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第6話

Author: 余韻
明里は、いま平手打ちをくらって顔がはれあがっていた。しかも図星を突かれて、心の中でびくっとした。

明里はボコボコに腫れた顔で、なんとか口元を歪めて言い訳をした。「唯さん、勘違いよ。今のは不注意で転んだだけで……」

「そうよね」唯は気のなさそうに笑った。「明里さん、あなたも松尾家で育ててもらった人でしょ。そんな恥知らずなこと、できるわけないもの。義理の兄が結婚してると知ってて口説くなんて、それこそ道ならぬ恋だし」

彼女は「道ならぬ恋」という言葉を、わざと強く言った。

その瞬間、雅人は唯が何かを察したのかとドキリとした。

だが唯は顔を上げ、雅人の頬を優しく撫でた。

「雅人、結局は私が悪いのね。同僚から、噂の『社長夫人』が会社に来たって聞いて、浮気でもしてるのかと思ってしまったの。怒らないわよね?」

唯の指先がわざと腫れた箇所に触れ、雅人は痛みで奥歯を噛み締めた。

それでも、悲しげな表情の唯を見ると、まもなく明里に立場を奪われると思い出し、すべてが申し訳なさに変わっていった。

「怒らない」雅人はそう呟くと、思案した末に秘書を呼び出した。「『一ノ瀬さんは吉野グループへ一時的に手伝いに来ているだけ』と周知しておけ。つまらない噂で妻が不安にならないように」

ここで唯に誤解を与え、おじいさんの耳にでも入れば厄介だ。

それに、唯はあと1ヶ月しか妻の座にいないのだから。

これは、彼女へのせめてもの償いだ。

それを横で見ていた明里は、腫れた頬を押さえながら、今にも怒りで卒倒しそうだった。

「一時的な手伝い」、「つまらない噂で妻が不安にならない」だと?

唯が邪魔をしさえしなければ、ゆっくりと社内の評判を固められた。そうすれば、1か月後には誰もが自分を社長夫人として認めてくれたはずだった。

唯は面白そうに明里の顔を見やり、心の中でせせら笑った。

堂々と正妻の座に収まりたいのだろうが、望み通り身分を与えてやるつもりなどない。

「雅人、本当にやさしいのね」

唯は口ではそう言いつつ、軟膏を秘書に取らせるよう言うことすらしなかった。かわりに、休職届をさっと差し出した。「これ、休職の書類よ。会社は雅人と明里さんに任せるわ」

雅人は、明里の悔しさにはまるで気づかない様子だった。

休職届を見ると、彼は唯をじっと見つめた。心の中の申し訳なさが、また少し深くなった。

唯がこの深津市での開発事業のために、二つの街を行き来し、多くを注いできたことを雅人は知っていた。

しかし、これからの商談や、吉野グループおよび桐生グループとの付き合いには、唯の出る幕はないのだ。

それに、正真正銘の社長夫人は明里なのだから。

唯の長年の献身には感謝している。すべてが片付いた後には、不自由ない生活を保障してやろう。

やはり、権力の中枢である投資部のポジションには、身内を置かなければ安心できない。

彼は最後のページをめくって、そのままサインをした。そしてやさしく唯を見た。「明里はまだ若い。まだ君に教わることがたくさんあるんだ」

そばで明里は、その様子を見て、どんなに悔しくても口の端をつり上げるしかなかった。「ええ、唯さん、これからもいろいろ教えてね」

唯は軽く微笑むと、視線を休職の書類へ移した。

最終ページにある雅人のサインを見て、唯の口元がわずかに吊り上がった。

教える?松尾家のこの馬鹿たれたちに教えるわけないでしょ?

