周りの人々は和彦を見て責め始めた。彼の顔は非常に醜かった。車に乗るしかなかった。景之は今、教室の隠れ場所に隠れていて、和彦の様子を見張っていた。男が離れなかったので、景之は心配し始めた。和彦はせこい男だった。幼稚園まで来たなんて。和彦が彼を息子だと思ったが、景之は復讐で来たと思った。どうすればいいか分からなくなった。どうせ、今日避けても、また明日があるのだった。考えた時に、スマートウォッチが鳴いた。唯おばさんからの電話だった。景之はすぐに電話に出た。「唯おばさん」「クソガキ、どこにいるの?私は学校の入り口だ。どうして見えないの?」唯は幼稚園の入り口に立ち、周りを探していた。彼女が来てから、元々彼を探していた凶悪な顔をしていたボディーガード達は離れた。彼はすぐ走って出てきた。「ここです」彼を見て唯は少しおかしいと思った。「なぜ入り口で待ってくれなかった?」「唯おばさん、前の叔父さんがまた来ました…」景之は哀れそうに彼女を見つめ、そして、近くの高級車に目を向いた。 高級車の中、和彦は眉をひそめ、すぐに運転手に言った。「車出せ」学校の前で、子供がたくさんいるので、運転手はスピードを出せなくて、ゆっくり車を稼働した。その時、童顔でピュアな女性がハイヒールで地面を叩きながら苛立った顔で向かってきた。唯の手は車の窓に叩き、車の中にいる和彦を睨んだ。「和彦、何するつもり?」彼女の苛立った顔を見て、和彦はしばらく言葉を失った。 「大人なのに、子供を相手にするとはどういうことか?」「今後、息子の迷惑をしたら訴えて牢屋に入れてやる」言い終わって、和彦の回答を待たずに向きを変えて、景之の手を取って車に向かった。景之が和彦の車を振り向いて、口元に微笑みを浮かべて、和彦の弱みを見つけたような気がした。高級車内、気温が下がったようだった。 迷惑?牢屋?息子を見て迷惑か?牢屋に入れるのか?和彦のハンサムな顔が青白くなった。「早く車出せ!」彼の声は低くて力が込められていた。運転手は急いで車を稼働して前へ進めた。 景之が唯に連れられて車に向かった途中、近くの道端に二人の女性が立っていた。一人は綾子で、もう一人は秘書だった。景之に会って以来、時間があるときに、彼女は明一を迎えるの
綾子は二人の後姿を見てがっかりした。この時、傍の秘書がショートメールをもらった。内容は綾子に指示された啓司への調査報告だった。「牧野の周りの人からの話で、黒木社長が最近桃洲市で子供を養って、既に半月になりました」秘書が報告していた。…景之が戻ってから、今後、どこへ行っても気を付けると反省した。逸之が既に黒木啓司に見つかった。彼は見つからないようにしなくてはならなかった。自分の部屋でパソコンを開いて、暫くキーボードを叩くと、逸之の通信端末と連絡を取れた。昨日、泉の園のファイアウォールを破り、逸之とコンタクト取れた。啓司にスマートウォッチを取られたが、小型通信端末を隠し持ったのを知られていなかった。夜。逸之が病床に横たわり、ボタンぐらいの端末から微かな光が瞬き、彼は早くそれを耳に付けた。「兄さん」「最近具合はどう?」景之が聞いた。 「悪くないよ。黒木啓司が沢山の人を使って僕の世話をしてくれている。ほしい物ならなんでもくれる」逸之は外の暗い夜を眺めた。 病気じゃなかったら、お母さんもここに戻らなくて、一家そろって、依然通りの静かな生活を送れた。「それは良かった」景之は安心した。 もし逸之がよくないと言ってくれたら、彼はきっとどんな手を使っても、逸之を連れ戻そうとしただろう。それは思いだけだった。彼はまだ小さいし、能力も限られていた。お母さんを守れなかったし、弟を守れなかった。「兄さん、一つ聞いて言い」「なに?」「黒木啓司は本当に悪いのか?」逸之が初めてこんな思いを浮かべたのは、啓司を苛めた時だった。彼は手を出さなかったし、怒ったこともなかった。「如何して聞くの?妻子を見捨てる人、非常に悪いと思わないのか?」弟が感傷的で優しすぎるところがあった。逸之はそう思わなかった。「兄さん、彼はお母さんのことが好きだと思う」これを聞いて、景之は唖然とした。逸之が続いて言った。「お母さんに会ったのを知ってる?お母さんの誕生日の日、黒木啓司がお母さんを連れてきた。「彼はお母さんを見る目つきは嫌いじゃなくて、却って何かを抑えたように…」逸之は病気のせいで、子供の頃から他の子供より繊細だった。 彼は多くの微妙な行動から、他の人を判断していた。 「それだけ?」景之は信じ
