凛は淡く唇を歪めた。「大丈夫、遠慮しなくていいわ」そう口にしたものの、空気はふたたび沈黙に包まれた。そんな折、すみれの側から急にざわざわと賑やかな音が聞こえ始めた。「凛、ごめん!ちょっともう無理かも。うち家族の宴会始まっちゃって、お母さんが私のこと探しまくってるの」「わかった。いってらっしゃい」通話が切れたあと、凛はスマホを置こうとしたが、その瞬間、立て続けにいくつかのLINEメッセージが届いた。送信者は、時也。添付されていたのは、国際訴訟の訴状とその受理通知書。現在の進捗についての簡潔な説明と、本人の署名が必要な書類がいくつか含まれていた。国際訴訟は通常の手続きに比べて格段に複雑で、進行にも時間がかかる。ここまでスムーズに動いていることに、凛は内心少し驚いていた。彼女はファイルをダウンロードし、オンライン上で署名を済ませると、改めてすべての書類を時也に送り返した。向こうは一秒も経たずに既読がつき、返信を送ってきた。どこか冗談めいた軽い調子で、こう書かれていた。【こんなに俺を信じてるの?俺が裏切るかもしれないのに?】【あなたはそんなことしない】凛の一文を見た瞬間、時也は胸の奥がふっと温かくなった。知らず、口元に笑みが浮かぶ。明らかにその言葉が嬉しかったのだろう。彼は気怠げに口角を上げながら、指を素早く動かしてメッセージを打ち込んだ。【安心して。署名が必要な書類なだけだよ。訴訟のこと以外には一切関係ないから】凛は眉をわずかに上げたが、特に気にすることもなかった。彼女はバカじゃない。署名を求められた書類はすべて目を通してからサインしている。問題がないと判断したから、署名しただけだ。それに、もし時也が彼女を陥れようとするなら――こんな回りくどくて、幼稚な手段を選ぶとは到底思えなかった。2秒ほどして、スマホが再び震える。【よいお年を。来年こそ、俺の願いが叶いますように】……凛は無言のままスマホをひっくり返し、ベッドの上に伏せて置いた。彼女はサンタクロースじゃない。彼の願いが何であろうと、彼女には関係ない。「凛、お父さんがおしるこを作ってくれたわよ、早く食べなさい――」階下から敏子の声が聞こえてきた。凛はすぐに立ち上がり、軽やかに返事をする。「はーい、今行く!」7時20分、テレビでは紅
体裁さえ保っていればいい。お互い干渉せず、波風立てなければ、それで充分。海斗はといえば、いつもその中間に立ちながらも、ほとんどが回避的な態度だった。自分から話題に出すこともなければ、深く問いただすこともない。見て見ぬふりをして、曖昧なままやり過ごしてきた。彼が、恋人と実の母との間に横たわるあらゆる問題に、正面から向き合おうとしたことは一度もなかった。それでも凛は、彼を責めなかった。彼を思って、何ひとつ強く求めたりはしなかった。たとえば――「大晦日の夜、どこで過ごすの?」「私と、お母さん、どっちを選ぶの?」そんな質問を、彼女は一度も口にしたことがない。けれど今、改めて振り返ってみると、あの頃の自分の譲ることも耐えることも気遣いも、所詮は自己満足だったのかもしれない。男は、そんな優しさを大切にするどころか、いつしか慣れっこになり、しまいには、それが“当然”だと思うようになる。「うん、両親に会いたくなって、チケット取って帰ってきた」凛はあくまであっさりと、そう言った。けれど、画面越しにそれを見ていたすみれには分かっていた。凛が実家に戻る、その一歩を踏み出すまでに、どれほどの勇気が必要だったかを。「ご両親はお元気?長い間会ってないから、よろしく伝えてね」「元気にしてるわ。さっきご飯のときも、すみれの話が出たのよ」大学時代から、雨宮夫婦はすみれが娘の一番の親友だと知っていた。夏休みに凛が帰省するたび、「これ、すみれに持って行って」と地元のお土産を持たせていたほどだ。今でもすみれは、慎吾が作った牛肉の味噌を思い出すと、ちょっと涎が出そうになる。「ところで、いつこっちに戻ってくるの?実家にはどのくらいいる予定?」凛は少し考えてから答えた。「まだしばらくいると思う。久しぶりだから、両親とゆっくり過ごしたくて」すみれはうなずいた。「だよね、こんなに長く帰ってなかったんだもん。きっとお父さんもお母さんも、すごく会いたがってたよ」電話の向こうで、すみれの目線がふと下に落ちた。iPadで何かを見ていたようで、目がぱっと輝いた。「ちょっと待って、やばい、今おもしろいの見つけちゃった!」「なに?」「見てないの?」「ううん、なにも」そのとき、すみれはようやく思い出した。――そういえば、凛はとっくに海斗をブロックしてた
