LOGIN29歳のOL・瑠衣は、結婚式を一か月後に控えていた。 しかし婚約者の雅之が妹・真衣を妊娠させたことで婚約は破棄。結婚式まで妹に乗っ取られ、両親からも「妹のメンタルが云々」と家を追い出されてしまう。 居場所を失った瑠衣が出席したのは、自分のものだったはずの結婚式。そこで出会ったのは、親戚中から変人扱いされる独身の叔父・相沢灯だった。披露宴の片隅で交わした会話をきっかけに、灯は瑠衣へ一軒の空き家の鍵を差し出す。だがその叔父には、誰も知らない秘密があった――。結婚式の端っこから始まる、年の差再生ラブストーリー。
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最初に口を開いたのは真衣だった。
「お姉ちゃん、ごめんね」 そう言いながら、無意識に腹に手を置いた。 「赤ちゃん、できたの」 「そうなんだ」 「雅之さんとの」 沈黙。 テーブルの上に湯呑みが並んでいた。全員分の湯呑みが。瑠衣の分はなかった。雅之が話し始めた。視線をテーブルの一点に固定したまま、用意してきた言葉を読み上げるように。
「本当に申し訳ない。でも責任を取らなきゃいけない」 「子供には罪がない」 父がさらっと告げた。 「まず赤ちゃんを優先しないと」 母も当たり前のように流した。 全員が正しいことを言っていた。 反論できる言葉がひとつもない。それが不思議なほど、反論できる言葉がひとつもなかった。 「私との結婚は」 「ごめん」 雅之はそれだけ言って、また黙った。 真衣が補足した。顔は申し訳なさそうだったが、声は明るかった。 「でも結果的には良かったと思うんだ。だって赤ちゃん来てくれたんだし」 悪意がなかった。 それが一番怖いことだと、瑠衣はこの瞬間に理解した。 「式なんだけど」 母が口を開いた。まったく悪いという意識のない声色だった。 「そのまま使おうと思うの」 「何を」 「式場よ」 「キャンセル料も馬鹿にならないから」 母の声に父が重ねた。 「招待客もほぼ同じだし」 雅之も同調する。 誰も結婚式の乗っ取りだと思っていなかった。効率の話をしていた。日程と費用と段取りの話を、テーブルを囲んでしていた。 雅之の母が話を進めた。 「招待状は刷り直しますから」 「費用面はこちらで調整します」と雅之の父が続けた。 もう結論の出た案件として処理されていた。瑠衣が帰宅する前から、すでに答えが決まっていた。この集まりは報告の場で、相談の場ではなかった。「ドレスも売ったよ」
真衣が言った。さらっと、思い出したように。 「私サイズ違うし。着ないもの置いといても仕方ないでしょ、って」 「…売った」 「もう式まで時間ないし。リサイクルショップに持っていったら意外と値段ついて、それでちょっとお祝いのお花買ったの」 瑠衣は返事をしなかった。返す言葉が浮かばなかったのではない。言葉にする前に、何かが止まった。 (バカしかいないのか、この家) 脳の静かな場所で、そんな言葉が生まれた。怒りでも悲しみでもなく、ただの確認みたいに。「しばらく家を出てくれ」
「私、今日婚約破棄されたんだけど」 「だからだ。。これから式の打合せで顔合わせする時、お前がいるとやりづらい」 父の顔は真剣だった。 「お前なら大丈夫だから頼んでいるんだ」 「私、雅之さんといると安心するから、しばらく実家にいる」 真衣が補足した。この家の正義はいつもこうだった。困っている方を助ける。強い方が我慢する。そして"強い方"はいつも瑠衣だった。 誰も瑠衣が困っているとは思っていなかった。困っているのは真衣で、赤ちゃんで、雅之で——瑠衣は「大丈夫な方」として最初からカウントされていた。今日この部屋で話し合いが始まる前から、ずっと。瑠衣はもう一度、部屋を見渡した。
父の顔、母の顔、真衣の顔、雅之の顔、雅之の両親の顔。 誰も敵意を持っていない。誰も意地悪をしようとしていない。誰も悪人の顔をしていない。 ただ、誰も瑠衣の人生を当事者として扱っていなかった。 今夜どこで眠るのか、明日どんな顔で出社するのか、この部屋の誰も考えていなかった。 婚約者を取られた瑠衣、結婚式を取られた瑠衣、家を出ていく瑠衣——それは解決すべき問題ではなく、すでに片付いた話として、この部屋では処理されていた。 私はここにいない。 最初からいなかった。 立ち上がると、真衣が明るい声を出した。 「あ、結婚式出てね!お姉ちゃんに来てほしいから!」 その声は無邪気で、本当に来てほしいと思っているようだった。 「……考えとく」 それだけ返して、廊下へ出た。リビングのドアを閉めると、中から父と雅之の声が聞こえてきた。式の段取りの話だった。自室に戻った。
