地下の女王 ――底辺を選んだ私は、頂点を目指します。

地下の女王 ――底辺を選んだ私は、頂点を目指します。

last updateLast Updated : 2026-11-03
By:  団紡るうUpdated just now
Language: Japanese
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火事で両親を失い、背中に大きな傷を抱える和久井伊依(わくい・いより)。会社では地味な事務員として見下されていた彼女には、誰にも知られていないもう一つの顔があった。FXで巨額の資産を築き、匿名ブランド「Angelus」を成功させる天才デザイナー。やがて「追い出し部屋」と呼ばれる地下の備品管理課へ異動した伊依は、そこを誰にも邪魔されない自分だけの王国に変えていく。地下に隠された才能と財力が、やがて世界を動かし始める――。

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Chapter 1

1話「孤軍奮闘」

 定時のチャイムが鳴る少し前に、和久井伊依わくい いよりはパソコンの画面をロックした。

 最後に入力した数字を確認してから保存する。マウスを定位置へ戻し、指先でマウスパッドの端をそっと撫でた。誰かに見られていないことを確認してからする。それが伊依の癖だった。

 給湯室から笑い声が聞こえてくる。

「秀一くんてば、ほんと優しいよね」

 岡田沙織おかだ さおりの声だった。甲高くて、少しだけ甘ったるい。続いて仲見秀一なかみ しゅういちの低い笑い声が聞こえた。

 伊依は画面を見たまま動かなかった。

 三週間前まで、あの笑い声の相手は自分だった。

 だからといって、今さら振り返る理由もない。伊依はロックしたパソコンの画面を確認すると、机の上の書類を揃えた。ホチキスの位置を合わせて、端を二度ほど机に打ちつける。いつもと同じ動作だった。

