多いか少ないか、凛にはわからなかった。陽一が返信してこなくなったから。かにみそまんがすべて蒸し上がると、凛は十個選んで袋に入れ、陽一に届けようとした。しかし三十秒ほどノックしても、ドアは開かなかった。凛は携帯電話を取り出し、文字を打った。【先生、ご在宅ですか?】今度は陽一の返信は早かった。【研究室に来ている】【かにみそまんを蒸しました。十個用意したので、夜帰ってきた時に受け取ってくれませんか?】陽一は「ありがとう、結構だ」と入力しかけたが、女の子がわざわざ手作りして届けてくれた物を、そんな冷たい言葉で断るのもどうかと思い直した。とても失礼だ。それに……自分がすごく後ろめたいように見える。【わかった】凛は携帯をしまい、家に帰った。キッチンの片付けを終え、腰を下ろしたばかりで、まだ水も飲めていないうちに、すみれから電話がかかってきた。「凛!私のかにみそまん、できた?!」「できたよ、今日は何十個も作ったから、存分に食べなさい、食いしん坊ちゃん!」すみれは会社のエレベーターを飛び出すと、ハイヒールをカツカツと鳴らし、今にも火花を散らしそうな勢いで歩き出した。羽でもあれば、そのまま凛の家までひとっ飛びしたいくらいだった。一週間ぶっ通しで夜更かしを続け、ようやく今日、プロジェクトが片づいたのだ。すみれは一秒たりとも会社にいたくなかった。「やだ!あんたこそ食いしん坊じゃない!待っててね、すぐ着くから~」すみれはわざと甘ったるい声を出し、口元は天まで届きそうなほどに笑みを広げていた。通話を終えて携帯をしまい、ふと足を止める。「……広輝?」少し離れた場所に、広輝が手をポケットに突っ込んだまま立っていた。まるで誰かに数百万借金でも背負わされたかのような、不機嫌さを顔いっぱいに張りつけて。「どうしてここに?」すみれは眉をつり上げながら、広輝の前まで歩み寄った。二人の距離が縮まるにつれ、その顔は想像以上に険しい。「へえ?俺がここにいると、お前の痴話げんかの邪魔になるってわけか?」広輝は鼻で笑い、皮肉っぽく声を伸ばした。「やだ~」すみれは口元をぴくりと引きつらせた。「頭おかしいよ。変な薬でも飲んだのか?」「薬?俺はそんなもん飲んじゃいないさ。お前ほど欲深じゃないからな、食いしん
日用品コーナーを通りかかった時、陽一が立ち止まり、「何か買うものあるか?」と聞いた。凛は、家のボディソープと洗剤がそろそろなくなることを思い出し、「はい」と答える。彼女がボディソープを選んでいる間に、陽一も次々とカートへ物を入れていく。ちらりと覗くと、タオル、スリッパ、フック……結構な量で、もともとほぼいっぱいだったカートは小山のようになった。会計へ向かうと、陽一は「僕が払う」と言い、凛も争わず「じゃあレシートは取っておいてください。あとで精算しますから」とだけ言った。陽一は頷き、「ここは混んでるから、外で待っててくれ」と促す。「わかりました」凛は未購入者用の通路から先に出た。間もなく、陽一が会計を済ませ、三つの大きな袋を提げて出てくる。凛が手を伸ばして少しでも持とうとしたが、彼はさっと後ろに避け、「いい、僕が持つ」とだけ言った。「でもこんなにたくさん……」袋は三つ。一つには肉や野菜、残り二つはそれぞれが買った生活用品が入っている。きっちり分けられていて、几帳面さがうかがえる。「……本当に私が持たなくていいんですか?」凛は再度尋ねた。「いい」実際、体力の差は歴然だった。陽一は袋を下げたまま、一気に7階まで上がっても息ひとつ乱れない。凛は自分の二つの袋を受け取り、玄関脇に置いてから陽一にレシートを求めた。「えっと」陽一は軽く咳払いして言う。「大した金額じゃないから、いい」「そんなことないでしょ?レシートは袋の中に入っていますか?私のには入ってないみたいだけど、先生の袋に入ってるのかしら……」彼はまるで電流が走ったように素早く後ずさりし、凛に袋の中を見せまいとした。凛は少し戸惑った。「……入ってない。後で計算して、金額をLINEで送るから、それで振り込んでくれればいい」「それでも大丈夫です」凛は頷いた。でも……さっき、何を避けたんだろう?まるで自分に袋の中を見られるのを怖がっているみたいだった。ということは、中には見せられない物でも入ってるの?そんな疑問が一瞬だけ頭をよぎったが、凛は深く考えず、袋を持って部屋に入り、料理に取りかかった。お腹すいた……凛は簡単に麺を茹で、上に目玉焼きをのせ、さらにハムと青菜を添えた。見た目もきれいで、味も良い。一
