

「使うわよ。脂質は敵じゃないもの。量と種類とタイミングの問題」

「なるほど」

「今ので全部分かった顔しないで。細かくやると長いから」

「分かってはいない。けど、敵じゃないのは分かった」

「まあ、今はそれでいいわ」

 椿は豆腐を切り、簡単な汁物に入れた。

 調味料は多くない。

 けれど、湯気が立ち、魚の焼ける匂いが部屋に広がると、蓮の胃がはっきりと反応した。

 さっきまで空腹は重さだった。

 今は、食べたいという感覚に変わっている。

「……すごいな」

「何が?」

「同じ食材なのに、食事に見える」

「食材なんだから、当たり前でしょう」

「俺が見ていた時は、材料にしか見えなかった」

 椿は一瞬だけ手を止め、それから何でもないように皿を取った。

「それは、慣れよ」

「慣れれば見えるようになるのか」

「少しはね。少なくとも、鶏むね肉とブロッコリーだけで帰ろうとはしなくなると思う」

「それは、今日で覚えた」

「本当かしら」

 椿は白身魚を皿に乗せ、小松菜を添え、豆腐の入った汁物を横へ置いた。米も合わせると、作業台の上には、蓮が自分では組み立てられなかった夕飯がきちんと並んでいた。

 色がある。

 温かい。

 そして、それぞれに理由がある。

「今日はこれで十分だと思う。足りなかったら、後でバナナを食べてもいいけど、まずはこれをちゃんと食べて」

「分かった」

「あと、魚はゆっくり食べて。練習後でお腹が空いてるからって、急いで飲み込まない」

「分かった」

「二回目の分かったは、信用してないから」

「……分かった」

「三回目も同じよ」

 椿はそう言ってから、自分で少し呆れたように息を吐いた。

 蓮は椅子に座り、箸を取る。

 白身魚を口に運ぶと、思っていたよりずっと柔らかかった。味は濃くない。けれど、物足りないわけでもない。小松菜は少しだけ歯ごたえが残っていて、汁物は熱すぎず、身体の内側へゆっくり落ちていく。

 ドイツのチームで出されていた食事は、完成されていた。

 管理され、計算され、必要なものが揃っていた。

 けれど、目の前の食事は、それとは違う。

 今の自分の練習後に合わせて、隣に住んでいる同級生が、このキッチンで組み立てたものだった。

「美味い」

 蓮が短く言うと、椿は片付けの手を止めた。

「……そう」

「ああ。助かる」

「言っとくけど、今日だけだから」

「分かってる」

「分かってるならいいけど」

 椿は皿を片付け終えると、使った道具を洗い、布巾で作業台を拭いた。手際が良すぎて、蓮が立ち上がる頃にはほとんど終わっていた。

「あ、悪い。自分で洗うよ」

「もう終わるわよ」

「それでも、俺の部屋だから」

「……じゃあ、次からは最初に言いなさい」

「次?」

 蓮が聞き返すと、椿は少しだけしまったという顔をした。

「あ......い、今のは、もしまた教えることがあれば、という意味よ」

 椿は手を拭いたハンカチを整え、玄関に向かった。

 扉の前で靴を履きながら、ふと足を止める。

「……繰り返しだけど、ご飯は作らないわよ」

「分かってる」

「でも」

 椿は少しだけ視線を逸らした。

「食べたものの評価くらいなら、できると思う」

「評価?」

「写真。朝昼晩、毎回じゃなくてもいいけど、食事を写真で送ってくれたら、足りなさそうなものとか、多すぎるものは言える。細かい計算まではできないけど、今のあなたよりは見えるはずだから」

 蓮はその言葉を聞き、すぐにスマートフォンを取り出した。

「じゃあ、お願いしたい」

「早いわね」

「必要だと思ったからな」

「……本当に、驚くほど素直ね」

 椿もスマートフォンを取り出し、連絡先を交換する。

 画面に表示された名前は、橘椿。

 さっきまでスーパーで食材を選び、隣のキッチンで夕飯を組み立てていた相手の名前が、蓮のスマートフォンの中に追加される。

「送る前に一つだけ」

 椿が画面をしまいながら言った。

「私は作らない。基本はあなたが作る。私は見て、気づいたことを言うだけ」

「分かった」

「あと、夜中に送らないで。寝てるから」

「分かった」

「それと、写真だけ送って満足しないで。ちゃんと食べること」

「分かった」

「……三回続くと不安になるわね」

「気をつける」

 椿は少しだけ困ったように笑い、それから扉を開けた。

「じゃあ、また」

 椿は最後にそう呟き、四〇二号室へ戻っていった。

 扉が閉まる。

 蓮は一人になったキッチンで、スマートフォンの画面をもう一度見る。

 誰にも頼らず、自分一人で律する。

 そのつもりで始めた一人暮らしだった。

 けれど、すべてを一人で抱えることと、自分を律することは、同じではないのかもしれない。

 ピッチの上では、味方の動きを見て、使い、使われる。

 なら、ピッチの外でも、見えている人間の言葉を聞くことは間違いではない。

 蓮は椿の連絡先を閉じ、作業台に残ったレジ袋を片付けた。

 明日の朝、何を食べるか。

 その問いはまだ難しい。

 だが、少なくとも今は、写真を送れる相手がいる。

 蓮は冷蔵庫を開け、明日の朝に使う豆腐と小松菜を目の高さの棚へ移した。

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