電気をつけなかった。暗いまま、ベッドに腰を下ろした。 クローゼットを見た。引き出しを見た。本棚を見た。全部自分のものだったが、どれも自分のもののように感じなかった。 スマホが光った。 画面には「結婚式まであと三十一日」という通知が出ていた。式のカウントダウンアプリ、雅之と一緒に入れたやつだった。削除するのを忘れていた。-友人に連絡しようとした。
連絡先を開いたまま、閉じた。 今夜この話をする気力がなかった。驚かれて、怒ってもらって、慰められて、また明日から普通に仕事に行く。そのルートを辿る体力が、今はなかった。 窓の外、近所の家の明かりが見えた。 誰かが夕飯を食べている時間だった。ここを出たらどこへ行く。
ネットカフェに一泊して、それから。 実家を出て一人暮らしの経験はない。会社の給料は悪くないが貯金は結婚の準備で半分近く使った。式のドレスに積み立てていた分は——もう売られていた。お花になっていた。 打開策が何もなかった。 誰かに頼れる、という回路が瑠衣の中にはなかった。子供のころからずっと「大丈夫な方」だったから、助けを求める練習をしたことがなかった。スマホのカウントダウンをタップして、アプリを削除した。
三十一日、という数字が消えた。 代わりに何も表示されなかった。この夜が人生最悪の日じゃないことを、瑠衣はまだ知らなかった。
午前十時、会議室のモニターに灯火書房の担当者が映し出された。 マイクの音量を確認し、簡単な挨拶が済むと、オルビット側の説明が始まる。梨香子が画面共有をしながら、資料を順に送っていった。 起用予定の俳優のプロフィール。SNSでの投稿計画。都内でのイベント案。インフルエンサーを三十名招く先行体験会。 「投稿は公開の一週間前から段階的に出していきます。ハッシュタグはこちらで統一して、トレンド入りを狙います」 スライドが切り替わるたびに、数字が並ぶ。想定リーチ数、拡散率、想定インプレッション。 モニターの中の担当者は、口を挟まずに最後まで聞いていた。目立った表情の変化もない。ただ、時折手元に視線を落として何かを書き留めている。 一通りの説明が終わり、梨香子が「以上になります」と締めくくった。 短い間の後、担当者が口を開いた。 「ありがとうございます。ひとつだけ、確認させてください」 穏やかな声だった。 「読書支援システムのご説明は、どちらで行われる予定でしょうか」 会議室の空気が、少し止まった。 梨香子は気づいていないようだった。資料の次のページを開こうとしていた。瑠衣は手元のメモを見たまま、視線を上げられなかった。担当者の質問は責めていなかった。ただ確認していた。その静けさの方が、怒声より重かった。 梨香子が次のスライドに移った。俳優のプロフィール写真が映し出された。担当者は画面を見た。何も言わなかった。その沈黙が何を意味するのか、梨香子には届いていなかった。 誰かの椅子が小さく軋む音がした。梨香子はすぐには答えず、資料を戻すようにマウスを動かした。 それから、明るい声で切り出した。 「そちらは、後半のフェーズで考えています。まず俳優さんに興味を持ってもらって、その流れで自然にシステムを紹介すれば十分かと」 自信のある口ぶりだった。良い順序を組み立てたと信じている声だった。 「認知が広がってからの方が、届く人数も増えますので」 担当者は少し頷き、それからゆっくりと言葉を選んだ。 「なるほ