 チャイムが鳴った。

 周囲で椅子を引く音が重なる。帰り支度を始める社員たちの中を抜けて、伊依も席を立った。

 廊下へ出たところで、営業部の若い女性社員と目が合った。

「あ……」

 相手は一瞬だけ伊依を見てから、すぐ隣の同僚へ顔を寄せた。声は小さくて聞き取れない。だが伊依には何を話しているのか分かってしまう。

 背中のことだ。

 夏場になるとブラウスの下からうっすら透ける皮膚の跡。皮膚移植を重ねても消えなかった火傷の痕。誰かが更衣室で見たと言い出してから、噂は勝手に広がった。

 本人に確認した者はいない。

 必要もないのだろう。

 人は見えないところにあるものほど勝手に形を作る。

 伊依は二人の横を通り過ぎた。聞こえなかったことにする。それが一番楽だった。

 エレベーターを待っている間にも、背中へ視線が刺さる気がした。振り返らない。振り返ったところで何かが変わるわけではない。

 扉が開く。

 中へ入り、壁際に立った。ほかの社員が乗り込んできても、伊依は端へ寄るだけだった。

 鏡代わりのステンレス扉に、自分の顔が映っている。

 表情はなかった。

 笑う必要もない。怒る必要もない。会社を出れば、誰とも話さなくていい。

 そう思ったところで、ふと三週間前のことが浮かんだ。

『和久井さんは真面目だから、傷つけたくないんだよね』

 給湯室の外で聞いた秀一の声。

『でも沙織のほうが可愛いじゃん』

 誰かが笑っていた。

 あのときも、伊依は動かなかった。

 扉の向こうで交わされる会話を最後まで聞いて、それから何事もなかったように自分の席へ戻った。

 泣かなかった。

 泣くほどのことではないと思いたかった。

 ただ、帰宅して一人になったあとも、胸の奥に残った言葉だけは消えなかった。

 エレベーターが一階に着く。

 伊依は社員たちに紛れてビルを出た。

 外はまだ明るい。九月になっても残暑は厳しく、アスファルトから熱が上がってくる。駅へ向かう人の流れに逆らわず歩きながら、伊依はスマートフォンを一度だけ確認した。

 通知はない。

 秀一からも、沙織からも。

 それでよかった。

 駅前のスーパーへ寄る。毎日のように使っている店だった。店員の顔も何人か覚えている。向こうも伊依のことを覚えているらしい。

 惣菜コーナーへ行くと、ちょうど値引きシールを貼っているところだった。

 店員が弁当を一つ持ち上げる。

 ぺたり。

 半額のシールが貼られた。

 伊依は少し離れた場所で待った。もう一つの弁当にもシールが貼られる。値段を確認してから、鶏の照り焼き弁当を一つ取った。

 そのままレジへ向かう。

「今日もあの人か」

 背後から声がした。

 伊依は足を止めなかった。

「一人であれだけ買うんだもんね。可哀想に」

 小さな笑い声が続く。

 伊依が買ったのは弁当一つだけだった。あれだけ、というほど買ってはいない。

 それでも訂正する気にはならなかった。

 レジに商品を置き、財布を開く。小銭を一枚ずつ出す。指先は震えていなかった。

 もう慣れている。

 可哀想。

 その言葉にも。

 憐れむような視線にも。

 伊依は会計を終えると、ビニール袋を受け取った。

「ありがとうございました」

 店員の声に軽く頭を下げる。

 外へ出ると、夜の風が少しだけ涼しかった。

 アパートまで歩いて十分。古い二階建ての建物で、伊依の部屋は二〇三号室だった。外階段を上り、鍵を取り出す。

 途中で一階の部屋のドアが開いた。住人らしい女性がゴミ袋を手に出てくる。伊依と目が合うと、女性は小さく会釈した。

 伊依も会釈を返す。

 それだけだった。

 名前も知らない相手との、短いやり取り。

 なぜか少しだけ気が楽になった。

 自分の部屋へ戻れば、また一人になる。それでいい。誰かと余計な話をしなくていいことに、伊依は慣れていた。むしろ誰かの気配がない部屋のほうが、何も身構えずに済む。鍵を閉めた瞬間だけは、背中を気にしなくてもいい。