牡丹別荘。 啓司が戻ってから、花粉の多い花は全部取り出された。葵が今日啓司と一緒に戻ってきて、彼の傑作を見物するだろうと思った。意外なことに、戻ってきたのは彼だけだった。 「食事済んだの?」一人でリビングルームに座って何かを書いている紗枝を見て聞いた。紗枝がうなずいた。「うん、食べたよ」ダイニングルームの方向をちらりと見て、とてもきれいだった。「今日は戻ってこないと思っていたから、食事を用意しなかった」紗枝が回答した。以前は、啓司が家に帰っても帰らなくても、彼女は彼の好きな食事を用意していた。ほとんどの場合、啓司は箸を付けなかった。紗枝が海外に行ってから、逸之と景之を妊娠したので、将来のために彼女はよく働いた。料理のことはほとんど出雲おばさんに任せた。今、彼女は野菜を洗い、スープを作る昔の生活に戻りたくなかった。 啓司は異常な表情はなかった。「僕も食べた」彼は嘘をついた。 今日彼は早く帰ってきて、紗枝が夕食を作ってくれると思って、何も食べなかった。「それは良かった」 紗枝は再び言い出した。「唯が風邪をひいた。ちょっとしてから彼女を同行して病院に行ってくる」 本当の事は、彼女が唯を口実に、今妊娠してもいいかどうかを調べたいだけだった。啓司はそれを疑問に思わなかった。 紗枝は車を乗って病院に行くと、唯がとっくに待っていた。「すでに予約をしたので、今すぐ行こう」唯が言った。「有難う」 カルテを持って紗枝が検査に行った。1時間後、結果が出てきて、ここ数日妊娠に一番いいタイミングだと分かった。病院を出て、唯がポケットから薬の箱を取り出して紗枝に渡した。「紗枝、使って」可笑しいと思って、紗枝は手に取ってみた。よく売れている精力剤だった…彼女の顔は真っ赤になった。「いらないよ」「どうしていらないの?万が一彼がだめだったらどうする?」唯は声を低くして言った。「酒飲んでだめになる男がいるの。いや、ほとんどの男が…」紗枝は非常に恥ずかしかったが、結局こっそりと受け取った。「これを飲んだら子供に影響を与えるのか?」「そんなことがない。すでにお医者さんに確認した。これを頼って奥さんを妊娠させる男がいるよ」唯が真面目に答えた。唯が一回だけ
綾子は子供の母親が公開できないから、啓司が子供だけを連れ戻して、誰にも知らせなかったと思った。啓司はどうすればいいか分からなくなった。もしその子が自分の子供じゃなかったら、彼女はそれを認めるのか?「この件、手を出さないでくれ」 話し終わって、彼は直接電話を切った。 もう落ち着くことができず、啓司は携帯のアルバムを開いた。アルバムの隠しコーナに、3枚の写真があった。 1枚は紗枝が妊娠後の検査報告書、もう1枚は逸之の写真、最後の1枚は青臭い女の子の後姿…彼は逸之の写真に目を注ぎ、じっと見ていた。この子は本当に池田辰夫の子か?彼は信じないが、DNA鑑定をする勇気はなかった。なぜなら、身元が分かれば、万が一、彼が子供と何の関係もないと、彼の全ての期待は消えてしまうからだった。 すると、鑑定しない方が増しだった。啓司は携帯の電源を切った。一方、綾子の方では大喜びとなった。「どんな手を使っても、あの子の居場所を見つけ出す」電話を切られてから、綾子は秘書調べさせた。どれだけのコネを使っても、必ず子供を見つけだす。彼女が孫を欲しいのは、啓司の後継者問題だけではなかった。彼女は黒木家の年長者に、彼女の遺伝子に問題がないと伝えたいからだった。数十年前、彼女は双子を産んだ。しかし、末っ子が生れ付きの遺伝子病気があり、姑さんに知られて結構苛められた。その後、啓司が黒木家を引き継いだ後、黒木家の年長者が彼女への態度を少し良くなってきた。しかし、啓司には子供がいなかったので、体に問題があって、子供作れないとか言われた…傲慢の綾子でも、遺伝子に問題があることを認めたくないし、啓司に自分の苦しみを話すこともできなかった。紗枝が病院から戻った時、居間の明かりまだついていた。中に入ってみると、柔らかな光の下で、啓司がパジャマ姿でソファに座って本を読んでいた。紗枝が戻ってくるのを知って、彼は頭を上げずに、本をめくり続けた。でも、彼の心はとっくに何処かへ飛んで行った。紗枝は一歩一歩彼の前に向かって行った。 「只今。庭の花きれいだね!」朝に花を見たのだが、今時に言うのは、啓司の機嫌を取るためだった。啓司は本を閉じて、少し頭を上げ、ハンサムな顔が紗枝に向かって「うん」とうなずいた。声は魅力的だっ