火曜の午前、企画チームの打ち合わせが始まった。 配られた資料が、机の上を滑るように回ってくる。瑠衣は一枚目に目を落とした。 灯火書房とのタイアップ企画が正式に動き出す。表紙にはそう書かれている。ページをめくると、二枚目の上半分に大きく人名が印刷されていた。人気若手俳優、起用予定。名前の下には出演作の一覧が続いている。 その下、余白を挟んだ小さな活字で、読書支援システムの概要が三行だけ添えられていた。 瑠衣の視線が上下に往復する。読書機会の平等という言葉と、俳優の名前。同じ紙の上に並んでいるのに、文字の大きさがまるで違った。 資料の端を持つ指に、少し力が入る。 斜め向かいの席で、正木も黙ったまま同じページを見ていた。 会議室はいつも通りの空気だった。プロジェクターが立ち上がり、担当者が資料の説明を始める。視覚障害者の読書支援、電子書籍と紙の書籍の両対応、AI読み上げシステムの概要。その説明が続く間、梨香子はスマホを見ていた。資料ではなく、スマホを。 担当者の説明が終わった。梨香子がスマホを置いた。「じゃあ私から補足します」と立ち上がった。資料には目を向けなかった。 梨香子が立ち上がり、ホワイトボードの前に出た。「この俳優さん、私の知り合いなんです」 明るい声だった。手元の資料を見ずに話し始める。「事務所も乗り気で、SNSも回してもらえます。フォロワー、二百万超えてるんですよ」 誰かが感嘆の声を上げる。若手の男性社員が身を乗り出した。「それ、めちゃくちゃ強いですね」「でしょう? 絶対バズります」 梨香子は嬉しそうに頷いた。自分の企画を信じている顔だった。誰かを出し抜こうとしているのでも、手を抜こうとしているのでもない。これが一番良い形だと、本気で思っている。 男性社員たちの間で、拡散数の話が続く。ハッシュタグをどうするか、投稿のタイミングをいつにするか。 瑠衣は資料の三行を、もう一度読んだ。「本末転倒じゃないか」 斜め向かいから、小さな声がした。正木だった。誰にも届かないような音量だったが、瑠衣の耳には届いた。 顔を上げると、正木は資料を裏返して机に伏せていた。 梨香子の説明は続く。フォロワー数、拡散力、タイアップ実績。数字は並んでいたが、読書支援という言葉は一度も出てこなかった。男性社員の声が重なるたびに、梨香子の声は少
土曜日の午後、玄関のチャイムが鳴った。 いつもの時間、いつもの顔だった。灯は軽く会釈をして靴を脱ぎ、廊下を進んでいく。書庫の扉を開ける手つきも、椅子を引く動作も、これまでと変わらない。 書庫に入った時から、鞄を置く動作が少し遅かった。本を選ぶのにいつもより時間がかかっている。心がここにないというのがぴったりくる動作だった。瑠衣は少し首を傾げて、台所でお茶を淹れた。 瑠衣がお茶を運んでいくと、灯はもう本を広げていた。 それから一時間近く、机の上の光景はほとんど動かなかった。 灯の指は本の右端に触れたまま止まっている。視線は確かに紙面の上にあるのに、文字を追っている速さではなかった。同じ行のあたりで目が止まり、しばらくしてまた戻る。ページをめくる音が、いつもより遠い間隔でしか聞こえてこない。 湯呑みも減っていない。運んできた時とほとんど同じ位置に、同じ高さの水面のまま置かれている。表面に浮いていた湯気は、とうに消えていた。 瑠衣は本棚の整理をするふりをして、その様子を少し見ていた。 声をかけるべきか、少し迷った。 書庫に入った時から、灯の様子は普段と違った。鞄を置く動作が少し遅かった。 本を選ぶのにいつもより時間がかかった。それでも何も言わなかったので、瑠衣も何も聞かなかった。お茶を淹れて持っていった。「ありがとうございます」という返事は、いつも通りだった。 灯が書庫へ来てから、もう一時間ほど経っていた。その間、ページをめくった回数を数えていたわけではないが、ほとんど動いていないことは分かった。お茶も最初の一口から変わっていない。カップの外側に水滴がついていた。 声をかけるべきか迷った。書庫に入った時から、鞄を置く動作が少し遅かった。本を選ぶのにいつもより時間がかかった。それでも何も言わなかったので、瑠衣も黙っていた。 以前にも、灯が茶に手をつけないまま夕方を迎えたことがある。あの時は本の中に入り込みすぎて、周りが見えなくなっていた。今は違う。本が灯を掴んでいるのではなく、灯の方が本の上で立ち止まっている。 指
