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第7話

Author: 小粒キャンディ
「何がそんなに不安なんだ?」

慶は振り向き、綾芽を心配して懐に抱きしめた。それはまるで春の日差しのように柔らかい声だった。

「黒崎家が私たちを引き裂くのが怖いのよ。私と颯太が一生黒崎家から認められなかったらどうしよう。年も取りたくないし、あなたが……心変わりしたらどうしようって」

綾芽は俯き、話しながらだんだん嗚咽交じりの声に変わっていった。

「そんなことにはならないよ」

慶は綾芽の顔を上に向けさせ、指で優しく彼女の瞳に溜まった涙を拭ってやった。

「言っただろう。俺が君を守るって。誰も俺たちの仲を引き裂くことなんてできないよ。

俺も絶対に心変わりしたりしない」

「慶……」

それを聞いて綾芽はとても感動したらしく、サッと目を閉じて彼と唇を合わせた。

会社はもうすぐ上場する重要な時期で忙しく、一花の能力を必要としている時であるが、慶はやはり綾芽を満足させるために、彼女を連れて家に帰った。

しかし、綾芽はなんだか慶はこの2年でかなり変わったと思っていた。

彼は昔ほど自分に対して情熱的ではなくなった。それに彼と一緒にいる時に、一花のことを気にする回数がどんどん増えている。

女性は敏感で不安を感じやすい生き物だ。慶がこれほど自分だけを愛しているのだと確信しても、やはり不安が生じるのだった。

慶は綾芽にキスをされて身体が熱くなり、大きな手をゆっくりと彼女の首の後ろに這わせて、寝室に戻り、気分が盛り上がっていった。

ただ一瞬、慶の脳裏には一花の姿がよぎった。

そして、ここぞという大事な時に、彼は突然その動きを止めた。

「どうしたの……」

綾芽は驚き、急いで慶の腕を引っ張った。

しかし、慶はその手を振りほどき、直接浴室まで行くと、自分の気持ちを鎮めようと冷水で頭を冷やした。

この時の慶は頭の中が混乱していた。一花のことを思い出しただけで、一気に萎えてしまったのだ。

しかし、そんなことを綾芽に知られるわけにはいかない。

「なんか悪いものでも口にしたのか、突然お腹の具合が悪くなっちゃって」

浴室から出てくると、慶は再び綾芽を抱きしめてキスをし、ひたすら謝っていた。

綾芽はかなり不機嫌になっていたが、ここ二日慶はよく尽くし従順な姿を見せていたので、やはり余計な事は言わないでおくことにした。

翌日の朝早く、慶はすぐに会社へ向かった。

その途中、やっとのことで契約にこぎつけたというのに、いくつかの提携先が次々と提携を取り消すと電話をかけてきた。

「一体どういうことなんだ?」

慶は怒り狂い、会議室の中で暫くの間、誰も声をあげることができずにいた。

「社長、あの……振込が遅れたせいで……」

「振込が遅れた?なぜだ」

「社長が昨日不在で、サインをする人がいなくて……」

慶はそれを聞いてハッとした。彼はこの時ようやく昨日は綾芽と外出していて、その内容の電話を受け取ったことを思い出した。

しかし、このような簡単なことは、一花に任せろと言ったはずだ。

「昨日、水瀬は不在だったのか?どうして彼女に頼ま……」

しかし、慶はそう口にした瞬間、立場上、一花には彼の代わりにサインをする権限などないことを思い出し、言葉を呑み込むしかなかった。

「クズが!出て行け!」

そこにいる全ての社員を罵ると、慶は一花を呼び、来させた。

この時、一花もちょうど会社に到着したばかりで、遠くから契約が白紙になり、慶がまさに雷を落としている声を聞いていた。

同僚たちは顔をこわばらせ、一花の元へとやって来た。「水瀬さん、社長がお怒りなんだ、契約がダメになってしまったから。早く様子を見て来て」

すると一花は淡々と返事をした。「分かった」

彼女はすぐにオフィスのドアを押し開けた。

この時慶はまだ怒り心頭だったが、一花を一目見ると怒りを抑えた。「来たんだね」

一花はデスクの前まで歩いていった。「昨日、あなたの秘書がサインを求めてきた時、ちょうど重要顧客との面会があって、急いでいたのよ」

彼女はここぞとばかりに、どうしようもないといった口調で続けた。「あなたも知っての通り、私には何も権限がないもの。代わりにサインするなんて、そもそもグレーゾーンなんだし、もし何かあったら私にはその責任が取れないだけでなく、あなたまで巻き込んじゃうかもしれないでしょ」

