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5食目

last update Veröffentlichungsdatum: 10.08.2026 18:20:35

 自分の部屋に入ってからも、蓮の中にはまだ先ほどの廊下の空気が残っていた。

 四〇一号室。

 四〇二号室。

 同じ高校の同級生で、スーパーで食事を指摘してきたスポーツ栄養科の少女が、自分の隣に住んでいる。

 冷静に考えれば、偶然の一言で片づけるしかない。けれど、靴を脱ぎ、廊下を通り、キッチンの照明をつけても、蓮の思考はまだその事実の処理を終えていなかった。

 ただ、それ以上に目の前の問題は切実だった。

 キッチンの作業台に、買ってきた食材を並べる。

 椿に言われた通り、米もある。調味料も最低限は揃えている。包丁も、まな板も、フライパンも鍋もある。

 食材はある。

 理由も、少しだけ分かった。

 練習後に必要な糖質。回復のためのタンパク質。明日の朝まで続く身体。魚を今日中に使った方がいいという指示。

 そこまでは、理解した。

 理解した、のだが。

「……何を作ればいいんだ」

 蓮は白身魚のパックを手に取ったまま、しばらく動けずにいた。

 焼くのか、蒸すのか、煮るのか。

 小松菜は一緒に使うのか、別にするのか。豆腐は味噌汁に入れるのか、そのまま食べるのか。鶏むね肉は今日使うべきなのか、明日に回すべきなのか。

 食材一つひとつに役割があることは分かった。

 だが、役割があるからこそ、適当に扱うのが怖くなる。

 ピッチなら、味方の立ち位置を見れば次の選択肢は絞れる。右へ逃がすのか、中央で受けるのか、相手の背後を突くのか。ミスをしたとしても、その場で次を選べる。

 けれど、キッチンの上に並んだ食材は、蓮を待ってくれない。

 魚は今日中。

 明日の朝にも使える豆腐。

 練習後でも朝でも使えるバナナ。

 言われたことが、逆に頭の中で渋滞していた。

 蓮は数分ほど作業台の前に立ち尽くし、やがて小さく息を吐いた。

 分からないなら、聞くしかない。

 その判断だけは早かった。

 ◇

 四〇二号室のインターホンを押すと、数秒置いてから室内で足音がした。

 扉が少しだけ開く。

 顔を出した椿は、まださっきと同じパーカー姿だった。髪も結んでおらず、スーパーで見た時より少しだけ気が抜けたような顔をしていたが、蓮の顔を見た瞬間、その表情が固まる。

「……何?」

「悪い。さっきの食材のことで聞きたい」

「食材?」

「ああ」

 蓮は真面目な顔で続けた。

「これで何を作ればいいのか分からない。レシピを教えてほしい」

 椿は一度、二度と瞬きをした。

 それから、ゆっくりと扉をもう少し開ける。

「……え、今?」

「魚は今日中に使った方がいいって言ってただろ」

「言ったけど......」

「だから、今聞きに来た」

「……」

 椿は蓮の顔を見て、廊下を見て、もう一度蓮の顔を見る。

 その目は、呆れているというより、理解が追いついていない人のそれだった。

「あなた、もしかして本当に、何を作るか決めずに言われるがまま買ってたの?」

「食材は選んでもらったから、そこまでは大丈夫だと思った」

「そこからが料理でしょう」

「そこまで頭が回ってなかった」

「はぁ......まったく......」

 椿は小さく額に手を当てた。

 廊下の照明が、二人の間に落ちる。

 蓮としては、無茶を言っているつもりはなかった。料理を作ってほしいわけではない。ただ、食材をどう組み合わせればいいのかを教えてほしいだけだ。

 だが、椿の顔を見る限り、その「だけ」がすでに面倒な領域に入っているらしい。

「一応、自分でも考えた」

「何を?」

「白身魚を焼く。小松菜は茹でる。豆腐は……冷やして食べる。米は炊く」

「それで?」

「栄養的に合っているのか分からなくなった」

「……」

「魚を焼いた場合、油を使うべきなのか。使わない方がいいのか。小松菜は一緒に炒めた方がいいのか、別にした方がいいのか。豆腐を今日食べるなら、鶏むね肉は明日でいいのか。それとも練習後だから今日も少し入れた方がいいのか」

 蓮が順に言うと、椿は途中から少しずつ目を細めていった。

 怒っているわけではない。

 たぶん、頭の中で何かを組み立てている。

「……今日の練習、どのくらいやったの?」

「一時間半くらい。ミニゲーム中心で、その後に片付けと整備」

「昼は?」

「学食で定食を食べた」

「朝は?」

「目玉焼きとトースト。あとプロテインバー」

「……やっぱり朝も危ないわね」

 椿はぼそりと呟いた。

「聞こえてる」

「聞こえるように言ったのよ」

 椿は一つ息を吐き、玄関の内側に置いてあった小さなバッグを手に取った。

「キッチン、使える状態?」

「ん? どういうことだ?」

「だから、調理環境は整ってるの?」

「片付いてはいる」

「そう。なら、見た方が早いわね」

「いいのか?」

「レシピだけ口で説明して、あなたがその通りにできるかを考える方が面倒なの」

 椿は扉を閉め、自分の部屋に鍵をかけた。

「先に言っておくけど、作るのは今日だけよ。私が食材を選んだ責任もあるし、魚を無駄にされるのも嫌だから」

 椿はそれでも少し不安そうに蓮を見たが、何も言わず四〇一号室の前まで歩いていった。

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