LOGIN「昨夜のことは忘れろ。あれは、間違いだった」 想い続けた兄の親友・高遠玲司にそう突き放された朝倉結は、妊娠を告げずに姿を消し、一人で娘を産み育てた。 七年後、ホテルの清掃員となった結の前に、冷徹なCEOとなった玲司が現れる。 「……父親は誰だ」 娘の瞳は、彼と同じ色をしていた。 さらに自宅を荒らされ、母娘は玲司のもとで暮らすことに。 七年前に自分を捨てた男。許すつもりなんてない。 それなのに、娘に不器用な優しさを向ける彼を見るたび、封じ込めた想いがまた動き出す。 ――今さら優しくしないで。また、あなたを好きになってしまう。
View More――私、朝倉 結(あさくら・ゆい)は、七年間、ただの「可愛い妹」という安全な檻の中にずっと隠れ続けていた。
シャンパングラスの触れ合う乾いた音が、分厚いガラス戸の向こうでくぐもって聞こえる。 九月の夜風はまだ生温かく、首筋に張り付いた後れ毛をわずかに揺らした。息苦しいホールから逃げ出すようにテラスへ出て、薄暗い庭園の奥へとヒールを進める。芝生が沈み込む感触を足の裏に確かめながら、ようやく肺いっぱいに夜気を吸い込んだ。 きつく締め付けられたコルセットのせいだけではない。会場に足を踏み入れた瞬間から、ずっと背中に焦げるような熱を感じていた。 振り返らなくてもわかる。フロアの中心で、常に誰かに囲まれているあの人――高遠 玲司(たかとお・れいじ)。高遠グループの若きCEOであり、長年、兄の親友として家に出入りしていた男だ。 十四歳の夏、初めて書斎で会った時のことを今でも覚えている。アメリカ人の母親譲りの色素の薄い瞳。周囲を寄せ付けないような冷たい空気を纏っていた彼が、ふと見せた不器用な笑み。 あの日から七年間、私にとって彼は「優しくて少し遠い、お兄さんのような存在」だった。いや、そう思い込もうとしていた。二十一歳になった今でも、彼に対するひどく重たい感情を、誰にも気づかれないように心の奥底へ押し込めて。 名前をつけてしまえば、今までと同じ顔ではいられなくなる気がしていた。兄の親友を見るだけで胸が騒ぐ自分を、私はずっと見ないふりをしてきた。 けれど、数週間前。兄の会社へ忘れ物を届けに行った日を境に、何かが少しずつ変わり始めている。 すれ違いざまに向けられた、あの眼差し。妹を見るような、頭を撫でるような温度ではなかった。肌の奥まで見透かすような、重く深い視線。 思い出すだけで、鎖骨のあたりが粟立つ。 ふと、甘い葉巻と、微かなシトラスの香りが鼻腔を掠めた。 冷水を浴びたように足が止まる。 生け垣の向こう側。月明かりだけが頼りの薄暗がりの中に、背の高い影が立っていた。 間違いない。テーラーメイドのダークスーツに包まれた広い肩幅。少し無造作にセットされた前髪の隙間から見える、高い鼻梁。 手には火のついていない葉巻。そしてもう片方の手で、小さな何かを弄んでいる。 月光がその表面を反射して、きらりと光った。 息を呑む。銀色の、小さな星型の細工。先日私がどこかで落としてしまったはずのヘアピンだった。 なぜ、あの人がそれを持っているのだろう。しかも、指の腹でその縁をなぞる仕草は、ひどくゆっくりで、まるで大切で壊れやすいものに触れるかのような熱を帯びていた。 「……結」 低い、ざらついた掠れた声が、静寂に落ちた。 家族しか呼ばないその名前を口にされる。ただそれだけのことなのに、鼓膜の奥が痺れ、心臓が肋骨を突き破りそうなほど跳ね上がった。 もしかして。 ほんの少しの自惚れと、七年分の重たい感情が、胃の底からせり上がってくる。ただの「親友の妹」ではなく、自分は彼にとって特別な存在なのかもしれない――。 期待と戸惑いが入り混じる中、一歩、無意識に足を踏み出そうとした。 その時、ヒールの先が小石を弾いた。 カツッ、という音が不自然なほど大きく響く。 しまった、と思った時にはもう遅かった。影が動きを止め、ゆっくりとこちらを振り返る。 