離婚成立、クズ父娘とはお別れです

離婚成立、クズ父娘とはお別れです

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学生の頃から、ウェディングドレスに袖を通す日まで、一ノ瀬小雪(いちのせ こゆき)はずっと一ノ瀬朔人(いちのせ さくと)を想い、彼と結婚してからは、この家のために自分のすべてを捧げてきた。実家にも、もう四年近く帰っていなかった。 けれど、その献身への見返りは、朔人からの冷たい仕打ちと不倫、そして突きつけられた一枚の離婚届だった。 そして、遠く離れて暮らす小雪の家族が倒れたあの日、朔人はあろうことか、血の繋がらない「従妹」に付き添っていた。愛する娘までもが実の母親である彼女に背を向け、「千笑さんにママになってほしい」と言い放つ始末だった。 その瞬間、小雪の心は完全に折れた。 彼女は離婚届に判を押し、親権を手放し、たった一人で家を後にした。そして、かつての仕事に戻ることを決意した。 すると、かつて誰からも見下されていた専業主婦は、いつしか建築業界で引く手あまたの第一人者へと変貌を遂げ、その個人資産は数兆円にまで膨れ上がっていた。 そんな元妻の姿を目の当たりにして、朔人は激しい後悔に苛まれた。彼は無様にひざまずき、必死に許しを乞うた。 「俺が悪かった。頼む、どうか許してくれないか!昔は、俺たちにもちゃんと幸せだった時期があっただろう?だからもう一度だけ、チャンスをくれ!」 手のひらを返したように娘も懇願した。「ママ、お願いだから帰ってきて!」 けれど、小雪の心が再び彼らに向くことは、もうなかった。 そこへ、幼馴染のあのポーカーフェイスな男が歩み寄ってきた。小雪の腰を強く抱き寄せると、彼女は自分のものだと宣言するように言い放った。 「遅い。彼女はもう、俺の子どもの母親だ」

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Capítulo 1

第1話

夏休みが間近に迫ったある日のこと。5年前に結婚して以来、実家から遠く離れて暮らしてきた一ノ瀬小雪(いちのせ こゆき)のもとに、実家の母、椎名直子(しいな なおこ)から電話が入った。

「お父さんの体がどんどん弱ってきていてね……今年いっぱい持つかどうかわからないのよ。

もうすぐ夏休みでしょう?朔人くんと一緒に、星奈ちゃんを連れて一度帰ってこられないかしら。お父さんも、あなたと星奈ちゃんに会いたがっているの。

でも……朔人くんが忙しいなら、無理しなくてもいいからね……」

直子は気丈にそう言ってくれたけれど、声色に滲む落胆と遠慮を、聞き逃すほど小雪は鈍感ではなかった。

思えば、嫁いでもう5年になる。一ノ瀬家に入った最初の年こそ顔を出したが、それからの4年間、彼女は一度も実家に帰っていない。

実家に帰りたいと話すたび、一ノ瀬朔人(いちのせ さくと)はいつも「仕事が忙しい」「時間がない」「都合が悪い」と、同じ言葉を繰り返すばかりだったからだ。

こみ上げる涙をこらえながら「わかった」と答え、電話を切るなり航空券予約のアプリを開いて、入江市行きの航空券を3枚予約した。

航空券を予約すると、少し迷った末に朔人へ電話をかけた。

呼び出し音が長く続いた後、ようやく通話が繋がった。

「もしもし」

聞こえてきたのは、素っ気ない声だった。

「朔人、こんな朝早くに、誰から?」

直後、電話の向こうから女の声が響いた。

小雪はスマホをきつく握りしめた。

昨夜、彼はたしかに「会社で仕事をしている」と言っていたはずだ。

「なんでもない」

小雪が問い詰めるより先に、彼はそう吐き捨て、一方的に電話を切ってしまった。

返す言葉を失い、彼女は青ざめた顔で画面をただ見つめることしかできなかった。

結婚する前の朔人は、本当に優しい人だった。

学生の頃からウェディングドレスに袖を通す日まで続いた、長い恋だった。

彼は自分を誰よりも大切にしてくれていて、「不倫」なんて言葉とは一生無縁の人だと、心の底から信じていた。

それが、いったいいつから変わってしまったのだろう。子どもを産んで体形が変わってしまったせいなのか、それとも他に理由があるのか。彼は少しずつ、自分に対して冷たくなっていった。

