あなたの子を産みました。七年経った今さら、優しくしないでください

あなたの子を産みました。七年経った今さら、優しくしないでください

last updateZuletzt aktualisiert : 03.11.2026
Von:  花柳響Gerade aktualisiert
Sprache: Japanese
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Zusammenfassung

現代

強いヒロイン

家族愛

一夜限り

妊娠

幼なじみ

未婚の母

「昨夜のことは忘れろ。あれは、間違いだった」 想い続けた兄の親友・高遠玲司にそう突き放された朝倉結は、妊娠を告げずに姿を消し、一人で娘を産み育てた。 七年後、ホテルの清掃員となった結の前に、冷徹なCEOとなった玲司が現れる。 「……父親は誰だ」 娘の瞳は、彼と同じ色をしていた。 その矢先、自宅が何者かに荒らされ、母娘は安全のため玲司のもとへ身を寄せることになる。 七年前に自分を捨てた男。許すつもりなんてない。 それなのに、娘に向けられる不器用な優しさを知るほど、七年前の記憶が揺らいでいく。 ――あの夜は、本当に「間違い」だったのか。

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Kapitel 1

第1話 逃げ場のない視線

 ――私、朝倉 結(あさくら・ゆい)は、七年間、ただの「可愛い妹」という安全な檻の中にずっと隠れ続けていた。

 シャンパングラスの触れ合う乾いた音が、分厚いガラス戸の向こうでくぐもって聞こえる。

 九月の夜風はまだ生温かく、首筋に張り付いた後れ毛をわずかに揺らした。息苦しいホールから逃げ出すようにテラスへ出て、薄暗い庭園の奥へとヒールを進める。芝生が沈み込む感触を足の裏に確かめながら、ようやく肺いっぱいに夜気を吸い込んだ。

 きつく締め付けられたコルセットのせいだけではない。会場に足を踏み入れた瞬間から、ずっと背中に焦げるような熱を感じていた。

 振り返らなくてもわかる。フロアの中心で、常に誰かに囲まれているあの人――高遠 玲司(たかとお・れいじ)。高遠グループの若きCEOであり、長年、兄の親友として家に出入りしていた男だ。

 十四歳の夏、初めて書斎で会った時のことを今でも覚えている。アメリカ人の母親譲りの色素の薄い瞳。周囲を寄せ付けないような冷たい空気を纏っていた彼が、ふと見せた不器用な笑み。

 あの日から七年間、私にとって彼は「優しくて少し遠い、お兄さんのような存在」だった。いや、そう思い込もうとしていた。二十一歳になった今でも、彼に対するひどく重たい感情を、誰にも気づかれないように心の奥底へ押し込めて。