しかも、母と編集者の会話を聞いていて、凛の胸に残ったのは――作家への気遣いでも励ましでもなかった。そこにあったのは、ただ一方的なプレッシャーと、精神的な支配に近い言葉の数々だった。「いいでしょ!いいでしょ~」「わかった、帰ったら送るわよ。でも、最後まで読む根気があるのかしら?」「絶対に大丈夫!絶対読むから!」……家に着くと、慎吾が玄関先でしめ飾りを取り付けていた。自分では位置のバランスが分かりづらいのか、首を傾けながら凛が口を挟んだ。「お父さん、ちょっと右に寄ってるかも。もう少し左に……」ちょうどそのとき、敏子も車から降りてきて、じっと飾りを見つめながら首を振った。「私から見ると、ちょっと高すぎない?もう少し下げてみて」慎吾は素直に、しめ飾りを数センチ下にずらした。だが――「やっぱり低すぎるわ。もう少しだけ上に戻して」「……これくらいで、ちょうどいいんじゃない?」凛が助け舟を出すと、慎吾はようやく飾りを整え、脚立から静かに降りた。全体のバランスを確かめながら、なんとも言えない顔でつぶやく。「うーん……なんか、まだ変な気がするな」それを見た敏子がふっと目を細めて、あることに気づいた。「……もしかして、表裏逆につけてない?」慎吾はごほごほと軽く咳き込みながら、視線をそらした。「……言われてみれば、そうかも」彼は玄関のしめ飾りと、リビングに飾る予定だった小さな門松を取り違えて設置していた。左右のバランスが妙に合わないと思ったのも当然だった。敏子はあきれたように、しかし軽やかに言った。「もう、冬休みに入ったら頭まで休んじゃうんだから……」「……」慎吾は返す言葉もなかった。その様子に、凛は思わずぷっと吹き出して笑ってしまった。……大晦日。敏子は久しぶりに台所に立ち、凛の好きな料理をいくつも用意した。炊きたての白米に、おせち料理の定番である黒豆、数の子、伊達巻、紅白なます。煮しめや筑前煮も丁寧に味を含ませた。一方、慎吾は重箱に詰める盛りつけを担当しつつ、お雑煮の出汁を整え、焼いたお餅を準備していた。柚子の香りがほんのり漂う吸い物の湯気が、台所にやさしく広がっていた。家族の健康や繁栄を願いながら、色とりどりの料理が食卓に並べられる。午後五時、三人は揃ってこたつに入り、静かに箸をつけた。食後
「作品を生み出せず、売上も作れない作家が……それでもまだ作家って言えるの?」その言葉に、敏子の中で何かがぷつんと切れた。「私には、構想なんていくらでもある。でも、あなたは……!」言いかけた言葉を、文香が容赦なく遮った。「あなたのその構想には、何の特色もない。売れる要素なんてひとつもないのよ。書いても時間の無駄、書籍コードの無駄遣い。売れるはずがない!……自分がまだサスペンスの女王だとでも思ってるの?厳しい言い方になるけど、あなたはもう時代遅れなのよ。敏子先生、現実を見て。いい加減、自分の立ち位置を認めなさい!」「お母さん――」凛が耐えきれず、棚の陰から飛び出してきた。その声に、敏子は一瞬うるんだ瞳をぐっと押さえ込み、笑顔を無理やり引き出した。「持ってきた?」凛は手にしたカレーパウダーの袋をひょいと持ち上げて見せた。「うん、ここにあるよ。もう遅いし、お父さんもたぶん学校から帰ってるよね?早く会計して帰ろう?」「……ええ、そうね」「鈴木さん、それでは私たち、これで失礼します」凛が母の代わりに静かに頭を下げた。彼女には分かっていた。今の敏子がどれほど傷ついていて、もうこれ以上、目の前の人と向き合う余裕がないことを。文香は薄く笑ってみせた。「ええ、私はもう少し見て回るから」そう言ってから、再び敏子の方に向き直る。「さっきの話、もう一度よく考えてみてちょうだい。……私たち、古い付き合いでしょう?これまで何年も、一緒にやってきたんだから」敏子は視線を落としたまま、何も言わなかった。凛がそっとカートを引き取り、そのまま母を連れてその場を離れた。「お母さん、あの女……鈴木さんとは、十年契約だったよね?」「うん」「たしか、今年が最後の年だったはずじゃない?」敏子は少し考えてから、うなずいた。「言われてみれば、そうね」「……彼女のこと、どう思う?」敏子は二秒ほど沈黙し、それから言葉を絞るように答えた。「……まあ、プロ意識はあるわ」凛はふっと微笑み、特に突っ込まずに話を続けた。「契約書、まだ残ってるよね?」「残ってるけど、どうして?」「今夜、探して見せてくれない?」「どうしてそんなの見たいの?」「ただちょっと見てみたいだけだよ。ダメなの?」「そんなわけないでしょ。お母さんのものなんて、全部