不意に、スマホが震えてメッセージが届いた。

【何か用か?】

たったの一言だった。さっき電話口から聞こえた女については、いっさいの説明もなかった。

小雪は唇を噛んで力なく笑い、今はそれどころではないと自分に言い聞かせた。実家の父の容体のほうが、ずっと大事だ。

【父が病気なの。かなり重いみたい。もうすぐ夏休みだし、星奈と三人でしばらく実家に帰ってもいい?】

送信したものの、待てど暮らせど返信は来なかった。

メッセージを見ていないのか、それとも彼女の実家のことなど興味がないだけなのか。

でも、ついさっきは彼のほうからメッセージを送ってきたばかりなのに……

画面を見つめていると、目頭がじわりと熱を帯びてくる。

けれどこの2年もの間、彼の冷たさにも、それを黙って我慢することにも、すっかり慣れきってしまっていた。

後でまた聞けばいい。そう思い直し、胸を刺されるような痛みを深呼吸で押し殺して、小雪は2階にある娘の部屋へと足を向けた。

ドアを少しだけ開けると、隙間から娘の一ノ瀬星奈(いちのせ せな)の声が漏れ聞こえてきた。

布団に潜っているのか、どこかくぐもった声だった。

「パパがもうひいおばあちゃんを診てくれるお医者さん、見つけてくれたからね。ひいおばあちゃんは絶対に大丈夫だよ。心配しないで。千笑さんも体に気をつけて、朝ごはんちゃんと食べてね……」

星奈の口から出た「ひいおばあちゃん」が、まさか自分の母親のことを指しているはずがない。小雪はそう確信しながら、思わず足を止めた。

いったい誰のことを言っているのだろう。

それに、「千笑さん」とは……

まさか、あの千笑のことだろうか。

一ノ瀬千笑(いちのせ ちえみ)は、朔人の伯父が再婚した女性の連れ子だ。血の繋がりこそないものの、朔人からすれば従妹にあたる。

星奈にとっても、本来なら親戚として接する程度の間柄のはずなのに、どうしてそんなに親しげに……

訝しさに眉をひそめ、胸の奥に疑念が渦巻くのを感じた。

「ママ?朝ごはん、もうできた?」

ドアの外の気配に気づいたのか、星奈が布団から顔を出し、こちらを振り向いた。そのきれいな瞳が、ぱちりと瞬いた。

我に返った小雪は、指の腹をぎゅっとつねり、頭の中に浮かぶ考えを無理やり抑え込んだ。

今はとにかく、ふるさとの入江市に帰って、父を見舞うことのほうが先決だ。

部屋に入り、ベッドの上にいる娘の頭を撫でる。

「朝ごはん、もうできてるよ。顔を洗って歯磨きをしたら食べようね。

ご飯を食べ終わったら、パパが帰ってきてからみんなで入江市に行くからね。おじいちゃんが病気なの。ちょうど夏休みに入るし、しばらく向こうに滞在しましょう」

その言葉を聞いた途端、星奈は一瞬ピタリと固まり、幼い顔からすっと笑みが消えた。

整った眉を、不満げにひそめた。

明らかに、行きたくないという態度だった。

そういえば……おじいちゃんとおばあちゃんは優しくて、いつも食べ物を送ってくれるよね。

でも入江市はここからあまりにも遠くて、飛行機でもかなり時間がかかる。考えるだけでうんざりするなぁ。

それに、おじいちゃんが病気だという話も、自分を入江市へ連れていくための口実かもしれないし!

めんどくさいなぁ。

さっき千笑さんに、もうすぐ会いに行くと約束したばかりなのに。

ここ数日、千笑さんは家族の病気のせいでずっと元気がなかった。悲しむ顔なんて、これ以上見たくないの!