 名前をつけてしまえば、今までと同じ顔ではいられなくなる気がしていた。兄の親友を見るだけで胸が騒ぐ自分を、私はずっと見ないふりをしてきた。

 けれど、数週間前。兄の会社へ忘れ物を届けに行った日を境に、何かが少しずつ変わり始めている。

 すれ違いざまに向けられた、あの眼差し。妹を見るような、頭を撫でるような温度ではなかった。肌の奥まで見透かすような、重く深い視線。

 思い出すだけで、鎖骨のあたりが粟立つ。

 ふと、甘い葉巻と、微かなシトラスの香りが鼻腔を掠めた。

 冷水を浴びたように足が止まる。

 生け垣の向こう側。月明かりだけが頼りの薄暗がりの中に、背の高い影が立っていた。

 間違いない。テーラーメイドのダークスーツに包まれた広い肩幅。少し無造作にセットされた前髪の隙間から見える、高い鼻梁。

 手には火のついていない葉巻。そしてもう片方の手で、小さな何かを弄んでいる。

 月光がその表面を反射して、きらりと光った。

 息を呑む。銀色の、小さな星型の細工。先日私がどこかで落としてしまったはずのヘアピンだった。

 なぜ、あの人がそれを持っているのだろう。しかも、指の腹でその縁をなぞる仕草は、ひどくゆっくりで、まるで大切で壊れやすいものに触れるかのような熱を帯びていた。

「……結」

 低い、ざらついた掠れた声が、静寂に落ちた。

 家族しか呼ばないその名前を口にされる。ただそれだけのことなのに、鼓膜の奥が痺れ、心臓が肋骨を突き破りそうなほど跳ね上がった。

 もしかして。

 ほんの少しの自惚れと、七年分の重たい感情が、胃の底からせり上がってくる。ただの「親友の妹」ではなく、自分は彼にとって特別な存在なのかもしれない――。

 期待と戸惑いが入り混じる中、一歩、無意識に足を踏み出そうとした。

 その時、ヒールの先が小石を弾いた。

 カツッ、という音が不自然なほど大きく響く。

 しまった、と思った時にはもう遅かった。影が動きを止め、ゆっくりとこちらを振り返る。

 目が、合った。

 一直線にこちらを射抜くような鋭い瞳。全身の血が逆流する。突然のことに動揺し、彼の顔をまともに見ることもできない。

 (逃げなきゃ!)

 咄嗟にドレスの裾を掴み、踵を反して走り出す。背後から名前を呼ばれた気がしたが、振り返る余裕などなかった。

 逃げ帰るように戻ったホールは、むせ返るような香水とアルコールの匂いが充満していた。

 指定された円卓に戻り、冷たい水を一気に飲む。乾ききった喉が、ヒクッと鳴った。

 (大丈夫、追ってきている気配はない。暗かったし、人違いだと思ったかも……)

 そう自分に言い聞かせた直後、ふわりと、あのシトラスの香りが隣に落ちてきた。

 ビクッと肩が跳ねる。

 隣の空席に、あの人が腰を下ろしたのだ。できるだけ彼を避けようとしていたのに。

 周囲の空気が一瞬にして緊張を帯びる。親戚や仕事相手たちが慌てて愛想笑いを浮かべて挨拶を始めたが、彼は短く頷きを返すだけで、視線はこちらに向けようとしない。

 ただ、テーブルの下。

 隣り合う椅子の距離が、異常に近い。

 ダークスーツの生地が、ドレスから露出した私の膝の側面に触れるか触れないかの距離にある。布越しに伝わる体温が、じりじりと肌を焦がすように伝わってくる。

 (絶対、わざと距離詰めてる……!)