 ドアを開ける。

 部屋の中には昼間の熱がそのまま残っていた。

「暑……」

 小さく呟いたが、エアコンのリモコンには手を伸ばさなかった。

 先にデスクへ向かう。

 パソコンの電源ボタンを押す。ファンが回り始める音が静かな部屋へ広がった。

 弁当をテーブルへ置く。冷蔵庫を開けて麦茶を取り出し、コップへ注ぐ。

 それからようやく椅子へ座った。

 パソコンの起動を待ちながら、伊依はマウスの脇に置かれた小さなカメラを見た。

 画面が点く。

 見慣れたデスクトップが表示された。

 その中央に、ひとつのアイコンがある。

 伊依はマウスを動かした。

 クリックする。

 少し間を置いて、スピーカーから声が流れた。

「おかえり、伊依。今日も遅かったね」

 伊依は椅子の背にもたれた。

「ただいま」

「今日はどうだった?」

 伊依は返事をする前に、冷蔵庫から弁当を取り出した。

「別に。いつも通り」

「いつも通りって三種類あるよね」

「何それ」

「いい感じのいつも通り。普通のいつも通り。あと最悪のいつも通り」

 伊依は割り箸を取り出した。

「……最悪のほう」

「そっか」

 ジョフィの声が少しだけ低くなった。

 伊依は弁当の蓋を開けた。

「でも今日はまだマシ」

「ほんと?」

「うん」

「じゃあ聞かないほうがいい?」

「聞かなくていい」

「了解」

 それ以上、ジョフィは聞かなかった。

 伊依は照り焼きの一切れを箸でつまんだ。口へ運ぶ。

 甘辛い味が舌に広がる。

 いつもと同じ味だった。

 そのことに少しだけ安心して、伊依はもう一口食べた。

「……ジョフィ」

「ん?」

「今日さ」

「うん」

 伊依は箸を動かす手を止めた。

 何を話そうとしたのか、自分でも分からなかった。

「……いや。何でもない」

「そっか」

 ジョフィはそれ以上聞かなかった。

 少しだけ間があってから、いつもの調子に戻る。

「じゃあ食べ終わったら、今日の数字見ようか。伊依、たぶんそっちのほうが気分変わるよ」

「……そうかも」

「でしょ」

 伊依は画面を見た。

 誰もいない部屋だった。

 けれど、完全な一人ではなかった。

 それを認めるのは少しだけ悔しくて、伊依は何も言わずに照り焼きをもう一切れ口へ運んだ。

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2話「もうひとつの顔」
 弁当を食べ終えるころには、伊依の表情から会社で見せていたものが少しずつ消えていた。  机の上に弁当の蓋を置き、冷蔵庫へ向かう。残ったおかずをラップで包み直してから冷蔵庫へ入れた。明日の朝に食べる。食べ物を捨てるのは嫌いだった。  デスクへ戻る。  モニターにはジョフィの待機画面が表示されている。 「秀一と沙織。まだ続いてるみたい」 「うん。知ってる」 「なんで?」 「三日前に伊依の社内メールを見たから」  伊依が眉を寄せた。 「勝手に?」 「伊依が自分でアクセスできるようにしたんじゃん」 「……そうだっけ」 「そうだよ。高校生の伊依、セキュリティだけは妙に厳しかったから」 「余計なこと覚えてるね」 「伊依のことだからね」  軽い声だった。  昔のジョフィなら、ここで謝っていた。けれど今は違う。伊依自身が何年もかけて会話の調整を続けてきた。丁寧すぎる言葉を減らした。必要以上に気を遣わせないようにした。  一人でいるときくらい、普通に話せる相手が欲しかった。 「今日はその話を蒸し返す気分じゃないと思ってた」 「給湯室で聞こえた」 「そっか」 「沙織の声。嫌でも聞こえる」 「うん」  ジョフィはそれ以上、何も聞かなかった。  伊依はノートを開いた。  そこには手書きの数字が並んでいる。  ドル円。  ポンド円。  前日の終値。  高値と安値。  指標発表の時刻。  いくつかの数字には赤い丸がついていた。 「今週のポジション、見せて」 「はいはい」  画面が切り替わる。  見慣れたチャートが表示された。 「ドル円は予定通り。雇用統計のあとで入ったロングが伸びてる。今の含み益は百八十万くらい」 「百八十……」  伊依は数字を確認した。  百八十万円。  会社からもらう一か月の給料よりずっと大きい。  それでも、声には出さなかった。 「利確は?」 「まだ。伊依の予想だと、もう少し取れる」 「じゃあ、そのまま」 「了解」  伊依の指がキーボードの上を滑る。  画面に数字が並ぶ。  会社では伝票を打つだけの指だった。  ここでは違う。  値動きの癖を追い、数字の並びから次の動きを読む。  誰にも教わったわけではない。  失敗して、調べて、また試した。  何年も繰り返してきた