でも、有無を言わせない母の表情を見て、星奈は口を尖らせながらも、断ることはできなかった。

不機嫌そうに、再びベッドへ突っ伏す。

その様子を見て、小雪は身をかがめ、声をかけた。

「ほら、起きよっか」

星奈は嫌々ながら布団に顔をこすりつけ、くぐもった声で言ってきた。

「服、取ってきてよ。お湯も用意して、歯磨き粉もつけといて……」

「うん」と小雪が頷き、言われた通りの支度を整えた。

この数年間、彼女はずっとこうやって、娘と朔人の世話を黙々と焼いてきたのだ。

小雪がクローゼットに背を向け、着替えを探している隙に、星奈はこっそりとスマホを取り出し、千笑へメッセージを送っていた。

【千笑さん、ごめんね。急に用事ができちゃって、入江市に行かなきゃいけなくなったの。だから一緒にいてあげられなくて……できるだけ早く帰ってきて、真っ先にそっちに行くからね!向こうにいる間も、ちゃんとメッセージ送るねー!】

画面を見つめても、返信はなかなか来なかった。

星奈は落ち着かない様子で、唇を噛んだ。千笑をがっかりさせたくない一心だった。

「ねえ、この服はどう?」

小雪がワンピースを一着手に取り、振り返って娘に見せた。

星奈は眉をひそめてスマホを置き、文句を言った。

「やだよ。ママってば、本当に口うるさいんだから!今のあたし、ワンピースなんて好きじゃないの。知らなかったの?」

千笑さんが仕事相手との会食に出かけたときの、凛とした装いを見てからというもの、あたしはすっかりスカートを履きたがらなくなっていた。

将来は、千笑さんみたいに仕事ができる女になりたい!