そこまで言うと、彼女は軽くため息をついた。「まさかあの提携先の数社がここまで目先の利益を得ようと焦るだなんてね。たった一日遅れたくらいで、本当にせっかちなんだから」

一花が話す時、わざとらしく思い悩む様子は出してはいなかったが、それでも「権限がない」というところははっきりと強調していた。彼女の努力が足りなかったせいではなく、彼が彼女に社長代理が務まる地位を与えていなかったことと、提携先があまりに薄情だと主張したのだ。

彼はいたって冷静な一花を見て、心の中にあった「一花がわざとやったのかもしれない」という猜疑心を振り払った。

一花はずっと会社のために行動してきた。昨日はまたわざわざ遠くまで顧客に会いに行っていたのだから、わざとこのようなことをするはずがない。やはり、彼女に権限を与えていなかったことが最大の落ち度だったのだ。

そして彼のほうはというと、会社を上場させるという大切な時期に、綾芽に付き合っていたのだ。

慶は考えれば考えるほど、一花に対して申し訳ない気持ちで満たされていった。

「慶、ここ最近はとっても重要な時期よ。いっそ、私に会社の一部の権限を私に任せるってのはどう?もし、何か特殊な状況になったら、すぐに解決できるでしょ」

頃合いを見て、一花はその流れに乗って提案した。

慶は少し驚き、訝しそうにしていた。

一花から権限がほしいと言われるとは思ってもいなかった。一花は今まで彼を信頼し、会社のデータが必要な時には、彼の付き添いの下で確認していたからだ。

「どうしたの、難しい?もしあなたが安心できないのであれば……」

「そんなことないよ。君に権限を渡しても不安なんてないさ」

慶は一花に自分の考えを読まれるのではないかと思い、すぐに要求を呑むことにした。

「だけど、全ての権限が使えるようにするには、株主の同意が必要だ。だから、部分的なものだけにしておくよ」

「分かったわ」

一花はニコリと微笑んだ。彼女も慶があっさりとそれに同意することはないと分かっていた。

しかし、一部の権限が得られただけでも、重要なデータをコピーするには十分だ。

慶の会社を崩壊させるにしても、焦ってはいけない。

権限を得ると、一花は早速ここ2年間の会社の重要データをコピーした。

このデータを手中に収めれば、今後慶が競争入札するにしても上場するにしても、彼女の思いのままだ。

昼、一花に突然慶の母親である黒崎京子(くろさき きょうこ)から電話がかかってきた。

「柚ちゃんがあなたの作った料理を食べたがっているわよ。慶にはもう伝えてあるから、さっさと来なさい!」

そう言い終わると、京子はすぐに電話を切ってしまった。これは彼女に頼むのではなく、命令だ。

一花はこんなことを言われるのにはすでに慣れていた。慶と結婚してからというもの、京子は一度も一花に良い顔をしたことはない。

まるで一花が黒崎家に大きな借りがあるかのように、黒崎家の全員が偉そうに彼女をこき使ってきたのだ。

黒崎家では使用人を雇っているというのに、一花は毎週必ず帰って義父母に食事の用意をし、家事をしなければならなかった。

慶の妹の柚葉(ゆずは)は妊娠していた時から、他の人間が作った食事は食べられないと言っていた。彼女は一花の料理が好きで、毎日彼女の料理を届けさせていた。

慶を困らせないために、一花はこれに2年もの間耐え続けていた。

一花は冷ややかに携帯画面を見つめ、横に置くと、ゆっくりとパソコンを起動し、最近のプロジェクトや企画に一度目を通した。

赤くチェックしているプロジェクトは、近い将来で最も重要なものだ。しかもそれは彼女が一人で立ち上げ今まで努力してきたものだった。取引相手の責任者も彼女だからこそ、このプロジェクトを受けてくれたのだ。

一花は少しの間考えてから、慶のいるオフィスの扉を叩いた。

しかし、彼の秘書から慶はさっき出かけていったと告げられた。何か急ぎの電話を受けたらしく、後で行われる予定だった会議も延期されたらしい。

一花は直接慶に電話をかけてみたが、電話に出たのは綾芽だった。

「水瀬さん?慶君に用かしら?」

「柏木先生?彼と一緒にいるんですか?」

「あ、勘違いしないでちょうだいね。私たち今病院にいるのよ。颯太君が転んじゃって足を怪我したの。だけど、心配しないでね、ちょっと擦りむいただけだから、ひどい怪我じゃないのよ。慶君は今颯太君に付き添って薬を処方してもらっているところなの。後で慶君に電話をさせましょうか……」