目が、合った。 一直線にこちらを射抜くような鋭い瞳。全身の血が逆流する。突然のことに動揺し、彼の顔をまともに見ることもできない。 (逃げなきゃ!) 咄嗟にドレスの裾を掴み、踵を反して走り出す。背後から名前を呼ばれた気がしたが、振り返る余裕などなかった。 逃げ帰るように戻ったホールは、むせ返るような香水とアルコールの匂いが充満していた。 指定された円卓に戻り、冷たい水を一気に飲む。乾ききった喉が、ヒクッと鳴った。 (大丈夫、追ってきている気配はない。暗かったし、人違いだと思ったかも……) そう自分に言い聞かせた直後、ふわりと、あのシトラスの香りが隣に落ちてきた。 ビクッと肩が跳ねる。 隣の空席に、あの人が腰を下ろしたのだ。できるだけ彼を避けようとしていたのに。 周囲の空気が一瞬にして緊張を帯びる。親戚や仕事相手たちが慌てて愛想笑いを浮かべて挨拶を始めたが、彼は短く頷きを返すだけで、視線はこちらに向けようとしない。 ただ、テーブルの下。 隣り合う椅子の距離が、異常に近い。 ダークスーツの生地が、ドレスから露出した私の膝の側面に触れるか触れないかの距離にある。布越しに伝わる体温が、じりじりと肌を焦がすように伝わってくる。 (絶対、わざと距離詰めてる……!) 会話の端々に相槌を打ちながらも、意識はすべて右半身に集中していた。グラスが持ち上げられるたび、微かに動く腕の筋肉。ゆっくりと吐き出される熱い呼気。 見えない糸で絡めとられているような息苦しさに、手元のナプキンを無意識にきつく握りしめる。 たまらず視線を横に向けると、唐突に、目が合った。 他の人には愛想の良い笑みを向けているのに、私を見る目だけは氷のように冷たく、そしてどこか怒っているようにも見えた。 何度もこちらに向けられるその視線に、もう平静ではいられなくなる。 これ以上、この至近距離で体温を浴びせられ続けたら、おかしな声を出してしまいそうだった。 「……少し、風に当たってきます」 誰に言うでもなく呟き、逃げるように席を立つ。 ヒールが絨毯に沈む感触がひどくもどかしい。背中に突き刺さる視線を振り切るように、早足でメインエントランスへと向かった。 分厚い絨毯の廊下を抜け、バルコニーへと続く重いガラス扉に手をかけた、その瞬間。 背後から伸びてきた大きな手が、扉の取っ手ごと、私の手を乱暴に覆い隠し、行く手を阻んだ。 ビクン、と肩が跳ねる。 背中に、硬く熱い胸板が押し付けられる。 シトラスの香りと、微かな葉巻の匂い。そして、アルコールの混じった熱い吐息が、耳のすぐ裏側に吹きかかった。 「……話がある」 低く、鼓膜を直接撫で回すような声。 逃げる隙間は、どこにもなかった。取っ手ごと握られた手。重なった大きな親指の腹が、手の甲の薄い皮膚を、じり、とゆっくり擦った。七年前、実家の経営権が彼らの手へ渡った時も、私には何も決められなかった。今度は同じようにはしたくない。「布を見るお手伝いも、お断りします。YUさんへの依頼は、仲介の方へお願いします」 自分の名義を他人のように口にすると、舌の奥が強張った。玲司はファイルを閉じずに、私を見ている。「君に頼んでいる」「私は、あなたたちの会社のやり方に巻き込まれたくありません。それに、今の生活で十分です」「十分?」 玲司が低く笑う。その響きには、明らかな侮蔑が混じっていた。「昼はホテルの清掃。ほかの仕事も掛け持ちしているそうだな。それが君の望んだ『十分な生活』か」 痛いところを突かれ、私の顔が熱くなる。 図星だった。デザイナーとしての仕事だけでは、母娘二人の生活を安定させるには足りない。だからこそ、固定シフトで確実な収入が得られる清掃の仕事を辞められないのだ。「あなたには関係ありません!」 私は声を荒らげそうになるのを必死に堪え、きびすを返した。 これ以上、彼と同じ空間にいては、自分が崩れてしまう。 重厚な扉の取っ手に手をかけた瞬間。「……才能だけだ」 背後から、玲司の静かな声が響いた。