私を投獄した後、クズ夫は後悔に狂った

私を投獄した後、クズ夫は後悔に狂った

By:  笹しぐれUpdated just now
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
Not enough ratings
30Chapters
56views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

政略結婚により、涼崎市で最もプライドが高く、わがままなお姫様と呼ばれる令嬢は、ビジネス界に君臨する帝王に嫁いだ。 しかし、ある交通事故で彼の初恋の人が命を落とした。彼女は犯人として告発され、懲役三年の実刑判決を受けた。 突然の獄中生活が、彼女が身に纏っていた棘をすっかり削ぎ落としてしまった。 そして、彼への想いもすべて灰と化した。 三年後。刑期を終えて釈放された彼女を、彼は自ら迎えに来た。 「これからも御堂家の嫁としては認めてやる。ただし、俺は二度とお前には触れない」――それが条件だった。 だが、彼女の心はとうに冷え切っていた。ただ、彼から遠く離れたいだけだった。 …… 真相が暴かれて、あの事故が仕組まれた冤罪だったと知った時、彼はようやく自分の犯した過ちの大きさを思い知った。 彼は彼女の手を離すまいと強く握りしめ、膝をついた。 「夕凪、やり直そう」 彼女は冷たく笑った。 「御堂さん、私、もう新しい恋人がいるのよ」

View More

Chapter 1

第1話

刑務所の門を出た瞬間、冷たい風が吹き抜け、枯れ葉がカサカサと舞い落ちた。

真冬だというのに、瀬戸夕凪(せと ゆうなぎ)は目を閉じ、外の空気を貪るように胸いっぱいに吸い込んだ。

三年前、裁判長から重々しく非情な判決が言い渡され、殺人の罪で懲役三年が確定した。

そして今日、ようやくその刑期を終えたのだ。

ふと視線を上げると、遠くの路肩に艶やかな漆黒の高級車が停まっていた。見覚えのある一台だった。

心臓が、大きく跳ねた。

――あの人だ。御堂峻(みどう しゅん)。

途端に、三年前の光景がまざまざと脳裏に蘇る。

法廷で、峻は夕凪が彼の初恋の相手――涼風清音(すずかぜ きよね)を殺害したとする証拠を提出した。

あの時すでに、二人は結婚して三年になるれっきとした夫婦だった。

それでも彼は、冷たく言い放った。「人を殺したなら、命で償え」

最終的に裁判所は、夕凪が主犯だと断定するには証拠不十分だと判断し、量刑は懲役三年にとどまった。

夕凪は法廷で峻の元へ駆け寄り、その手にすがりついた。

「峻……!私、殺してない!清音さんを殺したのは、私じゃない!峻、お願い、助けて……私、刑務所になんて行きたくない……!」

しかし、どれほど泣いてすがっても、峻の顔は凍りついたまま、微動だにしなかった。

女性の刑務官が夕凪を引き剥がして初めて、彼は懐からハンカチを取り出した。

そして、先ほど夕凪に触れられた箇所を、まるで汚物でも払うかのようにゆっくりと拭ったのだ。

仕立てのいいスーツに身を包み、長い脚を組んで法廷の席に座るその姿。金縁眼鏡の奥の瞳は深く沈み、何を考えているのか誰にも読めなかった。

石畳を打つ氷雨のような、冷ややかな声。そこに温もりは微塵もなかった。

「夕凪。お前が殺していないなら――なぜ、あの車に轢かれて死んだのが、お前じゃなかったんだ?死ぬべきだったのは、お前のほうだ!」

夕凪の叫びが、ぴたりと止んだ。

涙に濡れた顔のまま、ただ呆然と――彼を見つめていた。

……

一枚の枯れ葉が風に乗り、肩にふわりと落ちた。その感触に、夕凪はふいに我に返った。

足元には枯れ葉が一面に散って、まるで大樹に見捨てられたようだ。身を切るような寒風に、夕凪は思わず首をすくめ、両手をコートのポケットに押し込んだ。

三年間、あの陽の差さない場所で――何より耐えがたかったのは、孤独だった。

夕凪は瀬戸家の令嬢である。かつては飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、ここ二年ほどで静かに没落しつつある一族だ。幼い頃から家族に甘やかされ、悔しい思いひとつせずに育った。