「いいえ、颯太のほうが大事ですから、よろしくお願いします」

一花は言い終わると、綾芽の返事を待たずに電話を切ってしまった。

この時、綾芽は口を開けて、不機嫌そうに顔を歪めていた。

水瀬一花、礼儀というものを知らないのか。

綾芽が視線を上に向けると、慶が颯太を連れて戻ってきたところだった。

「水瀬さんからあなたに電話があったわよ。私が代わりに出たんだけど、折り返しかける?」

綾芽は携帯を慶に差し出した。

慶は一瞬驚き、その携帯を受け取ろうとしたら、颯太の手が伸びてきて奪っていった。

「パパ!僕足が痛い!」

それがわざとだと分かり、慶がきつく颯太の顔をつねると、また携帯を綾芽のほうへ返した。

慶が綾芽から電話がかかってきた時、何か大ごとかと思っていた。綾芽が焦った声で息子が二階から落ちてしまったと言ったのだ。同時に電話の向こうからは颯太の泣き叫ぶ声が聞こえてくるものだから、慶は急いで駆けつけて来た。

しかし、病院まで来てみると、颯太はただ膝を少し擦りむいただけで、病院に来る前に血は止まり固まり始めていたのだ。

「一花からって、会社関係の事か?」

「別に急を要することじゃないから、こちらのことに集中してって言ってたわ。もしかしたら、彼女あなたが恋しくなったのかもね」

慶の顔は見ず、淡々とした声でそう言った。少し嫉妬している様子だった。

慶は仕方なく綾芽の手を握った。二度彼女にその手を振り払われてしまったが、彼は指をしっかりと絡め合わせ握った。

「綾芽」

慶は綾芽の耳元で低く囁き、次の瞬間彼女の唇をキスで塞いだ。

「あなたには他に奥さんがいるでしょ」

「そんな傷つくことを言わないでくれよ。俺の妻は君一人だけなんだから」

二人はこそこそと話しながら、そのまま踊り場へ入っていった。

颯太は両親が二人一緒にいる姿を見て、嬉しそうにニヤリと笑っていた。

母親がいれば、あの水瀬一花という悪い女は、いつか必ず家から追い出されるはずだ。

「ほら、今はそんな腹を立てている場合じゃないよ。一花に電話をかけ直さないと、何か疑われてしまったらマズいだろ」

「あの女があなたを疑うなんてまず有り得ないわ。あの子すっごく馬鹿みたいだもの。あなたに完全に虜になってるじゃないの、あなた考えすぎだわ」

「綾芽……」

「別にどうでもいいけど。もしあなたが彼女に電話をかけ直すってことは、心変わりしたってことだわ」

今までであれば、綾芽のご機嫌を取ってあげれば、すぐ良くなっていたのだが、今回は慶が暫く彼女をなだめ続けても、綾芽は全く聞き入れようとしなかった。

慶も、綾芽を傷つけるようなことはしたくなかったので、彼女に従うしかなかった。

しかし、綾芽の言う事も間違っていない。一花はかなり慶にぞっこんで、彼のためであれば何でもやっていた。それに彼の話であれば、一切疑うことを知らない。

一花の扱いに関しては、慶はかなり自信を持っていた。

そして30分後、一花のほうは慶の母親である京子からまた電話を受けていた。

「一花?何をグズグズしているわけ?会社から柚ちゃんの家までは遠くないでしょ。あんた亀みたいにのろまね」

京子はこの時語気をさらに強めていたが、さっきのように用件だけさっさと済ませてすぐ電話を切るようなことはなかった。

一花は口角を上げ、冷ややかに言い放った。「お義母さん、今会議中なんです。会社はもうすぐ上場するから、少しのミスでも大きな損失を与える可能性が高いんです。こんな時期に、私が会社を離れるわけにはいかないでしょう」

その言葉を聞いて、電話の向こうは少しの間沈黙していた。

京子は自分の耳を疑っていた。今まで一向に自分の言うことをおとなしく聞いていた一花が、今反抗的な態度を取っているのだ。

「一花、あんた何か変なものでも食べたんじゃないの?私の言うことを聞けないっていうわけ?黒崎家にある規則を忘れてしまったのかしら?第一条、年長者のことを尊重……」

「さっき言いましたよね。私は会社から離れられないって。慶に関することは何よりも大事なんです。それはお義母さんが普段から口を酸っぱくして私に言っていたことですよ」

一花は軽く京子の言葉を遮ってしまった。そしてすぐまた口を開いてこう言った。「でも、柚葉ちゃんは産後だからしっかり栄養を取ったほうがいいでしょう。

彼女は何を食べたいと言っているんですか?慶の秘書に頼んでガストリスタの料理をそちらに配達してもらいます。それか、シェフを家まで呼んでもいいですよ。どのみちお金を出せば済む問題ですから。その請求は会社に付けておけばいいですんで」
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