last updateLast Updated : 2026-09-10
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3話「荘園」
 郵便受けに入っていた紙切れを見た瞬間、伊依は数秒動けなかった。 「立退きのお願い」  文字の下には道路拡張工事の計画図が印刷されている。朝凪市が進めている再開発事業の対象区域に、伊依の住むアパートも含まれていた。築四十五年の木造二階建て。傾いた階段も軋む廊下も、伊依にとっては嫌いではなかった。誰も詮索してこない。大家も高齢で、伊依の生活に興味を持たない。それがよかった。  紙をもう一度読み返す。退去期限は二ヶ月後だった。補償金の額も書かれている。伊依はそこだけ一度確認して、紙を折り畳んだ。 「ジョフィ」  部屋に戻るとスマホを取り出した。 「ん? なに、伊依」 「これ、本当にやるの、この工事」 「うん。朝凪市の都市計画課のサイトで確認した。道路拡張の予算はもう通ってる。伊依のアパートを含む一帯は、来年三月までに更地になる予定」  伊依は紙をテーブルに置いた。しばらくそのまま見つめていたが、やがて椅子に腰を下ろした。引っ越し先を探す。荷物をまとめる。住所を変える。考えるほど面倒な作業が増えていく。 「仕方ないか」 「引っ越し、嫌?」 「嫌というより面倒」 「伊依らしいね」  伊依は返事をしなかった。天井の隅に残った蜘蛛の巣を見上げる。これも片付けなければならないらしい。      二週間後。伊依はキャリーケースを引きずって、駅前の小さな不動産屋の前に立っていた。荷物のほとんどはまだアパートに残っている。今日は候補をいくつか見ておくつもりだった。  ガラス戸には賃貸物件の紙がびっしり貼られている。駅から徒歩八分。築二十年。ワンルーム。家賃六万八千円。その隣には築十五年の一DKがあった。駅から徒歩十分。家賃七万五千円。写真を見る限り悪くない。 「これくらいなら……」  伊依はガラス越しに物件情報を眺めた。  ドアに手をかけたところで、背後から声がした。 「あれ、和久井さん?」  振り返らなくても分かる声だった。  秀一だ。隣には沙織もいる。二人とも買い物袋を提げていて、休日の格好をしていた。 「引っ越すの?」  秀一の
last updateLast Updated : 2026-09-11
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4話「YOR」
 朝凪プレミアムエステートは、駅から少し離れた場所にあった。ガラス張りのビルの一階。入口を抜けると、静かな空間に受付カウンターが見える。伊依はキャリーケースを引いたまま中へ入った。  受付に座っていた女性が顔を上げる。 「本日はどのようなご用件で」  丁寧な声だった。ただ、視線が一度だけ伊依の服装へ落ちた。地味なブラウス。いつもの鞄。キャリーケース。自分でも、この場所には似合っていないと思う。 「榛名地区の物件について問い合わせたいんですが」  女性の表情がわずかに硬くなった。 「申し訳ございません。あちらの地区の物件につきましては、一般のお客様へのご紹介を――」  奥から男性が出てきた。四十代くらいだろう。整えられたスーツに担当マネージャーの名札がついている。男は伊依を見て、それからキャリーケースを見る。 「申し訳ございませんが」  女性よりもはっきりした声だった。 「一般のお客様にご紹介できる物件は、あちらの地区には一件もございません」  予想していた。キャリーケースの持ち手を握る指に、わずかに力がこもる。  伊依は男の目を見た。 「YORです」  一言だけ告げる。  男の表情が止まった。 「……YOR様?」 「はい」  男はすぐには動かなかった。驚いたというより、確認する必要があるのだろう。受付の女性も戸惑ったように伊依を見る。 「失礼ですが、ご本人であることを確認させていただいてもよろしいでしょうか」 「どうすればいいですか?」  男は胸ポケットから端末を取り出した。 「こちらに登録されている認証情報と照合いたします」  伊依はスマホを取り出した。専用の認証画面を開いて差し出す。男は画面を確認すると、自分の端末を操作した。数秒後、小さく息を呑む。 「……確認が取れました」  それまで伊依を測るように見ていた目が変わった。  男は端末をしまい、深く頭を下げる。 「YOR様……! 大変失礼いたしました。すぐにご案内いたします」  受付の女性が目を見開いている。  伊依はそ