ママみたいに、ただの専業主婦になって、毎日ご飯を作って洗濯して、口うるさく言うだけの人には絶対になりたくない……

娘の視線に、小雪は一瞬言葉に詰まった。

「じゃあ、どんな服がいい?新しく買ってあげるから……」

「いらない!」

ママとは根本的にセンスが違うのだ。服を選んでほしいのは、ママではなく千笑さんだった。

「もう、早く出てってよ!」

星奈はベッドから飛び降りると、裸足のまま小雪を部屋の外へ押し出し、ドアを閉めてしまった。そして再びスマホを手に取り、千笑へメッセージを送り続ける。

【千笑さん、約束する。明日には絶対に帰ってくるから!】

【ごめんね星奈ちゃん、今、朝ごはんを食べてて、メッセージ見てなかったわ。

怒ってなんかいないよ。おじいちゃんのところへ行ってあげて。私も後で入江市に行くから、そのときに向こうで会おうね】

画面を見た星奈は、目を丸くした。

【えぇー!千笑さんもひいおばあちゃんのお見舞いに行くの?そのこと、パパは知ってる?】

【もちろん知ってるわよ】

星奈は急に表情を明るくし、何かを思いついたように、また一通メッセージを打ち込んだ。

一方、閉ざされたドアの外、ドアの閉まる音を背中で聞きながら、小雪は力なく一歩後ずさった。言葉では表現しきれないほどの苦さが、胸の奥底からこみ上げてくる。

この手で育ててきたはずの娘に、こんなにも邪険に扱われ、部屋の外へ追い出される日が来るなんて。かつては想像すらしていなかった。

唇を噛みしめながらも、それでも、ドアをノックして声を張った。

「星奈、低血糖を起こしやすいんだから、着替えたらちゃんと下に降りてきてご飯を食べるのよ」

中からの返事はなかった……

その代わり、ポケットの中のスマホが震えた。

我に返り、深呼吸をひとつしてからスマホを取り出す。

朔人からの返信だった。

【さっきは取り込んでいた。わかった、後で帰る】

相変わらず、電話口の女については何の説明もない。小雪の家族のために医者を手配しようとする素振りも見せなければ、気遣いの言葉ひとつすら添えられていなかった。

小雪の顔から、血の気が引いていく。ふと、先ほど部屋の中から漏れ聞こえてきた星奈の言葉が、脳裏をよぎった。

朔人は、千笑の家族のためには、医者を手配している。

それなのに、自分の家族には、一切目もくれないというのか。

そういえば、さっき電話口で聞こえた女の声も、きっと千笑のものだったのだろう。

あの二人は、裏でいったい……

スマホを握る手に、無意識のうちに力がこもる。二人の間にいったい何があるのか、問いただしたい衝動に駆られた。

以前の小雪なら、きっと自分が納得いくまで彼を問い詰めていただろう。

でも今は、なぜかそうする気力が湧いてこなかった。

疲れ切ってしまったのか、それとも、これ以上傷つかないよう、心が感覚を麻痺させてしまったのか。

スマホをしまい、ぼんやりとした頭のまま、夫婦の寝室へ荷物をまとめに向かった。

クローゼットの中身は、そのほとんどが朔人の衣類で占められている。彼は潔癖症で、衣服やベッドリネンの素材にも細かなこだわりがあった。

それに引き換え、小雪自身の私物は、数えるほどしか残されていなかった。

いつしか、この家で自分を殺し、ただ我慢することに慣れきってしまっていたのだ。それはまるで……娘のためだけに、とうに色褪せてしまった結婚生活を、無理に引き延ばしているのと同じだった。

彼がもう自分を愛していないことなんて、とうの昔に痛いほどわかっている。かつて自分に向けられていた熱情は、とっくに冷めきっていたのだ。

一通り荷物をまとめ終えると、書斎へ向かい、彼のノートパソコンを取りに行った。向こうで朔人が必要とするかもしれないと思ったからだ。

この書斎には、結婚して最初の一年を除いて、ほとんど足を踏み入れたことがなかった。

朔人から入るなと言われ、まるで赤の他人のように遠ざけられてきたからだ。

最初はやんわりとした注意だったものが、時間が経つにつれ、見下すような命令口調へと変わっていった。

男はみんな、こうなのだろうか。結婚した途端に態度が変わり、飽きてしまい、かつて誓い合った愛情も、まるで冗談だったかのように消え失せてしまう。

虚無感に包まれたまま、パソコンをバッグに詰めた。

そろそろ部屋を出ようと踵を返したとき、視界の端に、少しだけ開いた机の引き出しが映り込んだ。

中には、いくつかの書類が無造作に重ねられている。

一瞬手を止め、無意識のうちに引き出しを引いて中を整えようとした。

けれど、一番上に置かれていた書類のタイトルが目に飛び込んできた瞬間、全身から血の気が引き、小雪はその場に立ち尽くした。

離婚協議書と離婚届だ!

