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第310話
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億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第1140話
綾子は、どうしても孫の世話がしたかった。今の彼女といえば、貴婦人仲間とお茶を飲んでおしゃべりをし、エステで身なりを整えるほかは、たまの重要会議に出席する程度で、残りの時間は手持ち無沙汰そのものだった。「ええ、逸ちゃんを連れて数日、遊びに行ってきます」逸之が黒木家に行けば、紗枝もあちこち走り回らずに済む。「それはよかったわ！今日、会議があるでしょう？私、出席するわ。会議が終わったらあなたたちを連れて一緒に帰りましょう」綾子の瞳には、抑えきれない喜びが宿っていた。「ええ」紗枝は、綾子が会議に出席すれば、後でさらに面白いものが見られるだろうと密かに思っていた。黒木グループに着いたのは八時半頃。会議資料の準備をしていると、拓司に呼び出された。「兄さんの件、聞いたか？」紗枝は頷いた。「うん、今朝、綾子さんから聞いたわ。見つかったって。それで、逸ちゃんを連れて本宅に泊まるようにって。啓司の世話がしやすいように、だって」「今朝、電話したんだよ。兄さんが行方不明になったことを話そうと思ってさ。でも、まさかこんなに早く戻ってくるとは思わなかった。本当に偶然だよね」「電話？」紗枝は眉をひそめた。「どうして私、出なかったんだろう」「たぶん早すぎたんだよ。寝ぼけてて、ぼんやりしてて、切っちゃったんだろう」拓司は苦しい言い訳をした。その瞬間、紗枝は啓司の言っていた「迷惑電話」の話を思い出した。自分は拓司の番号をきちんと登録していたのに、どうして「迷惑電話」なんて表示されるのか。まったく、白々しい嘘を。「そ、そうなのかな……」紗枝は呆れをこらえ、そう答えるしかなかった。ドアをノックする音とともに、万崎の声がした。「拓司様、まもなく会議が始まります」「ああ、行こう」拓司は立ち上がると、紗枝は静かに頷いて後に続いた。今日は営業部の月次報告の日だった。営業部長が交代したばかりで、拓司は正直、まだ不安を抱えていた。祖父にさえ「昂司が務まらなければ、すぐにでも辞めさせるべきだ」と漏らしていたほどだ。しかし当の昂司は心配するどころか、前任者の残した利益にあぐらをかき、何もしなくても大量の契約が転がり込んでくるまま、悠々と構えていた。さらに今日は、妻の夢美を大いに持ち上げるつもりでいた。会議が始まると、営業一
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第1139話
「どこにいるんだ」拓司は焦りを隠せずに問い詰めた。使用人は玄関の方を指して答える。「玄関にいらっしゃいます」拓司はそのまま駆け出し、綾子も慌てて後を追った。啓司が戻ってくるなら、きっと薄汚れてみすぼらしい姿に違いない──そう覚悟していたのに、玄関を出た途端、整った身なりの男が車に乗り込んでいるのが目に入った。まさか……『バカ』というのは、ただの作り物だったのか？「兄さん！」拓司が声をかける。綾子も小走りで近づき、思わず啓司の胸に飛び込んだ。「啓司、大丈夫なの？」啓司は視力こそ回復していたが、それを二人に悟られまいと、乱暴に綾子を押しのけた。「誰だ、お前。触るな！」「啓司、私よ。あなたの母さんじゃない」綾子の目には、たちまち涙がにじんだ。どうして、元気だった息子がこんな姿になってしまったのか。その時、車から琉生が降りてきた。「綾子さん、先日、道端で倒れていた啓司さんを見つけて……家で介抱していました。ずっと目を覚まさなくて、皆さんがお探しだと聞き、慌ててお連れしました。本当に申し訳ありません」「ありがとう、琉生くん」綾子は琉生の顔を見て、安堵の息をつきながら深く礼を言った。その言葉を聞いた瞬間、拓司は胸の奥に渦巻いていた恐怖がすっと引いていくのを感じた。もし啓司が正気に戻り、自分が彼を殺そうとしたことを暴露したら──そう思うだけで血の気が引いていたのだ。琉生はその微妙な反応を見逃さず、どうしてこんなにも残酷な弟が存在するのかと、心の底で寒気を覚えた。「そうだ、医者が言うには……啓司さんは知能に障害がある状態ですが、子供程度には回復しているそうです。家族がそばにいることがなにより重要だと」琉生は付け加えた。綾子は何度もうなずき、「分かったわ」と静かに応えた。そして拓司に向き直る。「拓司、お兄さんを実家に連れて帰りましょう。私たちがそばにいれば、あの子も少しは落ち着くでしょう」拓司は断れるはずもなく、「はい」と返事をして、啓司の手を取ろうとした。「兄さん、帰ろう」だが啓司はその手を荒々しく振り払った。「俺に触るな！」拓司の体が一瞬こわばる。結局、綾子が啓司を連れて黒木家へ戻ることになった。それまでは、啓司が正気を失ったなどという話は噂でしかなかったが、彼が黒木家に戻ってきたこと
