「あらまあ!本当に凛だったのね。さっき玄関の前で見かけたときは、てっきり見間違いかと思ったわ」大友春美(おおとも はるみ)、隣の住人で、近所でも有名なおしゃべりで声が大きい。その夫も臨市第二高校の教師をしており、凛の家とは同じ年に教職員住宅に引っ越してきた。凛が出てくるのを見ると、彼女は急いで駆け寄り、頭の先からつま先までじろじろと観察した。「まあまあ、見てよこの子、ほんとにきれいになって……都会で育つと違うのね。これはもう、すっかり成功したって感じじゃない?」凛は黙ったまま、何も返さなかった。「服もスタイルもそうだし、靴なんかもとっても今どきでおしゃれねえ」ひとしきり褒めちぎったあと、春美は急に声を潜め、意味ありげな目つきで凛に近づいてきた。「ねえ、帝都でうまくやってるって聞いたわよ。ほら、人脈とか……そういうの、あるんでしょ?うちの娘のこと、ちょっと紹介してくれない?」凛は一瞬、何の話か分からず目を瞬いた。「……紹介って、何を?」「んもう、分かるでしょ。大企業の社長とか、お金持ちのお婿さん候補よ。うちの娘、スタイルもいいし顔もきれい。若さだって売りよ、まだ二十二なんだから!」その瞬間、凛の表情がすっと曇り、ひとつ息をついてから、わずかに後ろへ下がって距離を取った。「大友さん、何か勘違いされてるみたいけど、私、帝都でそういう関係でやってきたわけじゃないし、特別なコネなんてない。お力にはなれないわ」春美は凛の言葉を聞くと、眉をひそめた。「凛、うちは隣同士でしょ?どうしてそんなに隠すのよ。自分だけ稼いでうまくいっても、周りにもちょっとは道を譲るもんじゃないの?」凛は思わず苦笑した。「私が何様だって言うのか?人に道を示す?大友さん、それは買いかぶりすぎよ」何度もはぐらかされて、春美の顔から笑みが消えた。「まったく、ちょっと成功したらすぐに天狗になるんだから!さっきのは冗談よ、まさか本気で、まともな娘がそんなはしたない真似をするわけないでしょ……」「大友さん!言葉に気をつけなさい!」凛が何か言い返す前に、慎吾が勢いよく自転車を放り出し、駆け寄って娘をかばうように立ちはだかった。彼の顔は険しく、目には怒りの炎が宿っていた。「言葉を慎んでくれ!うちの凛はまっすぐで潔白だ。口を汚してるのは、そっちのほうだ!」「はん、私
慎吾の顔はすっかり険しくなった。「児島先生、うちの凛は本当に良い子です。さっきの話がどこから聞いたものかは知りませんが、今後二度と口にしないでください。なぜなら、全部でたらめだからです!むしろ中傷です!それは教師として決してあるまじき品格です」言い終えると、慎吾は背中に怒りを滲ませながら、大股でその場を離れた。さゆりは目を白く剥いて鼻で笑った。「はっ、やったことを言われたくないだと?良い子ですって?ふざけないでよ。校風を乱す恥知らずな子じゃないの……」思えば、慎吾は以前、どれだけ得意げだったことか。全教科で首位、コンテストでは賞を総なめにする娘を持ち、学年中どころか校内で知らぬ者はいなかった。学期末の総括会では毎回のように凛の名前を口にし、あの誇らしげな笑みを浮かべていた。それなのに、どうだ?B大学に合格したところで、結局は金持ちの玩具になったじゃないか。ちっ——凛は話の途中で思わずショーケースの陰に身を隠した。父があの誹謗と罵声を前に、どんな顔をしていたのか、想像すらできなかった。彼は、名誉を何よりも大切にし、正直で真っ直ぐな教師だったのだから。ましてや、もし慎吾が娘もそこにいて、これらの言葉を聞いていたことに気づいたら、どれほど傷つくだろうか……そんなこと、想像することすらできなかった。だから、ただ隠れるしかなかった。……慎吾は試験問題と解答を高三の学年主任に渡すと、そのまま校舎を後にした。ちょうど校門に着いた時——「お父さん!」「凛?どうして来たの?」と、彼は驚いた声で言った。「ぶらぶらしてたら、近くまで来ちゃった」「そうか……空模様が怪しくなってきた。雨が降りそうだな。お母さんの言うことは気にせずに、俺たちさっさと帰ろう」「うん」凛は自転車の後ろに乗った。「せーの——」慎吾は力を込めてペダルを踏み込むと、自転車は勢いよく飛び出した。「お父さん、ごめんなさい……」「ん?どうした、急に謝ったりして」「何年もお父さんやお母さんに会いに帰ってこなくて……」二人にこんなにも大きなプレッシャーや数々の噂をかけさせてしまった。「何言ってる、帰ってきたじゃないか……帰ってきてくれればそれでいい。さっき中に入って見るべきだったな、お前の写真がまだショーウィンドウに飾