庭園を散策し、緑豆饅頭も味わった敏子は、とても満ち足りた気分だった。翌日、雨宮夫婦は臨市に戻った。凛は二人を新幹線の駅まで送る。その知らせを聞きつけ、泉海が駆けつけた。「敏子先生、これはファンの方々が出版社に送ってきた手紙です。先生に渡すよう頼まれました」敏子は少し驚き、そして嬉しくなった。ファンから手紙をもらうのは初めてだった。しかも量も多く、大きな包み一つ分ある。……家に戻ると、凛は陽気のいい日を逃さず、二部屋分のシーツと布団カバーを洗った。十月末、真夏の暑さは徐々に遠ざかり、秋の気配がほんのりとした涼しさを運んでくる。凛はクローゼットを整理し直し、着ない服やワンピースは普段使わない棚へ、秋物は手に取りやすい場所へ移した。作業を終えたのは午後二時、凛はまだ昼食もとっていなかった。冷蔵庫にはトマトが二つ残っているだけ。凛ため息をつき、諦めたように靴を履き替えて外へ出る。やはりスーパーに行かなければならない。階段を一階分下りたところで、上ってくる陽一とばったり出くわした。「今から出かけるの?」凛はうなずいた。「はい。家に食材がなくなったから、スーパーで買ってきます」「じゃあちょうどいい、一緒に行く?」陽一はすぐに踵を返し、凛と一緒に階段を下りていった。「先生、何を買うんですか?」陽一はその質問をさらりとかわし、「どこのスーパーに行く?」とだけ聞いた。この近くには三軒のスーパーがある。どれも遠くはない。凛は一軒の名前を挙げ、「ここで大丈夫ですか?」と尋ねた。先ほどの質問は自然と流れてしまう。「どこでも構わない」陽一はそう短く答えた。数分後、二人はスーパーに入った。彼らの住んでいるアパートの良いところは、どこへ行くにも便利で、周辺施設も充実しているところだ。環境がやや劣り、エレベーターがないことを除けば、本当に何もかもが理想的だった。凛が先を歩き、陽一はカートを押して後ろからついていく。彼女が止まると、彼も止まる。二人の間には常に半歩の距離が保たれ、ぱっと見ではスーパーに買い物に来た年配夫婦と何ら変わらない。水産コーナーに着くと、ちょうど蟹の身が一番詰まっている季節だった。凛は蟹を食べるのが面倒だが、カニみそが好きだった。「お客様、今日の蟹
凛はさらに尋ねた。「緑豆饅頭、先に召し上がってみませんか?私が一つお取りします」靖子がちょうど口を開こうとしたその時、時也の携帯が鳴った。電話の向こうで何か言われたのか、時也の表情が急に冷たくなる。「わかった。まず状況を落ち着かせておいてくれ。俺はすぐに向かう……」そう言って電話を切り、凛に申し訳なさそうな視線を向けた。「悪い、会社で急用が入った。行かないといけない」続けて二人の老人に向き直る。「おじいちゃん、おばあちゃん、まず家まで送るよ。次に時間があるとき、また一緒に出かけよう」「わかった。ただ凛のご両親には……」――まだ会えていない。「大丈夫です。お急ぎなら先に行ってください。また会う機会はきっとあります」凛はすぐにそう言った。「わかった」やがて敏子と慎吾が歩いてきたときには、時也はすでに守屋夫婦を連れてカフェを出て、車で走り去っていた。敏子は外を見ながら尋ねた。「さっきのあの二人の年配の方は誰?」「時也のおじいさんとおばあさん。サイン会の日にたまたま会って知り合いになったの。今日また会えるとは思わなかったわ」「それは偶然ね。疲れた?家に帰る?」敏子は特に疑いもせずに言った。「もう少し遊びましょうよ。この通り、まだ端まで行ってないし」凛は敏子の腕に甘えるように抱きつく。敏子は笑ってうなずいた。「いいわ、じゃあもう少し散歩しましょう」……車の中——時也はハンドルを操作しながら、アシスタントと電話していた。「……俺が言った通りにやってくれ。まず落ち着かせろ。あとのことは俺が着いてからだ」「急ぎの用事なのか?急ぐなら、どこかで降ろしてくれ。俺とおばあちゃんは自分でタクシーで帰る」久雄がそう口を開いた。「急ぎじゃない。部下がもう動いてる」「それならよかった」時也は一瞬黙り、少し迷ったあと口を開いた。「おじいちゃん、今回帰ってきたのって何か予定があるのか?どのくらい滞在するつもり?俺、腕のいい医者を何人か知ってるんだ。おばあちゃんを一度診てもらってもいいか?」「それはお前に任せるよ」久雄が短く答える。「それと、もう一つ……」時也は探るように言葉を続けた。「母さん、ずっと二人に会いたがってる。おばあちゃんの目が悪いって知ってから、いい医者を見つけたら教えてくれって言われてるんだ
