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第6章:媒介者の自覚

Auteur: 佐薙真琴
last update Date de publication: 2025-12-13 18:57:12

 休職の二週間目、マキラは実家で過ごすことにした。

 母は何も聞かずに彼女を受け入れた。ただ、毎日温かい食事を作り、そっと見守ってくれた。

 マキラは朝、散歩をすることにした。近所の公園を歩き、木々の間を抜け、池のほとりに座る。

 そこで、彼女は自分の心と対話した。

 なぜ、救えなかったことをそこまで責めるのか?

 答えは、徐々に見えてきた。

 彼女は、救命士という仕事を、自分の存在価値と同一視していた。人を救うことができなければ、自分には価値がない――そんな思い込みが、彼女を縛っていた。

 しかし、それは間違っていた。

 人の価値は、成功や失敗で測られるものではない。

 ある日の午後、マキラは母と二人でお茶を飲んでいた。

「お母さん、私ね、ずっと思ってたんだ。完璧な救命士にならなきゃいけないって」

 母は静かに聞いていた。

「でも、完璧な人間なんていない。私も、救えない命がある。それを受け入れることが、怖かったん

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  • 償いのサイレン―救命士と死者の対話―   終章:新しい鼓動

     それから一年が過ぎた。 マキラは、相変わらず救急救命士として働いていた。 しかし、彼女の生き方は大きく変わっていた。 仕事が終われば、同僚と食事に行く。月に一度は実家に帰る。カウンセリングも続けている。 そして何より――自分を許すことができるようになっていた。 救えなかった患者がいても、自分を責めすぎない。 最善を尽くした。それで十分だ。 そう思えるようになっていた。 ある秋の日、マキラは美月から招待状を受け取った。「心理カウンセラー資格取得記念パーティー」 美月は、無事に資格を取得し、カウンセリング会社に就職したという。 パーティーは、小さなレストランで開かれた。 美月の友人や家族が集まり、和やかな雰囲気だった。「マキラさん、来てくれてありがとうございます」 美月は笑顔で迎えた。「おめでとう。本当に頑張ったわね」「マキラさんのおかげです。あなたが、私に前に進む勇気をくれました」 二人は抱擁を交わした。 パーティーの最中、美月がスピーチをした。「今日、ここに集まってくれた皆さん、ありがとうございます」 美月の声は、明るく力強かった。「私は、十二年前に母を失いました。それは、私の人生で最も辛い出来事でした」 会場が静かになった。「でも、その経験が、今の私を作りました。苦しみを乗り越えたからこそ、同じように苦しんでいる人の気持ちが分かる」 美月はマキラを見た。「そして、ある救命士の方が、私に大切なことを教えてくれました。人は、一人では生きられない。助けを求めることは、恥ではない。それは勇気だと」 マキラの目に涙が浮かんだ。「だから、これから私は、カウンセラーとして、誰かの支えになりたい。母が私を支えてくれたように」 会場から拍手が起きた。 パーティーが終わった後、マキラと美月は外で話をした。

  • 償いのサイレン―救命士と死者の対話―   第5章:12年前の患者

     消防署に着くと、柴田隊長は自室でマキラを待っていた。「座れ」 隊長の声は優しかった。マキラは椅子に座り、深呼吸をした。「隊長、私、話さなければいけないことがあります」「聞こう」 マキラは、十二年前の出来事から語り始めた。 それは、彼女が救命士になって二年目の冬のことだった。深夜の交通事故。飲酒運転の車が、信号待ちをしていた軽自動車に衝突した。 軽自動車には、母親と八歳の娘が乗っていた。 母親——桐谷夏美は、車の下敷きになっていた。マキラたちが到着したとき、彼女はまだ意識があった。「娘を……娘を先に……」 夏美は血を吐きながら懇願した。 しかし、救出の順序は明確だった。より重症な方を優先する。娘の美月は軽傷だった。夏美の方が、緊急性が高かった。 マキラは夏美を救急車に乗せた。その間、美月は現場で泣き叫んでいた。「ママ! ママ!」 その声が、今でもマキラの耳に残っている。 救急車の中で、マキラは懸命に処置をした。しかし、夏美の状態は急速に悪化した。「娘に……会いたい……」 夏美の最後の言葉。 そして、午前三時四十七分、彼女の心臓は止まった。 病院に到着する、わずか三分前のことだった。 マキラは、その後何度も自問した。もっと早く処置していれば。もっと的確な判断をしていれば。 しかし、どう考えても、彼女のやったことは正しかった。医学的に、手順的に、全て正しかった。 それでも——夏美は死んだ。 そして、マキラは自分を許せなかった。「それから、私は感情を封じ込めることにしたんです。患者を救えなかったとき、悲しんでいる暇はない。次の現場に備えなければならない。そう自分に言い聞かせて」 柴田は静かに聞いていた。

