LOGIN火事で両親を失い、背中に大きな傷を抱える和久井伊依(わくい・いより)。会社では地味な事務員として見下されていた彼女には、誰にも知られていないもう一つの顔があった。FXで巨額の資産を築き、匿名ブランド「Angelus」を成功させる天才デザイナー。やがて「追い出し部屋」と呼ばれる地下の備品管理課へ異動した伊依は、そこを誰にも邪魔されない自分だけの王国に変えていく。地下に隠された才能と財力が、やがて世界を動かし始める――。
View More 定時のチャイムが鳴る少し前に、
荘園から会社に戻った伊依は、久しぶりに、いくつか土産を持参していた。「これ、鳴沢温泉のお土産です」 伊依は、地下の倉庫近くで顔を合わせた同僚たちに、小さな紙袋を配って回った。中身は、「しあわせねこ」という名前のついた、可愛らしい猫の焼印が施されたお饅頭だった。「ふーん、地味な温泉行ったんだ」 秀一が、袋を受け取りながら、鼻で笑った。「私も別に興味ないけど」 沙織も、そう言いながら、しっかりと饅頭を受け取っている。伊依は、その様子を見て、内心で苦笑した。 バカにしながらも、ちゃっかりもらうあたりが、バカらしいところだった。「うわぁ、可愛い!」 来々は、饅頭の包装を見て、目を輝かせた。「これ、猫さんですか?」「うん」 伊依は、頷いた。「でも、なんで″しあわせねこ″なんですか?」 来々が、興味津々に尋ねる。伊依は、少し思い出しながら答えた。「なんでも、昔、温泉が枯れた時に、一匹の黒猫が、新しい温泉の場所を見つけ出したって伝説があるんだって」 「黒猫さん、可愛い〜」 来々は、饅頭を大事そうに両手で持ちながら、頬を緩めた。「でも、鳴沢温泉って、マイナーな温泉ですよね」「そうだね」 伊依は、頷いた。「名物は、″しあわせねこ″の置物とか、グッズみたい」「へぇぇ! 興味あります! 行ってみたい!」 来々は、興奮気味に声を上げた。伊依は、その反応に、少し驚きながらも、笑みをこぼした。 数日後、来々は、愛美を誘って、鳴沢温泉の観光案内所へと足を運んでいた。「初めまして。鳴沢温泉観光課の、御門ナツキいいます」 案内所で対応してくれたのは、まだ若い男性職員だった。関西訛りの、少し柔らかな口調が印象的だった。「ステラ・トレーディング株式会社の営業の、浜内です」「同じく、近藤と申します」 愛美が、丁寧に頭を下げた。「急な問い合わせ、ご対応いただきありがとうございます」
疲れた時は、身体を癒すに限る。伊依は、鳴沢温泉に足を運んでいた。 この温泉地で最も大きく、最も歴史のある旅館、「伊勢谷旅館」。木造の趣ある建物が、山あいの静けさに、しっとりと馴染んでいた。「和久井様、ようこそいらっしゃいませ」 玄関先で迎えてくれたのは、和装の女性だった。「女将の伊勢谷清子です。何なりとお申し付けください」「お世話になります」 伊依は、丁寧に頭を下げた。「こちらの自慢は、温泉巡りになっております。色んな種類のお風呂がありますので、ぜひご堪能くださいね」「はい」 部屋に案内され、荷物を解きながら、伊依はふと気づいた。 しもた、背中の火傷の跡……。 温泉に入るということは、当然、背中を晒すことになる。伊依は、一瞬、躊躇いを覚えた。だが、ロビーで見た限り、この時間帯の宿泊客は、それほど多くなかった。「まあ、大丈夫だろう」 伊依は、自分に言い聞かせるように呟いた。 夕方、伊依は大浴場の露天風呂へと向かった。木々に囲まれた開放的な湯船、湯気が、山の冷たい空気の中に、静かに立ち昇っている。「あぁ〜、生き返る」 湯船に浸かった瞬間、思わず声が漏れた。連日の疲労が、じんわりと溶けていくようだった。「ふふ、分かります」 突然、隣から声がかかった。伊依は、驚いて振り返った。「疲れが一気に抜けますよね」 品の良さそうな年配の女性が、少し離れた場所で、湯船に浸かっていた。「申し訳ございません、騒いでしまって」 伊依は、慌てて頭を下げた。「いいのよ」 女性は、穏やかに笑いながら答えた。「不思議なものでね、このお風呂に浸かってると、心が素直になって、言葉に出ちゃうのよ。私も初めて来たときなんて、あなたより大声出しちゃったわ」「ははは……よく来られるんですか?」 「月一は、静養に来るのよ」 女性は、湯面に視線を落としな
