LOGIN神崎怜菜。 彼女の瞳は、美しかった。 ――だからこそ、目を逸らしたくなった。 高校入学後、神崎怜菜に誘われた岩倉優雨は『万物研究会』へ足を踏み入れる。 究極の問い。 幽体離脱。 共感覚。 観測と次元。 それぞれが興味を持つテーマを自由に研究する、少し変わった場所。 穏やかで楽しい日々を過ごしながらも、神崎怜菜という存在には説明のできない違和感があった。 やがて優雨は、彼女の研究を通して世界の境界へと触れていく。 これは世界の境界に触れてしまった少年少女たちの、少しだけ異常な青春の記録。 そして、一人の少女を巡る切ない物語。
View More神崎怜菜《かんざきれいな》の瞳は、美しかった。
だからこそ、気味が悪かった。
眼球の外部構造の一つに、虹彩と呼ばれるものがある。
角膜の奥にあり、瞳孔を囲む、色を宿した輪状の筋肉。人はそこに感情を読み取る。
怒り、喜び、悲しみ、驚き。あるいは恋慕。目は口ほどに物を言う、なんて言葉があるくらいだ。
人間は他人の目から、相手の心を想像する。けれど、神崎怜菜の目は違った。
あれは、誰かを見る目ではない。
誰かに見られていることを、知っている目だった。
彼女のことは前から知っていた。
同じ中学に通っていたのだから当然だ。
別のクラスだった俺でさえ、神崎怜菜という名前くらいは知っていた。学校の中で、彼女を知らない人間はいなかったと思う。
それほどまでに、神崎怜菜は人目を惹く存在だった。首元で切り揃えられた黒髪。
整った顔立ち。 透き通るような白い肌。 そして、光を閉じ込めたような虹彩。遠目に見ているだけなら、ただ綺麗な女子生徒だった。
同じ学校にこんな人間がいるのかと、少し現実感が薄れるくらいの美しさ。
けれどそれは、あくまで遠くから眺めていた時の話だ。
中学一年の秋。
夕暮れ時、駅前にある本屋の前で、俺は初めて神崎怜菜と目を合わせた。偶然、通りすがっただけだった。
何かに呼び止められたわけでもない。 それなのに突然、背筋に冷たいものが走った。視線。
誰かが見ている。
そう感じて振り返った先に、彼女がいた。
神崎怜菜は、本屋の軒先に立ったまま、こちらを見ていた。
夕日に照らされたその姿は、現実よりも少しだけ輪郭が薄く見えた。
まるで夢の中の人物が、こちら側へ迷い込んできたようだった。
だが、俺を射竦めたのは彼女の美しさではない。
その瞳だった。
神崎の色鮮やかな虹彩は、確かに俺を向いていた。
けれど、彼女は俺だけを見ていなかった。俺の向こう側。
背後。
あるいは、もっと遠い場所。
この世界の外側にいる何かを、同時に見ているような目だった。
「君……」
透き通った声だった。
声量は大きくない。それなのに、雑踏の中でその声だけが妙にはっきりと耳に届いた。
「えっと……神崎さんだよね。一年三組の。何か用?」
何か言わなければならないと思って、口から出たのはそんな言葉だった。
「私のこと、知ってくれているんだ」
「まあ、有名だし」 「そう」神崎は小さく頷いた。
それから、こちらへ一歩近づく。「君の名前は?」
「岩倉優雨《いわくらゆう》だけど」 「岩倉優雨……」彼女は俺の名前を、音の響きを確かめるように繰り返した。
その間も、一度も視線を逸らさない。 居心地の悪さに、俺は思わず半歩だけ後ろへ下がった。「岩倉君……岩倉君って……」
唐突に、神崎の顔が近づいた。
反射的に仰け反る。 けれど、目だけは逸らせなかった。夕日に照らされた彼女の瞳が、ほんの一瞬だけ、色を変えた気がした。
赤でもない。
紫でもない。 表現できない、多彩な色。その虹彩の奥で、何かが揺れていた。
「ねえ、岩倉君って」
神崎は囁くように言った。
「ねえ……岩倉君って、何者?」
意味が分からなかった。
分からなかったのに、背筋が凍った。
その時、俺は改めて思った。
ああ、その目。
なんだかとても、気味が悪い。