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第1138話
おかしい、人がいないな？和彦は首を傾げた。「放っておけ」琉生は、これ以上の時間の無駄を嫌った。屋敷の周囲はボディガードに固められ、萌と子どもをこっそり見るなど、とても容易なことではない。遠くから屋敷の方角をじっと見つめるしかなく、何ひとつ確認はできなかったが、それでも、そこに彼らがいるというだけで、琉生はわずかな安心を覚えた。そうして長いあいだ立ち尽くしていた琉生の傍らで、和彦はとっくに退屈の極みに達していた。琉生が動く気配を見せないのを悟ると、とうとう迎えを呼び、自分だけ帰ることにした。二度とこの二人の男に付き合って好奇心で出かけたりするものか――心底そう誓った。退屈にもほどがあった。一方その頃、別荘の中では、紗枝はすでに横になり、浅い眠りに落ちていた。ふと、誰かに抱き寄せられた気配に、はっと目を開け、ベッドサイドランプをつける。灯りの下、啓司の端正な顔がすぐ目の前にあった。「夢でも見てるの？どうやって入ったの？」啓司は、壁を越えて侵入し、あと少しで雷七のボディガードに見つかるところだったとは口にせず、掠れた声で問い返した。「雷七に、ボディガードをいったい何人つけさせた？」このあたりはもともと啓司の配下ばかりだったが、今は見知らぬ人間が増えている。「そんなに多くないわ。中に十人くらいかしら」そう答えてから、紗枝は逆に問い返した。「どうしたの？」「別にどうってことはない。よくやった」紗枝のそばに信頼できる人間がいるのは、啓司にとっても安心のはずだった。だが、彼女がこれからますます自分を必要としなくなるのでは――そんな思いが胸の奥でかすかに疼いた。啓司は紗枝を、ほとんど衝動のように強く抱きしめる。紗枝は身をよじって言った。「お腹、圧迫してるわ」ようやく腕の力をゆるめる。紗枝のお腹はすでに大きく張っていた。「何か用があって来たの？」紗枝が静かに尋ねる。啓司は、彼女がメッセージを返さなかったことを気にして来たなどと言えず、話を逸らした。「拓司が結婚するって、知ってるか？」紗枝は頷く。「ええ、知ってるわ。昭子から招待状も届いたし」その素っ気なさに、啓司はどうにも落ち着かず、遠回しに言った。「ただ……少し会ってない気がして、様子を見に来ただけだ」紗枝は、今日の啓司がどこ
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第1137話
啓司が治療室から出てきた時、彼の目はすでに完全に視力を取り戻していた。「啓司さん、調子はどう？」その様子を見た琉生がすぐに駆け寄り、声を掛けた。「ずっと良くなった」啓司は簡潔に答える。和彦と医師も続いて出てきた。「先ほど啓司さんの脳のCTを撮りましたが、手術の経過は非常に良好で、後遺症はもう出ないでしょう」「それなら良かった」琉生は胸をなで下ろし、続けた。「ただ、最近また拓司があなたを探していて、どうやら私のところまで嗅ぎつけたようだ。一体何をするつもりなのか分からない」和彦は軽蔑を隠さず言った。「今や啓司さんは全快したんだ。あいつに何ができる？」以前、啓司が失明し記憶を失っていたからこそ、拓司はその隙に乗じて地位を奪えた。しかし今、啓司が回復した以上、本来の場所を取り戻すべきだ。啓司の眼差しが一段と深まる。「明日、彼に会いに行こう」「啓司さん、黒木グループに戻るつもりですか？」和彦は期待を隠しきれずに尋ねた。拓司が黒木グループを継いでからというもの、彼の名ばかりのマネージャー職はすでに解かれていたのだ。啓司は窓の外へ視線を向けた。「拓司はずっと、俺が彼の地位を奪ったと思っている。母の胎内で俺に栄養を奪われたせいで、自分は生まれつき体が弱くなり、本来ならもっと優秀だったはずだと。だから彼に機会を与えてやる。黒木グループを譲り、俺はIMで黒木グループを踏み潰す。自分が本当に優秀なのかどうか、その目で確かめればいい」拓司は昔から、痛い目を見なければ分からない人間だ。和彦は啓司の言葉を聞き、このやり方なら拓司の勢いを大きく削げると確信した。「でも、あいつは以前啓司さんの命を狙ったんだよ？このまま水に流すのか？」当時を思い返し、和彦はいまだに背筋が冷えた。もし啓司が完全に回復していなくても自己防衛の意識だけはあり、馬鹿を演じてやり過ごす術を持っていなければ、とっくに命を落としていたはずだ。「ゆっくりと清算するさ」啓司は冷然と言い放つ。当然、命を狙った弟を許すつもりは毛頭なかった。ふと紗枝のことが脳裏をよぎる。これほど時間が経っても、まだ彼女からの返信はない。「今夜、少し出かけてくる」「どこへ行くの？」和彦が子供のような好奇心で尋ねたが、啓司が鋭く一瞥すると、すぐに口をつぐ