けれど獄中で夕凪が毎日繰り返していたのは、数字を数えることだった。朝から晩まで、ただ無意味に数字を数え続けていた。

最初は出所までの日数を指折り数えていた。やがてそれすら意味を失い、ただ機械のように、「一日は八万六千四百秒」と唱え続けるだけになった。

果てのない孤独は、闇の中に潜む魔物のようだった。大きく口を開け、彼女の中にあった明るさも、無邪気さも、少しずつ呑み込んでいった。

そして――幼い頃からずっと抱いてきた、峻への熱も愛も、すべて燃え尽きさせたのだ。

今、刑務所の門をくぐり抜けた。けれど心の中はただ静かで、さざ波ひとつ立たない。

夕凪は幼い頃からずっと彼の背中を追いかけ、親しみに「峻」とすがりついては冷ややかな目を向けられてきた。

あの男への想いは、もう完全に死んだのだと、夕凪は悟っていた。

過去は風と同じだ。吹き去ってしまえば、塵ひとつ舞い上がりはしない。

夕凪は路肩に立ち、あの車をじっと見つめた。

ほんの二秒の間をおいて、彼女は潔く踵を返し、反対方向へ歩き出した。

……

車内の峻は、何晩も続いた残業の疲労から、シートに深くもたれて目を閉じていた。

運転手の青柳忠(あおやぎ ただし)は何度も腕時計に目を落とした末、ついに口を開いた。「若様、若奥様は……まだ出てこられないのでしょうか」

峻がふいに目を開けた。

視線の先で、刑務所の重い鉄扉がゆっくりと閉ざされていくところだった。

峻の眉間に深い皺が刻まれる。

「聞いてこい。どうなってるんだ」

「はい」

忠は小走りに向かい、程なくして戻ってきた。

「若様……確認いたしましたが、若奥様はもうとっくに出られたそうです」

忠は恐る恐る報告した。

峻の瞳に、すっと冷たい光が走った。

――わざと俺を避け、目の前をすり抜けて逃げたというのか。

以前の夕凪なら、ありえない。俺の姿を見つければ、すぐにでも後を追ってきて、振り払っても離れなかったはずだ。

刑務所で、つまらない駆け引きでも覚えたのか。

だが、あいつは思い違いをしているようだ。

三年前だろうと三年後だろうと、あいつに興味を持つことも、情が湧くことも――絶対にないのだから。

忠はルームミラー越しにちらりと峻を窺い、慎重に言葉を選んだ。ビジネス界で「冷徹無比な帝王」と恐れられるこの男を、不用意に怒らせるわけにはいかない。

「若様……若奥様は、どこへ行かれたんでしょう」

若様は御堂グループの次期当主として、毎日目が回るほどの激務をこなしている。それでも大事な会議をひとつ蹴ってまで、若奥様の出迎えに来たのだ。

それなのに若奥様は、わざと若様を避けるとは。三年も服役していたのに、あのわがままな気質はまるで変わっていない。

駆け引きのつもりか?若様はビジネスの修羅場で百戦錬磨、どんな謀略も手管も見抜いてきたお方だ。

虎の尾を踏むようなものだ――自分から墓穴を掘っているとしか言いようがない。

峻は金縁眼鏡を押し上げ、意に介さない口調で言い放った。「家に帰る以外、行くあてなどあるはずがない」

三年間、夫婦だったのだ。あいつのことは誰よりわかっている。

幼い頃から、一日会えないだけで生きていけないとすがるような女だ。

だから、仮に駆け引きのつもりだとしても、先に帰って身なりを整え、俺を驚かせようとしているに決まっている。

――この姿では俺に顔向けできない、余計に嫌われると思ったのだろう。

そこまで考えて、峻はまた眉根を寄せた。あの女がまとわりついてくる姿を思い浮かべるだけで、胸の奥に苛立ちがこみ上げる。

よりによってこんな時に、忠が空気を読まなかった。「若様、ではご自宅へお送りいたしましょうか」

峻が冷ややかに一瞥した。

忠の背筋が瞬時に凍りつき、体が強張った――自分の失言を悟ったのだ。

「会社に戻れ」

峻の声は氷そのものだった。窓の外へ冷たく視線を流すその横顔には、血の通った温かさなど微塵もなかった。
Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
30 Chapters
第1話
刑務所の門を出た瞬間、冷たい風が吹き抜け、枯れ葉がカサカサと舞い落ちた。真冬だというのに、瀬戸夕凪(せと ゆうなぎ)は目を閉じ、外の空気を貪るように胸いっぱいに吸い込んだ。三年前、裁判長から重々しく非情な判決が言い渡され、殺人の罪で懲役三年が確定した。そして今日、ようやくその刑期を終えたのだ。ふと視線を上げると、遠くの路肩に艶やかな漆黒の高級車が停まっていた。見覚えのある一台だった。心臓が、大きく跳ねた。――あの人だ。御堂峻(みどう しゅん)。途端に、三年前の光景がまざまざと脳裏に蘇る。法廷で、峻は夕凪が彼の初恋の相手――涼風清音(すずかぜ きよね)を殺害したとする証拠を提出した。あの時すでに、二人は結婚して三年になるれっきとした夫婦だった。それでも彼は、冷たく言い放った。「人を殺したなら、命で償え」最終的に裁判所は、夕凪が主犯だと断定するには証拠不十分だと判断し、量刑は懲役三年にとどまった。夕凪は法廷で峻の元へ駆け寄り、その手にすがりついた。「峻……!私、殺してない!清音さんを殺したのは、私じゃない!峻、お願い、助けて……私、刑務所になんて行きたくない……!」しかし、どれほど泣いてすがっても、峻の顔は凍りついたまま、微動だにしなかった。女性の刑務官が夕凪を引き剥がして初めて、彼は懐からハンカチを取り出した。そして、先ほど夕凪に触れられた箇所を、まるで汚物でも払うかのようにゆっくりと拭ったのだ。仕立てのいいスーツに身を包み、長い脚を組んで法廷の席に座るその姿。金縁眼鏡の奥の瞳は深く沈み、何を考えているのか誰にも読めなかった。石畳を打つ氷雨のような、冷ややかな声。そこに温もりは微塵もなかった。「夕凪。お前が殺していないなら――なぜ、あの車に轢かれて死んだのが、お前じゃなかったんだ?死ぬべきだったのは、お前のほうだ!」夕凪の叫びが、ぴたりと止んだ。涙に濡れた顔のまま、ただ呆然と――彼を見つめていた。……一枚の枯れ葉が風に乗り、肩にふわりと落ちた。その感触に、夕凪はふいに我に返った。足元には枯れ葉が一面に散って、まるで大樹に見捨てられたようだ。身を切るような寒風に、夕凪は思わず首をすくめ、両手をコートのポケットに押し込んだ。三年間、あの陽の差さない場所で――何より耐えがたか
Read more
第2話
刑務所を出た夕凪が真っ先にしたことは、銭湯へ行って湯につかることだった。まずはこの身にまとわりついた穢れを、きれいさっぱり洗い流したかったのだ。浴槽に足を踏み入れ、熱い湯の中にゆっくりと体を沈めていく……ああ、気持ちいい。思わず目を閉じて、浴槽の縁に頭をもたせかけた。あまりにも穏やかで、あまりにも安らかで――ずっと張り詰めていた糸がふっとほどけた途端、記憶の底に沈めていたものが、ひとりでに浮かび上がってきた。六年前、御堂グループは突如として経営危機に陥った。窮地を脱するため、峻は自ら夕凪のもとを訪れ、プロポーズした。瀬戸グループに支援させるための政略結婚だった。父は反対していた。峻の心に別の女性がいることを、とうに見抜いていたからだ。けれど、どうするかと問われた夕凪は、二つ返事で承諾してしまった。世界的なデザイナーが一針一針縫い上げたウェディングドレスに身を包み、一歩、また一歩と峻のもとへ歩み寄ったあの日。その先に待っているのは確かな幸せだと、疑いもしなかった。――まさかそれが、終わりの見えない地獄の入り口だったとは。刑務所の門を出たあの瞬間は、まだどこか茫然としていた。けれど今、湯の温もりに体がほぐれるにつれて頭が冴えてゆき、胸の奥に一本の芯が通るのを感じた。峻がわざわざ迎えに来た理由が何であれ、ろくなことであるはずがない。だから――あの男にはもう近づかない。二度と、傷つけられる隙を与えない。