INICIAR SESIÓN爆風が耐力柱を直撃した。コンクリートの破片が次々と剥がれ落ち、肩や背中に叩きつけられる。鋭い痛みが一気に走った。奈穂は柱の陰に押し込まれて、背中は冷たいコンクリートに密着している。この柱だけが、周囲でまだ崩れていない唯一の支柱だった。正修は彼女の肩を掴んでいた。力を入れすぎた指の関節は、白く浮き上がっている。「ここで待っていろ」彼の声は濃煙に焼かれたように乾き、歪んでいた。そこには一切の感情の揺れがなかった。奈穂は余計な動きをしなかった。手には予備のスマートフォンを握りしめている。画面には無数のひびが走っていた。写真の中の金庫は、中央に大きく映し出されている。「万年筆は偽物だった」彼女は口を開いた。声は掠れている。「でも、金庫は本物。あいつを捕まえて」正修は返事をしなかった。傷だらけの指先で彼女の頬を強くなぞり、灰と血が混じった汚れを拭い取る。彼は立ち上がると、そのまま濃煙の中に飛び込んでいった。向かう先は二階。軍靴が錆びた鉄格子の床を踏み鳴らす。足音は重く、そして切迫していた。奈穂はその場に残された。周囲に響くのは、炎に炙られたプラスチックが爆ぜる音だけだった。彼女は視線を落とし、右足を確認した。以前の古傷と先ほどの衝撃が重なり、ふくらはぎはすでに完全に感覚を失っていた。血が長ズボンの生地を染め、湿った冷たさが肌に張り付いている。骨の奥を焼くような痛みが、絶え間なく神経を刺激していた。力を込めようとする。だが、無理だった。今の彼女には、立ち上がることすらできない。交差する耐力梁の向こうにある二階へ視線を向けた。濃煙が視界を覆い、鋼鉄の隙間から見えるのは、揺らめく炎だけだった。頭上から、はっきりと金属が擦れる音が響く。二階は宙に浮いた通路になっており、配管は極めて複雑に入り組んでいる。「遅かったな」正景の声が、広い工場内に幾重にも反響した。「十五年前のあの海難事故。もしあなたがもう少し速く泳げていたら、あなたの母親は死なずに済んだ。お母さんが息を引き取った時、肺の中には機械油と海水がいっぱい詰まっていたんだよ」奈穂は拳を握りしめた。爪が手のひらに深く食い込む。上から正修の返答はない。聞こえるのは、鈍い肉体同士がぶつか
それは十二歳の時のことだった。だが、正景が言っていたいわゆる「真実の動画」は、タイムスタンプを見る限り、明らかに十五年前のものだった。十五年前の健司が、六年後になって初めて発売された世界限定版の万年筆を持っているはずがない。その瞬間、奈穂は固く目を閉じ、喉の奥からほとんど滑稽なほどの自嘲の声を漏らした。――偽物だ。すべて、偽物だった。これは正景がDeepfake技術を利用し、この瓦礫の中で自分のために入念に作り上げた、最後の嘘だった。彼はあまりにも自分の弱点を理解していた。自分が「真実」に対して、ほとんど病的なまでの執着を抱いていることを知っていた。だからこそ、わざとこの毒餌を仕掛けたのだ。最後の逃げ場のない状況で自分が崩れ、諦める姿を見るために。父親への憎しみを抱えたまま、焼け焦げた死体になることを望んでいた。もし自分が本当に信じていたら。もしあの十秒間の中で、一瞬でも絶望し、心が揺らいでいたら――自分は今、もう生きてはいなかっただろう。「九条正景……」奈穂は一文字ずつ噛みしめるように名前を呼んだ。口の中には血の生臭い味が広がっている。精神の最も深い場所を踏みにじられるようなこの屈辱感は、手の傷など比べものにならないほど、彼女の胸に殺意を燃え上がらせた。……「ガンッ!」頭上の瓦礫が、破砕用の斧によって激しく叩き割られた。奈穂は力を振り絞って顔を上げた。そこにいたのは、全身を硝煙にまみれ、目を真っ赤にした男だった。正修。普段ならシャツの皺ひとつさえも厳しく整えるような男が、今は黒いシャツを無残に破かれ、両手は熱せられたH形鋼を運び続けたせいで、すでに血まみれになっていた。彼女と視線が重なった瞬間、彼の瞳に宿っていた破滅的な怒気がようやくわずかに消えた。彼はほとんど転げ落ちるように三角形の空間に飛び込み、彼女を強く抱きしめた。その力は、まるで彼女の肋骨をへし折ってしまいそうなほどだった。「奈穂、君……本当にここで死ぬつもりだったのか?」彼の声は掠れきっていた。九死に一生を得た後の崩壊寸前の震えが、その声には混じっていた。奈穂は彼の温かな胸に寄りかかり、濃厚な硝煙と血の匂いを感じながらも、彼を押し退けなかった。冷え切った手を伸ばし、ゆっくりと彼の服