「さっき布を見た時の目は、昔と同じだった。君の腕を借りたい。……それだけだ」 その言葉に、私の胸が一瞬だけ大きく揺れた。 自分の作るものを、彼がまだ覚えていた。 今さらそんなことを言われても困るのに、布を見ていた彼の目が頭から離れなかった。◇ しかし、私は振り返らなかった。 評価されたからといって、彼の下で働くわけにはいかない。 あの七年前の絶望を、二度と繰り返すわけにはいかないのだ。「……失礼します」 私は短く告げ、扉を開けようとした。 その時。「……子供がいるそうだな」 玲司の低い、だが確信に満ちた声が、私の背中に突き刺さった。 私の手が止まる。 取っ手を握る手が、白くなるほど力を込めていた。 全身の血が凍りつくような感覚。 彼は、知っている。 陽菜の存在を。 まだ父親だと知られたわけじゃない。そう言い聞かせても、胸の奥では別の声がしていた。七年も隠してきた秘密が、たった一日で端から崩れ始めている。 私はゆっくりと振り返る。 玲司の冷徹な瞳が、凍りついた私を捉えて離さなかった。 ――子供がいるそうだな。 スイートルームの重厚
私がひそかに続けてきた夜の仕事。その布が、玲司の目の前に広げられている。 どこまで知られているのだろう。背中に汗が伝った。 YUという名前の下では、私は誰の娘でも、誰かに捨てられた女でもなく、ただ自分の仕事だけで評価されることができた。そこにまで彼を入れたくなかった。 布に見覚えがある。それだけなら、まだ私が本人だと証明できたわけではない。「……人違いです。私はここの清掃スタッフです」 私はファイルから目を離し、どうにか彼を見返した。「仲介業者は、本人の名前を明かさなかった。これは採用候補として受け取った試作品だ」 玲司は、布の端を押さえた。「君が昔描いていたものに似ている。だから、確かめたかった」 言い切った後、彼は私の返事を待った。確信に満ちた顔をしているのに、その指だけが布を離さない。「私からお話しすることはありません」 私の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。 なぜ、ここまで執拗に追うのか。七年前に自分を捨てた男が、なぜ今さら。◇ 玲司はデスクから離れ、私の目の前まで歩み寄った。 シトラスの香りと、上質なスーツの生地の匂いが私を包み込む。七年前の夜を嫌でも思い出させるその匂いに、私は思わず息を止めた。「YUには仲介業者を通して正式に依頼する。君にも、布を見てもらいたい。昔の図案は覚えている」 私はファイルから布地を一枚だけ取り上げた。自分が提出した試作なのに、ホテルの強い照明の下で見ると、仲介業者の小さな作業机で見た時とは違う表情をしている。金糸が光りすぎている部分を爪の先で押さえ、無意識に織り目を確かめた。「ここ、実際の客室照明だと少し強く出ます。採用するなら撚りを一段落とした方がいいです」 余計なことを言った。布を戻そうとすると、玲司が同じ箇所へ視線を落とした。「そこまで分かるのに、関係がないと言うのか」「仕事で布を扱っていたことはあります。それだけです」 玲司は何か言いかけ、やめた。私も、それ以上は話さなかった。 七年前、彼の前ではいつも
――話がある。 七年前のあの夜と同じ低い声が、ホテルのスイートルームという非日常の空間に響き渡った。 私の足元から、急速に血の気が引いていく。 なぜ、彼がここに。 高遠玲司。かつて兄の親友であり、私が長年想いを寄せた末に、拒絶された相手。アメリカ人の母親譲りの色素の薄い瞳が、私の姿を真っ直ぐに射抜いている。七年前と変わらない凄みを帯びた高い鼻梁。 しかし、何かが決定的に違う。七年前の夜のような、熱を帯びた焦燥はない。そこにあるのは、獲物を追い詰めた捕食者のような、絶対的な自信と冷酷さだけだった。「……話とは、なんでしょうか」 どうにか絞り出した声は、ひどく上擦っていた。 