LOGIN奈穂の視線は、【さっさと死ね】と書かれた六文字に止まった。眉間がわずかに寄る。そのアカウント名はあまりにも刺々しく、露骨な悪意に満ちていた。しかも投稿された内容は誘導性が強すぎる。どう見ても、ただのネット民が気まぐれで投稿したものではない。だがすぐに、その投稿は削除された。何度も更新して確認した。――本当に消えた。それだけではない。その投稿をきっかけに始まった全ての議論やコメントまでもが、跡形もなく消されていた。奈穂はゆっくり顔を上げ、向かい側に座る正修を見た。彼もまたスマホ画面を見下ろしていた。表情は冷静だが、その眼差しには冷たい光が宿っている。「……正修もあのトレンドと投稿、見たの?削除させたのは、あなた?」「うん」正修は淡々と頷いた。「さっき、コメント欄に君の名前が出始めていた」それが偶然なのか、それとも意図的な誘導なのか――今の段階では判断できない。だがひとつだけ確かだ。これ以上、拡散させるわけにはいかない。政野は既に名の知れた人物。このまま事態が広がれば、彼が兄の婚約相手を想っていることなど、いずれ世間に知られてしまう。そのとき、世論がどう転ぶかなど分かったものではない。正修自身は気にしていない。だが奈穂が誰かに傷つけられるようなことだけは、絶対に避けたい。奈穂は仕方なさそうに額を押さえ、ため息をついた。「気にしなくていい」正修は柔らかい声で言い添えた。「気にしないわ。ただ、誰があんな低レベルなことを思いついたのか……暇すぎるにもほどがある」誰が投稿したのか、まだ分からない。だが、彼らにとってIPアドレスを調べる程度は難しいことではない。奈穂が箸を持ち直そうとしたそのとき、携帯が突然鳴った。表示されたのは見覚えのない番号。だが、彼女には妙な予感があった。少し迷ってから、通話を取った。「……水戸さん。僕、政野です」電話越しの声はわずかな緊張が滲んでいる。まるで掛けるまでに、何度も迷ったかのように。「九条さん」奈穂の声は丁寧で冷たい。「その……さっきのトレンドと投稿を見ました。本当に……申し訳ありません。水戸さんに迷惑をかけてしまって」政野の声には深い罪悪感があった。もしあの時、軽率にあのプレリリース用ポスターを公開しなければ、今日の騒ぎは起きなかった。そし
政野は、その言葉に一瞬だけ表情を固くした。青年もすぐに気づき、ハッとして青ざめた。「す、すみません……九条先生。僕が出過ぎた真似を……」だが次の瞬間、政野はまた微笑んだ。「大丈夫。気にしなくていい。確かにそんな絵が一枚ある。ただ……何が描かれているのかは、申し訳ないが言えない」青年はうなずき、その目には渇望がいっそう濃く宿っていた。――九条先生が長年大切に秘蔵してきた絵画……本当に見てみたいな。ふたりが話しているちょうどその近くに、記者がひとり立っていた。記者はふたりの会話を余すことなく耳に入れた。そのため、その日の夜には、ある話題が早速トレンドに上がった。#画家九条政野が長年秘蔵してきた絵は、一体どんな作品なのか?この話題がトレンドに上がったころ、奈穂は正修と一緒に食事をしていた。店は彼女が選んだ寿司店で、どれも素材の味を生かした、さっぱりとした一品ばかりだ。実は彼女は以前、辛いものこそ命というほどの辛党だった。だが今では、胃を労わるために、辛いものはほとんど口にできなくなってしまった。卒業後、伊集院グループで過ごしたあの日々を思い返すと――本当に、何もかも割に合わなかった。……けれど。奈穂は、目の前で自分のために汁物をよそってくれている男性を見上げ、瞳の奥にかすかな笑みを浮かべた。たとえ過去がどれほど苦くても――もう終わったことだ。彼女はいつまでも過去の後悔や悲しみに沈み続けるつもりはない。胃のことも、すでに家に経験豊富な医者を呼んで調えてもらっており、すぐに良くなるはずだ。「どうした?」正修は椀を彼女の前に置き、視線に気づいて穏やかに尋ねた。「なんでもないわ」奈穂は首を振った。「ここのお店、味がいいね」そう言った直後、彼女は君江からのメッセージを受け取った。政野に関するトレンドのスクリーンショットだった。奈穂が見終えた瞬間、君江がさらに送ってきた。【以前から九条政野が何年も大事にしてる絵があるって聞いてたの。前は気にも留めなかったけど……その絵、まさか奈穂ちゃんを描いたもんじゃないでしょうね!?】奈穂は無表情で返した。【考えすぎだよ】【ただね、もし本当に奈穂ちゃんの場合、将来奈穂ちゃんと九条社長が結婚したあと、ある日いきなり九条政野がその絵なんか持ち出してきたら
