明一は、逸之を池へ突き落とした瞬間、まさか自分まで引きずり込まれるとは夢にも思わなかった。泳ぎを習ったことはあったが、ここは整備されたプールではない。濁った水と泥の底、足元の不安定さが全身の自由を奪う。ましてや、逸之が必死にしがみついてくるせいで、まるで体が縛られたように動けなかった。くそっ......!その時、水をかき分けて一人の男が近づいてきた。助けが来た、と明一は思った。しかし男は迷うことなく逸之を抱え上げ、そのまま岸へ向かった。抱えられた逸之は、その時になってようやく明一の服から手を放した。ほんの一分も経たぬうちに、逸之は拓司によって引き上げられる。幸い水を飲み込むこともなく、顔色こそやや青ざめていたが、命に別状はなかった。明一もすぐに警備員の手で救助された。人混みをかき分けて駆けつけた紗枝は、息子を抱えているのが拓司だと気づくと、迷わずそのもとへ走った。「逸ちゃん!」人々は次々と電話を取り、救急車を呼び始める。本来なら賑やかに続くはずだったパーティーは、二人の子どもの諍いによって、思いがけず早く幕を閉じることになった。病院。白い光の下、医師が二人の子どもを診察している。紗枝は啓司の手を強く握りしめていた。「心配するな、大丈夫だ」啓司は低く穏やかな声でなだめた。少し離れた場所に立つ拓司は、逸之を救ったため全身がずぶ濡れだ。昭子が心配そうに近づき、頬に残る水滴をそっと拭った。「拓司、服がこんなに......一度帰って着替えてきましょう」「大丈夫だ」拓司は短くそう答えたが、その視線は何度も紗枝と啓司が固く握り合う手へ向かう。昭子もその視線に気づいた。胸の奥で嫉妬の炎がくすぶったが、それを表に出すことはできなかった。そこへ綾子が歩み寄った。「拓司、一体どういうことなの?どうして二人して水に落ちたりしたの」「僕にもよく分かりません。気づいた時には、もう池の中でした」拓司は静かに首を振った。それ以上、綾子は詮索せず、共に医師の診断を待つことにした。やがて診察室から医師が現れた。「幸い、すぐに救助されたおかげで、二人とも深刻な影響はありません」「逸ちゃんは?あの子はもともと体が弱いのよ」綾子が真っ先に尋ねた。「詳しく診ましたが、特に問題はありません」
祖父が鈴をかばおうとする様子を目にして、啓司は呆れたように眉をひそめた。「俺の子だよ」黒木の老人は杖を握りしめ、そのまま啓司めがけて投げつけた。わずかにそれて、空を切る。「こんな時になっても、まだ本当のことを言わないつもりか?え?」啓司は、今この場に漂う緊張感と、紗枝が時間を稼ぐためにやむを得ず取った行動について、包み隠さず語った。話を聞き終えた黒木の老人は、しばし言葉を失ったように呆然と立ち尽くした。「じゃあ......鈴の言っていたことは、全部嘘だったのか?」「もちろんだ。自分の子が誰の子か、俺が知らないわけないだろう」啓司は冷ややかな目を向け、逆に問い返した。その言葉に、老人はようやく安堵の息を漏らし、胸の底に沈んでいた心配がほどけていく。「そうか......鈴め、何も確かめもしないで、俺にでたらめを吹き込んでいたんだな」啓司は最初から鈴の虚言を見抜いていた。目には冷たい光が宿る。黒木お爺さんは、自分がうっかり鈴の嘘を暴いてしまったことに気づき、慌てて取り繕った。「啓司よ、鈴も善意でやったんだ。紗枝に騙されるんじゃないかと心配してくれたんだよ。斎藤家は昔からうちと縁が深いんだ。どうか鈴の気持ちを傷つけないでくれ」啓司は表情を変えぬまま、静かに頷いた。「わかってる」黒木家はかつて、斎藤家のお爺さん・斎藤茂(さいとう しげる)の命を救ったことがある。恩を忘れぬ茂は、黒木家がいかなる困難に直面しても一貫して支え続けた。啓司が家督を継いだ当初も、その手は差し伸べられていた。啓司は決して恩知らずではない。「じいちゃん、もう行っていい?」「ああ」黒木お爺さんは柔らかく言った。「せっかく家族が揃っているんだ。いとこや親戚とゆっくり話してこい」啓司が席を立つと、牧野が古くからの側近たちを引き合わせた。一方、綾子は数人の女性親戚に孫を紹介しながら、頬をほころばせていた。皆は口々に、逸之が啓司によく似ていると褒め、この子は将来きっと大成するだろうと囁いた。逸之は祖母の顔を立てるように、従順に祖母世代の歓心を買った。ほとんどの人に挨拶を終えた頃、綾子は孫の疲れを見取り、椅子に座って休むよう促す。「はい」素直に答えた逸之は、まず母を探そうと周囲を見回した。その時、逸之が一人になった
