FAZER LOGIN学生の頃から、ウェディングドレスに袖を通す日まで、一ノ瀬小雪(いちのせ こゆき)はずっと一ノ瀬朔人(いちのせ さくと)を想い、彼と結婚してからは、この家のために自分のすべてを捧げてきた。実家にも、もう四年近く帰っていなかった。 けれど、その献身への見返りは、朔人からの冷たい仕打ちと不倫、そして突きつけられた一枚の離婚届だった。 そして、遠く離れて暮らす小雪の家族が倒れたあの日、朔人はあろうことか、血の繋がらない「従妹」に付き添っていた。愛する娘までもが実の母親である彼女に背を向け、「千笑さんにママになってほしい」と言い放つ始末だった。 その瞬間、小雪の心は完全に折れた。 彼女は離婚届に判を押し、親権を手放し、たった一人で家を後にした。そして、かつての仕事に戻ることを決意した。 すると、かつて誰からも見下されていた専業主婦は、いつしか建築業界で引く手あまたの第一人者へと変貌を遂げ、その個人資産は数兆円にまで膨れ上がっていた。 そんな元妻の姿を目の当たりにして、朔人は激しい後悔に苛まれた。彼は無様にひざまずき、必死に許しを乞うた。 「俺が悪かった。頼む、どうか許してくれないか!昔は、俺たちにもちゃんと幸せだった時期があっただろう?だからもう一度だけ、チャンスをくれ!」 手のひらを返したように娘も懇願した。「ママ、お願いだから帰ってきて!」 けれど、小雪の心が再び彼らに向くことは、もうなかった。 そこへ、幼馴染のあのポーカーフェイスな男が歩み寄ってきた。小雪の腰を強く抱き寄せると、彼女は自分のものだと宣言するように言い放った。 「遅い。彼女はもう、俺の子どもの母親だ」
Ver mais背後で、朔人は遠ざかっていく小雪の背中を見つめながら、ハンドルを握る手をわずかに止めた。以前なら、彼らを見送ってから家に戻っていたはずなのに。今日はどうしたのだろう……実家の父親の病気のせいだろうか。朔人は片眉を上げただけで特に気に留める様子もなく、車を発進させた。星奈も母の様子がいつもと違うことに気づいたのか、身を乗り出して聞いた。「ママ、怒ってるのかな?」朔人が言う。「気にするな。怒ってるなら戻ってお前の世話をしたり、朝ご飯を作ったりしないだろう」星奈は納得したように頷き、それ以上考えるのをやめた。代わりにレッスンバッグの中に入れた千笑への蒸しパンの包みをそっと撫で、機嫌が良くなっていく。今日の蒸しパン、ちょっと少なかったな。今度はママにもっと作ってもらおう!……屋敷の中、小雪は2階の書斎に上がり、引き出しからあの離婚協議書を取り出すと袋に入れた。それから寝室へ行き、自分の荷物をまとめ始める。離婚したら、もうここには戻らない。荷物は思いのほか多く、細々とした思い出の品が溢れていた。結婚した当時は本気で朔人と一生を共にするつもりだった。けれど、相手はそう思っていなかったのだろう。結婚から1年も経たないうちに心変わりしてしまったのだから。小雪は深く息を吐き出した。すべてを持ち出すつもりはなかった。面倒だ。わずかな衣類だけをまとめ、スーツケースを引いて、小雪は最後にもう一度5年間住んだこの家を見渡した。振り返ることなくその場を離れた。清掃業者にマンションの掃除を頼むメッセージを送りながら、階下へ下りていく。あのマンションは、結婚前、初めて取得した技術特許で得たお金で買ったものだった。女性も、自分の家くらい持っておくべきだ。ただそれだけの思いで手に入れた部屋だった。まさか本当にこんな形で使うことになるとは思っていなかった。清掃の予約を終え、スマホを閉じようとしたところで、三郎からメッセージが届いた。【大和が今日、警察特殊部隊から戻ってきたんだ。うちに顔を出してみないか?】あの男の名前を再び目にした小雪の黒い瞳が、わずかに揺れた。だが、すぐにその思考を振り払った。伊瀬大和(いせ やまと)に会うつもりはない。それに大和のほうも、自分に会いたいとは思わないだろう。彼