「それ、九条の仕業だと確信していますか?」北斗が尋ねた。逸斗は冷笑した。「他以外にありえるか?」「だが、どうして急に秦さんの事業に手を出したのですか?」「ほかに理由なんてあるかよ。どうせ昔からうちの家同士の仲が悪いからだろうさ」逸斗は曖昧にそう答えた。自分が奈穂の前で余計なことを言ったせいで、正修に潰されたなどとは、口が裂けても言えなかった。そうでなければ、北斗に「自分が奈穂に気がある」と気付かれてしまう。北斗は深く追及しなかった。むしろ今の北斗は、逸斗に対する印象が少し変わりつつある。これまではただの遊び人だと思っていた。だがまさか裏ではちゃんと自分の事業を築いていたとは。正修の一撃で、その事業の半分以上が潰されたとはいえ。少なくとも北斗は、逸斗が「ただの金持ちボンボン」ではなく、一定の価値を持つ協力相手だと判断するに至った。「九条正修という男……やはり容赦ないですね」北斗は薄く笑った。「だが秦さん、これで俺たちの協力は、必要不可欠になったわけです」逸斗も軽く笑い、ふいに外のウェイターに声を掛けた。「酒を一本持ってきて」ウェイターは一瞬ぽかんとした。──この人、カフェに来て酒を頼むのか?そう心の中で呟いたが、ムーンリーブスカフェの三階個室に来られる客は皆、財力か権力かを持つ者ばかり。粗相だけはできないと、急いで準備をさせた。ほどなくして、ウェイターは一本の酒と数個のグラスを運んできた。しかも、よりによってワインである。それを見た瞬間、北斗の眉間はきつく寄った。だが、この場の空気を考えれば、逸斗の面子を潰すわけにもいかない。ウェイターが二人のグラスに酒を注ぎ終えると、北斗が先にグラスを持ち上げ、笑みを浮かべて言った。「──では。今回の協力が良い結果になりますように」逸斗は唇の端を上げ、どこか含みのある笑みを浮かべながら、自分のグラスを取り上げた。北斗のグラスに軽く当て、一気に飲み干した。……政野の個展は一週間続く予定だ。今日の展示会はまもなく終了予定で、客のほとんどはすでに帰っていた。残っているのは絵の前で静かに会話を交わす数名だけ。その声には、政野への称賛と尊敬が満ちている。「さすが天才画家だ」「本当に素晴らしい」ちょうどそのとき、休憩室から政野が姿を現した
仕方がない。この数年、どれほどの絶世の美女たちが彼に心を寄せたことか。だが正修は微動だにせず、誰一人として近づくことすら許さなかった。だから雲翔は、ぶっちゃけ疑っていたのだ。でもまさかある日、突然聞いた。正修が水戸家の令嬢と婚約すると。正修のことをよく知る雲翔にとって、正修が自分を政略結婚に巻き込むことなど絶対にありえない。どうやら、正修は本当に水戸家の令嬢に好意を抱いているらしい。そして今では、単なる「好意」どころではなく、明らかに情が深く根付いていると感じていた!「……何ずっと俺の顔見てんだ?」正修は書類に視線を落としたまま言った。「いや、ちょっと思い出しててさ。以前、誰かが内緒で賭けをしてたって聞いたんだ」雲翔は茶目っ気たっぷりに笑いながら言った。「お前が三十歳になる前に恋愛するかどうかって賭けてたらしいんだけど、結構大きな額でね」正修は鼻で笑った。「くだらない」雲翔は退屈するどころか、むしろ興味津々だ。「お前、今年まだ二十七だろ?三十まであと三年もあるのに、もう水戸さんに惚れたわけだな。三十を過ぎてやっと目覚めるって賭けに金を賭けた連中は、きっと全滅だろうな」明らかに、正修はそんな連中が全滅するかどうかなど気にしていない。ただ淡々と「プロポーズ指輪のことは外に漏らすな」とだけ言った。「分かってるよ。サプライズを考えてるんだな。安心しろ、絶対に外には言わない」雲翔は冗談めかした表情を収めつつ言った。「ただし前もって言っておくが、あのデザイナーは気難しいんだ。俺の従妹が彼女を説得できるかどうか、保証はできないぞ」「うん」正修は一言返した。スマホが二度震え、正修はちらりと確認して、奈穂からのメッセージだと分かるとすぐに取り上げ、開いた。彼女が送ったのは一枚の写真で、そこには厚い書類の束が写っていた。【こんなにたくさん処理したよ、すごいでしょ!】その後に誇らしげなスタンプが添えられていた。正修の周囲の空気は瞬間に少し柔らかくなった。正修は視線を下げて文字を打った。骨ばった指先が画面を軽快に叩いた。【奈穂、すごいな。しばらく休んで。夜に迎えに行って一緒に食事しよう】送信後もすぐにはスマホを置かず、彼女が送ってきたその泣きそうなスタンプを見つめ、口元にわずかに笑みを浮かべた。横で雲翔はその様子を