綾子は一瞬、我を忘れた。逸之の震える声が、心の奥を激しく揺さぶる。まさか、自分の可愛い孫に「早死にする」などという言葉を浴びせる者がいるとは、怒りが頭のてっぺんまで突き上げた。従姉妹たちは互いに顔を見合わせ、戸惑っていた。「早死に」などとは言っていない。ただ「白血病は治りにくい」と言っただけ――そのはずだった。しかし、逸之は完璧に「役」に入っていた。綾子の胸にすがりつきながら、大粒の涙をこぼし、息も絶え絶えに叫んだ。「おばあちゃん、僕......僕、もう長生きできないの?死にたくないよ......!」その迫真の演技に、紗枝でさえ一瞬心が揺れたほどだ。「この子......ちょっとした役者になれるかも」と、密かに感心しながら、目を伏せて笑いをこらえる。綾子は胸を押さえてしゃがみこみ、逸之の頬を包むようにして涙をぬぐった。「そんな馬鹿なこと言わないで!逸ちゃんはきっと百歳まで生きるわ!」すぐに立ち上がり、鋭く親戚たちを見渡した。その視線は、刃物のように冷たく研ぎ澄まされていた。「うちの孫に『死ぬ』なんて言葉を吹き込んだのは誰?出てきなさい!」昭子は顔面蒼白になり、他の従姉妹たちも気配を消そうと俯く。場の空気が凍りついていた。ようやく、一人の従姉妹が震える声で口を開いた。「お、おば様......私たち、そんなつもりで言ったわけじゃ......「早死」なんて言葉は使ってません......」「ならば聞くけれど、あの子がなぜ『死にたくない』なんて言葉を口にするの?どんな空気を作ったのか、自覚はあるの?」綾子の声は鋭く、天井を突き抜けるようだった。別の従姉妹が小さく答える。「白血病って、治りにくいってだけで......」紗枝がすかさず冷たい声で追い打ちをかけた。「『治りにくい』じゃなくて、『治らない』って、はっきり言ってましたよね?」逸之の泣き声が、再び響いた。「うぅ......おばあちゃん......僕......死にたくないぃ......!」その健気な声が、親たちの胸をえぐる。綾子は堪らず、皆を指差した。「四歳の子に何を言っているの!?いい年をした大人が寄ってたかって、何てことを!」一同は一斉に青ざめた。綾子がここまで激昂するのは、彼女たちにとっても未体験だった。
紗枝は逸之の小さな手を引き、来客の視線を避けるようにしてホールの隅に腰を下ろした。静かに、啓司の戻りを待とうと思っていた――だが。「まあ、お義姉さん。こんな隅っこにいらしたのね。いらっしゃらないのかと思ったわ」声音は柔らかくとも、明らかに嘲りを含んだ言葉だった。現れたのは昭子で、後ろには黒木家の従姉妹たちが数人付き従っている。まるで見せ物でも見るかのような目で、逸之に視線を向けた。席についた従姉妹の一人が、心配そうな顔を作って口を開いた。「お義姉さん、この子が啓司さんの息子さん?まあ可愛い顔ね。でも......重い病気なんですって?何の病気だったかしら?」紗枝の胸がずきりと痛んだ。だが、返事をする間もなく、別の従姉妹が言葉を重ねた。「お祖父様がおっしゃってたわ。白血病だって」「え?白血病って......治らない病気じゃないの?」「長く生きられないんでしょ......?」その場にいた者たちが、まるで面白半分に言葉を重ねた。そのどれもが、紗枝の心を突き刺すナイフのようだった。必死に唇を噛みしめ、拳を握る。けれど、どう反撃すればいいか分からない。そのとき、先に声を上げたのは、逸之だった。「ねえママ、このおばさんたち......学校に行ったことないの?」一瞬、空気が凍りついた。紗枝は息子の意図を察し、わざと不思議そうに首をかしげた。「どうしてそんなこと言うの?このおばさんたちは優秀なのよ。ケンブリッジ大学を出た人もいるんだから」従姉妹たちは顔を見合わせ、くすくすと笑い出した。「逸ちゃん、読み書きくらいできるわよ?ケンブリッジ大学なんだから」逸之は、ぴたりと笑うのを止めた。そして、じっと従姉妹たちを見ながら言った。「そっか。じゃあ......パパもママもいないの?」「えっ......?」一同はぽかんと口を開けた。「だって、うちの先生が言ってたよ。人をからかったり、病気をバカにしたり、そういうのはちゃんと躾してもらってない子がするんだって。マナーを知らないのは、教育を受けられなかった子なんだって」その言葉に、従姉妹たちの表情がさっと青ざめた。「......っ、なに言って......!」紗枝は、追い討ちをかけるように穏やかな声で言った。「逸ちゃん、そんな失礼なこと言