 会話の端々に相槌を打ちながらも、意識はすべて右半身に集中していた。グラスが持ち上げられるたび、微かに動く腕の筋肉。ゆっくりと吐き出される熱い呼気。

 見えない糸で絡めとられているような息苦しさに、手元のナプキンを無意識にきつく握りしめる。

 たまらず視線を横に向けると、唐突に、目が合った。

 他の人には愛想の良い笑みを向けているのに、私を見る目だけは氷のように冷たく、そしてどこか怒っているようにも見えた。

 何度もこちらに向けられるその視線に、もう平静ではいられなくなる。

 これ以上、この至近距離で体温を浴びせられ続けたら、おかしな声を出してしまいそうだった。

「……少し、風に当たってきます」

 誰に言うでもなく呟き、逃げるように席を立つ。

 ヒールが絨毯に沈む感触がひどくもどかしい。背中に突き刺さる視線を振り切るように、早足でメインエントランスへと向かった。

 分厚い絨毯の廊下を抜け、バルコニーへと続く重いガラス扉に手をかけた、その瞬間。

 背後から伸びてきた大きな手が、扉の取っ手ごと、私の手を乱暴に覆い隠し、行く手を阻んだ。

 ビクン、と肩が跳ねる。

 背中に、硬く熱い胸板が押し付けられる。

 シトラスの香りと、微かな葉巻の匂い。そして、アルコールの混じった熱い吐息が、耳のすぐ裏側に吹きかかった。

「……話がある」

 低く、鼓膜を直接撫で回すような声。

 逃げる隙間は、どこにもなかった。取っ手ごと握られた手。重なった大きな親指の腹が、手の甲の薄い皮膚を、じり、とゆっくり擦った。

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第1話 逃げ場のない視線
 ――私、朝倉 結(あさくら・ゆい)は、七年間、ただの「可愛い妹」という安全な檻の中にずっと隠れ続けていた。 シャンパングラスの触れ合う乾いた音が、分厚いガラス戸の向こうでくぐもって聞こえる。 九月の夜風はまだ生温かく、首筋に張り付いた後れ毛をわずかに揺らした。息苦しいホールから逃げ出すようにテラスへ出て、薄暗い庭園の奥へとヒールを進める。芝生が沈み込む感触を足の裏に確かめながら、ようやく肺いっぱいに夜気を吸い込んだ。 きつく締め付けられたコルセットのせいだけではない。会場に足を踏み入れた瞬間から、ずっと背中に焦げるような熱を感じていた。 振り返らなくてもわかる。フロアの中心で、常に誰かに囲まれているあの人――高遠 玲司(たかとお・れいじ)。高遠グループの若きCEOであり、長年、兄の親友として家に出入りしていた男だ。 十四歳の夏、初めて書斎で会った時のことを今でも覚えている。アメリカ人の母親譲りの色素の薄い瞳。周囲を寄せ付けないような冷たい空気を纏っていた彼が、ふと見せた不器用な笑み。 あの日から七年間、私にとって彼は「優しくて少し遠い、お兄さんのような存在」だった。いや、そう思い込もうとしていた。二十一歳になった今でも、彼に対するひどく重たい感情を、誰にも気づかれないように心の奥底へ押し込めて。 名前をつけてしまえば、今までと同じ顔ではいられなくなる気がしていた。兄の親友を見るだけで胸が騒ぐ自分を、私はずっと見ないふりをしてきた。 けれど、数週間前。兄の会社へ忘れ物を届けに行った日を境に、何かが少しずつ変わり始めている。 すれ違いざまに向けられた、あの眼差し。妹を見るような、頭を撫でるような温度ではなかった。肌の奥まで見透かすような、重く深い視線。 思い出すだけで、鎖骨のあたりが粟立つ。 ふと、甘い葉巻と、微かなシトラスの香りが鼻腔を掠めた。 冷水を浴びたように足が止まる。 生け垣の向こう側。月明かりだけが頼りの薄暗がりの中に、背の高い影が立っていた。 間違いない。テーラーメイドのダークスーツに包まれた広い肩幅。少し無造作にセットされた前髪の隙間から見える、高い鼻梁。 手には火のついていない葉巻。そしてもう片方の手で、小さな何かを弄んでいる。 月光がその表面を反射して、きらりと光った。 息を呑む。銀色の、小さな星型の細工。先日私
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-17
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第2話 熱を帯びた吐息