紗枝はそのまま彼に抱かれて、体が硬直になり、立たされた。暫くしてから、彼女は首を横に振った。「恨んでないよ」これは嘘じゃなかった。これを聞いた啓司は、彼女をさらに強く抱きしめ、大きな手で彼女の顔を丁寧に撫でた。今になって初めて、紗枝が相手にしてくれたことを実感していた。紗枝は今がタイミングだと分って、頭を上げて啓司を見た。つま先立ちにして、赤い唇が啓司の喉仏にキスして、続けて上に上がり、唇に落ちた。何度かキスされて、いくら理性が強くても、耐えられなくなってきた。彼は片手で紗枝の後頭部を支えて、積極的にキスをした。今、彼女の目的が何であれ、今夜、彼女を落としてやると思った。隙間を見て紗枝が言い出した。「ちょっと怖いが、酒を飲んでもいい?」「いいよ」 彼女の湿っぽい視線を見て、啓司は興奮した気持ちを抑えた。紗枝は酒蔵に行ってアルコール度数の一番高い酒を選んだ。啓司のグラスに唯からもらった精力剤を入れて、お酒を入れてから啓司に渡した。彼を安心させるために、紗枝はグラスを取った。 「乾杯」今日、啓司は紗枝を断らなかった。グラスを飲み干した。紗枝も一口飲んだが、喉に火が通ったような感じだった。「次はTequiaにして、今回のお酒は君に合わない」啓司が一目で分かった。紗枝が選んだのは度数の一番高い酒だった。Tequiaは度数の低いお酒で、体にあまり負担をかけない。「わかった」紗枝は啓司にお代わりを入れなかった。度を把握して、急いでると、彼に警戒されると思った。そして、先ほど入れた量は十分だろう…啓司のお酒は本当に強い、1杯強いお酒を飲んでも、顔が赤くなってなかった。彼は蝶ネクタイを引っ張り、シャツを緩めて、紗枝を抱えて寝室に向かった。紗枝が緊張して彼の服を握り締めて小さな声で言った。「ごめん」啓司は唖然とした。彼女に断られると思った。彼女が言い続けた。「ごめんな。何も言わずに、仮死して離れた」啓司を見つめる彼女の目は情深かった。今夜、成功できれば、何でも言うと思った。啓司が喉を詰まらせた。彼が答える前に、紗枝の手が少しずつ移動して、彼の細い腰に当てて、長い間口に出さなかった名前を叫び出した。「啓司」「はい」彼の声はかすれていた。 紗枝をベ
夜中になって、すべてが終わった。啓司はまだ目覚めてないが、紗枝をしっかりと抱きしめた。無菌カップの中に、やっと取れたものを見て、出て行くタイミングだと紗枝は分かっていた。彼女は啓司の腕から離れようとしたが、却って男にさらに強く抱きしめられた。 仕方がなく、彼女はカップをベッドの下にこっそりと隠して、啓司が仕事に出かけてからに取りに来ると思った。眠っている啓司を見て、紗枝は罪悪感を感じ、無言で自分に言い聞かせた。「謝ったのは本当だったよ。でも、仮死して離れたことじゃなかった。「今度の事のため…」逸之と景之を妊娠したのは、彼の暴行に拠るものだった。でも、恩に感じることはなかった。今回、啓司に事実を隠したのは悪いと思った。しかし、彼女はそうしなければならなかった。子供を傍に残すためにそうするしかなかった。翌日。空が微かに明るくなったところ。啓司は頭痛で目覚めると、腕の中にいる紗枝を目にした。彼女はまだいた。啓司は安心した。更に彼女を力を入れて抱きしめた。こんな時に、紗枝の滑らかな背中を見て、傷口を見かけた。ナイフの古い傷跡のようだった。紗枝も目覚めた。立ち上がろうとして、啓司の言葉を聞かされた。「背中の傷跡はどうしたの?」紗枝は唖然とした。啓司の見慣れた顔を見て、紗枝は悲しくて悔しい気持ちになった。「覚えてないのか?」この傷跡は、当時彼を守るためにやられた。彼は忘れたのか?啓司と和彦が親友で、全く同じ恩知らず者だった。啓司は本当に覚えてないようだった。「いつ起こったの?」 紗枝の喉は渋かった。「私が17歳の時」 それは啓司が初めて黒木グループを引継いだ時だった。 その時、黒木家の者か、それとも競争相手の者かよく分からなかったが、啓司を暗殺しようとしたとき、紗枝が彼の前に立って、代わりに刺されて、彼を助けた。この件、黒木家の人々がほとんど知っているが、彼は忘れたのか…啓司の手は彼女の背中に当てて、目も暗くなった。「誰に?」紗枝は首を横に振った。 「わからない、捕まえなかった」 啓司はしばらく沈黙し、頭を下げて紗枝に優しくキスをした。 彼は人を慰める方法を知らなかった。こんな方法でするしかなかった。 しかし、紗枝に避けられた。
紗枝は信じられない思いで彼を見上げた。 啓司は怒っていなかったが、彼女を見つめてゆっくりと言った。「今教えて、何が欲しいの?」 目と鼻の距離で、紗枝は彼の複雑な目つきを見て嘘をついた。「悔しかったので、一度だけ貴方をほしかった」 また嘘だった!啓司は彼女の頭を胸に押し寄せて、低い声で笑い、涙を零して言った。「もう願いを叶えたので、どうするの?「僕を離れたいのか?」彼の大きな手でしっかりと押さえられ、肩が砕けるようになった。 「私は…」 彼女の話しが啓司に中断された。「信じてくれなくてもいいが、僕の許可がないと、君は桃洲市を離れられないよ」紗枝の体はわずかに震えた。「約束したが、お金を返したら離れるが、しかも、逸之もここにいたじゃないか?」「そんなお金、どうやって入手するの?」啓司が聞いた。紗枝が海外で有名な作曲家だと知っていたが、彼が口出した金額は、今の彼女に、すぐ返すことは相当無理だと思った。