万物研究会の部室へと向かう途中、廊下の端で男子生徒が三人集まり、何かを話していた。 声までは聞こえない。 そもそも、聞く気もなかった。 ただ、こちらを見ながらヒソヒソと言葉を交わしているその様子は、正直あまり気分の良いものではない。 気にせず通り過ぎれば良いだけのこと。 それでも胸の奥に、小さな不快感が芽生えてしまう。 貴方からの視線だったら、こんな風には感じないのに。 そんなことを、また考えてしまった。 何もしていないのに、人の視線を集めてしまうことは昔からよくあった。 以前の私は、それが怖かった。 他者の視線に怯え、家から出ることすら出来なくなってしまったほどに。 あの頃に比べれば、少しは強くなれたのだと思う。 こうして不躾な視線を向けてくる相手を、睨み返せる程度には。 三人の男子生徒は私と目が合うと、罰が悪そうに視線を逸らし、そのまま足早に立ち去っていった。 私がこんな風に変われたのも、きっと貴方のおかげだ。 そう考えてしまう自分に、小さく苦笑する。 もう一カ月以上、岩倉君から観測者の視線を感じ取っていない。 その事実が、胸の奥に得体の知れない空白を作っていた。 次はいつ、私を見てくれるのだろう。 そんなことを考えながら、私は校舎の外へと出た。 六月。 梅雨入りしたばかりの空は、重く垂れ込めた灰色の雲に覆われていた。 湿った空気が肌にまとわりつき、吹き抜ける風はぬるく、生温い匂いを運んでくる。 校庭を横切るたび、足元の土がじっとりと水分を含んでいるのが分かった。 地面を踏みしめる度にわずかに沈む感触が伝わり、乾ききらない土の匂いがふわりと立ち上る。 部室棟までの距離はそう長くないはずなのに、雨が降り出す前の静けさが、時間そのものを引き延ばしているように感じられた。 頭上の雲がさらに厚みを増し、今にも雨粒が落ちてきそうになる。 私
プルチックの感情の輪について知ったのは、俺が共感覚についての研究を初めてから、数か月が過ぎた頃の事だった。 俺が感じ取れる感情と色についての説明を受けた香月先輩が、思い当たる節があると調べてくれたのが、それを知れるキッカケとなった。 あの人の知識の深さには、いつも驚かされるばかりだ。 説明によると、プルチックの感情の輪というのはアメリカの心理学者であるロバート・プルチックが提唱した、感情の理論に基づく視覚的なモデルの事らしい。 八つの基本感情に基づいていて、それらの感情がそれぞれ色で示されている。 その感情モデルを図解した画像を見たとき、俺はそれを初めて見た気がしなかった。 小さい頃に、どこかで見たことがあるような。 そんな、デジャブのような感覚に陥ったのだ。 もしかしたら、その感情モデルが俺の共感覚という現象の、ルーツとなっているのかもしれない。 なぜなら、俺が共感覚で感じ取る目の色と、プルチックが提唱した感情モデルが指し示している感情の色は、その全てが一致していたからだ。 それは、もし俺が万物研究会に入っていなかったら、絶対に知りえなかった事だろう。 こんな感じで、俺の研究に対する進捗については周りの助けもあり、悪くはないと言った所だった。 俺以外のメンバーが進めている研究についても、俺が分かっている範囲で少し触れて置こうと思う。 朝山先輩は、幽体離脱に対しての理解をもっと深めていこうと思っているらしい。 この前聞いた話では、変性意識と呼ばれる状態について調べているということだった。 変性意識は通常の意識状態とは異なる、意識の変化した状態を言うらしい。 なんでも、幽体離脱中はこの変性意識の状態にあるという事が分かったので、変性意識についての知識を足がかりに、幽体離脱への理解を深めていくと話していた。 いつか、彼女が宇宙の果てへと辿り着ける日は来るのだろうか。 それは、正直分からない。 だが、彼女が幽体離脱を用いて宇宙の果てへの到達を望み続ける限り、俺はこれ
「つまり、小夜子先輩は、観測者をラプラスの悪魔みたいな万能の存在だと思ってるってこと?」「多分な。少なくとも、俺にはそう聞こえた」 中間考査を終えた週の日曜日。 俺は神崎に誘われ、以前にも立ち寄った駅前のファーストフード店へ来ていた。 本を買いに行きたいから付き合ってほしい。 理由はそれだけだった。 呼び出されたのが十一時過ぎだったこともあり、先に昼食を済ませてから本屋へ向かう流れになっている。 窓際のカウンター席。 前と同じように、神崎は両手でハンバーガーを持ちながら、小動物みたいに少しずつ食べ進めている。 その様子を眺めていた俺の視線に気づいたのか、神崎がこちらを見た。 そして、 静かに二度、瞬きをする。 観測者がいる。 最近では、その合図にも随分慣れてしまった。 その瞬間だけはいつも、神崎の瞳がほんの少しだけ遠くを見る。 俺ではない何かを。「小夜子先輩は私なんかより、全然思考が深い人だから」 神崎が紙コップを指先で回しながら言う。「だから、そう思ったってことは、きっと私達が気づけてない何かに辿り着いたんだと思う」「かもな。でも、俺にはさっぱり分からん」 俺は自分の目元を軽く指差した。「神崎の仮説だと、観測者って俺の顕在意識を通して世界を見てるだけなんだろ?」「うん」「だったら、なんで全知全能みたいな話になるんだよ。考えれば考えるほど意味分からん」 神崎は少しだけ考え込むように視線を落とした。「……小夜子先輩、他にも何か言ってなかった?」「他?」 香月先輩とのやり取りを思い返す。そういえば、妙に引っかかる言葉が他にもあった。「確か、箱の中がどうとか言ってたな」「箱?」「ああ。箱の中の猫であり続けるつもりはないとか」 神崎の表情が僅かに変わる。「…&hel