 そのまま腕を引かれ、従業員専用の通路へ押し込まれる。  (えっ、ちょっと待って! ヒール脱げる!)  一定の距離を保とうと身をよじるが、手首を掴む指の力が強すぎて抵抗する間もない。ヒールが絨毯に引っかかり何度もよろけそうになった。  暗い廊下を歩く間、前を歩く広い背中からは、いつも以上の熱気が放たれているように感じる。  空き部屋の一つ、重厚なドアが無造作に開かれ、二人きりで話をするために中に引きずり込まれた。バタン、と乱暴な音を立てて扉が閉まる。  壁に背中を押し付けられ、すぐ目の前に高い鼻梁が迫った。 「……さっきの庭で」  頭上から聞こえた声には、荒い息が混じっていた。  薄暗い部屋の中で、その額にじんわりと薄く汗が浮かんでいるのが見えた。きっちりと結ばれていたはずのネクタイは無造作に少し緩められ、シャツの第一ボタンが開いている。 「あ、あの……庭のことは、その、何も見ていません。物音を立ててしまって、ごめんなさい」  咄嗟に何もなかったかのように振る舞い、謝ろうと頭を下げる。  しかし、玲司の視線に射抜かれ、見透かされたような気がした。喉が張り付いて、声が出ない。視線を逸らそうとしたが、顎を硬い指先ですくい上げられ、強制的に前を向かされる。 「君はあの時、そこに立って俺を見ていただろう。全部、聞いていたはずだ」  指先から伝わってくる熱が、異常だった。火傷しそうなほどの温度が、顎の皮膚から全身へと伝播していく。  (ただの酔いじゃない。すごく熱い……)  何かおかしい。いつも完璧な身なりを崩さない人が、ひどく息苦しそうに肩を上下させている。誰かに何か、良からぬ薬でも飲まされたのだろうか。この財界の集まりなら、そんな腹黒い策略があってもおかしくない。 「君は俺にとって、触れてはいけない存在だった」  喉の奥から、呻くような声が落ちた。  掠れた声には、抑えきれない感情が滲んでいた。  触れてはいけない。妹だから、ではなく、触れたいと思ったから、そう言ったのだろうか。  庭で星のピンを撫でていた指を思い出す。私のいないところで、私の名前を呼んでいた声も。期待しては打ち消してきたものが、今度ばかりは胸に収まらなかった。  聞き違いなら、そう言ってほしい。けれど彼は目を逸らさない。私は震える息を吸い、一歩だけ近づいた。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-17
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第3話 七年目の熱帯夜
 大柄な彼の体重を支えきれるはずもなく、私たちはもつれ合うようにして部屋の奥、分厚い絨毯の上へと倒れ込んだ。 ドスッ、という鈍い衝撃が背中を打つ。「……っ、大丈夫ですか」 声をかけても返事はない。ドレスの生地越しに伝わってくる彼の鼓動が、あまりにも速く、不規則に打っている。 スーツの背中に腕を回すと、高級な布地が彼の汗でぐっしょりと湿り気を帯びていた。 首筋に埋もれるように倒れ込んだ彼の顔から、燃えるような吐息が絶え間なく吹きかかってくる。シトラスの香水と、汗と、微かなアルコール。 やはり、ただの酔いではない。異常な熱だ。「しっかりしてください……っ」 どうにか身体をずらし、彼の頭を絨毯に下ろす。ネクタイを完全に外し、シャツのボタンをいくつか開けて風を通した。 近くにあったキャビネットから清潔なリネンタオルを見つけ出し、洗面台の水で濡らして彼の額の汗を拭う。 苦しげに眉をひそめながら、彼は時折、小さく呻き声を上げた。 その顔を見つめながら、ひたすら冷たいタオルを当て続ける。 一時間。あるいは、もっと経っただろうか。 壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、静かな部屋に響き続けていた。 やがて、火のようだった彼の体温が少しずつ下がり、荒かった呼吸が静かなものへと変わっていく。 不意に、掠れた声が名前を呼んだ。 ハッとして顔を上げると、色素の薄い瞳が、静かに私を見つめ返していた。 先ほどまでの焦点の合わない濁りは消え、受け答えのできる理知的な光が戻っている。少なくとも、さっきまでのように意識が揺らいだ状態ではなさそうだった。「気がつきましたか……? 気分は」「……ああ。最悪だが、頭ははっきりしている」 彼はゆっくりと上体を起こし、乱れたシャツの胸元を片手で押さえた。 そして、私の顔をじっと見つめる。「どうして帰らなかった。……俺がどんな状態だったか、わかっていたはずだ」 その声は低く、自分自身を責めるような響きを帯びていた。「放っておけません。それに……帰りたくなかったから」 素直な言葉が口をついて出た。 彼の瞳が、微かに揺れる。「明日には、ここを発つ。君に触れる資格なんて、俺にはない」 明日にはいなくなる。その言葉に、握りかけた手を一度引いた。今ここで気持ちを告げても、遠くへ行く彼を引き止められるわけではない。 