「自分の手でゆっくり稼ぐ」紗枝が少し止まってから頭を上げて彼を見ながら続けて言った。「貴方に損させない」啓司はさらに怒って、力を込めた。紗枝は眉をひそめた。「痛い」男は一瞬で手を離した。 紗枝は布団で身を包み、後ろに下がった。「先に起きる」彼女は服を探したが、地面に落ちていた服が破られていたか、啓司の服と混ざり合っていたか、とても混乱だった。彼女は薄い布団に身を包み、ベッドから離れようとしたが、再び啓司に抱かれて懐に入れられた。「どうして急いでいるの?」喉仏を上下にさせて、啓司は言い出した。「昔、僕と本当の夫婦になりたいと言ったよね?手を繋いで、抱きしめて、キスして…」彼が突然これを言い出したのはなぜか紗枝はわからなかった。 その時、紗枝は世間知らずだった。 初恋も片思いの相手もすべて啓司で、そして結婚相手も啓司だった。彼と恋人同士がやったことを全部やりたいし、夫婦がやったことをしたかった。そして子供を作って一緒に老いていくことも…しかし、今、いろんなことを経験して、彼女はとっくに諦めた。 「そんなこと期待しないわ」彼女は答えた。 そんなこと期待できるか?彼女はもう期待しなくなった。啓司は彼女をはっきり見透かした。彼の喉が綿の塊に塞がれるように苦しくなっていた。
離婚の道を選んで以来、紗枝は啓司と本当の夫婦になることを考えたことが一度もなかった。啓司は彼女の耳元の乱れた髪の毛を撫でながら言い出した。「僕を呼んで」紗枝の赤い唇が軽く開いた。「啓司」 啓司はもともと彼女にキスしようと思ったが、ドアベルがこの瞬間に鳴り、彼の美しい夢を壊した。 食べ物が送ってきた。1時間後。 二人が片付けて、食事を終わった。「今日は会社に用事がないの?」紗枝が試しに聞いた。啓司は、彼女が彼を出てもらいたいのに気づいた。「うん、ほとんどの仕事をほかの人に任せた」 実は、ずっと前からこうすべきだった。グループのトップとして、仕事が多すぎて、ほかの人に任せるべきだった。紗枝は悩んだ。彼が出かけないと、部屋にあるカップの精子をどうやって取り出すの。彼女を深く見つめて啓司が言い出した。「僕に会社に行ってもらいたいの?」紗枝は首を振った。「いや、ただ聞いただけ」 「今月、僕は仕事をほっといて、二人でゆっくり付き合おう」啓司は再び言った。 仕事をほっとく…紗枝は信じられなかったが、それでも頷いた。「よかったじゃない」「桑鈴町に戻りたいって言ったじゃない?」啓司は気軽に聞いた。 グラスを持っている紗枝の手が一瞬震えた。 二人が結婚したとき、彼女はよく啓司に自分が育った小さな町のことを話した。 人が好きになると、自分のすべてをシェアしたくなるのだから。「うん、言ったけど」 「荷物を片付けて、午後車で行こう」 一ヶ月夫婦と約束したから。初めて紗枝の夫になろうと決めたので、どうすればいいか知らなかった。他の人が言ったハネムーンのことを思うと、こんなことだろうと思った。紗枝はしばらく唖然としてから、正気に戻った。「分かった。今から片付けてくる」 自分の部屋に戻った。 携帯を取り、ちょうど唯からの不在着信を見かけた。 彼女は折返し電話した。電話がすぐ繋がった。「どうだった?」唯は急いで結果を知りたかった。「うん、うまく行った」今回、妊娠する可能性が十分にあると紗枝は感じた。 「よっしゃー!それじゃ、私たちは逸之を連れてここを出られるか?」唯が聞いた。「必ず妊娠できるとは言えないので、妊娠を確認出来てから離れようと考えてる」紗枝は啓司
雷七が逸之を迎えに行った帰りだった。逸ちゃんは二人に向かって大きく手を振り、こっそりと写真を撮った。そしてすぐに景之に送信。写真を受け取った景之は眉間にしわを寄せた。「くそっ」あいつ、こんなに早くママを落としたのか?逸之は更にメッセージを送る。「お兄ちゃん、これからはパパって呼ばないとだめだよ」「うるさい」景之は一言だけ返した。啓司なんか、絶対にパパなんて呼ばない!和彦は居間で水を飲みながら、景之の険しい表情が気になり、覗き込んでみた。途端に、喉に詰まった水を吹き出しそうになった。啓司さんが紗枝さんを背負っている?まさか、これには衝撃を受けた。あの黒木啓司が女性を背負うなんて。きっと鞄すら持ったことがないはずなのに。こっそり写真を撮ろうとした和彦だったが、指が滑って、仲間内のグループに送信してしまった。気付かぬうちに、啓司の親しい友人たちのグループは大騒ぎになっていた。祝福のメッセージが次々と届き、中には祝い金まで送る者も。「啓司さん、本当の愛を見つけましたね」かつて聴覚障害者を見下していた啓司が、なぜ今になって惹かれたのか。誰も理解できなかったが、皆、心からの祝福を送った。グループは瞬く間に祝福の言葉で溢れた。