一方その頃、九条グループ。正修のオフィス。雲翔は、正修が携帯を耳に当て、報告を最後まで聞いてから電話を切るのを見届けて、興味深そうに笑った。「秦逸斗はいったい何をしたら、お前にここまで恨まれるんだ?」九条家と秦家が仲が悪いことは知っている。だが逸斗程度の存在、正修が本気で相手にするほどの価値があるとは思えない。「口が悪い」正修は淡々と答えた。雲翔は眉を上げた。明らかに信じていない。逸斗の口の悪さなんて今に始まったことじゃない。もしそれで怒るなら、とっくに手を出しているはずだ。「俺の推測だけど……やつは水戸さんの前でその口が滑ったんじゃないか?」正修は答えない。ただ書類をめくった。否定しない――つまり図星だ。「やれやれ……本気で恋に落ちたってわけか」雲翔は感慨深げに息を吐いた。「俺たち、もう何年の付き合いだ?お前がここまで誰かに入れ込むのを見るのは初めてだよ。まあそうだよな、好きでもなきゃ水戸家と政略結婚なんかしない。……で、いつから好きになったんだ?」正修が書類をめくる手を止めた。再び顔を上げたとき、眼差しは冷たく澄んでいる。「今日、俺のところに来たのは、そんな話をするためか?」「いやいや、もちろん違うよ」雲翔は軽く笑った。「頼みたいことがあってね。お前も知ってる通り、最近ずっと欲しかったあの土地……」「分かった」正修は簡潔に言った。「即答!さすが!」雲翔は肩を叩いた。「正修、お前には今まで散々助けられてきた。何か必要なことがあれば言え。俺はいつでも力を貸す」「ある。今がその時だ」「何だ、言ってみろ」「前に言っていたよな。Orienteのあの『謎のデザイナー』と知り合いだって」「ああ、そのこと?俺が知り合いなわけじゃない。遠い従妹がそのデザイナーと繋がりがあるだけだ。……まさか、お前ジュエリーでも買う気か?」Oriente――世界的に有名なジュエリーブランド。そのブランドの中でも、特に影の存在である謎のデザイナーは伝説的だ。彼女が作るジュエリーは、世界中の富豪が競い合って手に入れようとする。しかしここ数年、彼女の作品は減っており、オーダーしたくてもOriente側に連絡すると、最近は時間が取れないため、たとえ大金を積んでも受け付けないと言われることが多かった。「彼女にプロポーズ指
北斗が自分の正面に座ったのを見ると、逸斗は放肆に笑った。「伊集院社長、今はちゃんと話す気になった?」「秦さんは本当に俺と協力するつもりですか?」入口でバリスタがノックし、二人にコーヒーを淹れようと入ってこようとしたが、逸斗が手を振って追い返した。北斗は気にした様子もない。――どうせ今日はコーヒーを飲みに来たわけではない。「伊集院社長が秦家を訪ねてきたということは、すでに知っているんだろう?秦家と伊集院家は昔から不仲だ」逸斗は冷笑した。「なのに今、伊集院社長が我が秦家と組もうと言うのなら、断る理由はないだろう?それに……」「何ですか?」北斗が問うた。しかし逸斗は続きを言わず、妙にねじれた笑みを浮かべた。「大したことじゃない」北斗の胸に嫌な重みが沈んだ。ずっと逸斗の様子に違和感を覚えていたが、今目の前にある状況では、他に良い選択肢もなさそうだ。協力の細かい話を進めようとした矢先、逸斗が突然、話題を変えた。「伊集院社長は、今になって後悔してる?」何についての後悔か、口に出さずとも北斗は分かっている。胸の奥が苛立ちでざわついた。「それは関係ないことですよね」「ただ興味があって聞いただけだ」逸斗は肩をすくめた。「別の女のために、水戸家の令嬢を捨てるなんて……」「俺は彼女を捨てていません」北斗は遮った。「奈穂と別れるなんて、一度も考えたことはありません」「じゃあ、捨てられたのは伊集院社長の方だな」逸斗は高らかに笑った。北斗の顔はほとんど真っ赤になりかけた。「奈穂はただ一時の迷いです。それに……俺は本気で彼女を愛しています。彼女が水戸家の令嬢じゃなくても、俺は……」「はいはい、伊集院社長」逸斗は興味すら示さないまま切り捨てた。「そんな『深い愛情』なんて聞きたくないし、しかも嘘くさい」逸斗の容赦ない物言いに、北斗は内心煮えくり返った。しかし理性が、今席を立つなと強く告げている。「聞いたぞ。伊集院社長のそばにいるあの女、妊娠したんだって?」逸斗は続けた。「伊集院社長はさぞかし喜んでるんじゃないか?」「それは私的なことです。話題にするのはやめていただけますか?」北斗は冷たく言った。「おやおや、そんな話してはいけないことがあるか?父になる者だから、嬉しいに決まって……」逸斗の言葉が終わる前に、携帯の着信音







