セックス……セックス。
男同士でどうやるかなど、知識として知っているのは使う場所くらいで実際に映像や生現場を見たことは勿論ない。いや生現場ってどういうことだよ。自分の脳内思考に自分自身で突っ込んでそちらに気が取られていたら、いつの間にか手が緩んでた。ここぞとばかりにぱしんと冷たく手を振り払われて、ちょっと悲しい。怒られた。目が怒ってる。「少しは頭が冷えましたか」
「冷えたっつーか……男同士で諸に想像してしまうと」
「だったら無理でしょう。軽いノリで言っていいことではないですよ」
冷やかに諭されたことで、慎さんの怒りの発生源を知る。
そうだ、現実にそういう性癖の人間はいる。彼らにしてもきっと、最初はそんな自分に戸惑い悩み、周囲との折り合いを付け乍ら過ごしているのだ。俺の考えなしの言葉は、彼らを馬鹿にしているようなものなのかもしれない。確かに浅慮だったなと少々反省もしたけれど、別に俺も軽いノリで言ったわけではない。
ただ、それを主張し返すことよりも、嬉しかった。俺が好きだと思った人が、誰かを気遣う優しい人なんだということが。壁のスイッチを押す音がした。ぱぱっと白色灯が点滅して薄暗がりに慣れていた目が眩む。何度か目を閉じては開くを繰り返して明るさに慣れた頃、目の前の慎さんと目が合った。「何へらへらしてるんですか」
「いや、すんません。確かに、軽率だったなあと……なんで訂正します」
面食らったといった表現がまさに当てはまる慎さんの反応に、「嬉しくて」と言えば被虐趣味だと勘違いされそうなので止めといた。
別に怒られた事実が嬉しいわけじゃねえし。そんなことよりも、もう一度きちんと口
慎さんが俯いて、自分の手を見つめた。初めて震えていることに気が付いたみたいで、手の感触を確かめるように何度か握り合わせる。その時、胸元を隠していたワンピースの布が彼女の膝に落ちて「あっ」と擦れた悲鳴を上げた。腕だけで、もう隠しきれてない。白い胸元が目の前で露わになって、また思考が揺れる。無意識に手が動いて彼女に触れようとしたけれど、辛うじて拳を握って耐えた。そんな俺を見て、彼女が少し身体の力を抜いたのが気配で伝わる。「だって、貴方は優しすぎるから」見ると、口元に少し、笑みを浮かべていて。まるで、諭されているような気にさせられる。だけど、慎さんの言葉の意味が俺にはわからない。優しくして、何がいけないんだよ。好きな女に優しくしないで、一体誰に優しくすんだよ。「いつだって、貴方は僕が最優先で、全部僕の為で、あんなに毎日会いに来てくれるのに、僕は何も返せないままで、この先もずっと?」それは、だって。慎さんに寂しい思いはさせたくなかったし、貴女が好きだって気持ちを言葉だけじゃなく表して、不安なことは全部なくしたかったから、で。「僕は貴方に申し訳ないと思いながら傍にいるの?」がん、と頭を殴られたような衝撃だった。慎さんの為にって。不安や哀しい、寂しい、そんな感情を全部、遠ざけてあげたくて。ただ、俺が。そうしてあげたかっただけなのに。「返すなんて、そんなこと俺は」そんなことは気にしなくてもいいのだと彼女に伝えようとするけれど、それは無意味だとすぐに気づいて言葉は途切れる。だって、それは慎さんの感情だ。気にするなと言われて、消えるものじゃない。彼女の為に、俺は必死だった。だけどそれが、彼女の負い目になってたことに、愕然とする。自分が情けなくて、だけど、だからといって。震える彼女に、これ以上、触れるなんて、俺には。「貴方が気にしなくても、僕は気にする。何もできてないんじゃないかと、僕が傍にいる意味なんて無いんじゃないかと、怖くなる。 これが全てじゃないとわかってるよ。けど、好きな人の為に必死になるのはそんなに悪いこと?」混乱する頭の中で、耳に飛び込んで来た言葉。彼女が、初めて、俺に「好き」だと言った。付き合ってくださいと言って、はい、と返事はくれた。嫌いじゃない、とは言ってくれた。それで十分だと、俺はずっと思っ
