ログイン香織に視線で促され、咲夜はその場でギフトボックスを開けた。中に入っていたのは、清楚で上品なシルクのスカーフだった。天然シルクで織られた生地は、やわらかな光沢をまとい、軽やかで通気性にも優れている。肌触りはなめらかで、静電気も起こりにくい。スカーフの片隅には、小さなチューリップが一輪、繊細な刺繍であしらわれていた。その贈り物は、まさに咲夜の好みにぴったりだった。咲夜は顔を上げ、心から礼を言う。「とても素敵です。本当にありがとうございます」香織は、咲夜が社交辞令ではなく本当に喜んでいることを見て取り、ほっとしたように微笑んだ。「気に入ってもらえなかったらどうしようって少し心配していたの。でも、喜んでもらえてよかったわ」「本当に気に入りました」咲夜は何度もスカーフを眺め、手放すのが惜しいほどだった。その様子を見た香織は腕時計に目を落とし、ゆっくりと立ち上がる。「今日は遠くから来てくれたから、この食事は私にご馳走させてちょうだい。景浦市に行ったときに、そのときはご馳走してもらうわ。ごめんね。このあと会議が入っているから、先に失礼するわね。十分なおもてなしができなくて申し訳ないけれど、許してちょうだい」香織は、仕事の合間を縫って咲夜と千暁に会いに来ていたのだ。このあと会社に戻り、自ら出席しなければならない会議が控えている。咲夜と二、三言交わすと、香織は足早に店を後にした。香織の姿が見えなくなってから、咲夜は隣にいる千暁に振り向く。「よかった。思った以上に順調だったね」少なくとも、必要な生地は手に入った。千暁も頷いた。「また雨が強くなってきた。ひとまず部屋に戻ろう」二人はホテルの部屋に戻った。咲夜は窓際のビーズクッションに腰を下ろし、スマートフォンで翌朝の帰りの新幹線のチケットを検索する。しかし、天気予報では今夜も台風を伴う豪雨になると報じられており、新幹線の駅ではすでに乗車券の販売が見合わせられていた。咲夜は小さくため息をつく。せっかく生地は手に入ったのに、景浦市に戻れなければ何も始まらない。どうして次から次へと問題ばかり起きるのだろう。本当に困り果てていた。離れたところからその様子を見ていた千暁は、咲夜のもとに歩み寄った。「どうした?」隣に腰を下ろし、そっと身を寄せる。咲夜は
咲夜は少し考えてから、香織に向かって言った。「本当にありがとうございます。もし気に入った生地が見つかったら、お手数ですが、スリーサイズを教えていただけませんか。私がスリットドレスを一着お仕立てして、お礼としてお贈りしたいんです。ほんの気持ちです。どうか断らないでください。今回は本当に大きな助けになりました。心から感謝しています」咲夜が思いついた、お礼の方法だった。香織はスリットドレスが好きだ。ちょうど今回、自分のデザインにもスリットドレスの要素を数多く取り入れている。ならば、香織のためだけに一着仕立てれば、感謝の気持ちを伝えられると思ったのだ。もちろん、香織には必要ないかもしれない。彼女自身もブランドを持っているのだから。それでも、咲夜にとっては、香織の好みに最も寄り添えるお礼の形だった。香織は少しもためらうことなく、自分のサイズを咲夜に伝えた。「それじゃ、遠慮なくお願いするわ。咲夜が作ってくれるスリットドレス、楽しみにしている」断られるのではないかと心配していた咲夜は、その言葉を聞いてようやく胸をなで下ろした。自然と笑みがこぼれる。香織は咲夜を見つめながら続けた。「ゆっくり選んでいいわ。決まったら教えて。アシスタントに届けさせるから」咲夜はすでに写真を詩乃に送っていた。今は、詩乃からの返事を待っているところだった。香織はさらに言葉を続ける。「それから、今回のショーの招待状を一枚もらえないかしら。見に行ってみたいの」こうしたイベントでは、主催者が各ブランドに一定数の関係者向け招待状を配布するのが通例だ。ブランド側が取引先や関係者を招待し、新たなビジネスにつなげるためだ。香織が観覧を希望するとは思っていなかった咲夜は、すぐに答えた。「もちろんです。アシスタントに招待状をお送りさせます」「そんな手間をかけなくても大丈夫よ。この用事が片付いたら景浦市に行く予定だから、そのときに咲夜のところに受け取りに行くわ」香織はすでに予定を立てていた。それなら問題ないと、咲夜は頷く。「では、いらっしゃる前にご連絡ください。お泊まりになるホテルはこちらで手配します」招待した以上、自分が迎える立場として、できる限りのおもてなしをしたい。それが咲夜の考えだった。香織は小さく頷いた。「ええ、それでお願い