親友の花山院琉生もその投稿をじっと見つめていた。啓司は私事を公にすることを極端に嫌がる。和彦の行動を、啓司は知っているのだろうか。牡丹別荘に着くと、紗枝は急いで啓司の背中から降りた。逸之も車から降り、三人で歩いて帰ることにした。夜道を歩く三人の姿は、まるで幸せな家族のようだった。家に戻った啓司は、友人グループに大量のメッセージが届いていることに気づいた。音声を再生すると、祝福の言葉が次々と流れてきた。状況が呑み込めない啓司は、和彦に電話をかけた。和彦はその時になって、うっかり写真をグループに送信してしまったことに気付いた。今さら取り消すことはできない。「あの、ただみんなが啓司さんと奥様のことを祝福してるだけです」「突然、なぜだ?」「……」「話せ。何があった」重圧に耐えかねた和彦は、観念して話し出した。「お二人の写真を、グループに送ってしまったんです」「でも、私が撮ったんじゃありません。逸ちゃんが景ちゃんに送ったのを見て……」啓司の眉間に
啓司は紗枝がまた逃げ出すのではないかという直感から、差し出されたカードを受け取ろうとはしなかった。「もう使ったの。幼稚園の株式を買ったから。それに、他に使い道もないし……私、自分で稼いで使いたいの」紗枝が説明すると、啓司の表情が僅かに和らいだ。「お前の金はお前の金だ。俺が渡すのは、また別物」一呼吸置いて、啓司は続けた。「夫なら妻に資産を任せるのは当然だろう。俺がどれだけ持ってるか、知りたくないのか?」好奇心を抑えられない紗枝が尋ねる。「じゃあ、いくら?」啓司の唇が緩む。「数え切れないぐらい」なんて曖昧な答え。紗枝は呆れた表情を浮かべた。啓司は自然な仕草で紗枝を抱き寄せると、囁いた。「紗枝、近々プレゼントがある」「そんな……」思わず口にした断りの言葉。「断らせない」啓司の声が紗枝の言葉を遮った。紗枝は再び言葉を失った。結局、啓司の強引さに負けた紗枝は、デートに連れ出されることになった。まさか遊園地とは……妊婦の自分を遊園地に連れて行くなんて。この人のデート観は少し問題ありじゃない?最終的に、メリーゴーラウンドとジェットコースターに乗っただけで終わった。その夜、二人は映画を見に出かけた。都心の一等地にある映画館を完全貸し切りにしていたため、映画を楽しみにしていた客たちは、ショッピングモールの入り口で足止めを食らっていた。「昔はよく映画を見たがってたな。これからは毎週映画でもどうだ?」啓司が尋ねると、紗枝は首を振った。「家で見る方がいいんじゃない?外で見ても、あなたは映像が見えないし、音声だけでしょう。家なら音量も調節できるし、人目も気にならないわ」「ああ、お前の言う通りにしよう」素直な返事に、紗枝は薄暗い中で啓司の整った横顔を見つめた。思わず手を伸ばし、彼の顎に触れる。その瞬間、啓司は紗枝を強引に抱き寄せた。「や、やめて。監視カメラがあるわ」「全部外させてある。大丈夫だ」「ダメ!こういうの嫌」紗枝は必死で抵抗した。啓司は動きを止めた。「さっきは誘ってたんじゃ……」さっきの紗枝の仕草を誘いだと勘違いして、つい……牧野から、女性は恥ずかしがり屋だから、暗示的な表現をすることがあると聞いていたので。「誘ってなんかないわよ!何考えてるの?ここ外なのよ」紗枝は耳まで
紗枝は抵抗せず、天井を見つめながら、啓司に話しかけるような、独り言のような口調で続けた。「今でも分からないの。なぜあんなに私を憎んでいたのか……」「昔は、女の子が嫌いなのかと思ってた。冷血な人なんだって。でも今日見たの……」「病気で苦しいはずなのに、昭子にバッグを届けようとしてた。昭子が自分のことを嫌がってるって聞こえてたはずなのに、聞こえないふりをして……」「あんなに卑屈な様子、母らしくないわ」啓司は紗枝の手を強く握りしめた。「俺がいる」「もう怒ってないの?」紗枝は啓司の方を振り向いた。「相殺しないか?」啓司は問い返した。「相殺?」「俺が三年間冷たくした分と、お前が子供を連れて四、五年離れていた分。相殺して、やり直せないか?」啓司の声は静かに、しかし切実に響いた。紗枝は喉に込み上げるものを感じながら、啓司に向き直って抱きついた。突然の抱擁に啓司の体が強張る。やがてゆっくりと腕を回し、より強く紗枝を抱き寄せた。自制を効かせながら、紗枝の眉間に軽くキスを落とす。喉仏が微かに動いた。「これからは何かあったら、すぐに俺に言ってくれ。また突然いなくなるのは……」返事の代わりに、紗枝は顔を上げ、啓司の喉仏に唇を寄せた。その瞬間、啓司の理性は崩れ落ち、紗枝を押し倒した。......翌朝、朝食を済ませても両親が起きてこないことに、逸之は首を傾げた。声をかけようと部屋に向かおうとしたところを、家政婦に制された。