自分とのトークは、ずっと下のほうに埋もれていた。小雪は唇を噛み、千笑とのトーク画面を開き、履歴を遡っていく。見れば見るほど心が沈んでいった。道理で、今朝の星奈があんなに機嫌が良かったわけだ。星奈が身支度を終えた気配がしてから、小雪は無表情のままスマホを置き寝室を出た。ドアを閉める瞬間、視界の端に、洗面所から出てきた星奈が、またスマホを手に取り嬉しそうに画面を見つめる姿が見えた。おそらく千笑と話しているのだろう。小雪は振り返らずにその場を離れた。主寝室の前を通ると扉は開いたままだった。中は誰もおらず、シーツもきれいに整っていた。朔人は昨夜帰ってこなかったのだ。先ほど見た千笑とのやり取りと重ね合わせ、うっすらと何かに思い至る。小雪の足が思わず止まった。つまり昨夜彼の言っていた「用事」とは、千笑のところへ行くことだったのか。二人は昨夜一緒に過ごしたのだろうか。唇をきつく結ぶ。彼には千笑と過ごす時間はあっても、自分の話を最後まで聞く時間はないらしい。朔人があからさまに千笑ばかりを優先することなど、もう考えるだけ無駄だった。ちょうどいい、彼が戻ってきたら離婚の話をそこで片付けよう。拳を握りしめ小雪は階下へ下り、キッチンで星奈の朝食を作り始める。田中が手伝いに入った。しばらくして料理が仕上がったが、星奈はまだ下りてこなかった。小雪は呼びに行く気になれず、田中に呼んでもらうことにした。田中は一瞬戸惑った。今まで星奈のことは何でも小雪自身がしていたのに、今日はどうしたのだろう、と。それでも2階へ向かった。「お嬢様、ご飯ですよ。遅れてしまいますよ」星奈はちょうど千笑との会話に夢中になっていたところで、邪魔をされて機嫌を損ねた。けれど、来たのが田中だと知ると何となく気恥ずかしくなり、不機嫌そうに小声で返事をしてスマホを手に階下へ下りていった。ダイニングに行き、小雪の向かいに座る。小雪の顔色が少し冷たいことには気づかず、テーブルの上の蒸しパンの皿を見ながら言った。「ママ、蒸しパン包んで、レッスンバッグに入れてくれる?」小雪は一瞬固まったが、田中がまだ2階にいるのを見て、彼女を煩わせるまでもないと自分で包みに向かった。包み終えて戻ってくると、星奈は急いた様子で朝食をかき込みながら外の気配
小雪は深く息を吸い、言葉を続けた。「もう……」離婚協議書にはもう署名した。言い終わらないうちに、朔人のスマホが鳴った。彼は最後まで聞かず、そのまま電話に出た。小雪は仕方なく口をつぐんだ。朔人は相手の話を聞き終えると冷ややかに短く応えた。「今から行く」電話を切ると、彼は見下すように一瞥しただけで、何も言わずにその場を去っていった。小雪の眉がぴくりと動いた。この数年で彼のこういう素っ気なさにはもうすっかり慣れてしまっていた。彼にとって自分は重要な存在ではない。取るに足らない飲み会の予定ですら、自分より優先される。娘さえいなければ、この数年彼はこの家に帰ってすらこなかっただろう。以前の自分なら、それでも何の用事なのかとしつこく尋ねるか、あるいはただ耐え忍んでいたかもしれない。けれど今日はもう、我慢したくなかった。小雪は後を追い、言った。