咲夜はその言葉を聞いた瞬間、香織が先ほどあれこれ尋ねてきた理由を悟った。――びっくりした……!てっきり、自分が無意識のうちに何か失礼なことをしてしまい、香織が話題を変えるためにああ言ったのだと思っていたのだ。その言葉を聞いた千暁は、横目で香織をちらりと見た。その眼差しには、疑念と探るような色が宿っていた。香織は再び咲夜に視線を向ける。「さっき、必要な生地を探しているって言っていたわね。私のところには確かにいろいろコレクションがあるけれど……」そこで言葉を切る。咲夜が緊張した面持ちで自分を見つめているのを見届けてから、香織はゆっくりと言葉を続けた。「お金の話はなしよ。私が集めているのは、全部その時々の気分で選んだものなの。お金なんて、私の美意識を汚すだけだから」その一言に、咲夜の胸はすっと重くなった。つまり――断られた、ということなのだろうか。咲夜には、その真意がよく分からなかった。あるいは分かっていても、まだほんの少しだけ期待を捨てきれなかった。けれど、人の愛蔵品を無理に奪うつもりはない。香織のコレクションは、多額の費用をかけて集めたものだと聞いている。中には、すでに世界に一つしか残っていないような貴重な品もある。それに、自分と香織は特別な間柄でもない。突然訪ねてきたうえに、いきなり大切なコレクションを譲ってほしいと頼むなど、確かにあまりにも厚かましい話だった。そう思った咲夜は、笑みを崩さないまま、自分の無礼を詫びようと口を開きかけた。そのとき、香織が箸を置いた。彼女はスマートフォンを取り出し、咲夜に向ける。「どうしてなのか自分でも分からないけれど、あなたを見ると嬉しくなるの。すごく気に入ったわ。だから……まずは友達になりましょう」そう言ってスマートフォンを咲夜に差し出した。「LINE交換しよう」咲夜は言われるまま、香織のLINEを友達追加した。香織は咲夜のプロフィール画面を一目見た。咲夜のニックネームは、そのまま【SAKUYA】。香織はチャット画面を開き、【+】をタップしてアルバムを開くと、次々と大量の写真を送信していく。すると、咲夜のスマートフォンが、立て続けに通知音を鳴らした。チャット一覧を開くと、香織とのトークが三番目に表示されている。その上には、ピン留め
香織の眼差しは穏やかで優しかった。彼女は咲夜を頭の先からつま先まで静かに見つめる。その視線に気づいた咲夜は、礼儀正しい笑みを崩さなかった。だが、なぜか心が落ち着かなかった。その気配を察したのか、香織はゆっくりと視線を引き、口を開いた。「智哉から話は聞いてるよ。咲夜、スリットドレスに合うシルクサテンを探してるんだって?」智哉とは、先ほど千暁が話していた知人・結城智哉(ゆうき ともや)のことだった。咲夜は軽くうなずく。「はい。鷹司さんは珍しい布地を収集されていると伺いました。実はショーに出展するため、シルクサテンがどうしても必要なんです。厚かましいお願いだとは承知していますが、お譲りいただける生地がないかと思いまして。もちろん、相応の価格で買い取らせていただくつもりです」咲夜はへりくだりすぎることもなく、誠意を込めて申し出た。以前、クルーズ船のオークションで香織を見かけたときも、彼女はスリットドレスを身にまとっていた。香織に収集癖があると聞いてから、咲夜も簡単に彼女のことを調べていた。香織はさまざまなスリットドレスを好み、公の場に出るときも、ほとんどいつもスリットドレス姿だった。その姿は実に気品があり、誰よりもよく似合っていた。だからこそ、スリットドレス用の希少な生地を集めているという話にも納得できた。