今の自分がやるべきことは、二つだけ。離婚すること。そして、無実を証明すること。ただ、峻を避けながら離婚を進めるには、どう立ち回ればいいのか?温かい湯の中に体を沈めたまま目を閉じて、立ちのぼる湯気の中で、夕凪は静かに思いを巡らせた。――身を清めてから、夕凪は御堂本家へ向かった。実家には戻らなかった。四年前のあの一件以来、父との間に見えない壁ができてしまっている。父の顔を見たくなかった。後妻の百合子(ゆりこ)と、その娘の志織(しおり)の顔は、なおさらだ。けれど、峻の祖母である御堂静江(みどう しずえ)だけは、昔も今も変わらず、本当の孫のように夕凪を慈しんでくれていた。峻の叔母・御堂雅子(みどう まさこ)と、その娘の御堂千鶴(みどう ちづる)が、買ったばかりのブランドバッグを広げてはしゃいでいた。夕凪の姿を
Read more
第3話
二十分後。忠はアクセルを踏み抜かんばかりの勢いで車を飛ばし、ようやく最短時間で峻を本家へ送り届けた。玄関をくぐるなり、御堂グループの次期総帥ともあろう峻が、またしても祖母にこっぴどく叱り飛ばされた。峻は一言も言い返さず、黙って叱責を浴びていた。が、頭の中では別のことを考えていた。御堂家の先代当主と夕凪の外祖父――瀬戸グループの創業者は、血の繋がりこそないが義兄弟の契りを結んだ仲だ。夕凪は幼い頃からしょっちゅう本家に遊びに来ていた。静江には三人の息子と一人の娘がいて、孫も五、六人、さらに外孫娘もいる。けれど昔から誰よりも可愛がっていたのは、血の繋がりのない夕凪だった。御堂家の子や孫たちは皆それを妬んでいたし、峻自身も理由がわからなかった。そして夕凪が出所後、別荘ではなくまっすぐ本家の祖母を訪ねたという事実――それだけは、少しだけ意外だった。静江はひとしきり怒鳴り散らした後、今度はくどくどと説教を始めた。峻は一言も耳に入っていなかった。頭にあるのは、さっきの会議で議論していた案件のことだけだ。「……今すぐ別荘に帰りなさい。夕凪にちゃんと頭を下げるんだよ。今夜は田島さんにあの子の好きな料理を作らせて……いや、やっぱり外で食べなさい。洋食のいい店を予約して、雰囲気のいいところにするんだよ……」静江の小言が続くほどに、峻の顔は険しさを増していった。それでも最後には、不承不承「……ああ」とだけ返した。汐見台の別荘に戻ると、田島峰子(たじま みねこ)が足早に出迎えた。「若様、若奥様がお戻りになったのですが……」言い終わらぬうちに、峻は冷ややかに「ああ」と応じた。――これからまた、あの女のまとわりつくような顔を見なければならないのか。そう思うだけで、眉間に苛立ちが滲んだ。だが、峰子の次の言葉は予想を裏切るものだった。「それが……また出て行かれてしまいまして」出て行った?どういう意味だ。「その……」峰子はおそるおそる切り出した。峻の顔をまともに見ることすらできない。「一時間ほど前にお戻りになって、お荷物をまとめると……そのまま出て行かれました」上着を脱ぎかけ、ネクタイを緩めかけていた峻の手が止まった。大股で階段を上がり、ゲストルームのクローゼットを開ける。――やはり、中できちんと並んでいたはず
Read more
第4話
嫁ぎ先には怖くて戻れない。実家にも帰れない。――行き場が、どこにもない。夕凪はあてもなく、身を切るような寒風の中を歩き続けていた。鼻先は真っ赤で、体の震えが止まらない。ふと、子どもの頃に読んだ「マッチ売りの少女」を思い出した。寒くて、腹が減って、一文無しで――今の自分は、まさにあの少女そのものだ。足が止まった。目の前に、二十四時間営業の看板を掲げたファストフード店がある。窓越しに見える店内には、夜を明かすホームレスたちの姿があった。もう、ここしかない。夕凪は歯を食いしばり、迷惑を承知で店に入った。隅の席を見つけ、テーブルに突っ伏す。外で凍え死ぬよりはマシだ。けれど一睡もできなかった。