ちょうどその時期は冬休みに入っており、生徒の大半は休みに入っていたため、校内はひっそりと静まり返っていた。正門の前に立っていた凛に気づいた警備員が、じろじろと彼女を見ながら声をかけてきた。「大学が冬休みで、先生に会いに来たんだね?」高三の生徒たちはまだ補習授業があるため、校舎の一部では授業が続いていた。凛が何か言う前に、警備員は背中に回していた手を軽く振りながら、咳払いを一つした。「入っていいよ。ただし静かにね。高三の授業の邪魔しないように」「……」凛は何も言わず、黙って軽く会釈をして校内に入った。本当の目的は先生に会うことではなかった。彼女は校舎へは向かわず、グラウンドを二周ほどのんびりと歩いたあと、そろそろ帰ろうかと門の方へ戻っていた。その途中、ふと目に入ったのは学校の「優秀卒業生コーナー」だった。そして、そこに自分の写真を見つけた。写真の下には、小さな紹介文が添えられていた。雨宮凛20XX年、臨市理系全国大学入試成績一位、B大学生物学科合格。風が目にしみて、彼女は顔を少しそむけた。地面の落ち葉が風に巻き上げられ、小さな渦を描く。さっきまで明るく澄んでいた空が、見る間に雲に覆われ、どこか陰りを帯びはじめた。凛は腕で風をさえぎりながら、そろそろ戻ろうと歩き出した。不意に背後から、誰かの小さな叫び声が聞こえた。「あっ、雨宮先生!」凛が顔を上げると、本当に父の姿があった。そういえば昨夜、紅白を一緒に見ていたとき、今日学校に立ち寄って高三の生徒に試験問題を届けると言っていたっけ。なるほど、それで来たわけだ。「雨宮先生、こんな朝早くから?元日の一日目でしょう、ご家族はお忙しくないんですか?」声をかけてきたのは、慎吾と同じくらいの年齢の女性教師だった。凛もどこかで見たことがある。教職員住宅の住人だが、自宅とは別棟に住んでいる。物理の教員で、父と同じ教研グループに所属していた。当時、慎吾は「特別進学クラス」を、その女性教師は普通クラスを担当していたので、授業を受けたことはなかったが――その娘、児島はるか(こじまはるか)とは高校時代、同じクラスだった。「児島先生」慎吾はにこやかに挨拶を返した。「ええ、うちは特に忙しくはないですよ」「へえ?じゃあ凛は、今年も帰省しないのですか?」「帰ってますよ
電話の向こうからも、同じように新年の挨拶が返ってきた。彼女の声はやわらかく、落ち着いていて、その中にほんの少し微笑がにじんでいるように聞こえた。陽一の脳裏には、彼女が携帯を手に、ほほえみながら新年の挨拶をする姿が浮かんだ。ちょうどそのとき、空に開いた花火が彼女の笑みを浮かべた横顔を照らしている――きっと美しいに違いない。……元旦の朝。凛はこの日、珍しく11時まで寝ていていいと許された。陽の光が静かに窓辺をよじ登り、カーテンの隙間からじんわりと部屋の中へ染み込んでくる。彼女はまどろみの中でゆっくりと目を開け、窓の外で風に揺れる木の枝の影が、まるで獣の爪のようにカーテンに投影されているのをぼんやりと見つめた。もう朝なの?!彼女は上半身を起こし、大きなあくびをひとつ。窓辺へと歩み寄ると、勢いよくシャッとカーテンを引いた。思ったとおり、朝の日差しは遠くの山肌に積もった雪を眩しく照らし出していた。光が雪に反射して、まるで目がくらむような明るさだった。庭では、慎吾と敏子が並んで座り、本を読みながら日向ぼっこをしていた。慎吾の耳はいい。窓が開く音を聞いた瞬間、凛が起きたのだとすぐに分かった。教師という職業柄、彼は時間に対して非常にきちんとしている。だから、凛の寝坊癖には、どうにも納得がいっていないのだった。慎吾は湯飲みを手に取り、一口すすりながらぼやいた。「まったく、お前の母さんが甘やかすからだ。こんな時間まで寝て、三食もろくに摂らない。胃を悪くしたらどうする気なんだ。最近の若い子は自分の体を大切にしない。年を取ってから痛い目見るんだぞ……」そんな小言を遮るように、敏子が手元のみかんを一房、ひょいと夫の口元に押し込んだ。「寝坊したくらいで、いつまでうるさく言うの?凛はもう卒業してるのよ、あなたの生徒じゃないんだから。元旦の日にちょっと寝坊したくらい、いいじゃない」そう言いながら、敏子は窓辺にいる凛に目を向けた。「お父さんはおじさんだから、気にしなくていいわよ。朝ごはん、テーブルに置いてあるから、温めればすぐ食べられるわ」「はーい」凛はにこにこしながら返事をした。陽が高く昇り、日差しがぽかぽかと庭を包む。朝食を済ませた凛も、両親の隣に腰を下ろし、湯飲みを手に、お茶と日光浴の時間に加わった。「お父さん、このお茶な