私は無意識に、手にしたダスターをきつく握りしめる。清掃スタッフのグレーの制服姿で、スリーピースのダークスーツを完璧に着こなした彼と対峙している事実が、圧倒的な力の差として私に重くのしかかる。 逃げ出したい。今すぐこの扉を開けて、彼から遠ざかりたい。 その衝動を必死に押さえ込み、私は一歩も引かずに彼を見据えた。「七年前。なぜ君は、誰にも何も言わずに姿を消した」 静かな問いかけだった。だが、その底には確かな怒りがマグマのように渦巻いているのが感じ取れた。 私は小さく息を吸い込む。 思い出すのは、あの朝の冷たい言葉だ。『昨夜のことは忘れろ。あれは間違いだった』 彼に捨てられ、自分の家族の会社まで危機に追いやられた。お腹には新しい命が宿っていたのに、彼には別の婚約者がいた。 誰にも言えなかったのではない。言えるはずがなかったのだ。「……あなたに、説明する義務はありません」 震えを隠すため、あえて冷たい声で言い放つ。 玲司の眉間がわずかに動いた。「そうか」 短く応じると、彼は窓際からゆっくりと歩み寄り、部屋の中央に置かれた重厚なマホガニーのデスクに近づいた。 そして、その上に置かれていた一冊のファイルを開く。「なら、仕事の話をしよう」 仕事? 清掃スタッフに、高遠グループのCEOが直接仕事の話をするなど、あり得ない。 私の頭の中に疑問符が浮かぶ。「……七年ぶりに、ようやく見つけた」 玲司の低い声が、静かに宣告した。 デスクの上に置かれたファイルには、数枚の布地とデザイン画が挟み込まれていた。 私はそれを見た瞬間、息が止まりそうになった。 それ
ジューッ、という派手な音を立てて、フライパンの上で卵が焼けていく。 換気扇の低い唸り音に混じって、リビングの方からパタパタという軽い足音が近づいてきた。「ママ、おはよー……」 あくびを噛み殺しながらキッチンに顔を出したのは、七歳の娘、朝倉 陽菜(あさくら・ひな)だ。寝相の悪さを証明するように、頭の右半分の髪が鳥の巣のように跳ね上がっている。「おはよう。またすごい寝癖ね」「だって、夢の中で怪獣と戦ってたんだもん。ママ、今日のお弁当、タコさんウインナー入ってる?」「もちろん。足はちゃんと八本にしておいたわよ。さ、顔洗っていらっしゃい」 火を止め、お弁当箱の蓋を閉める。 陽菜は「やったー!」と歓声を上げて洗面所へ駆けていく。その小さな後ろ姿を見送りながら、ふと、日に透ける明るい茶色の髪に目が留まった。 色素の薄い髪。そして、太陽の光の下で見ると微かに緑がかって見える、あの人と同じガラス玉のような瞳。 娘は明るく愛らしい存在であり、私にとってかけがえのない宝物だった。 この子を産んだことだけは、一度だって後悔したことがない。苦しかった七年間の中で、それだけは誰に何を言われても揺らがない、私自身が選んだ答えだった。 あの九月から、七年と十一か月。陽菜は六月二十日に七歳になった。 母娘二人の暮らしに余裕があるわけではない。それでも懸命に生活してきた。朝倉家にも、高遠側にも、陽菜の存在は知らせていない。 七年前。妊娠を知った私は、本当は家族にその事実を伝えるつもりだった。 だが、その直後、彼の一族によるビジネス上の争いによって、自分の家族が追い詰められていることを知る。父の会社は倒産こそ免れたものの、かつての勢いを失い、厳しい状況に置かれていた。 けれど、あの夜については、今も分からないことが残っている。あの異常な状態が偶然ではなかったのなら、誰が、何のためにあんなことをしたのか――七年経った今も、その答えだけは見つからないままだ。 さらに追い打ちをかけるように、私はSNSで彼の婚約発表を目にした。 相手は、御堂ライフサイエンス創業家の令嬢、御堂莉央。両家の提携を紹介する記事には、玲司の腕にそっと手を添えた彼女の写真が載っていた。白いドレスの莉央は晴れやかに笑い、隣の玲司も口元をわずかに緩めている。 私の知らないところで、こんな顔をしてい