Masuk「普通? 優しさ?」
伊吹は首をかしげた。
「そんなものでは、世良家の力に勝てません。生き延びて、あなたを迎えに行くなどできなかった」
彼は立ち上がり、琴葉に近づいた。
その足取りは優雅で自信に満ちている。「僕は間違っていません。見てください、こうしてあなたを手に入れた。力がすべてです。力がなければ、僕はまたあの日々のように、あなたを失って泣くだけだった」
伊吹は琴葉の頬に手を添えた。その手は冷たく、美しい石像の手のようだった。
「僕を見てください、琴葉さん。僕は強くなりました。あなたを守れるだけの強さを手に入れたんです」
褒めてほしい、と言わんばかりの瞳。
純粋さと狂気が同居する眼差しだった。(この男は、何も分かっていない)
琴葉は奥歯を噛んだ。
そして、もう戻れない。
20年という歳月が、彼の価値観を強固に固めてしまった。琴葉は頬に触れる伊吹の手を強く振り払った。
【閑話】猫との再会 夕方の土井家の台所には、醤油と出汁の甘い香りが漂っていた。 琴葉はエプロン姿で鍋の様子を見ながら、横のまな板で手早くネギを刻んでいる。 土井精機での業務を終えた後の見慣れた日常の風景だった。 居間からは、父である土井社長が見ているテレビのバラエティ番組の音が聞こえてくる。 ――ピンポーン。 不意に、玄関のチャイムが鳴った。「はーい、今出ます」 琴葉は手を拭き、エプロンを外して玄関に向かった。 宅配便かご近所からのお裾分けだろうと思いながらドアを開けると、そこには予想外の人物が立っていた。「突然の訪問を申し訳ありません」 ダークグレーのスーツを隙なく着こなした伊吹だった。 その手には、高級そうな菓子折りが提げられている。 数日前に土井精機の事務所で新たな技術提携契約を結んだ時と同じ、世良グループのトップとしての落ち着きを払った佇まいだ。「伊吹? どうしたの、こんな時間に」「近くまで来る用事があったので、ご挨拶に伺いました。よろしいでしょうか」 琴葉が返事をするより早く、玄関の話し声を聞きつけた土井社長が奥から顔を出した。「おお、伊吹くんじゃないか! 立ち話もなんだ、上がってくれ。ちょうど夕飯の支度ができたところだ」 土井社長にとって、伊吹はかつて倒産の危機にあった土井精機を救ってくれた恩人であり、娘を不当な扱いから守ろうとしてくれた青年という認識だ。 2人の間にあった歪んだ契約結婚がすでに過去のものとなっている今でも、その好意的な態度は変わらない。「お邪魔します。お気遣いなく」 伊吹は靴を脱ぎ、揃えてから廊下を歩く。琴葉は彼を居間へと案内した。 居間のドアを開けると、部屋の真ん中にあるソファの上に、丸い毛玉のようなものが陣取っていた。 茶色と白の縞模様。かつて雨の日に、伊吹が引き取ったあの名無しの捨て猫だ。 今ではすっかり土井家の環境に馴染み、ふっくらとした毛並みを手に入れて、この家の主のよう
「暫定ではなく、正式なCEOとしてのトップダウンの決裁ですから、誰にも文句は言わせません。それに、この条件でも世良グループには十分すぎるほどの見返りがあります。政府のプロジェクトを勝ち抜くためには、土井精機の技術が何としても必要不可欠なんです」 伊吹は琴葉の目をまっすぐに見つめ返した。 その瞳にはもう、庇護を求める怯えた子供の面影はない。「僕はもう、あなたに判断を委ねて逃げ隠れするような真似はしません。自分の足で立ち、自分の責任で世良グループを率いていきます。だからこそ、あなたには僕の保護者としてではなく、完全に独立した対等なビジネスパートナーとして、共に盤面を支配してほしいんです」 巨大企業のトップとしての冷徹な計算と、琴葉という一人の技術者に対する底知れぬ敬意。 2つの感情が完全に調和した、彼にしかできない提案だった。 琴葉は書類をデスクに置き、深く息を吸い込んだ。 彼が作り上げた完璧な条件。 それは、互いの武器である電子の資本と鉄の技術を認め合い、真の意味で肩を並べるための招待状だ。 断る理由はどこにもなかった。「悪くない条件ね。むしろ、世良グループを手玉に取っている気分だわ」 琴葉は胸ポケットから愛用の万年筆を取り出した。 キャップを外し、署名欄に向かって迷いのない筆致でサインを書き込む。 