ログイン学生の頃から、ウェディングドレスに袖を通す日まで、一ノ瀬小雪(いちのせ こゆき)はずっと一ノ瀬朔人(いちのせ さくと)を想い、彼と結婚してからは、この家のために自分のすべてを捧げてきた。実家にも、もう四年近く帰っていなかった。 けれど、その献身への見返りは、朔人からの冷たい仕打ちと不倫、そして突きつけられた一枚の離婚届だった。 そして、遠く離れて暮らす小雪の家族が倒れたあの日、朔人はあろうことか、血の繋がらない「従妹」に付き添っていた。愛する娘までもが実の母親である彼女に背を向け、「千笑さんにママになってほしい」と言い放つ始末だった。 その瞬間、小雪の心は完全に折れた。 彼女は離婚届に判を押し、親権を手放し、たった一人で家を後にした。そして、かつての仕事に戻ることを決意した。 すると、かつて誰からも見下されていた専業主婦は、いつしか建築業界で引く手あまたの第一人者へと変貌を遂げ、その個人資産は数兆円にまで膨れ上がっていた。 そんな元妻の姿を目の当たりにして、朔人は激しい後悔に苛まれた。彼は無様にひざまずき、必死に許しを乞うた。 「俺が悪かった。頼む、どうか許してくれないか!昔は、俺たちにもちゃんと幸せだった時期があっただろう?だからもう一度だけ、チャンスをくれ!」 手のひらを返したように娘も懇願した。「ママ、お願いだから帰ってきて!」 けれど、小雪の心が再び彼らに向くことは、もうなかった。 そこへ、幼馴染のあのポーカーフェイスな男が歩み寄ってきた。小雪の腰を強く抱き寄せると、彼女は自分のものだと宣言するように言い放った。 「遅い。彼女はもう、俺の子どもの母親だ」
もっと見る田中が出迎えながら言った。「奥様はまだお戻りになっていません」戻っていない?星奈は一瞬固まったが、すぐに大きく安堵の息をつき、嬉しそうに笑った。ほっとしたような顔だった。けれど今夜ママに世話をしてもらえないことと、蒸しパンもまだ準備できていないことを思い出し、また眉を寄せる。まあいいか。ママがずっと帰らないわけじゃないんだから、明日にはきっと戻ってくるはず!そう思うと星奈はまた笑顔になり、田中に言った。「お風呂に入ってもう寝る」「はい、かしこまりました」田中が星奈の髪を撫でながら振り返ると、朔人も帰ってきていた。何かを考えているのか、その場に立ったまま動かない様子に田中は不思議そうに声をかけた。「旦那様?」朔人は尋ねた。「小雪は今日一日、一度も戻ってきてないのか?」「はい……」朔人は一瞬考え込んだが、それほど気にする様子もなかった。また何か新しいことでも始めようとしているのだろう。好きにさせておけばいい。どうせ大事にはならないだろうし、数日もすればおとなしく戻ってくるはずだ。「わかった」「はい」田中は星奈を連れて2階へ上がり、お風呂に入れた。朔人は水を一杯飲むと自分も2階の寝室へ向かい、スマホをベッド脇のテーブルに置いて充電しながら、上着を脱ぎネクタイを緩めて浴室へ入った。水の張られていない浴槽を見て、どこか落ち着かない気分になる。以前は仕事から帰ると、いつも小雪が湯を張っておいてくれたものだったから。まあ、別にいい。浴室からすぐに水音が響き始めた。外のベッド脇のテーブルではスマホが一度震えた。画面にはピン留めされた連絡先、千笑からのメッセージが表示されている。その下には仕事関係のメッセージがずらりと並んでいた。小雪からのメッセージはどこかに埋もれてしまったのか、もう見当たらなかった。……翌朝、星奈は起きるとぬいぐるみを抱え、主寝室の扉を押し開けて呼んだ。「ママ……」朔人がウォークインクローゼットから出てきて言った。「ママは戻ってないよ」「え?」星奈はがっかりした様子でぬいぐるみに顎を埋めた。「ママどうしてまだ帰ってこないの?」確かに少し小雪に会いたかった。ママの作るご飯が食べたいし、新しい蒸しパンも作ってもらいたい。朔人が歩み寄り、頭
「安心しろ、俺は会う気はない。千笑の実家の会社との提携もこれまでなかったし、これからも絶対にない」小雪は肩の力が抜け微笑んだ。「ありがとう、先輩」「気にするな。お前がいなかったら、清瀧だってここまで来られなかった」景吾は続けた。「今はただ、お前が今の案件を早く片付けて戻ってきてくれるのを楽しみにしてるよ。それで、あいつらを見返してやればいい!」小雪は笑った。「うん」景吾も笑ったが、それでも彼女の心情が気にかかるようだった。「そっちは今夜何時頃終わりそうだ?一杯やりに行くか?」「やめとく」小雪は断った。お酒よりも今はもっと勉強して、自分を高めたい気持ちのほうが強い。それに両親の顔も見に行きたい。「そうか、それならいい。何かあったら電話しろよ」「うん」電話を切ると小雪は少し気持ちが軽くなった。会社に戻ると、近くの店で簡単に汁そばを一杯食べ、また仕事に戻った。……一方その頃、星奈、朔人、千笑の三人は海で遊んで戻ってきたばかりで、レストランで食事をしていた。もともとは夜に星奈を連れて遊びに来ると約束していた。けれど、夜だと見られる景色も少なくなると思い、学校を休ませて昼のうちに連れてきたのだ。レストランにて。テーブルいっぱいの美味しそうな料理を前に、星奈はふと小雪のことを思い出した。少し前にかかってきた電話のことも……あの時は千笑と楽しく遊んでいる最中で電話には出なかった。