LOGIN政略結婚により、涼崎市で最もプライドが高く、わがままなお姫様と呼ばれる令嬢は、ビジネス界に君臨する帝王に嫁いだ。 しかし、ある交通事故で彼の初恋の人が命を落とした。彼女は犯人として告発され、懲役三年の実刑判決を受けた。 突然の獄中生活が、彼女が身に纏っていた棘をすっかり削ぎ落としてしまった。 そして、彼への想いもすべて灰と化した。 三年後。刑期を終えて釈放された彼女を、彼は自ら迎えに来た。 「これからも御堂家の嫁としては認めてやる。ただし、俺は二度とお前には触れない」――それが条件だった。 だが、彼女の心はとうに冷え切っていた。ただ、彼から遠く離れたいだけだった。 …… 真相が暴かれて、あの事故が仕組まれた冤罪だったと知った時、彼はようやく自分の犯した過ちの大きさを思い知った。 彼は彼女の手を離すまいと強く握りしめ、膝をついた。 「夕凪、やり直そう」 彼女は冷たく笑った。 「御堂さん、私、もう新しい恋人がいるのよ」
View More「社長、お呼びの方をお連れしました」柊吾が社長室に入り、峻に告げた。峻は表情を変えずに、短く頷いた。「通せ」「はい」柊吾に続いて、一人の女がおどおどと部屋に入ってきた。峻の目が女の顔を捉え――そこで、止まった。じっと女を見つめ続ける峻の様子に、柊吾は内心で首を傾げた。――なるほど、確かに顔は悪くない。だが所詮はクラブの清掃員で、おまけに声も出せない女だ。社長はいつからこういう趣味になったのだろう。ところが次の瞬間、峻はふいに視線を外し、柊吾に向かって静かに口を開いた。「連れてきたのは、この女か」柊吾は慌てて頷いた。「はい、間違いありません」峻の眉がすっと上がった。「声は、出せないんだな?」「はい」入室してから、美海は一言も発していなかった――演じているのは話せない女なのだから、当然だろう。だが仮に演技でなかったとしても、声など出せなかったに違いない。一介の清掃員が、こんな途方もなく広い社長室に足を踏み入れたのは生まれて初めてだ。足が地に着かないような心地で、圧倒されて言葉が喉に張りついていた。峻は頷くと、静かに席を立った。ゆっくりと美海の前まで歩み寄る。美海は息を呑んだ。間近で見上げるこの男は、想像以上に背が高く、そして信じられないほど整った顔立ちをしていた。全身から放たれる気品に、呼吸すら忘れそうになる。頭がくらくらして、頬がカッと熱くなる。美海は完全に見とれていた。――その時だった。ついさっきまで柊吾と話していた峻が、不意に美海へと視線を落とした。射抜くような目で睨みつけ、一段低くなった声で言い放つ。「お前――偽物だな」あまりに突然の一言だった。美海は不意を突かれ、反射的に両手を振った。「ち、違います!偽物なんかじゃ……!」――口が動いた瞬間、自分が何をしでかしたか悟った。だが、もう遅い。柊吾は絶句した。みるみるうちに顔色が変わり、目が見開かれる。――自分は、まんまと騙されていたのだ。「よくも騙したね!出て行け!」柊吾は怒りに任せて美海を部屋から叩き出した。そしてデスクの前に戻ると、顔を真っ赤にしてうつむいたまま、峻と目を合わせることができなかった。「申し訳ございません……完全に私の不手際です。今すぐクラウドに向かい、あの話せない――いえ、本当
実のところ、クラウドに話せない清掃員など一人もいない。以前、夕凪が客に絡まれたところを峻が助けた際、なぜか彼女を声が出せないのだと思い込んだ――この一件はクラブの清掃員たちの間で知れ渡っていた。つまり、御堂の人間が「話せない清掃員」を探しに来た時点で、誰もがそれは夕凪のことだと分かっていたのだ。にもかかわらず、美海が目先の大金に釣られて名乗り出て、理紗もそれを黙認した。夕凪の印象では、理紗はどちらかといえば面倒見のいい人だった。だから、これは明らかにおかしい。今回の件をきっかけに記憶を辿ると、これまで見過ごしていた小さな違和感が次々と浮かび上がってきた。思えば、瑠衣の指輪騒動以降、理紗の態度が目に見えてよそよそしく、冷たくなっていたのだ。一体いつ、何が原因であの人の機嫌を損ねたのか――夕凪には心当たりがまるでなかった。「夕凪、さっきは理紗さんの前だったから何も言えなかったけど……今からオーナーの司さんのところに行きましょう!前もあんたのこと守ってくれたじゃない。今度だってきっと力になってくれるわ。あの美海を引きずり下ろして、あんたの名前を届け出るのよ!」多恵はそう言いながら、夕凪の腕を引いて歩き出そうとした。夕凪は焦って引き止めた。冗談じゃない――せっかく虎口を逃れたのに、自分から飛び込んでどうする。「大丈夫です、多恵さん!あのお金、私はいりません。美海が欲しいなら、そのままあげちゃってください!」夕凪は必死に訴えた。「何言ってるの!百万円よ?千円や二千円の話じゃないのよ?本来あんたが受け取るはずのお金なのに、どうしていらないなんて……夕凪、普段はやられっぱなしで泣き寝入りするタイプじゃないでしょう。今日はどうしちゃったの……」多恵は半分怒り、半分いぶかしげに首をひねった。夕凪はこめかみがぴくりと引きつった。――これが「ありがた迷惑」というやつか。「多恵さん、本当にいらないんです……もう正直に言いますね。実は私、以前御堂の関係者とトラブルを起こしたことがある。御堂社長の高級車についていた飾りを、うっかり壊したことがあって……もし御堂グループの人に私だとバレたら、百万円もらうどころか、身ぐるみ剥がされるまで弁償させられます……」咄嗟に出まかせを並べ立てた。夕凪の怯えきった様子を見て