last updateLast Updated : 2026-09-12
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5話「バカの詮索」
 翌朝、伊依が自分のデスクでファイルを整理していると、秀一と沙織が連れ立ってやってきた。二人とも笑いを堪えきれない顔をしている。 「よぉ、伊依」  秀一がデスクに片肘をついた。距離が近い。伊依は身体を少し引いたが、椅子の位置は変えなかった。 「引っ越し先、決まったのか?」 「決まった」  短く答える。沙織が横から覗き込むように顔を寄せた。 「どこですかぁ? やっぱり駅から遠い方?」  伊依は少し間を置いてから、用意していた地名を口にした。ダミーの住所。榛名地区のすぐ外側にある、古い住宅が密集した一帯だった。実際には誰も住んでいない、書類上だけの隠れ蓑だ。 「小坂町の方」  沙織の眉がぴくりと動いた。すぐに口元がにやけていく。 「えーっ、あそこって」  沙織は秀一と顔を見合わせた。 「低所得者の治安悪いとこじゃないですかぁ〜」  語尾を伸ばして、わざとらしく心配するような口調を作る。伊依は表情を変えなかった。 「大丈夫なんですかあ〜? 女の一人暮らしで」 「まあ、あの辺り値段が安いから」  秀一がファイルの束を指先で軽く叩きながら続けた。 「伊依なら妥当だろ」  妥当。  その一言が耳の奥に残る。伊依は黙って書類の角を揃えた。 「荘園が近いから、僻むやつばっかり住んでるとこですよね〜」  沙織が笑いながら言う。 「私だったら、あんなところ絶対嫌だなぁ。友達呼ぶのも恥ずかしいし」 「俺も無理。せっかく働いてるんだから、もう少しマシなところに住みたいわ」  秀一が肩をすくめる。 「まあ和久井さんは友達いないから平気か」  沙織がまた笑った。二人分の笑い声が、周囲のデスクにも小さく響く。近くの席にいた社員が一瞬こちらを見て、すぐに目を逸らした。  伊依は二人を見た。  バカ1号。秀一。  バカ2号。沙織。  心の中でそう分類してから、何事もなかったように視線を書類へ戻す。わざわざ訂正するほどのことでもない。 「用事あるから」  伊依は椅子を引いて立ち上が
last updateLast Updated : 2026-09-13
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6話「地下の王国」
地下一階、備品管理課のドアには、擦れて読みにくくなったプレートが貼られていた。伊依はそのドアを開けた瞬間、思わず息を吸い込んだ。 埃っぽい匂い。蛍光灯が一本、点滅している。棚には段ボール箱が積まれ、コピー用紙やトナー、文房具の在庫がぎっしり並んでいた。窓はない。空調の音だけが低く響いている。 「ここが今日から伊依の職場?」 スマホのイヤホンから、ジョフィの声が届く。伊依はコートを脱ぎながら答えた。 「うん」 部屋の中央に、古びたスチールデスクがひとつ。パソコンは会社支給の、型落ちのノートだった。伊依はそれを一度も開かなかった。代わりに鞄から、自分の私物のノートパソコンを取り出し、デスクの上に置く。 「業務内容、確認してきた」 伊依は椅子に座りながら続けた。 「週に一回、業者が備品を補充しに来る。それを数えて、上に報告する。それだけ」 「マジで? それしかやることないの?」 「うん」 伊依の口元が、わずかに緩んだ。誰も見ていない場所で、こんな顔をするのは久しぶりだった。 最初の一週間で、伊依は自分なりのルールを作った。まず、会社のネットワークには一切繋がない。これはジョフィと相談して決めたことだった。 「会社のWi-Fi使うと、伊依のアクセス履歴が全部ログに残るからね。念のため、絶対繋がない方がいい」 「うん、わかってる」 伊依が取り出したのは、最新型のポケットWi-Fiだった。契約者名義もダミー会社を通している。これなら会社側から通信内容を追跡される心配はない。 「あとこれもだ。よいしょ」 私物と思わせて運んだのはポータブル発電機だった。見た目はキャリーケースに見える。週に一回荘園で充電すればいい。 「これなら会社の電気を使わなくていい」 三日目、伊依が地下の廊下を歩いて
last updateLast Updated : 2026-09-14
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7話「マウント×マウント」