熱風が押し寄せてきた、その瞬間。奈穂の世界から、音という音が一斉に奪われた。鼓膜の奥では、ただ甲高い耳鳴りだけが鳴り響いている。まるで赤く焼けた無数の針が、容赦なく突き刺さり、かき回しているかのようだった。暴力的な爆風が真正面から彼女を吹き飛ばす。体は宙に浮き、そのまま廃棄された反応槽の鋳鉄製の外壁に激突した。鈍い衝撃音が響く。痛い。あまりにも痛く、痛覚そのものが失われそうになるほどだった。骨の内側から体を無理やり砕かれていくような感覚。悲鳴を上げる自分の脊椎の音さえ聞こえてくる気がした。彼女は冷たい金属壁を滑り落ち、反応槽の陰に崩れ込む。口を大きく開け、必死に息を吸い込もうとする。だが肺に流れ込んでくるのは、焦げたプラスチックの臭いと、鼻を刺す粉塵だけだった。激しくむせ返り、涙が一気に溢れ出す。――やはり。正景は最初から、自分を生かして帰すつもりなどなかった。命を奪うだけでは足りない。死ぬその瞬間まで、父に対して抱いてきた最後の信頼さえ、自分の目の前で徹底的に引き裂こうとしている。意識がゆっくりと霞んでいく。瞼は千斤もの鉄を乗せられたように重い。そのまま闇に沈みかけた、その刹那――右手の親指と人差し指の間に、骨を削るような激痛が突き抜けた。それはあの時鎮静剤に抵抗するため、自ら肉に埋め込んだアルミ片だった。先ほどの衝撃で、鋭く尖った破片がさらに深く食い込み、あと少しで骨に届くほどになっていた。その拷問にも等しい痛みが、氷片を浮かべた冷水を頭から浴びせられたように、脳にまとわりついていた眠気を一瞬で吹き飛ばす。「っ……!」奈穂は鋭く息を呑み、震える手でポケットから予備の携帯電話を取り出した。頭上ではプレキャストコンクリート板が不気味な軋みを上げている。いつ崩落してもおかしくない。それでも反応槽の陰にできた三角形の空間だけが、彼女を守る唯一の避難場所だった。携帯電話の弱々しい光が、冷え切った彼女の瞳を照らし出す。この命懸けの盤面で、唯一確かな現実は――骨まで貫く、この痛みだけだった。……「奈穂!奈穂!返事をしろ!」正修だった。暴力にも似た焦燥と、絶望が入り混じった叫び。その声は崩壊した工場跡に何度も反響する。近づいてくる足
ボイスチェンジャー越しの声も、銃声もない。あるのは、耳が痛くなるほどの静寂だけ。奈穂が一歩踏み出した、その瞬間――カチリ。闇の奥から、古びた機械に電源が入る小さな音が響いた。続いて、ジジッという電流音が四方八方から押し寄せる。人の声ではない。流れ始めたのは、一曲の音楽だった。蓄音機特有のざらつきを帯びた旋律。ゆるやかで、物憂げで、古きランシア国の哀愁をまとったメロディー。奈穂の顔から、一瞬で血の気が引く。――この曲は、母が何よりも愛していた曲だった。幼い頃。書斎に夕陽が斜めに差し込み、母はロッキングチェアに腰掛けながら、静かにこの歌を口ずさんでいた。それは自分の悪夢のような幼少期にあって、ただ一つだけ残された光だった。バチッ――工場中央に放置されていた大型モニターが、突然まばゆい白光を放った。奈穂は反射的に手をかざす。その動きで親指と人差し指の間の傷が引きつり、激痛が膝を揺らした。やがて目が光に慣れる。画面が鮮明になる。そこに映っていたのは、一人の男だった。グレーのスーツをまとい、金縁眼鏡をかけた、穏やかな面立ちの男。その手には一本の万年筆が握られている。――健司。十五年前の健司。幼い奈穂の頭を優しく撫で、「奈穂、いい子でいるんだよ」と微笑んでいた父だった。映像の中の健司は落ち着きを失っていた。何度も窓の外を見やり、額には汗が滲んでいる。「清乃」穏やかな声だった。だが、その響きは今の奈穂の胃を激しく掻き回した。「君が切り札を残していることは知っている。だが、もう九条家は抑えきれない。九条家の長男のあの子……九条正景が、見てはいけないものを見てしまった」健司は万年筆をデスクに置く。両手をデスクにつき、その眼差しは一変して鋭く冷え切った。「飛行機が事故を起こさなければ――水戸家と九条家の帳尻は、永遠に合わない。清乃、恨まないでくれ。俺は奈穂を生かさなければならない。水戸家を京市で生き残らせなければならないんだ」彼は目を閉じ、カメラの外にいる誰かに低く囁いた。「始めてくれ。信託の暗号化データを九条正景のシステムに送り込め。彼を追放者にしろ。罪を背負う人間に」奈穂は画面を見つめたまま動けなかった。胸を巨大な万力で締め