硬いテーブルと椅子、地鳴りのようなホームレスのいびき、ひっきりなしに開閉するドア――針のむしろに座らされているようで、一分一分が永遠に感じられた。でも、あそこよりはずっといい。テーブルに顔を伏せたまま、夕凪は静かにそう思った。どんな形であれ、自由の身になれたのだ。経験した者にしか分からない。「自由」がどれほど尊いものか。自由でさえあれば、未来にはまだ希望がある。――ふいに、足元に何かが触れた。体がびくりと跳ね、意識が一気に覚醒する。彼女は反射的に立ち上がり、背筋を伸ばして声を張った。「はい、六二八番、報告願います!」店内の視線が一斉に集まった。数秒の沈黙……そこでようやく、夕凪は我に返った。ここは刑務所ではない。もう出所したのだ。眠りの中で看守に点呼だと思い込んで、つい――顔が一瞬で熱くなり、首筋まで真っ赤に染まった。恥ずかしさで、今すぐ消えてしまいたかった。のろのろと腰を下ろし、うつむいたまま顔を上げられない。火の出るように熱くなった顔は、いつまでも冷めなかった。そのとき初めて、外がすっかり明るくなっていることに気がついた。足に当たったのは、早朝の清掃を始めた店員のモップだった。――清掃員。その言葉に、はっとした。住む場所もなければ、金もない。とにかく仕事を見つけなければ。住み込みで働けて、その日食べていける仕事なら、なんでもいい。名の知れた大学を出てはいるが、前科者の自分をまともな企業が雇うはずがない。だから、身元を問われない仕事。真面目に働きさえすれば、雇ってもらえる仕事
Read more
第5話
だが、夕凪はすぐに飛びつくことはしなかった。不安げに眉を寄せる。「でも……」言いかけて、口をつぐんだ。桐生家と御堂家は商売敵だ。この男の厚意を素直に受け取っていいものか。司はにやりと笑った。「そんなに警戒するなよ。大荷物抱えて仕事を探し回ってるってことは、行く当てがないんだろ?俺はただ、困ってる人間に手を貸してやろうってだけだ」それでも夕凪の警戒は解けない。司はその様子を見て、声を上げて笑った。「あんたを利用するつもりなら、今すぐ御堂さんに電話してるさ。わざわざこんな地味な仕事を回す必要がどこにある?まあ、働くか出ていくかはあんたの自由だ。好きにしろ」そう言い残して、司は背を向けた。夕凪はその場に立ち尽くしたまま、遠ざかる背中を見つめていた。胸の中は迷いでいっぱいだった。一時間後、司はクラブの奥にあるオーナー室で、革張りの椅子にだらしなく身を沈め、デスクの上に両足を投げ出していた。スマホを取り出し、理紗にメッセージを送った。【あの女、どうした?】理紗から即座に返信が来た。【オーナー、残ることにしたみたいです】司の口角がさらに上がった。その瞳の奥で、心底面白そうな光が強くなった。瀬戸夕凪。瀬戸家の令嬢にして、御堂グループ総帥の妻。その女が何もかも捨てて、よりによってこんな場所の清掃員に収まるとは。面白い。実に面白い。この女をここに置いておけば、いずれ何か面白いことが起きるに違いない。――こうして、夕凪はクラブ「クラウド」の清掃員として働き始めた。司と峻が宿敵同士だということは分かっている。だが今は、生き延びることが最優先だ。路上で飢え死にするわけにはいかない。夕凪は心に決めた。常に周囲に気を配り、峻の声が聞こえたり、姿が見えたりしたら、即座に身を隠す。それだけだ。それから何日も経ったが、峻が夕凪を探しに来る気配はなかった。司は本当に、彼女のことを黙っていてくれているらしい。清掃員の中で夕凪は一番若かったが、一番がむしゃらに働いた。誰もやりたがらない汚れ仕事も率先して引き受け、ひたすら手を動かした。夕凪が磨き上げた後の床は、鏡のように光っていた。その働きぶりは、あの口うるさい理紗にさえ気に入られるほどだった。当然、他の清掃員たちからは陰口を叩かれた。あんなに必死になってどうするの
Read more
第6話