今日はバイトがあるから研究会には顔を出せない。小夜子のこと、よろしくね。 そんな言葉を最後に、朝山先輩とは別れた。 あそこまで言われてしまえば、流石に無視はできない。 放課後、俺はそのまま部室棟へ向かっていた。 途中、神崎からメッセージが届く。【今日は中間考査の勉強するから研究会へは行けない】 流石は優等生だ。俺なんて、勉強しないとなと思っているだけで一日が終わるタイプだというのに。 そんな現実逃避じみたことを考えているうちに、万物研究会の部室前へ辿り着く。 扉を開けると、室内には既に香月先輩の姿があった。 香月先輩は窓際に立ち、ぼんやり外を眺めていた。 夕暮れ前の曇り空。ガラスには室内が薄く反射している。 その姿が妙に静かで、一瞬声を掛けるのを躊躇った。 俺に気付いた香月先輩が振り返る。「やあ、岩倉君。お疲れ様」 笑っている。けれど、どこか無理に口角を上げているようにも見えた。「お疲れ様です」 香月先輩の瞳を見る。紺色。沈んだ色だった。 悲嘆。 疲労。 諦念。 そんな感情が薄く混ざっている。「珈琲を淹れよう」 そう言って立ち上がろうとした香月先輩を、俺は軽く手で制した。「今日は俺がやりますよ。先輩、座っててください」「おや、気を遣わせてしまったかな」「そういうわけじゃないです」「ふふ。では、お言葉に甘えよう」 香月先輩は再び椅子へ腰を下ろす。 俺は棚から器具を取り出し、珈琲を淹れ始めた。 豆を挽く音が、静かな部室へ広がる。その間も香月先輩は窓の外を見ていた。 いや、 正確には窓に映るこちら側を見ているようにも思えた。 朝山先輩の言っていた通りだ。どう見ても様子がおかしい。 二人分の珈琲を淹れ終え、紙コップを差し出す。 香月先輩は「ありがとう」と小さく呟いた。
「新メンバーの歓迎会をしよう」 研究会へ到着し、先に待っていた香月先輩から発せられたのは、そんな言葉だった。 見ると中央のテーブル上には、ペットボトル飲料やお菓子の類が並んでいた。 香月先輩が用意してくれたようだ。 お菓子類に目を輝かせた朝山先輩と神崎は、我先にと席へ着くと、好みのお菓子について談義を始めた。 香月先輩が俺を呼び出したのには、こういう理由があったらしい。 今日は研究活動ではなく、親睦を深めることが目的のようだ。 二人に続き、俺も席へと腰かける。 なん
万物研究会への入会が決まった日から数日が経ち、翌週の月曜日。 予想通りではあったが、バスケ部に俺を誘ったクラスメイトからは、香月先輩との関係について教えろと詰められた。 面倒だなと思いつつも、とある会へ入会する事になり、彼女はその会の会長であることを正直に伝えた。 最初は興味を持ったクラスメイトだったが、活動内容について説明すると彼はつまらなそう、モテなさそうという感想を残し、すぐに興味を失ったかのように話題を転換させた。 変な波風が立たなかったことに、俺はとりあえず一安心だった。 その日の放課後、クラスの
香月先輩の発表が終わり、室内が明るくなった。 俺は少しぼんやりとした頭を覚醒させようと、軽く頭を振ってから室内を見回す。 今しがた発表を終えたばかりの香月先輩は、一息つこうと思ったのだろう。優雅に珈琲を淹れている。 朝山先輩は、脳がショートでもしてしまったのだろうか、ポヤーっという擬音が発せられそうな面持ちで、ぼんやりと中空を見つめている。 神崎はというと、スマートフォンを片手に何かを調べているようだった。今の発表に対して調べているのだろうか。だとしたら流石優等生、勤勉なことだ。「岩倉君、君も飲む
強引に連れてこられた万物研究会の部室には、予想していた通り既に神崎と朝山先輩の姿があった。 二人は中央にある楕円形のテーブルを挟んで、向かい合う形で座っていた。 両手に自前のものだろうか、黒猫のプリントが施されたカップを持ったまま、俺の姿を見た神崎が瞳の色を変える。 朝山先輩は「やほー」と軽い口調で俺と香月先輩を出迎えた後、ササっと俺が座るための椅子を用意してくれた。「あ、なんか、すいません。ありがとうございます」 用意してくれた椅子に腰かけると、朝山先輩は柔和な笑みを俺に向けた。 初めて会