  • 償いのサイレン―救命士と死者の対話―   第10章:夜明けの決断

     その週末、マキラは美月から連絡を受けた。「マキラさん、お茶しませんか? 話したいことがあるんです」 二人は駅前のカフェで会った。 美月は以前よりも明るく、健康的に見えた。「お元気そうですね」「はい。最近、大学に戻りました。心理学を勉強してるんです」「心理学?」「ええ。母のこと、そして私自身の経験から、心の問題に興味を持ったんです」 美月はコーヒーを一口飲んだ。「将来は、カウンセラーになりたいと思ってます。母みたいに苦しんでいる人を、助けたい」 マキラは微笑んだ。「素晴らしい目標ですね」「マキラさんも、同じじゃないですか。人を救うために働いてる」「そうね。でも、最近気づいたの。人を救うって、命を救うことだけじゃないんだって」「どういう意味ですか?」「心を救うことも、同じくらい大切だってこと。いや、もしかしたらそれ以上に大切かもしれない」 マキラは窓の外を見た。「身体の怪我は治療できる。でも、心の傷は、本人が向き合わない限り癒えない」「マキラさんは、向き合ったんですね」「ええ。長い時間がかかったけど」 美月は真剣な表情で聞いていた。「実は、私もマキラさんに伝えたいことがあるんです」「何?」「母の日記を見つけたんです。事故の一週間前まで書かれていた日記」 マキラの胸が高鳴った。「そこに、母の思いが書かれていました」 美月はバッグから古いノートを取り出した。「最後のページに、こう書いてありました」 美月はノートを開き、読み始めた。「『もし私に何かあったら、美月は一人になってしまう。それが何より心配だ。でも、私は美月に伝えたい。人生には、予測できないことが起きる。それでも、生きることを諦めないでほしい。誰かを恨むのではなく、今を大切に生きてほしい』」 マキラの目に涙が浮かんだ。「母

  • 償いのサイレン―救命士と死者の対話―   第9章:屋上の対峙

     復職から一週間が過ぎた。 マキラは順調に現場に復帰していた。出動は日に平均六件。交通事故、急病、転倒――様々なケースに対応した。 そして、全てのケースで、彼女は冷静に、しかし温かく対応することができた。 以前との違いは、患者の家族とのコミュニケーションだった。 マキラは今、患者だけでなく、その家族の不安にも寄り添うようになっていた。「大丈夫ですよ。すぐに病院に着きますから」 そんな言葉が、自然に口から出るようになった。 しかし、ある夜、マキラは再び試練に直面することになる。 午前二時。出動要請が入った。「第三救急隊、至急出動。ビルの屋上で飛び降り未遂。三十代女性、説得中」 マキラの心臓が跳ねた。 飛び降り未遂。 それは、救命士にとって最も難しいケースの一つだ。身体的な怪我ではなく、精神的な危機。「行きますよ、マキラさん」 竜也が言った。 救急車が夜の街を走る。 現場は、都心のオフィスビル。十五階建ての建物の屋上に、女性が立っているという。 到着すると、すでに警察が現場を封鎖していた。「救急隊です」 マキラが名乗ると、警官が案内してくれた。「屋上に女性が一人。三十分前から説得してますが、聞く耳を持ちません」「身元は?」「分かりません。所持品もなく、名前も名乗らない」 マキラと竜也は、警官と共にエレベーターで屋上へ向かった。 エレベーターの中で、マキラは深呼吸をした。 落ち着け。今の自分なら、できる。 屋上のドアが開いた。 冷たい風が吹き込んできた。 そして――屋上の縁に、女性が立っていた。 背中を向けて、下を見ている。「おい、危ない!」 警官が叫ぶが、女性は動かない。 マキラは前に出た。「私は救急救命士の伊咲マキラです。話を聞かせてもらえませ