さらに香織は、「墨彩堂」という名の有名なスリットドレス専門店も経営している。毎シーズン発表される看板作品は、香織自らがデザインから仕立てまで一貫して手がけ、誰の手も一切借りない。しかも、そのシーズンの最高傑作となる一着は、香織自身のコレクションとして保管され、販売されることはない。それでも「墨彩堂」の人気は衰えるどころか、ますます高まる一方だった。何より、ブランドが送り出す作品の質が、多くの人々を魅了していた。香織は咲夜の申し出にすぐ答えることはなかった。料理が運ばれてくるのを静かに待っていた。すべての料理がそろうと、ようやく咲夜に目を向ける。「この白身魚の甘酢あんかけ、食べてみて」ちょうど目の前まで回ってきたその料理を見て、咲夜は申し訳なさそうに微笑んだ。「鷹司さん、すみません。私は魚介類のアレルギーがあるんです」「それなら俺がいただきます」千暁は取り箸を手に取り、魚を一切れ
「これで全部です。ここまで来て、もう花江さんを騙す理由なんてありません。私には何の得もありませんから」修司の言葉には、切実さが滲んでいた。困り果てたような表情で咲夜を見つめながら、続ける。「よければ、ほかの倉庫も見ていきませんか。代わりになる素材があるかもしれません。ただ、今うちではシルクはほとんど扱っていなくて、綿や綿麻が中心なんです」咲夜はうなずいた。「では、とりあえず見せてください」そう言うと、もう一度、水浸しになった倉庫に目を向ける。だが、すぐに視線を逸らした。修司に案内され、資材管理用の倉庫に向かった咲夜は、在庫管理システムのデータを確認した。しかし、シルクサテンの代わりになりそうな素材は一つも見当たらなかった。胸の奥に重いものが沈んだような感覚に襲われる。咲夜はなおも尋ねる。「これまで取引のあった工場で、シルク生地を扱っているところはありませんか?」まだ諦めきれなかった。修司は首を横に振る。取引先は確かにある。だが、その多くは競合関係にある会社でもあり、自分が問い合わせたところで、有益な情報を教えてもらえる保証はない。この件に関しては、本当にどうすることもできなかった。予想どおりの答えだった。咲夜も大きく落胆はしなかったものの、胸の奥には拭いきれない悔しさが残った。「咲夜」そのとき、千暁が声をかけた。浸水した倉庫を出たあと、彼はずっと携帯電話で桜ノ宮市にいる知人に連絡を取っていた。シルク生地について心当たりがないか、調べてもらっていたのだ。ちょうど今、返事が届いた。知人によれば、鷹司家の令嬢・香織には希少な布地を収集する趣味があるという。千暁が探している生地を所蔵している可能性もあるらしい。すでに知人には香織への取り次ぎも頼んであり、面会できるよう調整してもらっていた。千暁から事情を聞いた咲夜は、二人でホテルに戻ることにした。今回の外出で二人とも服がすっかり濡れてしまっていた。着替えを済ませ、連絡を待つためでもあった。ホテルに戻ると、千暁はすぐ真澄に電話をかけた。修司の動きを見張り、頃合いを見て動くよう指示する。咲夜は「これまでのことは追及しない」と言った。だが、それは咲夜の判断であって、千暁まで黙っているという意味ではない。咲夜は
咲夜は修司を見据え、静かに言った。「私が欲しいのは、その生地だけです」自分が望んでいるのは、それだけだった。あとは修司が応じるかどうかにかかっている。修司も理解していた。今日、この生地を引き渡さなければ、咲夜は決して引き下がらないだろう。何度も天秤にかけた末、彼はついに折れた。歯を食いしばりながら言う。「花江さん……倉庫には、まだシルクサテンが少しだけ残っています。ただ、もうほとんどありません。当時、森崎家が大量に引き取っていきました。その記録も残っています。どうして御社に記録が残っていないのかは、本当に私にも分かりません。あの生地が運び出されたときは、倉庫の防犯カメラの映像にも残っています」あのときは、興一が会社を代表してその生地を森崎家に渡し、正式な記録を残していなかったとしても、不思議ではない。修司が残りの生地を渡す意思を見せたのを確認すると、咲夜もこれ以上ここで時間を無駄にするつもりはなかった。