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-17
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第4話 星型の残骸
 ひどく重い瞼をこすりながら身を起こす。シーツが擦れるだけで、微かな気怠さが全身を包み込み、昨夜の出来事が夢ではなかったことを痛烈に突きつけてくる。 広いベッドには、彼の寝返りの跡と、枕に残された微かなシトラスの香りだけが残っていた。「……帰ったの?」 掠れた自分の声が、静まり返った部屋に落ちる。 サイドテーブルに目をやると、そこに小さな銀色の光があった。 星型のヘアピン。部屋に残されていたのは、彼が置いていったそれだけだった。昨夜、彼が私の髪から外したあのヘアピンだ。 その隣に、ホテルのロゴが入ったメモ用紙が置かれている。『急用ができた。先に出る』 短く、角張った筆跡。それだけだった。 ヘアピンを握りしめながら、昨夜の出来事を思い返す。金属の冷たさが指先に伝わる。「……勝手なんだから」 呟きながら、ふっと小さく笑みがこぼれた。 近いうちに海外へ発つ彼が、最後の夜に自分を選んでくれた。今はそれだけでよかった。数年後、彼が戻ってきた時には、堂々と隣に立てるような女性になっていたい。 そう、決意したばかりだった。◇ 昼前、私はホテルを出て朝倉家へ戻った。車窓を流れる街を眺めても、昨夜の熱と、ベッド脇に残された短いメモが頭から離れなかった。 自室で着替えを済ませ、星型のヘアピンを化粧台へ置こうとした、その時だった。 ――ガシャンッ! 一階の書斎から鋭い破砕音と父の怒鳴り声が響く。私はヘアピンを握ったまま階段を駆け下り、書斎のドアを少しだけ開けた。 中では、父・朝倉 隆臣(あさくら・たかおみ)がデスクの上の書類を床に払い落とし、肩で荒い息をしていた。傍らには、兄の朝倉 直哉(あさくら・なおや)が、青ざめた顔で立ち尽くしている。「……っ、あの若造に……まんまと出し抜かれたというのか!」「父さん、落ち着いてください。朝倉テキスタイルの資金繰りが限界だったのは事実です。彼に融資を頼んだのは俺たちの方で……」「だからといって、高遠のグループがうちのメインバンクと裏で手を組んで、経営権を根こそぎ奪っていくなんて話があるか! 彼がうちに近づいた理由には、最初から別の目的があったんだ!」 言葉を失った。「俺たちは……利用されていた」 兄の絶望的な声が響く。父が言っている意味が、うまく理解できない。その言葉を信じることができない。 利用
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第5話 七年後のシトラス
 ジューッ、という派手な音を立てて、フライパンの上で卵が焼けていく。 換気扇の低い唸り音に混じって、リビングの方からパタパタという軽い足音が近づいてきた。「ママ、おはよー……」 あくびを噛み殺しながらキッチンに顔を出したのは、七歳の娘、朝倉 陽菜(あさくら・ひな)だ。寝相の悪さを証明するように、頭の右半分の髪が鳥の巣のように跳ね上がっている。「おはよう。またすごい寝癖ね」「だって、夢の中で怪獣と戦ってたんだもん。ママ、今日のお弁当、タコさんウインナー入ってる?」「もちろん。足はちゃんと八本にしておいたわよ。さ、顔洗っていらっしゃい」 火を止め、お弁当箱の蓋を閉める。 陽菜は「やったー!」と歓声を上げて洗面所へ駆けていく。その小さな後ろ姿を見送りながら、ふと、日に透ける明るい茶色の髪に目が留まった。 色素の薄い髪。そして、太陽の光の下で見ると微かに緑がかって見える、あの人と同じガラス玉のような瞳。 娘は明るく愛らしい存在であり、私にとってかけがえのない宝物だった。 この子を産んだことだけは、一度だって後悔したことがない。