  • 償いのサイレン―救命士と死者の対話―   第8章:廃病院への回帰

     復職の前日、マキラは一つの決断をした。 もう一度、あの廃病院に行くことにした。 今度は恐怖からではなく、けじめをつけるために。 夕方、マキラは一人で旧東陵総合病院の前に立った。 建物は相変わらず荒廃していたが、以前感じたような威圧感はなかった。 ただの廃墟。それだけだ。 正面玄関から入り、階段を降りる。地下へ。 懐中電灯の光が、暗闇を照らす。 駐車場に着くと、マキラは立ち止まった。 ここが、全ての始まりの場所。 美月が倒れていた場所。 夏美の幻影を見た場所。 マキラは、その場所にしゃがみ込んだ。 そして、静かに語りかけた。「夏美さん、あなたがまだここにいるなら、聞いてください」 声は、駐車場に反響した。「私は長い間、あなたを救えなかったことを悔やんできました。でも、今は分かります。あれは、誰のせいでもなかった」 涙が頬を伝う。「あなたは、最後まで娘さんのことを心配していましたね。『娘を先に』って。でも、私たちは医学的な判断に従いました。それが正しいと信じて」 マキラは立ち上がった。「あなたの娘、美月さんは立派に成長しています。強く、優しい女性に。あなたは誇りに思っていいと思います」 風が吹いた。 地下なのに、風が。 それは、夏美の返事のように感じられた。「私は明日、現場に戻ります。また救命士として、働きます」 マキラは微笑んだ。「今度は、一人で抱え込まずに。仲間と協力して。そして、自分も大切にしながら」 駐車場を歩き、出口に向かう。 振り返ると、暗闇の中に何かが見えた。 いや、何も見えない。 それでいい。 夏美は、もうここにはいない。 安らかに、あるべき場所にいる。 マキラは廃病院を後にした。 外に出ると、夕日が美しかった。

  • 償いのサイレン―救命士と死者の対話―   第7章:孤独という病

     復職まであと二週間となった頃、マキラは新しい挑戦を始めた。 同僚の救命士たちとの交流会に参加することにしたのだ。 それは月に一度、消防署のメンバーが集まる飲み会だった。マキラは以前、これを避けてきた。仕事が終われば、すぐに帰宅する。同僚との私的な付き合いは最小限にする――それが、彼女のスタイルだった。 しかし、それが彼女を孤立させていたことに、今なら気づく。 居酒屋に入ると、すでに十人ほどが集まっていた。「おお、伊咲! 久しぶりだな!」 先輩の救命士、田中が手を振った。「久しぶりです」 マキラは席に着いた。竜也も来ていた。「マキラさん、調子どうですか?」「ぼちぼちかな。もうすぐ復帰できそう」「それは良かった! 現場、寂しかったんですよ」 他の同僚たちも、次々と声をかけてきた。 マキラは気づいた。彼らは、自分のことを心配してくれていた。自分が孤独だと感じていたのは、自分が壁を作っていたからだ。 酒が入ると、話題は様々な方向に広がった。 仕事の失敗談、家族のこと、趣味のこと。 その中で、田中が言った。「なあ、伊咲。お前、昔からストイックだったよな」「そうですか?」「ああ。俺たちが冗談言ってても、お前だけはいつも真面目な顔してた」 他の同僚たちも頷いた。「でもさ、最近少し変わったよな?」「変わった?」「うん。なんていうか、柔らかくなった気がする」 マキラは笑った。「そうかもしれない。少し、肩の力が抜けたのかも」 その夜、マキラは初めて、同僚たちと本音で話すことができた。 救命の現場での恐怖、失敗の悔しさ、患者を救えたときの喜び。 そして、救えなかったときの悲しみ。 みんな、同じような経験をしていた。 完璧な救命士なんて、存在しない。 全員が、失敗を抱え、それでも前に進んでいる。