「逸之ちゃま、お父様とお母様は昨夜遅くまでお休みになれなかったので、起こさない方が……」家政婦の部屋からは主寝室の明かりが見えるため、そう察していたのだ。「おばさん、母さんと父さん、昨日は一緒に寝たの?」逸之は小声で尋ねた。「ええ、主寝室の明かりだけでしたし、他のお部屋も使った形跡がありませんでした」昨夜は早く寝てしまい、両親を同じ部屋に寝かせるのを忘れていた逸之。でも両親が自然と同じ部屋で……まあ、毎日一緒に暮らしてるんだし、若い二人が……「おばさん、学校行ってきます!」逸之は嬉しそうな表情を浮かべながら手を振った。「いってらっしゃい」昼過ぎになってようやく目を覚ました紗枝は、昨夜のことを思い出して頬が熱くなった。何がそうさせたのか、啓司と話しているうちに、気付けば…
自分が愛だと思い込んでいたものの為に、本当に自分を愛してくれていた人を捨ててしまったことへの、深い後悔が。「あなた、私のことを恨んでいるでしょうね」涙を拭いながら、美希は呟いた。世隆は本当に忙しいのだ、昭子だって用事があるから付き添えないだけ——そう自分に言い聞かせた。ふと、スマートフォンを開いているうちに、古い家族グループを覗いていた。紗枝、太郎、自分、そして夫。四人家族のグループだ。そこには、夫が他界する直前に送ったメッセージが残されていた。「美希、娘の結婚式、このスーツで格好いいかな?」紗枝「お父さん、すっごくかっこいい!」美希「ダサすぎ」「じゃあ、別のにして驚かせるよ」これが、グループでの彼の最後の言葉となった。さらに上へとスクロールしているうちに、紗枝とのプライベートメッセージが開かれた。自分の命と引き換えに育ての恩を返した紗枝とのやり取りは、それ以来途絶えたままだった。スクロールしていくと、六年前の紗枝からのメッセージが目に入った。「お母さん、お誕生日おめでとう。今日買ったケーキ、食べた?」「お母さん、怒らないで。体に毒だよ。風邪引いてるみたいだから、梨の氷砂糖煮作ったの」「お母さん、離婚したい。もう人に頼らなくても大丈夫」「お母さん、私が働いて養うから。心配しないで」それらの温かなメッセージに対する自分の返信は、どれも冷たいものばかりだった。かつての紗枝からのメッセージを眺めながら、美希の脳裏には、幼い頃から今までの紗枝の姿が次々と浮かんでいった。母がバレリーナだと知った紗枝は、人一倍の努力を重ねた。ステージで踊る姿を見せて、母である自分を誇らしく思わせたいという一心で。今でも覚えている。舞台から降りてきた時の、血豆だらけの足を。あの旅行の時も。山で綺麗な花を見つけた自分が一言感心しただけで、紗枝は危険も顧みず摘みに行って、あわや足を折るところだった……数え切れないほどの思い出が押し寄せてきて、美希は慌ててスマートフォンの電源を切った。「あんな恩知らずのことなんて考えることないわ。所詮他人の子じも」「聴覚障害者なんて、何の才能も実績もない子が、どうして私の娘になれるっていうの?」独り言を呟く声が、空しく病室に響いた。布団に潜り込んでも、なかなか眠れない。
美希が一人で歩き出すと、後ろで介護士たちが小声で話し始めた。「可哀想に。あんな重い病気なのに、旦那さんも息子さんも来ないなんて。娘さんだってちょっと顔を出すだけで」「ほんと。あの娘さんったら、着飾ってはいるけど、お母さんがベッドを汚した時の、あの嫌そうな顔といったら」「お金があっても、幸せとは限らないわねぇ」後ろの介護士たちの会話が耳に入り、先ほど病院の入り口で昭子が言っていた言葉が脳裏に蘇った。「何を勝手なことを!」突然、美希は激しい口調で言い放った。「私の夫がどれだけ私を愛しているか。息子だって仕事が忙しいだけよ。娘だって毎日私のことを心配して見舞いに来てくれる」「あなたたち、ただの妬みでしょう!」介護士たちは即座に口を閉ざし、それ以上何も言えなくなった。病室のベッドに横たわった美希の耳には、先ほどの昭子の嫌悪に満ちた言葉と、介護士たちの心無い噂話が繰り返し響いていた。「もう最悪。ベッドで漏らすし、部屋に入った時は吐き気がしそうだったわ」「鈴木青葉の世話だってしたことないのに。実の息子も見向きもしないくせに」「ほんと。あの娘さんったら、着飾ってはいるけど、お母さんがベッドを汚した時の、あの嫌そうな顔といったら」プライドの高い美希が、娘の本心を認めるはずもなかった。それに、全ての望みをこの娘に託し、二度と踊らないという誓いさえ破り、夏目家の財産を鈴木家に譲るところまでしたのだ……美希は携帯を手に取り、世隆に電話をかけた。しばらくして、やっと通話が繋がった。「また何かあったのか?」苛立ちの混じった世隆の声。その語調に気付かない美希は尋ねた。「あなた、まだ仕事?いつ来てくれるの?一人は寂しいわ」「言っただろう?会社でトラブルがあって、今は本当に忙しいんだ。介護士も二人つけてやっただろう?暇なら彼女たちと話でもしていろ」美希が何か言いかけた時、世隆は一方的に電話を切った。かつての美しい妻が、今や病に侵された中年女性となった美希に、世隆はもはや一片の関心も示さなくなっていた。華やかな女性秘書が世隆の傍らで微笑んだ。「社長、そんなにお怒りにならないで」胸に手を当てて、なだめるように軽く叩く仕草に、世隆は秘書の手を掴んだ。「あの女が死んだら、君と結婚しようか?」二人の笑い声がオフィスに
