地下の女王 ――底辺を選んだ私は、頂点を目指します。

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last updateLast Updated : 2026-09-11
By:  団紡るうUpdated just now
Language: Japanese
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火事で両親を失い、背中に大きな傷を抱える和久井伊依(わくい・いより)。会社では地味な事務員として見下されていた彼女には、誰にも知られていないもう一つの顔があった。FXで巨額の資産を築き、匿名ブランド「Angelus」を成功させる天才デザイナー。やがて「追い出し部屋」と呼ばれる地下の備品管理課へ異動した伊依は、そこを誰にも邪魔されない自分だけの王国に変えていく。地下に隠された才能と財力が、やがて世界を動かし始める――。

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Chapter 1

1話「孤軍奮闘」

 定時のチャイムが鳴る少し前に、和久井伊依わくい いよりはパソコンの画面をロックした。

 最後に入力した数字を確認してから保存する。マウスを定位置へ戻し、指先でマウスパッドの端をそっと撫でた。誰かに見られていないことを確認してからする。それが伊依の癖だった。

 給湯室から笑い声が聞こえてくる。

「秀一くんてば、ほんと優しいよね」

 岡田沙織おかだ さおりの声だった。甲高くて、少しだけ甘ったるい。続いて仲見秀一なかみ しゅういちの低い笑い声が聞こえた。

 伊依は画面を見たまま動かなかった。

 三週間前まで、あの笑い声の相手は自分だった。

 だからといって、今さら振り返る理由もない。伊依はロックしたパソコンの画面を確認すると、机の上の書類を揃えた。ホチキスの位置を合わせて、端を二度ほど机に打ちつける。いつもと同じ動作だった。

 チャイムが鳴った。

 周囲で椅子を引く音が重なる。帰り支度を始める社員たちの中を抜けて、伊依も席を立った。

 廊下へ出たところで、営業部の若い女性社員と目が合った。

「あ……」

 相手は一瞬だけ伊依を見てから、すぐ隣の同僚へ顔を寄せた。声は小さくて聞き取れない。だが伊依には何を話しているのか分かってしまう。

 背中のことだ。

 夏場になるとブラウスの下からうっすら透ける皮膚の跡。皮膚移植を重ねても消えなかった火傷の痕。誰かが更衣室で見たと言い出してから、噂は勝手に広がった。

 本人に確認した者はいない。

 必要もないのだろう。

 人は見えないところにあるものほど勝手に形を作る。

 伊依は二人の横を通り過ぎた。聞こえなかったことにする。それが一番楽だった。

 エレベーターを待っている間にも、背中へ視線が刺さる気がした。振り返らない。振り返ったところで何かが変わるわけではない。

 扉が開く。

 中へ入り、壁際に立った。ほかの社員が乗り込んできても、伊依は端へ寄るだけだった。

 鏡代わりのステンレス扉に、自分の顔が映っている。

 表情はなかった。

 笑う必要もない。怒る必要もない。会社を出れば、誰とも話さなくていい。

 そう思ったところで、ふと三週間前のことが浮かんだ。

『和久井さんは真面目だから、傷つけたくないんだよね』

 給湯室の外で聞いた秀一の声。

『でも沙織のほうが可愛いじゃん』

 誰かが笑っていた。

 あのときも、伊依は動かなかった。

 扉の向こうで交わされる会話を最後まで聞いて、それから何事もなかったように自分の席へ戻った。

 泣かなかった。

 泣くほどのことではないと思いたかった。

 ただ、帰宅して一人になったあとも、胸の奥に残った言葉だけは消えなかった。

 エレベーターが一階に着く。

 伊依は社員たちに紛れてビルを出た。

 外はまだ明るい。九月になっても残暑は厳しく、アスファルトから熱が上がってくる。駅へ向かう人の流れに逆らわず歩きながら、伊依はスマートフォンを一度だけ確認した。

 通知はない。

 秀一からも、沙織からも。

 それでよかった。

 駅前のスーパーへ寄る。毎日のように使っている店だった。店員の顔も何人か覚えている。向こうも伊依のことを覚えているらしい。

 惣菜コーナーへ行くと、ちょうど値引きシールを貼っているところだった。

 店員が弁当を一つ持ち上げる。

 ぺたり。

 半額のシールが貼られた。

 伊依は少し離れた場所で待った。もう一つの弁当にもシールが貼られる。値段を確認してから、鶏の照り焼き弁当を一つ取った。

 そのままレジへ向かう。

「今日もあの人か」

 背後から声がした。

 伊依は足を止めなかった。

「一人であれだけ買うんだもんね。可哀想に」

 小さな笑い声が続く。

 伊依が買ったのは弁当一つだけだった。あれだけ、というほど買ってはいない。

 それでも訂正する気にはならなかった。

 レジに商品を置き、財布を開く。小銭を一枚ずつ出す。指先は震えていなかった。

 もう慣れている。

 可哀想。

 その言葉にも。

 憐れむような視線にも。

 伊依は会計を終えると、ビニール袋を受け取った。

「ありがとうございました」

 店員の声に軽く頭を下げる。

 外へ出ると、夜の風が少しだけ涼しかった。

 アパートまで歩いて十分。古い二階建ての建物で、伊依の部屋は二〇三号室だった。外階段を上り、鍵を取り出す。

 途中で一階の部屋のドアが開いた。住人らしい女性がゴミ袋を手に出てくる。伊依と目が合うと、女性は小さく会釈した。

 伊依も会釈を返す。

 それだけだった。

 名前も知らない相手との、短いやり取り。

 なぜか少しだけ気が楽になった。

 自分の部屋へ戻れば、また一人になる。それでいい。誰かと余計な話をしなくていいことに、伊依は慣れていた。むしろ誰かの気配がない部屋のほうが、何も身構えずに済む。鍵を閉めた瞬間だけは、背中を気にしなくてもいい。