  • 償いのサイレン―救命士と死者の対話―   第1章:廃病院の呼び声

     翌朝、マキラは自宅のアパートで目を覚ました。いや、正確には目を覚ましたというより、眠れなかった夜が終わったというべきだった。 時計を見る。午前十一時。通常なら深夜勤務の後はぐっすり眠れるはずだが、昨夜は違った。目を閉じるたびに、あの駐車場の暗闇と、ぼやけた人影が脳裏に浮かんだ。 キッチンでコーヒーを淹れながら、マキラは自分に言い聞かせた。疲労による幻覚だ。十年間この仕事を続けてきて、精神的な疲弊が蓄積している。それだけのことだ。 しかし、彼女の手は微かに震えていた。 携帯電話が鳴った。消防署の上司、隊長の柴田からだ。「伊咲、昨夜はご苦労だった。ところで、あの廃病院で搬送した女性だ

  • 償いのサイレン―救命士と死者の対話―   第3章:反復する顔

     マキラは自宅に戻らず、朝のカフェに入った。 眠れないことは分かっていた。家に帰っても、あの影が待っているような気がした。それよりも、人の気配がある場所にいたかった。 窓際の席に座り、ブラックコーヒーを注文する。カフェは朝の通勤客で賑わっていた。スーツ姿のサラリーマン、学生、主婦たち。日常的な光景。 しかし、マキラがカップに口をつけようとしたとき—— 店内の全ての客の顔が、同時にこちらを向いた。 そして、全員の顔が同じだった。 十二年前の患者の顔。あの女性。血を吐きながら、「娘に会いたい」と懇願した女性の顔。 マキラのカップが手から滑り落ちた。熱いコーヒーが膝に

  • 償いのサイレン―救命士と死者の対話―   第2章:3時47分の呪い

     翌日の夜勤は、妙な静けさの中で始まった。 消防署の仮眠室で待機していたマキラは、壁の時計を何度も見た。針が進むたびに、心臓が重くなる。午後八時、九時、十時……そして、やがて深夜へ。 竜也は隣で雑誌を読んでいた。彼は昨夜の出来事について何も言及しなかった。マキラが駐車場で一瞬立ち止まったこと、何かを見たような表情をしたこと——気づいていないのか、それとも気を遣っているのか。「マキラさん、コーヒー飲みます?」 竜也が声をかけてきた。「ありがとう」 彼女はカップを受け取ったが、飲む気にはなれなかった。胃が重い。 午前零時を過ぎると、出動要請が入り始めた。酔っ払いの転倒、老人の呼吸困

  • 償いのサイレン―救命士と死者の対話―   序章:日常の中の小さな亀裂

     午前三時。東京の夜は眠らない。 伊咲マキラは救急車の助手席で、流れゆく街灯を眺めていた。三十二歳。救急救命士として十年のキャリアを持つ彼女の目には、もはや夜の街の景色に特別な感慨はない。ただ次の現場へ向かう道筋を計算する冷静な思考だけがあった。「マキラさん、今夜で何件目でしたっけ?」 運転席の若手救命士、橋本竜也が尋ねる。二十五歳の彼は、まだこの仕事の過酷さに慣れきっていない。それが声の調子から分かる。「七件目。平均的な夜だよ」 マキラは短く答えた。無線機からは断続的に他の救急隊の交信が流れている。心筋梗塞、交通事故、アルコール中毒。都市の闇が生み出す無数の悲劇が、電波に乗って彼

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