紗枝たちは身支度を整えると、すぐに車で黒木家の本宅へと向かった。今夜の本宅は、あたりが暗くなり始めたにもかかわらず、まるで昼間のように明るかった。玄関前には高級車がずらりと並び、館内からは賑やかな人々の声が漏れてくる。黒木一族に静けさが訪れることなど、そうそうないのだ。鈴は額に包帯を巻いたまま、その中にいてもひときわ目立つ存在だった。黒木家の御当主──黒木お爺さんの隣で笑顔を絶やさずに談笑し、その周囲には自然と人の輪ができていた。一方、綾子と昭子は招待客の応対に追われ、館内を行ったり来たりしていた。青葉もまた、その姿を見せていた。彼女を見つけた夫人たちが、猫のように素早く寄ってきて取り囲んだ。「奥様、昭子さんがご懐妊とか......拓司様とのご結婚はいつですの?」「日取りが決まったらぜひご一報くださいね。前もってお祝いをご用意しておきたいわ」次々と浴びせられる催促に、綾子は作り笑顔で応じるしかなかった。「あの子たちが結婚したい時に、するつもりですよ」だが、周囲の視線はもう、昭子の方へと移っていた。昭子はにっこりと笑い、堂々とした口調で言う。「ウェディングドレスはすでにオーダーメイドで進めていますし、結婚式も近々行う予定です」その場にいた者たちは一斉に歓声を上げ、昭子に祝福の言葉を浴びせた。ちょうどその頃、玄関ホールに現れた拓司は、部下から昭子の発言を聞かされ、わずかに表情を曇らせた。これは、あからさまな「既成事実化」だ。傍らの万崎が、気を遣うように耳元で囁いた。「拓司様......昭子様は、あなた様のお子をお身籠りです。どうか、お子様のためにも──」「僕の私事に口を出すな」拓司の声は、氷のように冷たかった。あまりの剣幕に、万崎は思わず口を噤み、目を伏せた。「分かっているだろう。僕はあいつが嫌いなんだ」その言葉に、万崎はうなずきかけて、何も言えなくなった。拓司が昭子と婚約したのは政治的判断だった。それ以外に理由はなかった。愛情など、初めから一切なかったのだ。フロントホールは一層の賑わいを見せていたが、そこに新たな気配が加わると、場の空気ががらりと変わった。啓司が紗枝と逸之を伴って現れたのだ。彼らが一歩足を踏み入れた瞬間、誰もが無意識に振り返った。鈴もまた
「どこへ行くつもりだ?」背後から手首を掴まれ、唯が振り向くと、澤村が立っていた。無理やり彼のもとへ引き戻された。「警備員が人を追い出してたから、てっきり私たちも......」唯は戸惑いながら言ったが、澤村は肩をすくめ、何でもないことのように答えた。「退去するのは他の連中だけだ。俺たちは含まれてない」言葉の意味を一瞬理解できずにいた唯だったが、すぐに察した。澤村は、さっきの電話一本でショッピングモールの責任者を動かしたのだ。──「関係者以外、全員退去」。全館の貸し切り。それも、わずか数分で。唯は思わず目を細め、小さくつぶやいた。「無駄遣いもここまでくると芸術ね......そんなにお金があるなら、私に少しくれてもいいのに」「今、何か言ったか?」澤村が顔を近づけて耳を傾けると、唯はすぐに笑顔でごまかした。「ううん、なんでもない!じゃあ今日は......タダで食べ放題、買い放題ってことよね?」「もちろんだ」彼が即答すると、唯の目がきらきらと輝いた。「やった!じゃあね、全部の店に伝えて!看板メニューをぜーんぶ出してもらって!味見したいの!」「全部、食べられるのか?」「食べきれなくてもいいの、味見しないと損じゃん!」会計は澤村が持つ。それが分かっているからこその奔放さだった。十分後、館内アナウンスと共に、一階・六階・七階の店舗に「本日全品無料」の札が掲げられた。服もバッグもアクセサリーも、取り放題。すべて澤村の口座から、一括決済。唯はデザートショップの椅子に腰を落ち着け、スマホを取り出して電話をかけた。「紗枝、今すぐ来て!モールを貸し切りにしちゃった!食べ放題、買い放題、遊び放題、全部タダよ!」その頃、時間を持て余していた紗枝は即座に雷七と逸之を連れて車に乗り込み、現場へと向かった。久しぶりに顔を合わせた唯と紗枝は、姉妹のようにおしゃべりを始め、止まらなくなった。その横で、澤村は退屈しのぎに逸之にちょっかいを出しはじめる。「お前、ホントによく似てるな。双子ってやつは不思議だ」そう言いながら、つまむように彼の頬に手を伸ばすが、逸之はさっと身をかわし、冷たい目で言い放った。「ご飯をおごってくれたからって、気安く触れると思わないで」ママは昔、この人にひど