必要なときはうまいことを言い、いらなくなれば脇に放り出す。

残念ね、もう二度と、都合よく使われるだけの人間には戻らない。

目的を達成し、唯は目の前の惨めな二人を見て笑いをこらえながら言った。「じゃあ、私は別の用があるから、失礼するわ」

社長室を出た唯は、手に持っていた書類から「休職」のカバーを勢いよく剥ぎ取った。

そこから現れたのは、退職届だった。

そして、不要なページを揉みくちゃにして、ゴミ箱へ放り投げた。

松尾グループの重荷を下ろして、唯はずいぶん気が軽くなった気がした。

雅人と明里の顔が、二人そろって腫れ上がっているのが、たちまち社内で噂話になった。だが唯は、その様子を楽しむ余裕もないまま、会社を去ることになった。

会社を出てすぐ、椿からの着信があった。

明里が戻ってきてから、椿は唯に対してさらに不機嫌だった。

「マダム会のことは忘れたの?会社に明里がいるなら、もうしがみつく必要はないでしょ?」

電話越しに椿がわめき立てる。

唯は電話を耳から離した。それが静かになってから、ようやく答えた。

「今から帰ります」

「休職」になった今、与えられた最後の価値は、この傲慢な一家の使用人の真似事くらいだ。

だが、これ以上言われるがままに働くつもりなど微塵もない。

カフェで唯は、目を半分ほど細めて座っていた。

それから、最後のひと口のコーヒーを飲みほして、会計をして帰ろうとした。

ところが、背広姿の男に先を越されてしまう。

「ラテを一つ。ミルクと砂糖を多めに」

急ぎではない唯は、後ろから男の姿を何気なく見ていた。

男で、こんな甘いものを好むのか?

会計を済ませてコーヒーを手に取った男が、唯に気づいて目を輝かせた。「唯様ですか?」

唯は見覚えのない顔に少しだけ観察の眼を向けた。

「私を知っているのですか?」

男は丁寧な態度で名刺を差し出した。

「近藤誠(こんどう まこと)って……」

聞き覚えのない名だが、肩書きに少し驚いた。桐生グループ社長の専属秘書だ。

つまり、禮の部下だ。

コーヒーはもうできあがっていた。でも誠は、にっこり笑って、上品な箱を差し出した。

「偶然ですね、社長とこちらへ出張しておりまして。社長から唯様への贈り物を頼まれていたのですが、まさかここでお会いできるとは」

禮?

唯が受け取った箱には、なんとも奇妙なぬいぐるみが1つ。

唯は心の底で小さく驚いた。

慎からも、禮に関する噂はいくつか聞いていた。

桐生家の御曹司で、めったにない商才の持ち主。厳しい態度で会社を守り続け、数多のライバルを圧倒してきたのだという。

決断が早く容赦がない。それでいて、物静かで口数が少ない。

それなのに、ゲームまでする上に、こんなぬいぐるみを贈ってくるなどと?

唯は思わず笑い出した。「桐生さんに宜しくお伝えください」

彼女は深くは考えなかった。

両家は近いうちに縁を結ぶことになる。禮ほど賢くて礼儀正しい人なら、体裁のために、婚約者の自分に贈り物をよこしただけだろう。

慎が薦める縁談を受け入れたのは、そもそも結婚そのものに期待など持っていなかったからだ。

どのみち人生を共にするなら、自分より人を見る目がある慎に任せたほうがいい。

それに、禮の趣味はさておき、少なくとも婚姻に対する誠実さは感じる。

それだけで十分だった。

「はい、必ず伝えておきます」

誠は、唯が贈り物を受け取ったのを見ると、すぐに立ち去った。

唯もレジで支払いを終えた。

……

同じ頃。

カフェの外に停まった高級車の窓越しに、男がカフェ内の唯の姿を見つめていた。

端正な面立ちに、冷酷な光を帯びた瞳。ただ、唯を見つめるその視線だけには、僅かに情熱が滲んでいた。

「社長、プレゼントは無事に渡せました」

「ああ」

禮は短く答えると、親友の野口駿(のぐち しゅん)から送られてきた、「彼女の口説き方リスト」を、少し不機嫌そうな目で確認していた。

【1、一緒にゲームをし、共通の趣味を作る。

2、贈り物を贈る、ぬいぐるみ、花、宝飾など。

3、彼女に必要な時に、ドラマチックに現れる。

4、……】

禮は3番目の項目の前で、しばらく動きを止めた。

タイミングよく駿から得意げな音声メッセージが届く。「禮、そっちで婚約者さんとの仲は進んでるか?攻略法は役立ってる?」

これは、自分が女を落とすための、とっておきの秘伝だった。

禮のためでなければ教えることなんてない。

禮は冷ややかな目をしていたが、至って真剣な様子で駿へとメッセージを返した。

【どういう状況がドラマチックといえる?あと、今、相手が俺を必要としていないならどうすべきだ?】

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