俺は多分、いろんな意味で未熟だった。大事にすればするほど喜んでくれるものだと思っていて、わかりあえるものだと思っていて。今、目の前でそれが、彼女の手で壊される。「この先ずっと、絶対よそ見しないで、僕だけ見て、僕だけに欲情しろよ。それを信じさせて、僕に自信をくれ。 僕の全部を、貴方にあげるから」瀬戸際で、ずっと抑えてきたものを。彼女が誘い、引きずり出そうとする。均衡を破ったのは、ほんのわずかな、彼女の言い回し。―――信じさせて、僕に自信をくれ不安に揺れる彼女の目。俺が触れることで、それを拭い去れるなら。そんな解釈が、自分への言い訳が頭に浮かんだ途端に俺は、衝動に負けた。彼女の肩を強く引き寄せて、その衝動のままにただ彼女の唇を貪り気遣いもなく舌が歯列を割り入り込む。気持ちいい。すっかり興奮させられてるからか、柔らかい舌も唇も、唾液も甘い、いつも以上に。彼女の手がいつの間にかネクタイを手放して、息苦しさを訴えるように俺の胸をシャツの上から引っ掻いた。「……くそっ」くそっ!一度は唇を離したけれど、それでもすぐに吸い付きたくなる。簡単には尽きそうにない自分の欲求に悪態を付いた。だけど、それを煽ったのは、彼女自身だ。「俺が、どんだけ必死に抑えてきたと……」とろん、と蕩けた瞳で見上げる慎さんが、憎々しく、愛しい。俺はつい荒くなる動作で彼女を助手席に押し付けシートベルトを着けると、車を発進させた。足りない。キスだけ
視線が痛い。車内の空気が、怖いくらいに息苦しい。運転に集中するフリをして、前だけを見ていたけれど、本当は全神経の殆どが慎さんにアンテナを張っていた。でもまさか。機嫌が悪くなって口をきいてくれなくなったり、怒り出す可能性は考えていても、まさか車から降りようとするとは思わなかった。「……いいです。もう」「え」「帰ります。ここで結構」ちょうど、赤信号で止まったところだった。最初言ってる意味がわからずぽかんと彼女の行動を眺めていて、彼女がシートベルトを外して助手席のドアを開けてようやく、慌てて手を伸ばす。「ちょっ、慎さん、待って!」「嫌だ離せ!」なんとか二の腕を捕まえて車内へと引っ張り戻すが、まだドアが開いたままだった。後ろからバイクが来てないか咄嗟に目視で確認する。その間にも、慎さんが掴まれた腕を離そうと俺の指を一本一本引き剥がそうとしていた。「こっの、馬鹿力! 早く離せ!」「危ない! 危ないからドア閉めて!」離すわけあるか!ぱぱっとクラクションが鳴らされて、信号が青に変わったことを知る。俺は慎さんの腕を掴んだまま、もう片手で自分のシートベルトを外すと助手席へ身体を乗り出し急いでドアを閉めた。「危ないじゃないすか!」「ちゃんと後ろは見て降りようとした! 貴方が引き留めるからです!」とにかくも動かさなければとアクセルを踏む。彼女は未だ腕を振り払おうと暴れ続けていて、また外に飛び出されてはかなわないと捉える力を少し強くして、車を寄せられる場所を探す。怒るだろうか、と思ってはいたけれど。俺から逃げようとしたことが
「あ、あの……。慎さん?」「……聞きたいことは、幾つかありますが」「はいっ、なんでも答えますんで、まず離れて……」「いつの間に、篤と話したんですか」「あ……えーと……」「お正月。帰り際?」いつの間にか、本当に二人きりになっていた。っつっても、ロビーだし時折人は近くを通る。いつもなら、彼女の方が恥ずかしがって離れるのに、今は逆に俺の方が狼狽えていた。離れて、と頼んだのに未だ縋り付いてくる彼女の腰に、つい手を回してしまいそうになる。彼女の身体の感触と匂いと声にくらくらして、正月の時の出来事も全部綺麗に白状させられてしまった。「なんで僕に言わないんです」「あの日慎さんかなり動揺してたし、俺もめちゃくちゃ頭に来てたとこだったから……謝罪なんて聞くか、二度と慎さんの視界に入るなお前も入れるなって勝手に言っちゃって」「また、無茶苦茶なことを……披露宴があるのに」「わかってましたけど、どうしても慎さんの視界の中にアレが侵入するのが嫌だったんです。あんな奴の話を聞かせるのも嫌だし。でももしかしたら、慎さんは謝罪くらい、聞きたかったかもしれないと……」本当は、黙ってたことを悪いなんて思ってない。あの日の真琴さんに対する無神経な言葉を、悟られたくなかったからそれで良かったと思ってる。だけど結局、怖い思いまで、させてしまって。あいつに謝罪の気持ちなんてほんとは更々ないことを、慎さんは気づいてしまっただろうか。例え不審者扱いされても、あの場にかじりついて離れなければ良かったと、情けなくて、申し訳なくて。だけど