正修の指が、奈穂の肩に深く食い込む。まるで彼女を、自分の骨の中に縫い込もうとするかのように。赤いレーザーは消えた。だが、誰かに見つめられている感覚だけは消えない。それは換気口から漂う腐肉の臭いに溶け込み、背骨にまとわりつき、ゆっくりと首筋に這い上がってきていた。午後二時四十分。南郊の化学工場は、沈みゆく夕陽によって輪郭を引き伸ばされ、引き裂かれるような影をひび割れた地面に落としていた。まるで膿んで裂けた古傷のようだった。十年前の化学物質漏洩事故以来、この場所は立入禁止区域となっている。錆びついた配管が荒れ地の上に無秩序に横たわり、巨大な獣の干からびた骨格を思わせる。夕陽が巨大な反応槽を赤く照らし、錆は黒ずんだ赤に染まる。半月もこびりついた血痂のように。ここは廃墟ではない。鋼鉄で築かれた、一つの巨大な墓だった。車輪が白く塩を吹いた乾いた土を踏み締める。ざり、ざり、と響く音は荒野の彼方まで広がり、不吉な囁きのように耳に残った。奈穂は車のドアを押し開ける。右足が地面に着いた瞬間、太腿の筋肉が激しく痙攣した。鋭い激痛が一気に脳天まで突き抜ける。彼女は半歩よろめき、とっさに右手でドアに体を預けた。親指と人差し指の間の傷が再び裂ける。巻き替えたばかりの白い包帯は、瞬く間に鮮血で染まった。痛みは鮮烈だった。無数の細い針が神経を這い上がるように突き刺さり、彼女の意識を強制的に覚醒させる。冷たく、鋼のように研ぎ澄まされた覚醒を。「ここで待っていて」彼女は振り返り、運転席を見た。正修の顔半分は影の中に沈んでいる。いつもは冷静なその瞳には、今にも制御を失いそうな焦燥が渦巻いていた。彼は信号妨害装置を強く握り締めている。手の甲には青筋が浮き上がり、指先は血の気を失うほど白かった。「位置情報は三重だ、奈穂」彼は声を極限まで潜めた。「腕時計が一つ。ネックレスが一つ。足首にも一つ。電子信号が遮断されても、ネックレスに内蔵した機械式振動装置が三十秒ごとに物理パルスを発信する。……君が動いている限り、必ず見つけ出す」奈穂は静かにうなずく。精密機器には触れず、左手に握った折り畳みナイフだけを、さらに強く握り締めた。正修を同行させなかった。それが「影」の条件
ドアが閉まる。――ブゥン。ベッドサイドテーブルの上に置かれたスマートフォンの画面が、不意に点灯した。新着メッセージが一件。ロックはかかっていない。奈穂はほとんど反射的に左手を伸ばし、画面をスワイプした。差出人は海外の非通知番号。受信時刻は二十分前。【彼女は夕陽を見ている。あなたは海底を見ている。正修、彼女は今、あなたを想っていると思うか?それとも、あの地下室の黄昏を想っていると思うか?】奈穂はそのメッセージをじっと見つめた。指先が無意識に画面をなぞり、保護フィルムの上に白い筋を残す。その瞬間、右手の親指と人差し指の間が大きく脈打った。傷口が再び裂けるような激痛。鼓動のたびに神経が引きつれる。そして彼女は、ようやく理解した。正修が廊下に出ていた六分間。あれは作戦の指示を出していた時間ではない。罪悪感を飲み込もうとしていた時間だったのだ。正景は、それを狙っている。公海での救助活動で味わわせた絶望。地下室で周到に演出した、偽りの「優しさ」。そのすべてを利用し、正修という支配者の鎧を一枚ずつ剥ぎ取り、彼の最も脆い部分をむき出しにしようとしている。奈穂は静かに画面を消し、ゆっくりとベッドに横たわった。暗闇の中で、その瞳だけが鋭く光る。――罪悪感など、最も贅沢で役に立たない感情だ。もし正修がその感情に囚われ、午後三時の作戦で一秒でも判断を誤れば――自分たちは本当に死ぬ。だから、奈穂はそのことを口にしない。正修には、その罪悪感を燃料として戦ってもらわなければならない。そして自分は――もっと穢れた、もっと闇に染まった刃を手にして、あの「影」の心臓を抉り取らなければならない。彼女は寝返りを打ち、掛け布団の下から君江が去り際に忍ばせていった予備の携帯電話を取り出した。登録されている番号は一つだけ――京市拘置所にいる北斗の番号だ。電話がつながる。受話器の向こうから聞こえるのは、低く唸るような電磁ノイズだった。「奈穂……君なら、必ず電話をかけてくると思ってた」鉄格子越しに届く北斗の声は、錆びついた蝶番のようにしゃがれている。低く笑うと同時に、鎖を引きずる音が耳に届いた。「九条正景って狂人に、とうとう追い詰められたか?」「その負け犬みたいな口ぶり