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第1話
夏休みが間近に迫ったある日のこと。5年前に結婚して以来、実家から遠く離れて暮らしてきた一ノ瀬小雪(いちのせ こゆき)のもとに、実家の母、椎名直子(しいな なおこ)から電話が入った。「お父さんの体がどんどん弱ってきていてね……今年いっぱい持つかどうかわからないのよ。もうすぐ夏休みでしょう?朔人くんと一緒に、星奈ちゃんを連れて一度帰ってこられないかしら。お父さんも、あなたと星奈ちゃんに会いたがっているの。でも……朔人くんが忙しいなら、無理しなくてもいいからね……」直子は気丈にそう言ってくれたけれど、声色に滲む落胆と遠慮を、聞き逃すほど小雪は鈍感ではなかった。思えば、嫁いでもう5年になる。一ノ瀬家に入った最初の年こそ顔を出したが、それからの4年間、彼女は一度も実家に帰っていない。実家に帰りたいと話すたび、一ノ瀬朔人(いちのせ さくと)はいつも「仕事が忙しい」「時間がない」「都合が悪い」と、同じ言葉を繰り返すばかりだったからだ。こみ上げる涙をこらえながら「わかった」と答え、電話を切るなり航空券予約のアプリを開いて、入江市行きの航空券を3枚予約した。航空券を予約すると、少し迷った末に朔人へ電話をかけた。呼び出し音が長く続いた後、ようやく通話が繋がった。「もしもし」聞こえてきたのは、素っ気ない声だった。「朔人、こんな朝早くに、誰から?」直後、電話の向こうから女の声が響いた。小雪はスマホをきつく握りしめた。昨夜、彼はたしかに「会社で仕事をしている」と言っていたはずだ。「なんでもない」小雪が問い詰めるより先に、彼はそう吐き捨て、一方的に電話を切ってしまった。返す言葉を失い、彼女は青ざめた顔で画面をただ見つめることしかできなかった。結婚する前の朔人は、本当に優しい人だった。学生の頃からウェディングドレスに袖を通す日まで続いた、長い恋だった。彼は自分を誰よりも大切にしてくれていて、「不倫」なんて言葉とは一生無縁の人だと、心の底から信じていた。それが、いったいいつから変わってしまったのだろう。子どもを産んで体形が変わってしまったせいなのか、それとも他に理由があるのか。彼は少しずつ、自分に対して冷たくなっていった。不意に、スマホが震えてメッセージが届いた。【何か用か?】たったの一言だった。さ
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第2話
頭の中がさあっと真っ白になる。かすかに震える指先で、どうにか書類をめくった。離婚協議書の最後のページには、すでに朔人の署名が記されていた。あとは小雪が署名して判を押すだけだ。明らかに、ずっと前から周到に準備されていたものだ。財産分与は驚くほど小雪に有利だったが、彼がただ一つ譲らなかった条件がある。娘の親権だ。なるほど。朔人はとっくに自分に愛想を尽かしていたのだろう。離婚を望み、千笑と一緒になるつもりなのだ。千笑が彼の従妹だという事実を、千笑たち母娘と自分の実家との間に横たわるあの暗い因縁を、朔人は知っているのだろうか。それが妻である自分にとって、どれほど残酷で屈辱的な仕打ちになるかを……いや、知っているはずだ。結婚二年目。彼が自分に飽き、千笑に惹かれ始めたころから、朔人はもうすべてを知った上で計画していたのだろう。今にして思えば、そうとしか考えられない。頭から冷水を浴びせられたような思いだった。身体だけでなく、心の芯までが凍りついていく。そもそもあの時、幼馴染の「彼」が黙って警察の特殊部隊に入り、そのまま別の女と付き合い始めさえしなければ……そしてちょうどそんな折に朔人が現れ、熱烈に口説き、暗闇から連れ出してくれなければ、彼と結婚することもなかったはずなのに……ポケットの中で、不意にスマホが震えた。朔人からのメッセージだ。【急用ができた。今日は帰らない】素っ気ない短い言葉。小雪のことも両親のことも、全く気にも留めていないと言わんばかりの文面だった。それもそうだろう。離婚を切り出した相手を、今さら気にかけるはずもない。自嘲気味な笑みがこぼれる。込み上げる涙をこらえ、離婚協議書と離婚届を握りしめたまま、小雪は書斎を出た。それでも自分は星奈の実の母親だ。星奈がついてくると言うのなら、何が何でも朔人と親権を争うつもりでいた。だが、部屋を出た小雪を待っていたのは、がらんとしたダイニングに一人残された田中の姿だけだった。「星奈は?まだ下りて来てないの?」田中は食器を片付ける手を止め、言いよどんでから答えた。「お嬢様……朝食も召し上がらずに、ランドセルを背負ってお出かけになりました……」出かけた?小雪は青ざめた顔で瞬きをした。女の勘なのか、それともただの嫌な予感なのか。星奈はき