それにしても、なぜ峻はあんなことを言ったのだろう。「正式に娶った妻」だと?夕凪はすでに離婚協議書を置いてきた。峻が判を押しさえすれば、所定の手続きを経て二人の婚姻は終わる。晴れて自由の身になれるはずだ。それこそ、峻がずっと望んでいたことではないのか。――ふいに、背後でVIPルームの重い扉が内側から引き開けられた。夕凪はびくりと身を竦め、我に返るや否や逃げ出そうとした。「待て」呼び止められた。しかも、この低く冷たい声はまさか……?聞き間違えるはずがない。あの人、峻だ!夕凪の頭の中が真っ白になり、足が凍りついた。一歩も動けない。背筋が棒のように硬直し、指先から急速に体温が消えていく。足元から這い上がってきた氷のような冷気が、血管を伝うようにして一気に頭のてっぺんまで突き抜けた。――まさか……気づかれた?――清音の仇を討つために、私をどうする気なのか?「お前、何て名前だ」案の定、峻の怪訝そうな声が背中に突き刺さった。頭の中で、激しく警鐘を鳴らすような轟音が響いた。「こっちを向け。名前を言え」低く、峻の有無を言わさない声が重ねて飛んでくる。夕凪は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。――この場は、もう逃げ切れない。覚悟を決め、ゆっくりと体を回した。だが、絶対に口を開くわけにはいかない。代わりに両手を持ち上げ、無我夢中で手話を繰り返した。刑務所にいた頃、同房に言葉の不自由な受刑者がいて、暇を見ては手話を教えてもらっていた。まさかこんな形で役に立つ日が来るとは。夕凪の手の動きは淀みなく、付け焼き刃には見えないほど自然だった。峻は眉間に、深いしわを寄せた。「……本当に話せないのか」――さっき、この清掃員が部屋を出ていく後ろ姿が、ほんの一瞬だけ夕凪に重なって見えた。だからつい、衝動的に追いかけてしまったのだ。だが、マスクこそ外していないものの、だぶだぶの作業着に着膨れした体つきも、淀みなく手話を操るしぐさも、どこからどう見てもただの清掃員だ。とても演技には見えない。峻は思わず鼻で笑った。自分が馬鹿らしくなったのだ。瀬戸家の令嬢だぞ。小さい頃から蝶よ花よと甘やかされて育った女が、身分を捨てて、こんなところで掃除婦などやるはずがないではないか。こんな女を夕凪と見間違えるとは、よほど頭がど
Read more
第7話
「はい、間違いありません」夕凪が力強く頷いた。若い刑事が信じられないといった顔で首を傾げた。「しかし、当時の捜査では段野悠雨と被害者の間にいかなる接点も確認されていません。現場付近を通りかかった警備員というだけの人物だったはずですが……」少し考え込んでから、若い刑事は圭吾の方を振り返った。「課長、これはやはり……段野悠雨の周辺を洗い直す必要がありますね」圭吾は厳しい顔で深く頷いた。「ああ。すぐに取りかかれ。段野と被害者の本当の関係を、底の底まで徹底的に洗え」「了解しました」……涼崎署を出た夕凪は、冬の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出した。胸の奥に覆いかぶさっていた重苦しい靄が、少しだけ晴れていく気がした。夏目課長ならきっと、時間と労力を惜しまずこの事件を掘り返してくれる。冤罪を晴らせるかもしれない。そのささやかな希望が、三年間の地獄で冷え切っていた心をじんわりと温めてくれた。足取りも軽く、夕凪はバスに揺られてクラブの寮へと戻った。……汐見台の別荘。その夜、峻はベッドの上で何度も寝返りを打っていた。どうしても眠りにつけない。数日前、クラウドで見かけたあの清掃員の後ろ姿。夕凪にそっくりだったあの背中が、まぶたの裏にこびりついて離れないのだ。――あの女は、今どこにいるのか。苛立ちまぎれに乱暴に体を反転させた拍子に、枕の下から何かが滑り落ちた。拾い上げると、一枚の写真だった。白いブラウスに、肩に流れる艶やかな黒髪。飾り気のない顔で、静かに微笑んでいる清音だった。