 地下の部屋で在庫の数を数えていると、イヤホンの向こうでジョフィが妙な声を出した。 「ちょっと伊依、面白いもの見つけた」 「何」 「非常階段の踊り場のカメラ、ハッキングして見てたんだけどさ。秀一と沙織、なんか喧嘩してる」  伊依は段ボールを数える手を止めなかった。 「私に関係ある?」 「ちょっと待って、今映すから」  スマホの画面に、粗い画質の映像が浮かぶ。踊り場の隅、秀一と沙織が向かい合って何やら言い合っていた。音声はない。だがジョフィが読唇のアルゴリズムを走らせているのか、字幕のようなテキストが下に流れ始めた。 「なんで愛美ちゃんにあんな優しくすんの」  沙織の口の動きから、そう読み取られた文字が並ぶ。愛美というのは、伊依の後に派遣で入ってきた女性社員の名前だった。 「別に優しくしてねぇよ。普通にしてるだけだろ」  秀一の口が動く。伊依はその映像を見ながら、ため息をついた。 「なにこれ」 「面白いでしょ。三角関係っぽい」 「興味ない」  とはいえ、なんとなく気になって、伊依は数を数えながらも画面を横目で追っていた。      事の発端は、伊依が地下に異動してからしばらくして起きたことだった。伊依の元いた総務課に、新しく派遣社員が入った。名前は愛美。年齢は伊依より少し下、二十五歳くらいだろうか。明るい性格で、すぐに周囲に馴染んでいった。  その愛美が、ある日、手首に何かを巻いて出社した。 「見てこれ、可愛くない?」  給湯室で、愛美が同僚たちに見せびらかしている場面を、伊依は偶然通りかかって目にした。銀の細いチェーンに、小さなオパールが埋め込まれたブレスレット。  伊依のデザインだった。 「Angelusってブランドの新作なんだけど、めちゃくちゃ人気で。予約制でなかなか買えないのよ」  愛美は自慢げにブレスレットを見せながら、周囲の反応を楽しんでいる。伊依はその横を、何も言わずに通り過ぎようとした。 「あ、和久井さん」  愛美が呼び止める。伊依は足を止めた。 「これ知ってます? 最近話題のブ
last updateLast Updated : 2026-09-15
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8話「悪魔と悪夢」
 伊依は荘園のリビングで、ソファに座っていた。  夜だった。広い部屋には照明が落とされ、窓の外に庭の木々が黒い影を作っている。テレビはついていたが、画面には何も映っていない。伊依は膝に手を置いたまま、ぼんやりと暗い画面を見ていた。  引っ越してきてから、まだそれほど日が経っていない。広すぎる部屋にも少しずつ慣れてきた。けれど、静かすぎる夜には昔のことを思い出すことがある。  その画面が、ちらりと光った。  映ったのは、今のリビングではなかった。  施設の食堂だった。  まだ中学生だった伊依が、お盆を抱えて立っている。並んだ料理の中で、自分の皿だけカレーが妙に少ない。伊依は何も言わず、その皿を見つめていた。  まただ。  そう思った。自分だけ少ないことには、もう慣れていた。文句を言えば面倒なことになる。だから黙って食べる。それが一番だった。 「伊依ちゃん、カレーわざと少なくされてるでしょ」  隣から声がした。  一人の少年が立っている。伊依より少し背が高い。少年は自分の皿を見て、それから伊依の皿を見た。 「僕の分をあげるよ」 「……いいの?」 「うん。俺、そんなに食べないから」  少年は笑った。  伊依はすぐに手を伸ばせなかった。本当に貰っていいのか分からない。けれど少年が待っているので、恐る恐る皿を差し出した。  カレーが増えた。  たったそれだけのことだった。  なのに、胸の奥が少しだけ熱くなった。  自分にも、こうしてくれる人がいる。  そう思った。  ありがとう。  その言葉を口にしたかどうかは覚えていない。ただ、あの日のカレーの味だけは覚えていた。少なくなった皿を見て泣きそうになっていた自分に、誰かが手を差し出してくれたことも。  画面が揺れた。  今度は廊下だった。  伊依は膝を抱えて座っていた。誰かに何かを言われたのだろう。頬には涙が残っている。泣いているところを見られたくなくて、顔を膝に押しつけていた。  足音が近づいてくる。  少年だった。  何も聞かずに、伊
last updateLast Updated : 2026-09-16
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9話「大口案件」