「滝本美海(たきもと みなみ)、だそうです」滝本美海――峻はペンを握る手をぴたりと止め、漆黒の瞳がかすかに揺れた。――あの女。滝本美海、というのか。脳裏に、あの二度の出来事が鮮やかに蘇る。どちらも彼女が客に絡まれていた場面で、気づけば自分が割って入っていた。振り返ってみても、自分でも腑に落ちない。涼崎市の財界で「冷徹無比な帝王」の異名を取るこの自分が――決断は迅速、手段は容赦なし。人助けなどという殊勝な性分とは、およそ縁遠い人間だ。それなのに、あの話せない女を見るたびに、胸の奥からわけのわからない衝動が込み上げてくる。守らなければ、と。誰にも傷つけさせてはいけない、と。なぜこうも心が動くのか、自分でもわからなかった。――障害を抱えながら必死に生きている人間だから、珍しく同情が湧いたのだろう。そう結論づけるしかなかった。だからこそ昨日、咄嗟にあの決定を下したのだ。障害者を助成の対象に加えろ、と。峻は頭の中の靄を振り払うように意識を切り替え、顔を上げた。柊吾に向けた声は、いつもどおり平坦だった。「なら、滝本美海を名簿に入れておけ」「かしこまりました」……深夜――夕凪が仕事を終えて寮に戻ったのは、午前三時を回った頃だった。疲れ果てた体を引きずるようにして部屋のドアを開けると、多恵が鬼のような形相で待ち構えていた。「夕凪!やっと帰ってきた!あんたがいつも黙って耐えてるからって、もう私、我慢の限界よ……!」怒りで声が震えている多恵を見て、夕凪はモップとバケツを静かに下ろした。「多恵さん、どうしたんですか?何かあったんですか?」多恵は声をひそめつつも、堰を切ったように話し始めた。「落ち着いて聞いてね。あの御堂グループの社長さんがね、涼崎市の障害を持つ方を五十人選んで、一人につき百万円の助成金を出すって言い出したの。百万円よ、百万円!しかもね、わざわざうちのクラブの『話せない清掃員』を名指しでリストに入れろって。今日の夕方、御堂から人が来て調べていったんだけど……ちょっと、夕凪?顔、真っ白よ?具合悪いの?」話している途中で、多恵は夕凪の異変に気づいた。顔からは一切の血の気が失せ、体が小刻みに震えている。今にも崩れ落ちそうだった。御堂グループの、社長――それは、御堂峻だ。峻は
夕凪も多恵の手を握り返し、穏やかに笑った。「大丈夫ですよ、多恵さん。自分のことは自分で守れます。あんな地獄を乗り越えてきたんですから……私はもう、前の私じゃありません」夕凪の視線は宙をさまよい、独り言のようにぽつりと続けた。「――あの頃の私は、愚かで無防備だった。そのせいで、あんなひどい目に遭ったわ。でも、もう二度と同じことは繰り返さない」いい人でいれば報われるなんて、もう信じない。自分から手は出さない。けれど、やられたら絶対に容赦しない。多恵はきょとんとして首をかしげた。「夕凪、今何か言った?」「いいえ。なんでもないです」夕凪ははっとして我に返ると、多恵に向かって柔らかく微笑んだ。この一件のあと、夕凪はもう指輪騒ぎを気にしてはいなかった。頭の中を占めていたのは、あの夜、涼崎署の取調室で見せられた写真に写っていたあの女のことだけだ。今はただ、夏目課長の調査結果を待つしかない。だから、理紗の変化にも気づかなかった。あの日の濡れ衣事件以来、理紗が自分を見る目が、どこか刺々しく、険しいものへと変わっていたことになど。一方、御堂グループ本社ビルの社長室。特別補佐の柊吾が、至急の決裁が必要な書類の束を峻に手渡した。峻はそれを受け取ると、一通一通に目を通しながら淡々と署名していく。ふと、彼の視線がある一枚の書類で止まった。「御堂グループ 社会貢献プロジェクト計画書……」低くその題名を読み上げる。「はい、社長」柊吾がすぐに説明を添えた。「そろそろ年末ですので、新しい年の慈善事業の計画を広報部がまとめたものです。とはいえ、中身は例年とほとんど変わりませんが……」柊吾は内心不思議でならなかった。本来なら、峻ほどの人物なら一目で「毎年と同じ、よくある企画」だと見抜いているはずだ。少額予算の小さな事業など、経営トップがいちいち気に留めるような案件ではない。それなのに、なぜ社長はこんなにも思案げな、判断に迷うような表情をしているのか――やがて峻は、何かを決心したようにきっぱりと言った。「広報部に伝えろ。この計画を修正して、身体的な障害を抱えた人たちへの支援も加えるんだ。涼崎市の中から、生活が苦しい障害者を五十人選び出せ。一人につき五十万……いや、百万円を一括で支給する」彼は揺るぎのない口調だった。「かし