「さっきカレーパウダーを買い忘れちゃった。凛、あそこの棚から一袋取ってきて」「うん」凛はすぐに頷いたが、母が自分を席から外そうとしているのを察していた。娘が離れていくのを見届けてから、敏子はようやく口を開いた。「今朝も言ったけど、まだ考えてる最中なの」「考えてる考えてるって……この話、もう三ヶ月前に持ちかけたわよね?その時も考えさせてって言うから、時間をあげた。でも今になっても、はっきりした返事は一度ももらってない」敏子は眉をひそめた。「私たち、長いこと一緒にやってきたんだから、あなたも分かってるでしょう?私はサスペンスとかスリラーの中短編が得意なの。だいたい二十万字か三十万字ぐらいの作品。今さらネット小説に転向しろって……そんなの、まるで別世界じゃない」「どっちも小説でしょ?なにが別世界よ。文学はつながってるものよ。畑違いなんてないわ」女性の口調は冷たくなり、さっきまでの笑みもすっかり消えていた。敏子は、なんとか冷静に説明を試みた。「まず、ネット小説って基本的に長編が主流でしょ?下手すれば百万人字超えなんてザラ。それに人気ジャンルっていえば、都会の恋愛だとか、財閥との結婚だとか……そういうの、私は一度も書いたことがないし、得意でもない。どうやって書けっていうの?『青い果実』のときのこと、もう忘れたの?あの時も転向しようって言ったけど、結果はどうだった?」『青い果実』――それは、敏子が酷評された青春学園小説のことだった。文香の視線がわずかに揺れ、口調も少しやわらいだ。「分かってるわ。あの作品であなたの評価が一気に落ちて、今でもその傷が癒えてない。ネットから離れたのも、それが理由なんでしょう?」「だったら……私がネットを離れたことを知ってて、どうしてまた社長ものの恋愛小説なんて、ネット市場に迎合する方向へ行けって言うの?」「敏子先生、落ち着いて、まずは、ちょっと聞いて」文香は声を和らげながら続けた。「『青い果実』がビジネスに繋がらなかったのは、執筆が遅れたせいよ。書き上げて出版するまでに三年、四年かかったでしょ?その間に映像業界のトレンドはもう変わってた。私があの方向への転向を提案した時には、たしかに青春学園ものが熱かったの。だから、その責任を全部私に押しつけるのは乱暴よね?あなたにも責任はあるし、もちろん、私たち両
あの時期、敏子はうつになりかけていた。幸いだったのは、夫と娘がそばにいてくれたことだ。その支えがあったからこそ、少しずつ気持ちを立て直すことができた。ただ、それ以来、ネットには一切触れず、携帯電話も機能の少ないシニア向けのものに変えてしまった。十年という歳月のあいだに、世に出したのはあの青春小説一冊だけ。それ以外に、新作はなかった。「……まあ、そんな話はもういいわ。ホットサンド、おいしい?」「うん。昔と変わらない味だった」凛は母の顔を見つめながら、何か言いたげに口を開きかけたが、結局、何も言わなかった。「ただ、コーヒーがちょっと熱かった」「そう?じゃあ、もう少し冷まそうか」……大晦日が近づくにつれて、静かだった小さな町にも、どこか華やかな空気が漂い始めていた。通りの両側には赤い提灯が吊るされ、道沿いの街路樹には色とりどりの電飾が巻きつけられていた。近所の小さなスーパーは買い物客でごった返し、商品もあまり残っていなかったので、敏子は車を出して、中心街にある大型スーパーへ向かうことにした。車を停め、母娘は並んでエレベーターに乗り、一階へと下りていった。まだ入口に入る前から、左右に立てられた看板に、大きな「年末セール」の字が目に飛び込んできた。中を覗くと、ぎっしりと人で埋め尽くされていた。年越しの買い物に訪れた人々で賑わい、どこもかしこも、お祝いムードに包まれていた。家に子どもはいなかったが、正月ともなれば雨宮家の親戚付き合いもあるし、卒業していった教え子たちが顔を見せに来ることもある。ご近所の人たちがふらりと立ち寄ることも少なくない。だから、おつまみや果物は常備しておかないと落ち着かない。お菓子売り場を通りかかると、敏子はブランドもののキャンディやポテトチップス、ビスケットをいくつか手に取った。そういえば、家の油や醤油、酢といった調味料もそろそろ切れそうだった。思い出したように、瓶詰めや調味料のボトルもいくつかカートに加える。鮮魚コーナーに足を運ぶと、水槽の中でエビが元気よく泳ぎ回っていた。それを見た敏子は、ふと振り返って凛に「エビ、買って帰る?」と聞こうとした。……が、後ろにいたはずの娘の姿が見えない。敏子は眉をひそめてカートを押しながら二列ほど戻ると、やっぱりという顔で凛の姿を見つけた。手に