彼女は涼崎大学の優等生で、森林環境学を専攻していた。指導教授には将来を嘱望され、同級生たちからも慕われていた。霧雨の中で凛と咲く、可憐な白い花のような人だった。あれほど純粋で、善良で、誰よりも優しかった彼女の若い命は、三年前のあの午後、唐突に絶たれた。――なのに、写真を見つめているうちに、峻の胸の奥に理由の分からない苛立ちがどす黒くこみ上げてきた。無性に、強い酒が飲みたくなった。……色とりどりのネオンが瞬くバーのカウンターで、峻は一人、グラスを傾けていた。何杯か空けるうちに、酔いが回り始める。だが頭の中の鬱陶しい靄は、いっこうに晴れなかった。峻から放たれる圧倒的な威圧感に、店内の女
Read more
第8話
夕凪は静かに首を横に振った。多恵はほっと息をついた。「やっぱりね。あんたがちゃんと教養のある子だってことくらい、見てりゃ分かるわよ。ここで掃除してるのは今だけで、いつかは絶対ここを出て行く人だって……」夕凪の胸が、また小さく震えた。そうだ。自分だって、峻や清音と同じ涼崎大学を出た人間なのだ。「あんたには人に言えない事情があるんだろうし、私もこれ以上詮索はしないよ。でもね、これだけは言わせて。あんたはいい子だよ。何があっても絶対に諦めちゃ駄目。つまずいたって、そこからまた立ち上がればいいんだから……」多恵の声には、力強い優しさがこもっていた。夕凪はたまらず目頭が熱くなり、じわりと涙がにじんだ。喉の奥が詰まって、ようやく声を絞り出した。「……ありがとう、ございます……多恵さん……」――多恵の姿が、亡き母と重なった。きっと天国のお母さんが、一人ぼっちの私を放っておけなくて、自分に代わって背中を押してやってほしいと、多恵さんをそばに遣わしてくれたのかもしれない。もちろん、諦めるつもりなんてない。峻との離婚手続きを済ませ、自らの手で冤罪を晴らした時こそ、新しい人生が始まる時だ。そう思うだけで、未来にはまだ希望の光が残っているような気がした。夕凪がそんなふうに密かな決意を噛み締めていると、不意にドアが乱暴に叩かれた。「瀬戸さん!急いで三番ルームの掃除に入って!」夕凪は清掃用具を手に駆けつけ、重いドアを押し開けた。目に飛び込んできた光景に、心臓がどくんと跳ねた。若いホステスが顔を覆って泣きじゃくっている。その目の前に、泥酔して顔を真っ赤にした男が仁王立ちになっていた。周りの男たちも、止めるどころか下卑た笑いではやし立てている。床には割れた酒瓶の破片が散乱し、目を覆いたくなるような惨状だった。あのホステスに見覚えはない。おそらく入ったばかりの新人だろう。夕凪の体が、一気に強張った。こういう場所では、酔った勢いでホステスに手を上げるたちの悪い客が必ずいる。大事にならなければ、店側も見て見ぬふりをするのが暗黙の了解だった。心臓が早鐘を打ち、血の気が引いていく。夕凪は急いで顔を伏せ、黙々と床の破片を片付け始めた。ところがそのホステスが、突然夕凪の手をぎゅっと掴んだ。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、必
Read more
第9話
「ふざけんな!たかが掃除のおばちゃんの分際で、俺に楯突こうってのか。ただで済むと思うなよ……!」惟人が激昂して腕を振り上げ、力任せに打ち下ろしてきた。夕凪の背後は壁だった。逃げ場などどこにもない。迫ってくるその手を、目を見開いたまま見つめることしかできなかった。「唐沢さん、相手はただの清掃員ですよ。そこまで熱くなることはないでしょう」ちょうどその時、ドアを押し開けて司が入ってきた。にやにやと笑いながら。司の姿を見て、惟人の腕が宙で止まった。彼は忌々しげに舌打ちして、手を下ろした。司が、早く行けとばかりに夕凪へ目配せをした。夕凪ははっと我に返った。顔面は蒼白だったが、ホステスの手を引いて急いでその場を離れようとした。だが背後から、惟人の底意地の悪い声が追いかけてきた。