太郎の言葉に、拓司は平静を保ったまま答えた。「紗枝さんの選択は、尊重すべきだ」今や太郎は、姉を拓司のもとに無理やりにでも連れて行きたい気持ちでいっぱいだった。「拓司さん、ご存じないでしょう。姉が啓司と結婚した時、あいつは義父の家を助けるどころか、逆に潰しにかかったんです。夏目家を破滅させたのは、あいつなんです」太郎には、夏目家の没落が自分に原因があるとは、今でも思えていなかった。かつて母親が黒木家に金を無心しに行ったことも、自分が会社と父の遺産を手放してしまったことも、すっかり忘れてしまっているようだった。「心配するな。これからは私がしっかりと支援しよう」拓司は静かに告げた。太郎は感極まった様子で大きく頷いた。きっと一流の実業家になって、自分を見下してきた連中を見返してやる――......一方、電話を切られた昭子は、激しい怒りに駆られていた。息子なのに母親の面倒も見ない太郎。なぜ娘の自分が世話をしなければならないのか。昭子は携帯を取り出し、父親の世隆に不満を漏らそうとした。しかし、昭子がバッグを忘れたのを気にした美希は、痛む体を押して追いかけてきていた。そして、昭子の言葉が耳に入った。「もう最悪。ベッドで漏らすし、部屋に入った時は吐き気がしそうだったわ」「鈴木青葉の世話だってしたことないのに。実の息子も見向きもしないくせに」「あの人の財産がなければ、とっくに……」言葉の途中で振り返った昭子は、すぐ後ろに立ち尽くす美希の姿を目にした。慌てて電話を切り、作り笑いを浮かべる。「お母さん!どうして出てきちゃったの?まだ歩いちゃいけないって……」昭子は心配そうに駆け寄った。先ほどの嫌悪感など微塵も感じさせない表情で。美希は一瞬、自分の耳を疑った。だが何も言わず、ただバッグを差し出した。「昭子、バッグを忘れてたから」昭子は何の気兼ねもなく受け取った。「ありがとう、お母さん。じゃあ行くわね。お体に気をつけて、早く部屋に戻ってね」車に乗り込んだ昭子は、ほっと胸を撫で下ろした。聞かれてないはず……だって聞いていたら、母さんが黙っているはずがない。昭子は何食わぬ顔で運転手に出発を命じた。二人とも、近くに停めてある黒い車に見覚えのある人物が乗っているとは気付かなかった。後部座席
病室には、紗枝が去って間もなく異変が起きた。激痛に耐えかねた美希の容態が急変し、昭子が部屋に入った時には、既に不快な臭気が漂っていた。「昭子……」美希は恥ずかしそうに娘を見つめた。「介護人を呼んでくれない?我慢できなくて……シーツを汚してしまったの」その言葉の意味を理解した昭子の顔に、一瞬、嫌悪の色が浮かんだ。「お母さん、まだそんな年じゃないでしょう。どうして……」「ごめんなさい。病気の後遺症なの。昭子……私のこと、嫌いにならない?」昭子の前での美希は、いつになく卑屈な様子を見せていた。昭子は知っていた。確かに美希は資産の大部分を鈴木家に持ち込んだものの、まだ隠し持っている財産があるはずだ。父にも知らせていない秘密の貯金を。その分も死後は自分のものになるはず――「まさか!実の娘があなたを嫌うわけないじゃない。ただちょっとびっくりしただけ。これからどうしましょう……」昭子は優しく声を掛けた。「すぐに介護人を呼んで、それから医師や看護師にも診てもらいましょう」「ありがとう……」美希は安堵の表情を浮かべた。目の前にいるのは自分の実の娘。きっと自分を嫌うことも、傷つけることもないはず――昭子は急いで部屋を出ると、介護人に電話をかけた。やがて介護人がシーツ交換にやって来た。かつての誇り高い名バレリーナが、こんな姿になるなんて――誰が想像できただろう。医師の治療を受けた美希の容態は、何とか持ち直した。昭子は消毒液の匂いが漂う病室に居たくなかった。適当な言い訳をして、すぐに外へ出た。美希の前で孝行娘を演じなければならないとはいえ、こんな場所に長居する気など毛頭なかった。外に出ると、やっと新鮮な空気が吸える。昭子は太郎に電話をかけた。すぐに電話が繋がると、昭子は姉らしい口調で切り出した。「太郎、お母さんが病気なの。いつ戻ってくる?」拓司の支援で自分の会社を持つまでになった太郎は、その話を一蹴した。「昭子、母さんに伝えてくれ。もうそんな古い手は通用しないって。紗枝姉さんが母さんを告訴しようとしてるからって、病気のふりをしたところで無駄だ」もう鈴木家に頼る必要のない太郎は、昭子の名前を呼び捨てにしていた。「今回は本当よ。子宮頸がんの末期なの」昭子は不快感を隠しながら説明した。がんが見つかってから