流れるようなインクの軌跡が、『土井琴葉』という名前を契約書に刻みつけた。 彼女は書類の束を整えて、その半分を伊吹に向かって差し出す。 伊吹はそれを受け取ると、大切に鞄の中にしまった。「これで、正式な契約成立です。これからの世良グループの命運は、土井精機の技術にかかっています。厳しい要求も出ることになるでしょうが、覚悟はよろしいですか」「誰に向かって言っているの。どんな無茶な要求でも、完璧な寸法で削り出してみせるわ。私の五軸加工機を甘く見ないことね」 言葉を交わす2人の視線が交錯する。 そこにはもはや異常な依存も、一方的な支配も存在しない。 互いの能力を引き出し合い、共通の
「どんな名前にしたの」「『ルーク』です」 伊吹は迷いのない声で答えた。「チェスの駒の、ルーク?」「はい。盤面の端から、真っ直ぐにしか進めない不器用な駒です。ですが、仲間を守る城としての役割も持ち、盤上の状況を一変させる力を秘めています。あの小さな体で過酷な外の世界を生き延びた彼に、ふさわしい名前だと思いました」 琴葉は彼の言葉を頭の中で繰り返した。 それはただのペットへの名付けではない。 琴葉の許可を待つことなく、自らの価値観で考え抜き、自らの責任において意味を与えたという証明だ。 彼を長年縛り付けていた、琴葉への依存。 それからの明確な決別宣言だった。「良い名前ね。父にも伝えておくわ。きっと喜んで『ルーク』って呼ぶはずよ」「ありがとうございます。……それから、もう1つ」 伊吹は傍らに置いていた上質な革のビジネスバッグを開けて、分厚い書類の束を取り出した。 それを琴葉のデスクの上に丁寧に置く。「こちらの書類に、目を通していただけますか」「これは?」「世良グループと土井精機を結ぶ、新たな契約書です」 琴葉は書類を手に取り、表紙のタイトルを確認した。『半導体製造装置の中核部品に関する技術提携契約書』と印字されている。 ページをめくり、条項を1つひとつ確認していくうちに、琴葉の目つきが技術者としての鋭いものへと変わっていった。 かつて伊吹自身が土井精機に持ち込んできた最初の契約は、破格の好条件と引き換えに「琴葉との契約結婚」を迫るという、彼の歪んだ執着の産物だった。 世良家の過酷な生存競争の中で人間性を摩耗させていた彼は、自分の中にある冷酷さを自覚するがゆえに、唯一の温かさである琴葉にすがりついていた。 彼女に拒絶されることを何よりも恐れた彼は、圧倒的な資本の力と契約という鎖を使い、無理やり琴葉を自分の手元へ囲い込もうとしたのだ。 しかし、今目の前にある書類は全く異なる。 利益
「随分と手際がいいこと。市場の反応はどう?」「株価は一時的に下落しましたが、すでに下げ止まりました。徹底的な情報開示と、下請けへの救済融資の即日実行が好感されたようです。政府の半導体プロジェクトの担当省庁とも昨晩協議の場を持ちましたが、世良グループの残留は確定的と言っていいでしょう」 伊吹の報告には曖昧な部分が一切ない。 数万人の従業員を抱える巨大企業の再建という途方もない重圧を背負いながら、彼はその状況を完璧にコントロールし、むしろ楽しんでいるようにすら見えた。 琴葉は温かいコーヒーを伊吹の前のテーブルに置き、自分も向かいのソファに座った。「見事な手腕ね。あの役員室であなたが提示したプランが、寸分の狂いもなく実行されている」「すべては琴葉さんが物理ロックを解除し、決定的なデータを手渡してくれたからです。僕1人の力ではありません」「私はただのバックアップよ。盤面をひっくり返したのは、間違いなくあなたの意志と決断力だわ」 琴葉の言葉に伊吹はコーヒーカップを手に取り、一口飲んだ。 彼の整った顔立ちが、わずかに和らぐ。「……今日は、その決断について、1つ報告しておきたいことがあって来ました」「報告?」「はい。あの猫のことです」 伊吹の口から思いがけない単語が出たことで、琴葉は少しだけ目を細めた。 かつてウィークリーマンションで暮らしていた頃、雨の日に伊吹が拾ってきた子猫。 世良の追手から逃れるためにマンションを引き払う際、伊吹が責任を持って引き取ると申し出たあの茶色と白の猫のことだ。 現在、その猫は工場のすぐ近くにある琴葉の実家に預けられている。 体調が順調に回復しつつある琴葉の父、土井社長がすっかりその猫を溺愛しており、今では彼の一番の話し相手になっていた。「うちの父なんて、すっかりあの子に夢中よ。ずいぶんと毛並みも良くなって、今じゃ家主みたいな顔をしてうちのソファを占領しているわ」「土井社長には感謝しています。僕のマンションは高層階すぎて、あの子に