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第3話
今となっては信じられない話だが、こんなにも冷酷に離婚を切り出してくる男も、かつて小雪がプロポーズを受け入れた時には感極まって涙を流していたのだ。しばらくして、こわばった指をゆっくりと動かし、一行だけ打ち込んだ。【了解】覚悟はできていたのか、思ったほど辛くはなかった。小雪は少し気持ちを落ち着けてから病室へ向かう。ドアを開けると、直子が椎名浩明(しいな ひろあき)の体を支え、ベッドから起こそうとしているところだった。丸まった母の背中、半分ほど白髪になった髪。やつれた父の顔と痩せ細った体。それを目にした瞬間、胸を激しく殴られたような衝撃が走り、目頭がかっと熱くなった。「お父さん、お母さん……っ」喉の奥が詰まって痛いほどだった。物音に気づいた二人は、驚きと喜びの入り混じった顔でこちらを振り向いた。「雪ちゃん、来るなら先に言ってくれればよかったわ。下まで迎えに行ったのに」直子は喜んでそばに歩み寄り、その手を握った。そして後ろを覗き込む。「星奈ちゃんと朔人くんは?」浩明も孫娘に会いたがっていた。「そうだ、あの二人は?」視線を落とす。あの父娘が千笑に寄せる想いを知れば両親がどれほど怒るかわかっていたから、本当のことは言えず言葉を濁す。「朔人は急用ができて、あとで星奈を連れてくるって」「そう。じゃあいつ来るの?お腹すいてるでしょう。何か買ってこようかしら。星奈ちゃん、こっちのお菓子が大好きだったもの」小雪はもう笑顔を取り繕えなくなり、切なさを滲ませて言った。「あの二人のことはどうでもいいから。それよりお母さん、ずいぶん痩せたじゃない。ちゃんとご飯食べてる?」「ふふ、もちろん食べてるわよ」直子は笑って誤魔化しながら、いとおしそうに小雪の頬に触れた。そのまま目の縁がじわりと赤く染まる。娘は親の自分が痩せたと言うけれど、直子の目には、娘のほうがひどくやつれて見えていた。朔人が冷たくしているのは誰の目にも明らかだった。結婚生活とは結局、かつての情熱をすり減らしてしまうものなのだろうか。あの年、娘を無理に遠くへ嫁がせず、あの人を待っていたら、結果は違っていたのだろうか。直子はふと、そんなことまで考えてしまう。家族でしばらく話した後、小雪は理由をつけて病室を出て、父の病状を尋ねに医師のも
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第4話
朔人は星奈を椅子に座らせて待つように言うと、足早に人気のない方へと向かった。背が高く脚も長い彼は歩幅も大きく、小雪が二歩進む間に一歩で進んでしまう。誰かに聞かれるのを恐れているのだろう。千笑のことが陰でとやかく言われないように。ずいぶんと用心深いことだ。小雪は目を伏せ、早足でその後を追った。人のいない場所まで来ると朔人は足を止めた。細く長い指がズボンのポケットから一枚の家族カードを取り出し、小雪に差し出す。「先にこれを使え。足りなければ言え」小雪は一瞬固まり、そのカードを見つめた。目の奥がじんと熱くなる。本当は、こういう気遣いをずっと待っていた。あの頃、彼は冷たく小雪を突き放し、見向きもしなかったのに。今さらこんなものはいらない。「内輪の事情を、わざわざ他人に知られる必要はない」朔人が続けた言葉が頭を殴りつけるようだった。小雪はその場に立ち尽くし、信じられないものを見る目で彼を見つめた。つまりこのカードは、小雪の家族への思いやりなどではなく、口を封じるためのものだったのだ。自分の懸念が片付かないうちに、小雪が二人のことを言いふらし、千笑の名を汚すことを恐れているのだ。ずいぶんと責任感がお強いこと。ふっ……小雪は悲しみを滲ませて笑った。胸の奥にせり上がる不快感を必死に押し殺し、そのカードを払いのけ、離婚の手続きについて話をしようとしたその時、着信音が鳴った。朔人がスマホを取り出し、電話に出る。その声は、この数年小雪が一度も聞いたことのない優しい響きを帯びていた。「うん、すぐ行く」言い終えると、彼は淡々と小雪に目を向けた。ふと、その視線が右手の薬指に留まる。指輪が消えていることに気づき、わずかに動きが止まった。口の端を歪めるとカードを窓枠の上に置き、意味ありげな一瞥を残して彼はその場を去っていった。小雪は釘付けにされたように動けなかった。窓枠のカードに目をやり、それから彼の去っていった背中を見つめる。かつて感じたことのない屈辱が胸に押し寄せてきた。拳を握りしめ、思わずかすれた声を絞り出した。「朔人、西京にはいつ戻るの」離婚の手続きをしなければならないから。彼の足が止まった。それでも一応、答えは返ってくる。「明日」言い終えると、またまとわりつかれ