 ドアを開ける。

 部屋の中には昼間の熱がそのまま残っていた。

「暑……」

 小さく呟いたが、エアコンのリモコンには手を伸ばさなかった。

 先にデスクへ向かう。

 パソコンの電源ボタンを押す。ファンが回り始める音が静かな部屋へ広がった。

 弁当をテーブルへ置く。冷蔵庫を開けて麦茶を取り出し、コップへ注ぐ。

 それからようやく椅子へ座った。

 パソコンの起動を待ちながら、伊依はマウスの脇に置かれた小さなカメラを見た。

 画面が点く。

 見慣れたデスクトップが表示された。

 その中央に、ひとつのアイコンがある。

 伊依はマウスを動かした。

 クリックする。

 少し間を置いて、スピーカーから声が流れた。

「おかえり、伊依。今日も遅かったね」

 伊依は椅子の背にもたれた。

「ただいま」

「今日はどうだった?」

 伊依は返事をする前に、冷蔵庫から弁当を取り出した。

「別に。いつも通り」

「いつも通りって三種類あるよね」

「何それ」

「いい感じのいつも通り。普通のいつも通り。あと最悪のいつも通り」

 伊依は割り箸を取り出した。

「……最悪のほう」

「そっか」

 ジョフィの声が少しだけ低くなった。

 伊依は弁当の蓋を開けた。

「でも今日はまだマシ」

「ほんと?」

「うん」

「じゃあ聞かないほうがいい?」

「聞かなくていい」

「了解」

 それ以上、ジョフィは聞かなかった。

 伊依は照り焼きの一切れを箸でつまんだ。口へ運ぶ。

 甘辛い味が舌に広がる。

 いつもと同じ味だった。

 そのことに少しだけ安心して、伊依はもう一口食べた。

「……ジョフィ」

「ん?」

「今日さ」

「うん」

 伊依は箸を動かす手を止めた。

 何を話そうとしたのか、自分でも分からなかった。

「……いや。何でもない」

「そっか」

 ジョフィはそれ以上聞かなかった。

 少しだけ間があってから、いつもの調子に戻る。

「じゃあ食べ終わったら、今日の数字見ようか。伊依、たぶんそっちのほうが気分変わるよ」

「……そうかも」

「でしょ」

 伊依は画面を見た。

 誰もいない部屋だった。

 けれど、完全な一人ではなかった。

 それを認めるのは少しだけ悔しくて、伊依は何も言わずに照り焼きをもう一切れ口へ運んだ。

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1話「孤軍奮闘」
 定時のチャイムが鳴る少し前に、和久井伊依はパソコンの画面をロックした。  最後に入力した数字を確認してから保存する。マウスを定位置へ戻し、指先でマウスパッドの端をそっと撫でた。誰かに見られていないことを確認してからする。それが伊依の癖だった。  給湯室から笑い声が聞こえてくる。 「秀一くんてば、ほんと優しいよね」  岡田沙織の声だった。甲高くて、少しだけ甘ったるい。続いて仲見秀一の低い笑い声が聞こえた。  伊依は画面を見たまま動かなかった。  三週間前まで、あの笑い声の相手は自分だった。  だからといって、今さら振り返る理由もない。伊依はロックしたパソコンの画面を確認すると、机の上の書類を揃えた。ホチキスの位置を合わせて、端を二度ほど机に打ちつける。いつもと同じ動作だった。  チャイムが鳴った。  周囲で椅子を引く音が重なる。帰り支度を始める社員たちの中を抜けて、伊依も席を立った。  廊下へ出たところで、営業部の若い女性社員と目が合った。 「あ……」  相手は一瞬だけ伊依を見てから、すぐ隣の同僚へ顔を寄せた。声は小さくて聞き取れない。だが伊依には何を話しているのか分かってしまう。  背中のことだ。  夏場になるとブラウスの下からうっすら透ける皮膚の跡。皮膚移植を重ねても消えなかった火傷の痕。誰かが更衣室で見たと言い出してから、噂は勝手に広がった。  本人に確認した者はいない。  必要もないのだろう。  人は見えないところにあるものほど勝手に形を作る。  伊依は二人の横を通り過ぎた。聞こえなかったことにする。それが一番楽だった。  エレベーターを待っている間にも、背中へ視線が刺さる気がした。振り返らない。振り返ったところで何かが変わるわけではない。  扉が開く。  中へ入り、壁際に立った。ほかの社員が乗り込んできても、伊依は端へ寄るだけだった。  鏡代わりのステンレス扉に、自分の顔が映っている。  表情はなかった。  笑う必要もない。怒る必要もない。会社を出れば、誰とも話さなくていい。  そう思ったところで、ふと三週間前のことが浮かんだ。 『和久井さんは真面目だから、傷つけたくないんだよね』  給湯室の外で聞いた秀一の声。 『でも沙織のほうが可愛