週末の土井精機には、平日のような金属のぶつかり合う重低音も、油の混じった熱気も存在しない。 職人たちが休日に張っている工場内はひんやりと冷え切っており、大型の五軸加工機も主電源を落として眠りについていた。 琴葉は1人、明るい事務所のデスクに向かっている。 デュアルモニターとタブレットを交互に確認しながら次期プロジェクトの図面調整を行っていた。 画面上の複雑な三次元CADモデルを回転させ、寸法を1つひとつ確かめていく。 作業は順調だった。 工場の経営は問題なく、職人たちは活気と自信を取り戻している。 先だっては、黒田詩織が自分の足で歩き出す後ろ姿を見送った。 世良グループと黒田大臣のニュースは未だ世間を賑わせているが、琴葉は伊吹の手腕を信じている。 世良からの理不尽な専属契約から解放された今、彼女の思考を邪魔するノイズは何もない。 ――と。 窓の外から、砂利を踏みしめる重いタイヤの音が聞こえてきた。 琴葉がタブレットから顔を上げると、工場の入り口に黒塗りの高級車が滑り込んでくるのが見えた。洗練された流線型のボディが、初夏の陽光を反射して黒光りしている。 運転手が素早く車を降りて後部座席のドアを開けた。 そこから姿を現したのは、世良グループの新たな頂点に立つ男、世良伊吹だった。 琴葉は作業着の袖を軽く整えると、事務所のドアを開けて彼を迎えに出た。「休日の工場は、少し殺風景だったかしら」「いいえ。余計な音がなくて、とても考えごとに向いている場所だと思います」 伊吹は迷いのない足取りで琴葉の前に歩み寄った。 彼の立ち姿には、かつての危うさは少しも残っていない。 体に完璧にフィットしたダークネイビーのスーツは一流の仕立てであり、ネクタイの結び目から靴の先まで一切の隙がなかった。 しかし彼を本当に大きく見せているのは、着飾った衣服のせいではない。 愛人の子として世良本家に放り込まれ、誰にも歓迎されない血みどろの生存競争を生き抜いてきた末に、巨大
そしてある日の終業後。 夕暮れに染まる土井精機の事務所にて。 詩織は深く息を吸い込み、真っ直ぐに琴葉の目を見た。「私、大学を辞めて、いっそこの土井精機に就職したいです」 その言葉に、琴葉は少しだけ目を細めた。 衝動的な思いつきではない。 彼女なりに、ここ数週間で自分の手で価値を生み出すことの尊さを実感したのだろう。その真剣な思いは、十分に伝わってきた。 琴葉はデスクから立ち上がり、詩織の肩に軽く手を置いた。「嬉しい言葉だけど、却下よ」「どうしてですか。私、もっと色んなことを覚えたいです。足手まといにはなりません」「今の土井精機は人手が足りているし、あなたみたいな素人を一から育てている余裕はないの」 琴葉はあえて厳しい口調で告げた。詩織が少しだけ身を縮める。「それに、あなたはまだ大学生でしょう。ここしばらくでモノ作りの楽しさを知ったからって、安易に道を狭める必要はないわ」 琴葉は声のトーンを柔らかくして、詩織の目を見つめ返した。「あなたがこれまで歩かされていたレールは、もうなくなったの。これからは誰かに用意された道じゃなくて、自分で選んでいいのよ。大学に戻って、本当に自分がやりたいことを見つけなさい。ここで知った、自分の手で何かを成し遂げる感覚を忘れなければ、きっと大丈夫だから」 詩織の瞳から、大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。 絶望や悲しみの涙ではない。 ようやく自分の足で歩き始めようと決めた、1人の女性の希望と決意の涙だった。 彼女は作業着の袖で乱暴に涙を拭うと、深く頭を下げた。「……はい。私、ちゃんと自分で考えて、自分の足で歩いてみます」「ええ。応援してるわ」 着替えを終えて元の綺麗な服装に戻った詩織が、夕暮れの道を駅へ向かって歩いていく。 その背中はもう丸まっていなかった。 しっかりと前を向き、自分の意志で一歩ずつ地面を踏みしめている。 彼女は自分から温室を出て、広