「残っている分は全部いただきます。それを渡してくれるなら、これまでの責任については追及しません。」今の彼女にとって何より重要なのは、生地を手に入れ、明日の午後までに詩乃に届けることだった。その言葉を聞いた修司は、ようやく安堵の息をついた。「すぐ倉庫にご案内します」責任さえ追及されなければ、もはや森崎家との約束など気にしている余裕はなかった。ましてや、咲夜の隣に立つ千暁を目にした今となってはなおさらだ。修司にどれだけ度胸があったとしても、千暁に逆らう気には到底なれない。荻野グループが抱える敏腕弁護士陣だけでも、自分など簡単に潰されてしまう。咲夜は千暁と視線を交わすと、二人は修司の後について倉庫に向かった。道中、修司は絶えず言い訳を続けた。要するに、自分には森崎家に逆らう力がなく、命令に従うしかなかったということを繰り返し訴えているのだ。咲夜は黙って聞いているだけで、何も言わなかった。やがて修司は、工場の一番奥にある倉庫に二人を案内した。どう見ても、すでに使われなくなった廃倉庫だった。鉄製の扉には、錆びついた南京錠が辛うじて掛けられているだけ。咲夜の目には、その錠前など飾り同然だった。少し力を加えるだけで壊れてしまいそうなほど頼りない。荒れ果てた周囲の様子を見た瞬間、咲
洸は、咲夜が手にしていたコーヒーを奪い取ると、そのまま自分の顔へとぶちまけた。続けざまに、自らの頬を思いきりひっぱたく。華奢な身体は、計算し尽くされた絶妙なタイミングで床へと倒れ込んだ。額がテーブルの角にぶつかり、生温かい液体が視界を滲ませる。「ごめんなさい……私が悪かったわ。晴南さんに付きまとったりして、本当にごめんなさい。私を打って気が済むのなら、いくらでも打って。抵抗なんてしないから」床に座り込んだ洸は、首を振りながら、しゃくり上げるような声で泣き叫んだ。晴南は、かなり離れた場所にいながらも、ダイニングルームの騒ぎを聞きつけていた。慌てて階段を駆け下りた彼の目
「晴南さん、一人だと……少し怖いの」背後から、震える洸の声が追いかけてきた。晴南はすぐさま手を伸ばし、洸の手をしっかりと握り締めると、宥めるように優しく声をかけた。「どうした?慣れない環境で落ち着かないのか?」洸はただ、消え入りそうな様子で小さく頷いた。その痛々しい姿に、晴南の胸は締め付けられた。「俺がそばにいる。何も怖いことはないよ」「……ごめんなさい。私、あなたと咲夜さんの邪魔をしてしまったかしら」洸の視線が咲夜へと向けられる。それはまるで、今この瞬間に初めて彼女の存在を認識したかのような、白々しいまでの素振りだった。洸は緊張に声を震わせながら言葉を継いだ。
「あなたと結婚するわ」区役所の前。閉庁時間を過ぎ、もはや人の出入りのないガラスの自動ドアを見つめながら、花江咲夜(はなえ さくや)はスマートフォンを取り出し、ある番号へ電話をかけた。今日は、森崎晴南(もりさき せな)と入籍する約束の日だった。それなのに、彼女は朝九時から午後五時半まで待ち続け、手元には十数枚もの整理券が溜まっていた。結局、晴南が姿を現すことはなかった。入籍を言い出したのは晴南の方なのに、すっぽかしたのも彼だった。これで、咲夜が彼に約束を破られたのは三度目になる。咲夜はもう使い物にならない整理券をゴミ箱に捨て、背を向けると、晴南の宿敵である荻野千暁(お
寝室へ戻った途端、咲夜のスマートフォンには真奈美からのメッセージが怒涛のように押し寄せていた。【咲夜、どうしてもそんなに意地を張るつもり?本当に花江家のことなんてどうでもいいの?お父さんやご先祖様が代々築き上げてきたものを、このまま潰して平気だっていうの?】【私やお父さんが死んだあと、ご先祖様にどう顔向けすればいいのよ】【分かってるわ、あなたが辛い思いをしてきたことは。でも、あの白羽さんは晴南さんにとって忘れられない人なのよ。あなたが少し我慢すれば済む話じゃない】【男なんて外で遊ぶものよ。心を繋ぎ止められないなら、せめてお金だけでもしっかり握っておけばいいの】【咲夜、お願い