美希は一瞬固まった。紗枝の言葉に何か引っかかるものを感じ、思わず聞き返した。「どういう意味?」「お父さんの事故……あなたと関係があるんじゃない?」「何を言い出すの!」美希の目に明らかな動揺が走った。その反応を見た紗枝の心は、さらに冷めていった。紗枝が黙り込むと、美希は自らの罪悪感に追い詰められるように話し始めた。「あの人の遺書に……他に何か書いてあったの?」紗枝は目の前の女性を見つめた。この人は自分の実の母親で、父の最愛の妻だったはずなのに、まるで見知らぬ人のようだった。「どうだと思う?」紗枝は逆に問い返した。美希の表情が一変し、紗枝の手首を掴んだ。「遺書を見せなさい!」紗枝は美希の手を振り払った。「安心して。法廷で公開するわ」実際の遺書には、太郎が役立たずなら紗枝が夏目家の全財産を継ぐことができる、とだけ書かれていた。美希の悪口など一切なかった。でも、紗枝は美希に疑わせ、恐れさせたかった。また激しい腹痛に襲われ、美希の額には冷や汗が浮かんでいた。「このバチ当たり、恩知らず!育てるんじゃなかったわ!」紗枝は美希の様子を見て、確信した。本当に重病を患っているのだと。因果応報というものかもしれない。紗枝が部屋を出ようとすると、美希が引き止めた。「なぜ私が昭子を可愛がって、あなたを嫌うのか、知りたくない?」紗枝の足が止まる。「昭子はあなたより優秀で、思慮深くて、私に似てる。でもあなたは……吐き気がするほど嫌!」その言葉だけでは飽き足らず、美希は更に罵倒を続けた。「このろくでなし!あなたの父が『残せ』と言わなければ、とっくに捨てていたわ。人間のクズね。実の母親を訴えるなんて。その母親が病気になったら、嘲りに来るなんて。覚えておきなさい。あなたには絶対に、永遠に昭子には及ばないわ」「呪ってやる。一生不幸になれ!」紗枝は背後からの罵声を無視し、廊下へと出た。そこで向かいから来た昭子とばったり出くわした。「妹よ」昭子は紗枝の顔の傷跡に視線を這わせながら、内心で愉悦を感じていた。こんな醜い顔になって、拓司はまだあなたを望むかしら?紗枝は冷ややかな目で昭子を見据えた。「義姉さんと呼んでください。私と美希さんは、もう母娘の関係は終わっています」それに、昭子のような冷酷な女の妹にな
牡丹別荘で、切れた通話画面を見つめながら、紗枝は最後に美希と会った時のことを思い出していた。顔面蒼白で、腹を押さえ、全身を震わせていた美希の姿が。あの様子は、演技とは思えなかった。しかも、二度も癌を言い訳にするなんて、逆に不自然すぎる。そう考えを巡らせた末、紗枝は病院へ様子を見に行くことを決めた。市立病院で、紗枝が病室へ向かう途中、思いがけず澤村和彦と鉢合わせた。紗枝の姿を認めた和彦は、彼女がマスクを着用していても、右頬から口元にかけて伸びる傷跡がはっきりと確認できることに気付いた。「お義姉さん」以前、幼稚園で景之を助けてくれた一件があり、紗枝は昔ほど冷たい態度ではなかったものの、親しげでもなかった。「ええ」そっけない返事を残し、紗枝は急ぎ足で上階の病室へと向かった。和彦は不審に思い、傍らの秘書に尋ねた。「病気か?」秘書はすぐにタブレットで確認したが、首を振った。「いいえ」そして見覚えのある名前を見つけ、報告した。「夏目さんのお母様が入院されているようです」「夏目美希が?」「はい」「どういう容態だ?」秘書はカルテを開き、声を潜めて答えた。「子宮頸がん末期です」和彦の目に驚きの色が浮かんだ。末期となれば治療の余地はほとんどない。生存期間は長くて一年か二年というところだ。「偽装の可能性は?」和彦は美希の収監が迫っていることを知っていた。「当院の専門医による診断です。通常、偽装は考えにくいかと」秘書は答えた。和彦は金の力の大きさを痛感していた。「念入りに調査しろ。この件に関してはミスは許されん」「承知いたしました」......病室の前に到着した紗枝は、軽くノックをした。美希は昭子が戻ってきたのだと思い、満面の笑みを浮かべた。「何よ、ノックなんてして。早く入っていらっしゃい」しかし扉が開き、紗枝の姿を目にした途端、その笑顔は凍りついた。「なぜ、あなたが……」紗枝は、この急激な態度の変化を予想していたかのように、平然としていた。「昭子に電話をさせたということは、私に来てほしかったんでしょう?」美希は冷笑を浮かべた。「不孝者に会いたいなんて誰が思うもんですか。これで満足でしょう?本当に癌になって、余命は長くて二年よ」いつもプライドが高く、美しさ