月曜日の朝、オフィスの空気がいつもと違った。 エレベーターを降りた瞬間から、廊下の話し声が普段より多い。「出版社案件らしいよ」「大型企画みたいだね」 誰もが噂だけを口にして、詳細を知る者はいない。瑠衣は自分のデスクに着き、いつも通りパソコンを立ち上げた。メールを開き、今日の予定を確認する。周囲のざわめきは気になったが、手を止める理由にはならなかった。 修正依頼の対応が二件入っていた。メーカーとのやり取りを終えて、社内確認を済ませる。普段通りの仕事だった。ただ廊下の話し声は昼になっても続いていた。「大型案件」「出版関係」という言葉が、断片的に耳に入ってくる。瑠衣はその都度、画面に視線を戻した。午前の仕事を終えた頃、部長から声がかかった。「今日の午後、案件説明の場を設ける。第一営業局は全員参加で」 昼休み。近くの定食屋に行くと、先に正木がカウンターで食事を取っていた。瑠衣の姿を見ると軽く手を上げた。隣の席が空いていた。 腰かけて日替わり定食を食べると正木が話しかけてきた。「大型案件の噂は本当だったんだ。瑠衣さん、灯火書房って知ってる?」「名前だけなら」 それだけだった。正木は定食の味噌汁を一口飲んでから、少し声を落とした。「出版社って、うちあんまり取引ないじゃないですか。だから余計に気になって」「ですよね。珍しい案件ではあると思います」「灯火書房って、電子書籍系の会社だよね。なんか変わった社長がいるって聞いたことある」 瑠衣はカウンターに出された定食の盆を軽く見て、箸を取ろうとした手が止まった。「そうですか」 それだけ答えた。二人とも、詳細はまだ知らなかった。 会議室に部長の声が響いた。「今日はみんなに、新しい案件の概要を話す」 スクリーンに一枚のスライドが映し出される。「クライアントは、灯火書房」 瑠衣はペンを持つ手を止めた。社名だけが、他の言葉より少し大きく耳に残った。 部長がスライドを進める。「AIによる読み上げシステムの共同開発案件だ。紙の本も電子書籍も両
金曜日だった。 仕事帰りの電車の中で、今週を振り返った。同情された。気を遣われた。案件は三件動いた。雅之からまた意味のわからないメッセージが来た。無視した。上司に「本当に大丈夫か」と四回聞かれた。四回とも大丈夫だと答えた。 豪邸に帰るのが、少し当たり前になってきていた。 それが嫌だった。当たり前にしていい場所ではない気がした。でも帰る場所はここしかなかった。 最寄り駅で降りて、いつもの道を歩いた。コンビニに寄ろうか迷って、今日は食材を買おうと思って、駅前のスーパーに入った。何を作るか決めていなかったが、野菜と豆腐と卵を買った。それだけあれ
目が覚めた瞬間、ここが自分の家ではないことを思い出した。 天井が違う。染みがない。高い。白い。 ソファで寝ていた。ベッドは二階にあったが、昨夜は上がる気力がなかった。体を起こすと、リビングの壁一面の本が目に入った。昨日からそこにあった本が、今朝もそこにあった。当たり前だった。 スマホを見た。会社からの着信が二件入っていた。上司の番号だった。折り返した。 「無理して来なくていいぞ」 「出ます」 少し間があった。 「そうか」 それだけだった。電話が切れた。シャワーを浴びて、スーツに着替えた。 株式会社オルビット・コミュニケーションズ。広告代理店。勤続六
駅前のベンチに座った。 キャリーケースを足元に置いて、スマホでホテルを検索した。最寄り駅周辺、今夜から、一名。画面に価格が並んだ。一泊八千円。一週間で五万六千円。一か月で……計算したところで閉じた。 ネカフェでもいい。足さえ伸ばせれば。いや、足を伸ばしたい。今日一日立ったり座ったり、笑い声を聞いたり無視されたり、それだけで体が限界に近かった。 ポケットから鍵を出した。 メモを見た。相沢灯。住所。知らない地名。 今日初めて会った人間の家の鍵が、手の中にある。状況だけ取り出すと相当おかしい。しかし今夜の選択肢を並べると、これが一番まともだった。「……行くか」 独り言が出た。誰もい
「ブーケトスのお時間です!」 司会の声が会場に響いた。テーブルから立ち上がる女性たちの気配。瑠衣も立ちかけた。「お客様はご着席でお待ちください」 スタッフが笑顔で近づいてきた。丁寧な声だった。意味は一秒で理解できた。「……わかりました」 ブーケが空中を飛んだ。歓声が上がった。拍手が起きた。瑠衣の円卓だけが、切り取られたように静かだった。 しばらくして、真衣側の友人席から男が一人やってきた。グラスを持ったまま、ふらついた足取りで。酔っていた。「ねえ、君いくつ?」 瑠衣を見て、気さくに話しかけてきた。「二十九です」 男は数秒、止まった。「え」「二十九歳です」「おばさんじ