「おい桐生、最近ずいぶん羽振りがいいみたいだな。そろそろこの店、営業停止にでもしてほしいのか?俺なら半月もあれば潰せるぞ」司の顔色がさっと変わった。夕凪は思わず足を止めた。見れば分かる。言葉の端々からも伝わってくる。この惟人という男の権力は、司を遥かに凌いでいるのだ。だからこそ、他人の店でここまで露骨に脅せるのだ。事実、司は一瞬屈辱に顔を歪めたが、すぐに無理やり笑みを作って惟人に向き直った。「唐沢さん、どうすればこいつを見逃していただけますか」惟人の目に、陰湿な光がよぎった。テーブルに並んだ酒瓶を指差し、冷ややかに笑う。「こいつがこの酒を全部飲み干したら、水に流してやるよ」夕凪の顔からさらに血の気が引いた。膝が折れそうになる。どれもアルコール度数の高い酒ばかりだ。普段から一滴も飲めないうえに、すっかり弱り切っている今の体でこんなものを流し込まれたら、命に関わる。「わ……私は……お酒が飲めません……」惟人は片眉をつり上げ、顎でホステスを指した。「じゃあ、そっちの女に代わりに飲ませろ」ホステスは金切り声を上げ、必死に手を振った。「嫌よ!私は関係ないわ!このおばちゃんが勝手にあなたを怒らせたんじゃない!私じゃないわ!この人に飲ませてよ!私には関係ないの……!」夕凪の顔が、さらに白くなった。胸の奥を、鋭利な刃物で抉られたような痛みが走った。三年もの間、あの地獄で散々思い知らされたはずなのに。自分はまだ、赤の他人を庇
Read more
第10話
峻が部屋に入ってくるのを見て、司もさっと顔色を変えた。思わず夕凪に目をやる。前回、峻がクラウドに来た時も夕凪と鉢合わせしている。あの時はマスクで顔を隠していたおかげで峻に気づかれずに済んだ――そう理紗から聞いていた。あの一件で、司は確信したのだ。峻と夕凪の間には、確実に何かがある。夕凪は明らかに、峻を避けている。峻は長身で、仕立てのいいスラックスがすらりとした脚をいっそう際立たせていた。白いシャツの上にはジャケットを羽織らず、無造作に腕にかけている。袖口のダイヤモンドのカフスが、冷たい光を放った。まるで氷塊のように冷徹な佇まいだった。触れるものすべてを凍てつかせるような、目に見えない冷気を纏っている。一歩、また一歩。峻が歩みを進めるたび、その足音が夕凪の心臓を容赦なく打ちつけた。顔からみるみる血の気が引き、全身の血が凍りついて流れを止めたかのようだった。マスクはしている。けれど相手は、あの峻なのだ。本当に気づかれていないのか、夕凪には確信が持てなかった。峻の目が惟人を捉えた。その声は、氷の刃のように冷たく、鋭かった。「たかが清掃員一人、しかも声も出せない女を相手に寄ってたかって……弱い者を踏みつけるのが、唐沢グループの社風というわけか。今回の御堂との提携の件、こちらも慎重に考え直す必要がありそうだな」夕凪はそっと、安堵の息を吐いた。――よかった。まだ、気づかれていない。峻が「声も出せない」と言った時、惟人は一瞬怪訝な顔をした。だが提携の見直しという言葉が耳に届いた途端、そんなものは吹き飛んだ。顔から血の気が失せ、慌てふためいた。「い、いえ……御堂さん、誤解です!俺はただ、こいつをちょっとからかっただけで……冗談ですよ!」惟人の脳裏に、恐ろしい光景がよぎった。自分のせいで唐沢グループと御堂グループの提携が潰れたと知れたら、親父は激怒して革のベルトを引き抜き、半殺しにされるまで打ちのめすに違いない……司が夕凪にさっと手を振った。「もう下がれ」夕凪はそこでようやく、自分が無意識に息を止めていたことに気がついた。深く頭を下げ、峻に向かって腰を折って一礼した。何がどうであれ、助けてもらったことに変わりはない。そのまま、足早にその場を立ち去った。峻の視線が、無意識に夕凪の後ろ姿を追っていた。
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status