けれど今は落ち着いて、少し後ろめたさがこみ上げてくる。考えてみれば昨夜、お昼に学校まで会いに来てほしいと頼んだのは、他でもなく自分だったのだから。星奈は小さく眉を寄せると千笑の視線を避けながら、こっそりキッズケータイを開き小雪に返信しようとした。次の瞬間、1時間前に届いていたメッセージが目に入った。読み終えた瞬間その目がぱっと輝き、さっきまでの後ろめたさもずいぶん薄れた。ママ、学校に来なかったんだ!やった!星奈は笑みを浮かべ返信した。【うん、わかったよ。でも今度は絶対来てね。次はママが手作りしたご飯が食べたいな!】送信を終えたところで、今夜家に帰ったら小雪に今日一日何をしていたか聞かれるかもしれないと思い当たり、また表情が曇る。星奈は浮かない顔でジュースを一口飲んだ。朔人が千笑に料理を取り分
「それでは失礼します」小雪は会釈し、まだ用事があったためその場を後にした。タクシーに乗り込むと、あらかじめ予約していたレストランをキャンセルし、星奈にメッセージを送った。【お昼は用事ができたから行けなくなったの。今度時間ができたら迎えに行くから、今日は学校でちゃんとお昼食べてね】星奈は自分に知られたくなかったのだろう。それなら知らないふりをしておけばいい。星奈からは、返信したくないのか、それとも千笑たちと盛り上がっていて気づいていないのか、なかなか返事が来なかった。小雪も気にせず、運転手に行き先を南山コーポレーションへ変更するよう告げた。その時、ふとスマホが震え、田村からの電話だった。小雪は応答した。「もしもし、田村マネージャー」田村は少しためらいがちに応じた。「たった今連絡が来たんですが……このあと千笑さんもプロジェクトに加わることになりました」小雪の表情が一瞬止まった。頭から冷水を浴びせられたような衝撃だった。しばらくしてようやく声を絞り出す。「ど……どうしてですか」田村が言う。「一ノ瀬社長がこのプロジェクトに出資なさいまして。現在、最大の出資者でいらっしゃるので……」その先は言わずもがなだった。「今後はお二人でこのプロジェクトの設計を担当していただきます。最終的には上層部がお二人の設計案から、より優れたものを新エリアのプランとして採用する形になります」小雪の顔から血の気が引いた。スマホを握る手に力がこもる。朔人が千笑のために何かするだろうとは以前から予想していた。ただ、まさかここまで強硬な手段に出るとは思っていなかった。千笑に悔しい思いをさせないため、その雪辱を果たさせるために、わざわざ出資までして彼女を呼び戻したのだ。本当に、千笑には何でもしてあげるのね。結婚してこの5年、一ノ瀬家でどれほど辛い思いをしていても、彼が気にかけてくれたことなど一度もなかったのに。小雪は目を閉じ、指先でこめかみを揉むと、しばらくしてからかすれた声で言った。「わかりました」田村がためらいがちに続けた。「それで……その、立川さんのほうは……」三郎の介入を彼はどこかで恐れているようだった。小雪は目を開けて言った。「大丈夫です、そちらは心配なさらないでください」三郎には、こ
メッセージを送信したものの、返信は一向に来なかった。小雪は唇を噛み、スマホを握る手に無意識に力がこもった。プロジェクトチームはもうすぐ会議がある。いつまでも待っているわけにはいかない。数分待ってもやはり返信がないのを見て、スマホをしまい会議に向かった。今回の会議は、主に建設予定の工業団地についての検討が中心だった。田村が壇上で進行を務めながら、何かを思い出したように小雪に言った。「他の皆さんはすでに見学済みですが、明日の朝、旧エリアのほうへご案内します」小雪は頷いた。「はい、よろしくお願いします」その言葉を聞き、周囲の人々もほっと胸を撫で下ろした様子だった。これ以上、小雪一人のために改めて時間を取られるのを誰もが嫌がっていたのだ。建前上は受け入れつつも、心の中では小雪の実力への疑念はまだ拭いきれていなかった。会議は2時間ほど続き、終わる頃にはもう昼近くになっていた。皆が荷物をまとめ席を立ち始める。小雪の隣に座っていた大崎里英(おおさき りえ)が、彼女が一人でいるのを見て気の毒に思ったのか声をかけた。「椎名さん、よかったら一緒にランチどうですか?」小雪は顔を上げて里英を見た。胸が少し温かくなったが、これから予定があった。「ありがとうございます。また今度にしますね。これから娘を迎えに行って、一緒にお昼を食べる約束があるので」娘?里英は驚いた。「結婚されてるんですか?」小雪の笑みが少し薄くなった。頷くだけで、もうすぐ離婚するとは言わなかった。言う必要もない。里英は少し意外そうに、「それじゃあ娘さんのお迎えに行ってください。また今度ぜひ」と言った。「ええ」里英が去ったあと、小雪もバッグを持って会議室を出た。階段を下りながらスマホでメッセージを確認する。朔人からはやはり返信がなかった。見ていないのか、それとも今は構っていられないから返さないだけなのか。こうなると、後者の可能性のほうが高い気がした。小雪は仕方なくスマホをしまい、彼と離婚についてきちんと話をつけるため、時間のある時にまた連絡しようと決めた。ビルを出てタクシーを拾い、学校へ星奈を迎えに向かった。……学校に到着した小雪は星奈のキッズケータイに電話をかけたが、なかなか出なかった。眉をひそめ、少し心配に