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第1136話
病院に着いた紗枝は、太郎の入院費を支払い、軽く言葉をかけると立ち去ろうとした。「姉さん、今日はありがとうな」太郎は手術室に運び込まれる直前、心の底からそう告げた。普段の彼は恩知らずで、人の好意を踏みにじるようなところがあるが、今日ばかりは、生死の境に立たされたことで、紗枝の情けをしっかりと胸に刻んだのだ。紗枝は無言のまま、彼が手術室へ入っていくのを見送った。正直なところ、あの頃もし彰彦が優しくしてくれなければ、幼い頃から自分をいじめ続けてきた弟など、彼女はきっと放っていただろう。病院を出た紗枝は、雷七に太郎を殺そうとした相手が誰か突き止められたか尋ねた。「昭子です」雷七は短く答えた。紗枝は少し驚いた。昭子は太郎の異父姉だ。どうしてそこまで残酷なことができるのか。「最近、紗枝さんも身の安全に気を付けてください。あれほど露骨な真似をするくらいですから、次はあなたを狙ってくるかもしれません」雷七は真剣な口調で忠告した。紗枝は静かに頷いた。「じゃあ、もう少し人数を増やして、護衛をつけてもらえる？」「はい」妊娠中ということもあり、紗枝は昭子という危険人物に、ことさら大きな不安を覚えていた。家に戻ると、紗枝は疲労困憊だったが、逸之と遥の顔を見ると、その疲れは一瞬で吹き飛んだ。萌はここ数日間この家で療養し、心身ともにずいぶん回復し、まるで別人のように明るさを取り戻していた。時間があるときには階下に降りてきて紗枝たちと談笑し、一緒に子供たちの世話をすることもあった。萌はまだ体が弱く、子供は粉ミルクで育てていた。紗枝は萌を安心させるように言った。「もっと休みなさい。一ヶ月後、体力が戻ってからゆっくり子育てを始めても遅くないわ」萌はその優しさに胸を打たれ、感謝の気持ちでいっぱいになった。「ありがとうございます。元気になったら、必ずしっかり働きます」その言葉を萌は忘れていなかったが、紗枝はあまり真に受けていなかった。「その時に考えればいいわ」ちょうどその時、心音がやってきた。「社長、夢美との引き継ぎはもうほとんど終わりました。もう手を引くべきかと。海外の顧客にも、彼女との協力を断るよう伝えます」「分かったわ。明日会議があるから、九時にその件を伝えて」紗枝が指示すると、心音は了承してすぐに段取り
億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める 第1135話
黒木グループからの帰途、太郎は突如として数台の車に行く手を塞がれた。訝しんで目を細めた瞬間、車の影から武器を手にした男たちが雪崩のように飛び出してくる。太郎はようやく事態を悟り、慌てて窓を閉め切ると、警察へ通報しながら最も近くにいる紗枝へ電話をかけた。「姉さん、早く来てくれ。誰かに命を狙われてる！」車を強引に止めるほどなら、背後に相当な勢力が潜んでいるに違いない――太郎はそれを本能的に理解していた。聡明とは言えぬ彼でも、自分を害そうとしている相手が稲葉家の人間であることは察しがついた。紗枝が電話に出た途端、向こうからガンガンと車体を叩く鈍い音と怒号が響き渡った。「さっさと降りろ！さもないとぶっ殺すぞ！」太郎は車内で身を縮こまらせた。見栄を張って、高価で防御性能の優れた車を買っていたのが唯一の救いだった。「ああ、姉さん、聞こえただろ……早く助けに来てくれ。できれば拓司さんも呼んでくれ！」紗枝にそこまでの力があるとは思っていなかったが、彼女の背後に拓司がいることだけは知っていた。紗枝はすっと立ち上がり、「住所を送って。すぐ行くから」と告げた。太郎はすぐに位置情報を送信する。紗枝はためらいなく雷七に連絡を取り、部下を率いて現場へ向かうよう指示した。電話が切れたあと、太郎は受話器を握りしめ、紗枝が必ず助けに来てくれるよう祈った。もし助けてくれたら、本当の姉として一生恩義を感じるだろう。もしこのまま死ぬことになれば、死んでも死にきれない。外では男たちが執拗に車を叩き続けている。太郎は怯えに震えながら、これまでの人生でしてきた良いことも悪いことも頭の中を行き来し、胸は後悔でいっぱいになった。もっと早く、無闇に人を怒らせるような真似をしなければよかったと。今となっては頼れるのは紗枝しかいない。一方、紗枝は運転手に全速力で現場へ向かうよう告げた。彼女は現場からそう遠くなかったが、妊娠中の身では直接飛び込むことはできず、まずは近くで様子を窺うしかなかった。雷七たちは驚くほど早く、ほとんど紗枝と同時に到着した。挨拶を交わす間もなく、太郎の車はすでに半壊し、彼が車内から引きずり出されているのが見えた。状況はまさに危機一髪だった。雷七たちは即座に駆け寄り、救出に入る。太郎は両手で頭を抱え、殴られすぎて視界がぐら