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第5話
病室に戻り、小雪は転院の話を両親に切り出した。浩明はためらいを見せた。娘に迷惑をかけたくないのだ。ここ数年、嫁ぎ先で娘がどれほど苦労しているか彼にもわかっていた。「小雪……」直子も言った。「転院なんてしなくていいのよ。お父さんはここでも十分よくしてもらってるから……」二人の心の内など、わからないはずがなかった。小雪は申し訳なさを抱えながら歩み寄り、言った。「もう医師の手配は済ませたから。決めたことだから私のことは心配しないで」「まったく、この子は……」口では不満そうに言いながらも、直子の胸の内は切なさと嬉しさが入り混じっていた。……翌日、午前10時過ぎに、小雪は荷物をまとめ、退院手続きを済ませると両親を連れて空港へ向かった。思いもよらないことに——空港の外で、朔人と星奈、それに千笑一家の姿を見かけた。黒塗りの高級車から降り立つと、朔人は千笑と星奈に寄り添い、彼女たちを守るように車道側を歩いていた。その光景はひときわ目を引き、周囲の人々が何度も振り返っては感嘆の声を漏らした。「あの家族、すごく上品ね。羨ましいわ」「本当。あの男の人、あんなに気配りができるなんてきっといい旦那さんね」「私もそう思う。娘さんも奥さんも品があるし、大切にされてるのが伝わってくるわ」「……」喉の奥が詰まった。彼らがプライベートジェット専用の待合ラウンジへと向かうのを見つめながら、小雪はぎゅっと手のひらを握りしめた。彼らもきっと西京へ戻るのだろう。予想はついていた。朔人があれほど千笑を大切にしているのだから、彼女の祖母の病を放っておくはずがない。きっと最善の治療を受けられるよう手配するに違いない。それなのに、自分は……小雪は考えたくなかった。長く愛してきた男が、自分と自分の家族にこれほど無情だったなんて。彼が一声かけるだけで、父はきっとすぐに最善の治療を受けられるはずなのに。これほど時間が経っても彼は何もしようとしない。結婚前、小雪が体調を崩した時は研修先からでも真っ先に駆けつけてくれたような人だったのに。小雪は自嘲と悲しみの入り混じった笑みを浮かべた。それでいいわ。すべてはもうすぐ終わるのだから。視線を戻し、両親を連れてロビーへ入る。その時、少し離れた場所にいた星奈が
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第6話
そのままバルコニーへと歩いていく。冷たい風が顔に吹きつけた。その風に当たって初めて、締めつけられるように苦しかった胸が少しだけ緩んだ気がした。小雪は鼻をすすり、何度か咳き込む。声が落ち着いてきたところで改めてスマホを取り出し、友人に電話をかけた。相手はしばらく忙しくしていたのか、少し経ってから電話に出た。「もしもし?どうした?さっき設計事務所がバタバタしてて電話に気づかなかった」鼻の奥がつんと熱くなった。小雪は少し苦しさを滲ませながら、「先輩」と呼びかけた。「父を連れて西京に治療に来たの。主治医の先生が、伝手があるなら東郷先生にも診てもらうといいって……私……」相手はすぐに事情を察し、はっきりと言った。「あとで俺が連絡してみる」「ありがとう、先輩」「気にするな。おじさんの具合が良くなるなら、こんなの何でもないことだ」しばらく話が続いた後、彼は話題を変えた。「南山の件、どうするつもりだ?俺と先生でひと肌脱ごうか?」「先生」という言葉を聞いて、小雪の胸に寂しさと申し訳なさが入り混じった感情がこみ上げた。とても、まともに顔を合わせられる気がしない。その戸惑いを察したのか、男は慰めるように言った。「あまり気に病むな。この数年、先生は口にこそ出さないが、お前のことをずっと気にかけてたよ。戻ってきてほしいって、ずっと待ってるんだ。昨日、お前の一級建築士の登録が済んだって知って、ひそかにずいぶん喜んでたぞ。お前が南山の仕事を横取りされたって知ったら、絶対に黙っちゃいないはずだ」小雪の黒い瞳が微かに揺れた。スマホを握る手に力がこもる。実のところ、この数年何度も設計事務所に戻りたいと思ったことがあった。けれど家庭のことが気にかかり、そのたびに諦めてきた。空いた時間に専門書に目を通し、関連資格を取り続けるのが精一杯だった。もうすぐ離婚する今、確かに戻りたいという気持ちが強くなっていた。けれどこの数年で自分が遅れを取ってしまったこともよくわかっていた。しばらくきちんと学び直してから戻りたい。「南山の件はもう解決の目処が立ってるの。2日後には片付くはず。復帰の話は、もう少し勉強し直してから改めて考えたいと思ってる」相手は驚いたように言った。「本当か?」「うん」「おいおい、ちょっと待ってくれ、なん