地下の部屋に、伊依の悲鳴が響いた。「しまったぁぁぁ」モニターを見つめたまま、伊依は両手で頭を抱えていた。「あ」ジョフィの声にも、珍しく戸惑いが滲んでいた。「FX損失出したぁ」伊依は、椅子に沈み込みながら、力なく呟いた。ドル円のポジションが、予想外の急落に見舞われ、含み損が一気に膨らんでいた。 「大丈夫」ジョフィが、すぐに切り替えるように答えた。「株で取り返す。ちょうどタイミング的にいい銘柄がある」「ありがとう、ジョフィ」伊依は、少しだけ肩の力を抜いた。長年の付き合いの中で、ジョフィの分析力には、絶大な信頼を寄せていた。「しかし珍しいね」ジョフィが、続けた。「伊依が失敗するなんて。疲れてる?」 伊依は、しばらく考え込んだ。「疲れてるかも」正直な答えだった。ここ最近、ハーリドとの攻防、ジョフィを狙ったハッキング事件、そして日々の業務の合間を縫っての、Angelusとブライダル注文の対応。振り返れば、休みらしい休みも、あまり取れていなかった。「うーん」ジョフィが、少し考えるような間を置いてから、提案した。「伊依、旅行に行かない?」 「旅行」伊依は、その言葉を、口の中で転がしてみた。「一人旅かぁ」「うん」「有名どころは嫌だなぁ」伊依は、少し顔をしかめた。人気の観光地は、それだけ人目につく可能性も高い。荘園の生活に慣れてはいても、伊依はまだ、大勢の視線に晒される場所を、本能的に避ける癖が残っていた。 「いい温泉地があるよ」ジョフィが、すぐに提案した。「隣の県になるんだけど、鳴沢温泉っていう、人が少ない穴場」「まじか」伊依は、少し身を乗り出した。「いいねぇ」「観光地化されてなくて、宿の数も少ない。静かに過ごすには、ぴったりだと思う」 「調べて」伊依は、指示を出した。ジョフィは、すぐ
地下の部屋に、Angelusの新規注文が届いた。伊依は、いつも通り、注文者の情報に目を通した。「これ……」 差出人の名前に、伊依は思わず手を止めた。総務課の事務職、名前だけは、社内で何度か見かけたことのある男性社員だった。「知り合い?」 ジョフィが、尋ねる。伊依は、首を振った。「名前くらいしか知らない」 注文内容を確認すると、そこには婚約指輪の依頼が記されていた。伊依は、少し考え込んだ。「うちの事務職の給料で、頑張ったなぁ」 伊依は、注文の予算欄を見ながら、静かに呟いた。決して安くはない金額だった。「無理してない?」 伊依は、少し心配になり、ジョフィに確認を頼んだ。「大丈夫」 ジョフィが、すぐに調べを進めた。「愛美の時とは違う。ちゃんとこつこつ貯めて、支払ってるね」「ほう」 伊依は、その報告に、静かな安堵を覚えた。愛美のように、借金をしてまで無理をしているわけではない。地道に、大切な時のために、コツコツと積み立ててきたお金だった。 ブライダル関連の注文は、通常の販売ルートとは、別の流れで進められる。伊依はYORとして、注文者と直接、チャットでやり取りをしながら、デザインのイメージを詰めていく。「どんな形がご希望ですか」 伊依は、丁寧なメッセージを送った。「あの、ちょっと変な形なんですが、可能でしょうか」 注文者からの返信には、少し戸惑いが滲んでいた。「どのようなデザインですか」「彼女、子供の頃から可愛がっていたインコがいまして」 注文者は、少し言葉を選びながら、続けた。「そのインコが、最近、天国に行って、落ち込んでるんです」「なるほど……」 伊依は、その一文を、静かに読み進めた。画面の向こうで、彼が、大切な人のために、どれほど心を込めて、この贈り物を考えているかが、伝わってくるようだった。「だから、鳥をモチーフにしてほしいんです」 注文者は、続けた。「できますで