……布団だ。ぽん、と頭に浮かんだのはそれだった。年末、慎さんが家に泊まった時に、ベッドの譲り合いになり結局ソファに寝かせてしまう結果になった。その時に、慎さんが気兼ねなく安心して泊まれるように布団を買おうという話になっていたのに、まだ買えず仕舞いだったのだ。慎さんの、あの可愛い誘惑については今は考えるな。考えるほどに、我慢が利かなくなる可能性がある。とりあえず、一緒のベッドで寝ることだけは避けなくては。今夜ばかりは、『我慢してみせます』とはとてもじゃないが約束できない。帰りにホームセンターかどっかに寄って、布団を買おう。向こうに戻ってからでもいいけど、この近辺にももしかしたらあるかもしれない。検索してみようと携帯電話をポケットから手に顔を上げた時だった。「お客様、何かお困りでしょうか」と、男性従業員がすぐそばまで近寄ってくる。「あ、いえ。すみません、ちょっと人を待ってるもんで」その表情はにこやかだったが、若干不審に思われていたのかもしれない。もう二時間近く、ここで頭を抱えたり貧乏ゆすりを続けていたのだ、確かに不審すぎる。「それでしたら、あちらのラウンジもございます。どうぞこちらへ」従業員の態度は極めて柔らかく笑顔を絶やすことはないが、明らかに不審者かどうかを確かめに来ているような空気を感じる。当然といえば当然だ。確かに、待ち合わせならラウンジカフェなど利用する。『じゃあ、”夕鶴の間”の前で待ち合わせな』なんて、披露宴に無関係の人間がそんな約束の仕方はしないだろう。不審者かどうか確認できるまで、目の届くところに誘導しようとしているのじゃないだろうか。
「それじゃ、行ってくる」披露宴会場前のロビーで、慎さんが振り向いて小さく手を振った。まだ少し照れを残した表情に、少しの不安も混じり合わせて複雑な顔だった。だけど多分、俺の方がずっと狼狽えた顔をしていたと思う。ついさっき慎さんに耳元で囁かれた言葉に、なんて返すべきかおろおろしているうちに、受付前まで来てしまって。それ以上に、この披露宴を慎さんが嫌な思いをせずに乗り切れるだろうか、それも心配で。どれだけ心配しても仕方ないことは重々理解していたから、結局出た言葉は。「ここで、待ってます」と、それだけ。もっと何か、彼女を力づけるような言葉を言えば良かったとすぐに後悔したけれど、そんな言葉も浮かばなかった。彼女の後姿を見ながら、背筋伸ばしてちゃんと歩けてるとか、ヒールに慣れてないけど大丈夫だろうか、とか心配は尽きなくて。ただ、はらはらしながら見送った。ロビーは広くて、ところどころにソファも設置してあり待機する場所がないわけではない。かといって、フロント前のロビーのようにチェックインやチェックアウト待ちの人間がいるわけでもないから、この場にとどまっているのは俺だけだった。立っても座っても落ち着かず、無意味に歩き回ったりしているうちに時間は経過して、漏れ聞こえる音で披露宴が始まったのだと理解する。それからまた暫く時間が過ぎても、手に持っている携帯にはなんの連絡もないし、彼女が逃げ出してくる様子もない。六年ぶりに幼馴染の顔を見るのだ、動揺しないだろうかと心配したけれど。とりあえず、今のところは大丈夫のようだ、と少し気が抜けた。途端に、頭の中でリピートされたのは―――もしも、今日僕が途中で逃げ出さないで最後まで披露宴を終えて戻ってきたら 今夜、貴方の部屋に泊めてくださいさっきの、慎さんの囁きだった。―――その時は陽介さんも、今度は途中で逃げ出さないでくださいねそれは明らかに、あの日トイレに逃げ込んだ時のことを示していて、彼女があの出来事を随分気にしていたのだと気が付いた。多分、俺が心配したのとは違う意味で。自分のせいで俺が逃げ出したのだと、彼女はずっと気に病んでいたんだろうか。このところの誘惑は、焦りだけでなく俺への申し訳なさ?彼女がそんな引け目を持つ可能性は、ちょっと考えればわかることなのに。多分、その重さを俺は理解してな