「ねえ、本当に話があるの……」朔人は少し珍しいものでも見るように彼女を見たが、それほど重要な話だとも思わなかったのか言った。「仕事が片付いてからにしてくれ」喉が詰まった。彼が本当に急いでいる様子を見て、今この場で切り出しても片付く話ではないと思い直し、小雪は足を止めた。彼が去っていくのを見つめる。まもなく外で車のエンジン音が響いた。しばらくその場に立ち尽くしたあと、小雪は2階の主寝室へ戻ってパジャマを手に取り、シャワーを浴びてから娘の部屋へと向かった。もう離婚するのだ。朔人とはこれ以上、少しも関わりたくなかった。娘の眠りを妨げないよう、そっと部屋の扉を押し開ける。すると思いがけないことに、星奈は目を細めながらスマホを覗き込んでいた。「星奈、体調が悪いのにちゃんと寝ないで、何を見てるの?」星奈は小雪が入ってきたことに驚き、反射的にスマホを隠した。薬のせいで確かに眠かったが、うとうとする合間に千笑にまだおやすみのメッセージを送っていないことを思い出し、慌てて一言送ろうとしていたのだ。もちろん、それを母に言うつもりはなかった。「別に、何も見てないよ」目をこすりながら言う。「ママ、どうしてこっちに来たの?パパと一緒に寝ないの?」小雪は唇を引き結び、その話には触れず星奈がスマホを置いたのを見てから言った。「夜お腹がまた痛くなるかもしれな
30分ほどして、翠ヶ丘邸に着いた。小雪は玄関を入るとそのまま2階へ上がった。星奈はパジャマ姿でぐったりとベッドに横たわり、そばには田中だけが付き添っている。朔人の姿はどこにもなかった。小雪は一瞬、足を止めた。物音に気づいた星奈が青ざめた顔を枕から上げ、小雪を見た。その瞬間、堪えていたものが一気に溢れ出した。涙をこぼしながら、星奈は声を上げた。「ママ、すごく辛かったの。どうしてメッセージを返してくれなかったの?」小雪は唇を噛み、他のことは何も考えられなくなった。ベッドの端に腰を下ろし、星奈を抱き寄せてあやす。きっと朔人は、食事を終えたあと星奈だけを人に送らせて、自分は何事もなかったように千笑のもとへ戻ったのだろう。これ以上は考えたくなかった。汗で額に張りついた髪をそっと撫で、小雪は優しい声で尋ねる。「お薬は飲んだ?どこかまだ辛いところある?」星奈はもうそれほど苦しくはなかった。ただ、拗ねたような気持ちが少し残っていた。それも小雪の胸に頬を擦り寄せているうちにじわじわと溶けていく。頭の中はこんな思いでいっぱいだった。ママはやっぱりあたしのこと心配してくれてる!ママの腕の中って、こんなに心地よくて、いい匂いがするんだ。千笑さんの腕の中よりもずっと……もちろん、千笑の名前を出せば母が機嫌を損ねることはわかっていたから口には出さなかった。今はただ、母とこうしていたい気持ちのほうが強かった。星奈は甘えるように小雪の首に腕を回し、言った。「お薬飲んだからもう平気。でも、ママが作ってくれる卵粥が食べたいなあ」小雪は頷き、作りに行こうと立ち上がった。その時、ドアの外から、落ち着いた足音が近づいてきた。朔人が帰ってきたのだ。星奈はドアのほうを見て、まだ少し弱々しい声で呼んだ。「パパ!」小雪は一瞬動きを止めた。朔人は短く応え、小雪には目もくれず、挨拶ひとつなく部屋に入ってきた。近づいてきて星奈の頬に触れ、優しい声で聞く。「まだ辛いか?」彼が近づいた瞬間、ふわりと香水の匂いが鼻をかすめた。そして屈み込んだ拍子に、シャツの襟に薄く色づいた口紅の跡が見えた。まだ新しい。ついさっき誰かに口づけられたばかりだとわかる跡だった。こんな場所に口紅が付くとすれば、千笑が首元に腕を回して口づけた