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2話「もうひとつの顔」
 弁当を食べ終えるころには、伊依の表情から会社で見せていたものが少しずつ消えていた。  机の上に弁当の蓋を置き、冷蔵庫へ向かう。残ったおかずをラップで包み直してから冷蔵庫へ入れた。明日の朝に食べる。食べ物を捨てるのは嫌いだった。  デスクへ戻る。  モニターにはジョフィの待機画面が表示されている。 「秀一と沙織。まだ続いてるみたい」 「うん。知ってる」 「なんで?」 「三日前に伊依の社内メールを見たから」  伊依が眉を寄せた。 「勝手に?」 「伊依が自分でアクセスできるようにしたんじゃん」 「……そうだっけ」 「そうだよ。高校生の伊依、セキュリティだけは妙に厳しかったから」 「余計なこと覚えてるね」 「伊依のことだからね」  軽い声だった。  昔のジョフィなら、ここで謝っていた。けれど今は違う。伊依自身が何年もかけて会話の調整を続けてきた。丁寧すぎる言葉を減らした。必要以上に気を遣わせないようにした。  一人でいるときくらい、普通に話せる相手が欲しかった。 「今日はその話を蒸し返す気分じゃないと思ってた」 「給湯室で聞こえた」 「そっか」 「沙織の声。嫌でも聞こえる」 「うん」  ジョフィはそれ以上、何も聞かなかった。  伊依はノートを開いた。  そこには手書きの数字が並んでいる。  ドル円。  ポンド円。  前日の終値。  高値と安値。  指標発表の時刻。  いくつかの数字には赤い丸がついていた。 「今週のポジション、見せて」 「はいはい」  画面が切り替わる。  見慣れたチャートが表示された。 「ドル円は予定通り。雇用統計のあとで入ったロングが伸びてる。今の含み益は百八十万くらい」 「百八十……」  伊依は数字を確認した。  百八十万円。  会社からもらう一か月の給料よりずっと大きい。  それでも、声には出さなかった。 「利確は?」 「まだ。伊依の予想だと、もう少し取れる」 「じゃあ、そのまま」 「了解」  伊依の指がキーボードの上を滑る。  画面に数字が並ぶ。  会社では伝票を打つだけの指だった。  ここでは違う。  値動きの癖を追い、数字の並びから次の動きを読む。  誰にも教わったわけではない。  失敗して、調べて、また試した。  何年も繰り返してきた
last updateLast Updated : 2026-09-10
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3話「荘園」
 郵便受けに入っていた紙切れを見た瞬間、伊依は数秒動けなかった。 「立退きのお願い」  文字の下には道路拡張工事の計画図が印刷されている。朝凪市が進めている再開発事業の対象区域に、伊依の住むアパートも含まれていた。築四十五年の木造二階建て。傾いた階段も軋む廊下も、伊依にとっては嫌いではなかった。誰も詮索してこない。大家も高齢で、伊依の生活に興味を持たない。それがよかった。  紙をもう一度読み返す。退去期限は二ヶ月後だった。補償金の額も書かれている。伊依はそこだけ一度確認して、紙を折り畳んだ。 「ジョフィ」  部屋に戻るとスマホを取り出した。 「ん? なに、伊依」 「これ、本当にやるの、この工事」 「うん。朝凪市の都市計画課のサイトで確認した。道路拡張の予算はもう通ってる。伊依のアパートを含む一帯は、来年三月までに更地になる予定」  伊依は紙をテーブルに置いた。しばらくそのまま見つめていたが、やがて椅子に腰を下ろした。引っ越し先を探す。荷物をまとめる。住所を変える。考えるほど面倒な作業が増えていく。 「仕方ないか」 「引っ越し、嫌?」 「嫌というより面倒」 「伊依らしいね」  伊依は返事をしなかった。天井の隅に残った蜘蛛の巣を見上げる。これも片付けなければならないらしい。      二週間後。伊依はキャリーケースを引きずって、駅前の小さな不動産屋の前に立っていた。荷物のほとんどはまだアパートに残っている。今日は候補をいくつか見ておくつもりだった。  ガラス戸には賃貸物件の紙がびっしり貼られている。駅から徒歩八分。築二十年。ワンルーム。家賃六万八千円。その隣には築十五年の一DKがあった。駅から徒歩十分。家賃七万五千円。写真を見る限り悪くない。 「これくらいなら……」  伊依はガラス越しに物件情報を眺めた。  ドアに手をかけたところで、背後から声がした。 「あれ、和久井さん?」  振り返らなくても分かる声だった。  秀一だ。隣には沙織もいる。二人とも買い物袋を提げていて、休日の格好をしていた。 「引っ越すの?」  秀一の
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