苦しかった七年間の中で、それだけは誰に何を言われても揺らがない、私自身が選んだ答えだった。 あの九月から、七年と十一か月。陽菜は六月二十日に七歳になった。 母娘二人の暮らしに余裕があるわけではない。それでも懸命に生活してきた。朝倉家にも、高遠側にも、陽菜の存在は知らせていない。 七年前。妊娠を知った私は、本当は家族にその事実を伝えるつもりだった。 だが、その直後、彼の一族によるビジネス上の争いによって、自分の家族が追い詰められていることを知る。父の会社は倒産こそ免れたものの、かつての勢いを失い、厳しい状況に置かれていた。 けれど、あの夜については、今も分からないことが残っている。あの異常な状態が偶然ではなかったのなら、誰が、何のためにあんなことをしたのか――七年経った今も、その答えだけは見つからないままだ。 さらに追い打ちをかけるように、私はSNSで彼の婚約発表を目にした。 相手は、御堂ライフサイエンス創業家の令嬢、御堂莉央。両家の提携を紹介する記事には、玲司の腕にそっと手を添えた彼女の写真が載っていた。白いドレスの莉央は晴れやかに笑い、隣の玲司も口元をわずかに緩めている。 私の知らないところで、こんな顔をしてい
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-17
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第6話 氷の再会
 ――話がある。  七年前のあの夜と同じ、腹の底へ響く声が、ホテルのスイートルームという非日常の空間に落ちた。  膝の裏から、急に力が抜けていく。  なぜ、彼がここに。  高遠玲司。かつて兄の親友であり、私が長年想いを寄せた末に、拒絶された相手。アメリカ人の母親譲りの淡い瞳が、私の姿を真っ直ぐに射抜いている。七年前と変わらない凄みを帯びた高い鼻梁。  しかし、何かが決定的に違う。七年前の夜のような、熱を帯びた焦燥はない。そこにあるのは、獲物を追い詰めた捕食者のような、絶対的な自信と冷酷さだけだった。 「……話とは、なんでしょうか」  どうにか絞り出した声は、ひどく上擦っていた。  私は無意識に、手にしたダスターをきつく握りしめる。清掃スタッフのグレーの制服姿で、スリーピースのダークスーツを完璧に着こなした彼と対峙している事実が、圧倒的な力の差として私に重くのしかかる。  逃げ出したい。今すぐこの扉を開けて、彼から遠ざかりたい。  その衝動を必死に押さえ込み、私は一歩も引かずに彼を見据えた。 「七年前。なぜ君は、誰にも何も言わずに姿を消した」  静かな問いかけだった。けれど、最後の音だけが硬く、逃げ道を塞ぐように落ちた。  私は小さく息を吸い込む。  思い出すのは、あの朝の冷たい言葉だ。 『昨夜のことは忘れろ。あれは間違いだった』  彼に捨てられ、自分の家族の会社まで危機に追いやられた。お腹には新しい命が宿っていたのに、彼には別の婚約者がいた。  誰にも言えなかったのではない。言えるはずがなかったのだ。 「……あなたに、説明する義務はありません」  声の揺れを隠すため、あえて温度を消して言い放つ。  玲司の眉間がわずかに動いた。 「そうか」  短く応じると、彼は窓際からゆっくりと歩み寄り、部屋の中央に置かれた重厚なマホガニーのデスクに近づいた。  そして、その上に置かれていた一冊のファイルを開く。 「なら、仕事の話をしよう」  仕事?  清掃スタッフに、高遠グループのCEOが直接仕事の話をするなど、あり得ない。  私の頭の中に疑問符が浮かぶ。 「……七年ぶりに、ようやく見つけた」  玲司は声を落とし、静かに宣告した。  デスクの上に置かれたファイルには、数枚の布地とデザイン画が挟み込まれていた。  私はそれ
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第7話 匿名デザイナーYU