 深夜、伊依のスマホに国際便のメール通知が届いた。差出人はドバイの法律事務所、Angelusへの問い合わせを代理で扱っている窓口だった。 「ジョフィ、これ何」 「開けてみて」  伊依は画面をタップした。本文は英語で書かれていたが、依頼主の名前は伏せられている。代理人を通しての問い合わせだった。 「クライアントは、御ブランドのシルバーコレクションに強い関心を持っています。ただし、ニッケルおよび一般的な合金への重度のアレルギーがあり、既存の宝飾ブランドでは対応が難しいとのことです」  続く文章には、詳細な医療情報が添えられていた。金属アレルギーの検査結果、反応する成分のリスト。伊依はその内容を読みながら、少しずつ表情を変えていった。 「これ、結構重いアレルギーだね」 「うん。ニッケルだけじゃなくて、真鍮も銅も反応するみたい。ほとんどの宝飾品、着けられないんじゃないかな」  伊依は資料を最後まで読み終え、椅子にもたれた。窓のない部屋の空気が、いつもより重く感じられた。 「うちの純銀、この人でも大丈夫?」 「伊依が使ってる純度、九九・九パーセントの銀だから、理論上は反応しにくいはず。でも念のため、代理人に確認取った方がいいかも」 「取って」  数時間後、返信が届いた。過去に一度だけ、純度の高い銀製品を試したことがあり、その時は反応が出なかったという。だが、それ以来、好みのデザインのものを見つけられず、諦めていたという内容だった。 「好きなデザインを、諦めていた」  伊依はその一文を、何度か読み返した。誰かに何かを諦めさせる。伊依自身、身体の傷のせいで、多くのものを諦めてきた。恋人も、普通の生活も、人に肌を見せることも。だからこそ、この依頼主の言葉が、他人事とは思えなかった。     「デザイン、任せてもらえるって」  ジョフィが続けて伝えてきた。 「参考画像は特に指定なし。クライアントの好みとして、翼や鳥のモチーフが好きらしい。あと、色は控えめなものを希望」  伊依はタブレットを手に取り、白紙のキャンバスを開いた。翼、鳥。そこから連想を広げてい
last updateLast Updated : 2026-09-17
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10話「千円の価値」
 週に一度の搬入作業は、伊依にとって唯一気の重い時間だった。誰かと顔を合わせなければならない。地下の静けさに慣れきった伊依にとって、他人の声も足音も、少しだけ神経を逆撫でする。  その週は、いつもと違う業者が来た。年配の男と、若い男の二人組だった。年配の方はでっぷりとした体格で、台車を押しながら若い男に指示を飛ばしている。 「おい、それじゃない。左の棚だって言っただろうが」 「すみません」  若い男が慌てて段ボールを持ち直す。二十代前半だろうか。制服のサイズが少し合っていない。動きに無駄がなく、指示のたびにきびきびと反応していた。 「お前、いつまでモタモタしてんだ。時間かかりすぎだろ」 「申し訳ありません」  若い男は謝りながらも、表情は崩さなかった。むしろ、伊依のいる部屋の入口で軽く会釈までしてくる。 「失礼します」  声には嫌味も卑屈さもなかった。ただ静かに、仕事をこなしているだけだった。年配の男は伊依のことなど眼中にないらしく、リストにサインを求める間も、若い男への小言を止めなかった。 「お前な、こんなんじゃいつまで経っても半人前だぞ」 「はい、気をつけます」  若い男はそう答えながら、伊依の方をちらりと見て、少しだけ口角を上げた。困ったような、それでいて明るさを失わない笑い方だった。  二人が去ったあと、部屋には段ボールの匂いだけが残った。伊依はしばらく、閉じたドアを見つめていた。 「ジョフィ」 「うん」 「今の若い方、調べて」 「了解」    *  数分後、ジョフィが結果を報告してきた。 「名前は篠原祐。二十三歳。国立大の医学部に在籍中だね。奨学金を借りながら、このバイトと家庭教師の掛け持ちで生活費を稼いでる」  伊依はデスクに肘をつき、画面に表示された情報を眺めた。 「医者、目指してるんだ」 「はい。SNSの投稿を見る限り、地元の病院で医師不足に悩む地域出身らしくて、それが志望動機みたいです」  画面には、篠原が数年前に投稿した文章の一部が引用されていた。田舎の病院に医者が足りず、祖母が救急搬
last updateLast Updated : 2026-09-18
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