凛は淡く唇を歪めた。「大丈夫、遠慮しなくていいわ」そう口にしたものの、空気はふたたび沈黙に包まれた。そんな折、すみれの側から急にざわざわと賑やかな音が聞こえ始めた。「凛、ごめん!ちょっともう無理かも。うち家族の宴会始まっちゃって、お母さんが私のこと探しまくってるの」「わかった。いってらっしゃい」通話が切れたあと、凛はスマホを置こうとしたが、その瞬間、立て続けにいくつかのLINEメッセージが届いた。送信者は、時也。添付されていたのは、国際訴訟の訴状とその受理通知書。現在の進捗についての簡潔な説明と、本人の署名が必要な書類がいくつか含まれていた。国際訴訟は通常の手続きに比べて格段に複雑で、進行にも時間がかかる。ここまでスムーズに動いていることに、凛は内心少し驚いていた。彼女はファイルをダウンロードし、オンライン上で署名を済ませると、改めてすべての書類を時也に送り返した。向こうは一秒も経たずに既読がつき、返信を送ってきた。どこか冗談めいた軽い調子で、こう書かれていた。【こんなに俺を信じてるの?俺が裏切るかもしれないのに?】【あなたはそんなことしない】凛の一文を見た瞬間、時也は胸の奥がふっと温かくなった。知らず、口元に笑みが浮かぶ。明らかにその言葉が嬉しかったのだろう。彼は気怠げに口角を上げながら、指を素早く動かしてメッセージを打ち込んだ。【安心して。署名が必要な書類なだけだよ。訴訟のこと以外には一切関係ないから】凛は眉をわずかに上げたが、特に気にすることもなかった。彼女はバカじゃない。署名を求められた書類はすべて目を通してからサインしている。問題がないと判断したから、署名しただけだ。それに、もし時也が彼女を陥れようとするなら――こんな回りくどくて、幼稚な手段を選ぶとは到底思えなかった。2秒ほどして、スマホが再び震える。【よいお年を。来年こそ、俺の願いが叶いますように】……凛は無言のままスマホをひっくり返し、ベッドの上に伏せて置いた。彼女はサンタクロースじゃない。彼の願いが何であろうと、彼女には関係ない。「凛、お父さんがおしるこを作ってくれたわよ、早く食べなさい――」階下から敏子の声が聞こえてきた。凛はすぐに立ち上がり、軽やかに返事をする。「はーい、今行く!」7時20分、テレビでは紅
体裁さえ保っていればいい。お互い干渉せず、波風立てなければ、それで充分。海斗はといえば、いつもその中間に立ちながらも、ほとんどが回避的な態度だった。自分から話題に出すこともなければ、深く問いただすこともない。見て見ぬふりをして、曖昧なままやり過ごしてきた。彼が、恋人と実の母との間に横たわるあらゆる問題に、正面から向き合おうとしたことは一度もなかった。それでも凛は、彼を責めなかった。彼を思って、何ひとつ強く求めたりはしなかった。たとえば――「大晦日の夜、どこで過ごすの?」「私と、お母さん、どっちを選ぶの?」そんな質問を、彼女は一度も口にしたことがない。けれど今、改めて振り返ってみると、あの頃の自分の譲ることも耐えることも気遣いも、所詮は自己満足だったのかもしれない。男は、そんな優しさを大切にするどころか、いつしか慣れっこになり、しまいには、それが“当然”だと思うようになる。「うん、両親に会いたくなって、チケット取って帰ってきた」凛はあくまであっさりと、そう言った。けれど、画面越しにそれを見ていたすみれには分かっていた。凛が実家に戻る、その一歩を踏み出すまでに、どれほどの勇気が必要だったかを。「ご両親はお元気?長い間会ってないから、よろしく伝えてね」「元気にしてるわ。さっきご飯のときも、すみれの話が出たのよ」大学時代から、雨宮夫婦はすみれが娘の一番の親友だと知っていた。夏休みに凛が帰省するたび、「これ、すみれに持って行って」と地元のお土産を持たせていたほどだ。今でもすみれは、慎吾が作った牛肉の味噌を思い出すと、ちょっと涎が出そうになる。「ところで、いつこっちに戻ってくるの?実家にはどのくらいいる予定?」凛は少し考えてから答えた。「まだしばらくいると思う。久しぶりだから、両親とゆっくり過ごしたくて」すみれはうなずいた。「だよね、こんなに長く帰ってなかったんだもん。きっとお父さんもお母さんも、すごく会いたがってたよ」電話の向こうで、すみれの目線がふと下に落ちた。iPadで何かを見ていたようで、目がぱっと輝いた。「ちょっと待って、やばい、今おもしろいの見つけちゃった!」「なに?」「見てないの?」「ううん、なにも」そのとき、すみれはようやく思い出した。――そういえば、凛はとっくに海斗をブロックしてた