この店の前を通りかかったとき、敏子がふいに立ち止まり、「緑豆饅頭が食べたい」と言い出した。凛はあたりを見回す。店はかなり古びていて、内装も時代遅れ。周囲に宣伝ポスターは一枚もなく、一番奥まで行かなければ、看板に並んだ菓子の名前もはっきり見えない。――本当に緑豆饅頭があった。でも、お母さんはどうやって、ただ通りかかっただけで、店先に立っただけで、この店に緑豆饅頭があるとわかったのだろう。しかも、それがこの店の看板商品だなんて。「わからないわ。なんとなくある気がしたし、きっと美味しいだろうなって思ったの」敏子はそう答える。「お母さんの鼻がめちゃくちゃ利くの知らないのか?美味いかどうかなんて、匂いを嗅げばすぐわかるんだぞ」慎吾が笑いながら言った。「そうなんだ……」凛は特に深く考えず、確かにそれはすごいと感心した。「奇遇だな、俺も緑豆饅頭を買いに来たんだ」時也が言う。「自分で食べるの?」時也は首を振った。「おばあちゃんに買うんだ」「おばあちゃん?おばあちゃんも来てるの?」凛は何度か周りを見回した、「どこにいるのか見当たらないけど?」「歩き疲れて、カフェで休んでる。後でおじさんとおばさんを紹介するよ。前回本屋で、おばあちゃんはサイン会の様子を見に上がろうとしたんだけど、体が持たなくて、先に帰らなきゃいけなかったんだ」「いいわよ」凛も笑みを浮かべた。せっかく同じ緑豆饅頭を買うのだからと、列の前にいた凛は二つ頼み、そのうちの一つを時也に手渡した。「いくら?今送金するよ」「いいの、おばあちゃんにごちそうするんだから、大した金額じゃないわ。前にあなたが水をくれたとき、私だってお金を送るなんて言わなかったでしょ?」時也はふっと笑みをこぼす。「行こう」凛は振り返って彼を見た。――この人、何をぼんやり笑っているの?カフェに入ると、窓際でお茶を飲んでいる守屋夫婦がすぐに目に入った。凛は先に声をかけた。思いがけず彼女に会えた靖子の顔には、それまでの疲れが一瞬で消え、笑顔が広がった。「……おばあちゃん、凛が緑豆饅頭も買ってきたよ」「あなたが並ぶって言ってたじゃない?どうして女の子に買わせるの?」靖子が眉を寄せる。時也が答えようとしたが、凛が先に口を開いた。「私が先に並んでいたので、ついでに一緒に買いま
「はぁ……わかってる。あんたたちはみんな私を責めてるんでしょ。お父さんもお母さんも、そしてあんたも!あの時、私と敏子が一緒に出かけて、あの子は行方不明になって、私だけが帰ってきた……だから責任は全部私が負えって、そう思ってるんでしょ?私なんか、帰ってこないであの子と一緒に死ねばよかったって、そう思ってるんでしょ!」「黙れ――」直哉の表情が一気に冷え、目が鋭く光る。「もう一度死なんて言葉を口にしてみろ!」「ふふ……二十八年よ。まさか、あの子がまだ生きてるなんて本気で思ってないでしょうね?お父さんとお母さんが諦めないのは別に驚かないわ。敏子は二人にとって目の中に入れても痛くない存在なんだから。年を取って、希望もなく生きていくなんてできないでしょ?でも、まさか直哉――あんたまでが忘れられないなんてね!私たちが結婚してもう二十年以上、息子だってもうすぐ家庭を持つっていうのに、あんたはまだあの子のことを気にしてるの?ははは――笑えるわ!!気持ち悪くない?!」パシッと——直哉が手を上げ、そのまま振り下ろした。あまりにも速く、あまりにも迷いがなく、聡子には避ける暇すらなかった。直哉のこめかみに青筋が浮き、全身から冷気がにじみ出る。その視線は、これまで以上に容赦なく突き刺さる。「これが最後の警告だ。まともに話せないなら、口を閉じろ」そう吐き捨てると、服も着替えず、大股で部屋を出ていった。聡子はその背中に向かって叫ぶ。「直哉、あんたには良心ってものがないの――!」どうして?なぜ敏子が行方不明になって二十年以上も経つのに、まだあの子を想う人間がいるの?両親もそう、そして直哉まで……やっぱり、あの子が実の娘で、私は養子だからなの!?……一方、時也は二人の老人とともに庭を抜け、小さな門から外へ出た。そこはなんと、直接通りに面していた。「何度も来てるのに、ここに門があるなんて知らなかった!」時也が目を見張ると、久雄は笑みを浮かべる。「昔、おまえのおばさんはここからこっそり抜け出すのが好きでな。俺たちが知らないと思っていたようだが、実はとっくに気づいていたんだ。ただ、あえて黙っていただけさ」その門は竹林の奥深くに隠れ、さらに分厚い芭蕉の葉に覆われていて、とても目立たない。靖子はその言葉に、ふと昔を思い出