 私がひそかに続けてきた夜の仕事。その布が、玲司の目の前に広げられている。 どこまで知られているのだろう。背中に汗が伝った。 YUという名前の下では、私は誰の娘でも、誰かに捨てられた女でもなく、ただ自分の仕事だけで評価されることができた。そこにまで彼を入れたくなかった。 布に見覚えがある。それだけなら、まだ私が本人だと証明できたわけではない。「……人違いです。私はここの清掃スタッフです」 私はファイルから目を離し、どうにか彼を見返した。「仲介業者は、本人の名前を明かさなかった。これは採用候補として受け取った試作品だ」 玲司は、布の端を押さえた。「君が昔描いていたものに似ている。だから、確かめたかった」 言い切った後、彼は私の返事を待った。確信に満ちた顔をしているのに、その指だけが布を離さない。「私からお話しすることはありません」 私の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。 なぜ、ここまで執拗に追うのか。七年前に自分を捨てた男が、なぜ今さら。◇ 玲司はデスクから離れ、私の目の前まで歩み寄った。 シトラスの香りと、上質なスーツの生地の匂いが私を包み込む。七年前の夜を嫌でも思い出させるその匂いに、私は思わず息を止めた。「YUには仲介業者を通して正式に依頼する。君にも、布を見てもらいたい。昔の図案は覚えている」 私はファイルから布地を一枚だけ取り上げた。自分が提出した試作なのに、ホテルの強い照明の下で見ると、仲介業者の小さな作業机で見た時とは違う表情をしている。金糸が光りすぎている部分を爪の先で押さえ、無意識に織り目を確かめた。「ここ、実際の客室照明だと少し強く出ます。採用するなら撚りを一段落とした方がいいです」 余計なことを言った。布を戻そうとすると、玲司が同じ箇所へ視線を落とした。「そこまで分かるのに、関係がないと言うのか」「仕事で布を扱っていたことはあります。それだけです」 玲司は何か言いかけ、やめた。私も、それ以上は話さなかった。 七年前、彼の前ではいつも
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-18
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第8話 子供がいるそうだな
 七年前、実家の経営権が彼らの手へ渡った時も、私には何も決められなかった。今度は同じようにはしたくない。 「布を見るお手伝いも、お断りします。YUさんへの依頼は、仲介の方へお願いします」  自分の名義を他人のように口にすると、舌の奥が強張った。玲司はファイルを閉じずに、私を見ている。 「君に頼んでいる」 「私は、あなたたちの会社のやり方に巻き込まれたくありません。それに、今の生活で十分です」 「十分?」  玲司が低く笑った。 「昼はホテルの清掃。ほかの仕事も掛け持ちしているそうだな。それが君の望んだ『十分な生活』か」  痛いところを突かれ、私の顔が熱くなる。  図星だった。デザイナーとしての仕事だけでは、母娘二人の生活を安定させるには足りない。だからこそ、固定シフトで確実な収入が得られる清掃の仕事を辞められないのだ。 「あなたには関係ありません!」  私は声を荒らげそうになるのを必死に堪え、きびすを返した。  これ以上、彼と同じ空間にいては、自分が崩れてしまう。  重厚な扉の取っ手に手をかけた瞬間。 「……才能だけだ」  背後から、玲司の静かな声が響いた。 「さっき布を見た時の目は、昔と同じだった。君の腕を借りたい。……それだけだ」  その言葉に、私の胸が一瞬だけ大きく揺れた。  自分の作るものを、彼がまだ覚えていた。  今さらそんなことを言われても困るのに、布を見ていた彼の目が頭から離れなかった。◇ しかし、私は振り返らなかった。  評価されたからといって、彼の下で働くわけにはいかない。  あの七年前の絶望を、二度と繰り返すわけにはいかないのだ。 「……失礼します」  私は短く告げ、扉を開けようとした。  その時。 「……子供がいるそうだな」  玲司の低い、だが確信に満ちた声が、私の背中に突き刺さった。  私の手が止まる。  取っ手を握る手が、白くなるほど力を込めていた。  全身の血が凍りつくような感覚。  彼は、知っている。  陽菜の存在を。  まだ父親だと知られたわけじゃない。そう言い聞かせても、胸の奥では別の声がしていた。七年も隠してきた秘密が、たった一日で端から崩れ始めている。  私はゆっくりと振り返る。  玲司の冷徹な瞳が、凍りついた私を捉えて離さなかった。  ――子供がいるそうだ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-18
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第9話 同じ色の瞳
 バックヤードの扉を押し開け、従業員用通路の無機質なリノリウムの床を踏んだ瞬間、少しだけ呼吸が戻ってきた。 冷たい壁に背中を預け、震える手で額の汗を拭う。 落ち着かなければ。ここは職場だ。彼に何を言われようと、陽菜の父親が誰であるかは絶対に知られていないはずだ。書類上、陽菜の父親欄は空白のままなのだから。「朝倉さん!」 不意に名前を呼ばれ、私はビクッと肩を跳ねさせた。 スタッフルームから小走りで出てきたのは、清掃部門のチーフだった。彼女の顔には、普段の厳しい表情ではなく、困惑が浮かんでいる。「学童から電話があって。水道管の破裂か何かで、急に施設を閉めることになったそうよ。今、職員の方が下まで陽菜ちゃんを連れてきてくれてるって」「……え?」 私は自分の耳を疑った。 よりによって、今日。彼がこのホテルにいる今。「ロビーでお子さんを待たせるわけにもいかないから、とりあえずこっちの従業員出入口に回ってもらったわ。今すぐ迎えに行ってあげて」「あ、ありがとうございます……!」 私は血の気が引くのを感じながら、急いでスタッフルームの奥へ向かおうとした。 早く陽菜を迎えに行き、彼と鉢合わせる前にここから離れなければ。 だが、私が足を踏み出すより早く、スタッフルームの奥にある通用口のドアが、勢いよく開いた。「ママ!」 甲高い、無邪気な声。 見慣れた小さな影が、両手を広げて飛び込んでくる。寝癖で右側の髪が微かに跳ねた、明るい茶色の髪。「陽菜……っ」 私は咄嗟に膝を折り、飛び込んできた小さな身体を抱き止めた。太陽の匂いと、微かな汗の匂いがする。 安堵よりも焦燥感が勝り、早く彼女を抱き上げて外へ出ようとした、その時だった。 開け放たれた通用口の向こう。 蛍光灯の薄暗い光が落ちる従業員用の廊下に、長身の影が立っていた。 スリーピースのダークスーツ。完璧にセットされた前髪。 周囲の空気を冷たく凍らせるような、圧倒的な存在感
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第10話 何歳だ
 時間が、止まったように感じた。  周囲の換気扇の唸り音も、同僚たちのざわめきも、私の耳には届かない。  玲司は微動だにしなかった。常に冷徹な判断を下すCEOの顔から、一瞬だけすべての感情が抜け落ちている。  呼吸すら忘れたように、ただ足元の陽菜を凝視していた。  その視線の重さと異様さに、私は全身の毛穴が粟立つほどの恐怖を覚えた。  見られている。  気づかれる。  私の腕の中で、陽菜が不思議そうに首を傾げた。 「ママ、この人、誰?」  静寂を破ったのは、陽菜の明るい声だった。  相手が放つ威圧感などまるで気にしていない様子で、玲司の顔をじっと見上げている。  私は心臓が口から飛び出しそうになりながら、咄嗟に動いた。陽菜の小さな肩を引き寄せ、自分の背中に隠すようにして立ち上がる。 「……仕事の、お客様よ」  声がひどく震えた。  陽菜の明るい茶色の髪を、彼の視界から遮るように、自分の身体で壁を作る。  玲司の顎の筋肉が、強張るのが見えた。  革靴の底がリノリウムの床を擦る、硬い音が響く。一歩、彼が足を踏み出した。  玲司が近づく。香りより先に、革靴の音で分かった。 「……何歳だ」  地を這うような、掠れた低い声。  それは私に向けられたものではなく、背中に隠した陽菜の姿を探り当てようとするかのような、執拗な問いだった。◇ 年齢。  七歳だと知られれば、七年前のあの夜との関係を疑われる。誕生日まで聞かれれば、言い逃れるのは難しい。  私は胃の底がせり上がるような吐き気に耐えながら、鋭く声を張り上げた。 「お答えする義務はありません」  玲司の瞳が細められ、危険な光を帯びる。 「業務中にお子さんを連れ込むようなホテルだったかな、ここは」  冷たい指摘。しかし、その声の底には、陽菜への強烈な興味と疑念が張り付いているのが分かった。 「……急なトラブルで、今迎えに行こうとしていたところです。失礼します」  これ以上、彼と同じ空気を吸っていたくなかった。一秒でも
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-19
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