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第7話
30分ほどして、翠ヶ丘邸に着いた。小雪は玄関を入るとそのまま2階へ上がった。星奈はパジャマ姿でぐったりとベッドに横たわり、そばには田中だけが付き添っている。朔人の姿はどこにもなかった。小雪は一瞬、足を止めた。物音に気づいた星奈が青ざめた顔を枕から上げ、小雪を見た。その瞬間、堪えていたものが一気に溢れ出した。涙をこぼしながら、星奈は声を上げた。「ママ、すごく辛かったの。どうしてメッセージを返してくれなかったの?」小雪は唇を噛み、他のことは何も考えられなくなった。ベッドの端に腰を下ろし、星奈を抱き寄せてあやす。きっと朔人は、食事を終えたあと星奈だけを人に送らせて、自分は何事もなかったように千笑のもとへ戻ったのだろう。これ以上は考えたくなかった。汗で額に張りついた髪をそっと撫で、小雪は優しい声で尋ねる。「お薬は飲んだ?どこかまだ辛いところある?」星奈はもうそれほど苦しくはなかった。ただ、拗ねたような気持ちが少し残っていた。それも小雪の胸に頬を擦り寄せているうちにじわじわと溶けていく。頭の中はこんな思いでいっぱいだった。ママはやっぱりあたしのこと心配してくれてる!ママの腕の中って、こんなに心地よくて、いい匂いがするんだ。千笑さんの腕の中よりもずっと……もちろん、千笑の名前を出せば母が機嫌を損ねることはわかっていたから口には出さなかった。今はただ、母とこうしていたい気持ちのほうが強かった。星奈は甘えるように小雪の首に腕を回し、言った。「お薬飲んだからもう平気。でも、ママが作ってくれる卵粥が食べたいなあ」小雪は頷き、作りに行こうと立ち上がった。その時、ドアの外から、落ち着いた足音が近づいてきた。朔人が帰ってきたのだ。星奈はドアのほうを見て、まだ少し弱々しい声で呼んだ。「パパ!」小雪は一瞬動きを止めた。朔人は短く応え、小雪には目もくれず、挨拶ひとつなく部屋に入ってきた。近づいてきて星奈の頬に触れ、優しい声で聞く。「まだ辛いか?」彼が近づいた瞬間、ふわりと香水の匂いが鼻をかすめた。そして屈み込んだ拍子に、シャツの襟に薄く色づいた口紅の跡が見えた。まだ新しい。ついさっき誰かに口づけられたばかりだとわかる跡だった。こんな場所に口紅が付くとすれば、千笑が首元に腕を回して口づけた
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第8話
小雪は深く息を吸い、言葉を続けた。「もう……」離婚協議書にはもう署名した。言い終わらないうちに、朔人のスマホが鳴った。彼は最後まで聞かず、そのまま電話に出た。小雪は仕方なく口をつぐんだ。朔人は相手の話を聞き終えると冷ややかに短く応えた。「今から行く」電話を切ると、彼は見下すように一瞥しただけで、何も言わずにその場を去っていった。小雪の眉がぴくりと動いた。この数年で彼のこういう素っ気なさにはもうすっかり慣れてしまっていた。彼にとって自分は重要な存在ではない。取るに足らない飲み会の予定ですら、自分より優先される。娘さえいなければ、この数年彼はこの家に帰ってすらこなかっただろう。以前の自分なら、それでも何の用事なのかとしつこく尋ねるか、あるいはただ耐え忍んでいたかもしれない。けれど今日はもう、我慢したくなかった。小雪は後を追い、言った。「ねえ、本当に話があるの……」朔人は少し珍しいものでも見るように彼女を見たが、それほど重要な話だとも思わなかったのか言った。「仕事が片付いてからにしてくれ」喉が詰まった。彼が本当に急いでいる様子を見て、今この場で切り出しても片付く話ではないと思い直し、小雪は足を止めた。彼が去っていくのを見つめる。まもなく外で車のエンジン音が響いた。しばらくその場に立ち尽くしたあと、小雪は2階の主寝室へ戻ってパジャマを手に取り、シャワーを浴びてから娘の部屋へと向かった。もう離婚するのだ。朔人とはこれ以上、少しも関わりたくなかった。娘の眠りを妨げないよう、そっと部屋の扉を押し開ける。すると思いがけないことに、星奈は目を細めながらスマホを覗き込んでいた。「星奈、体調が悪いのにちゃんと寝ないで、何を見てるの?」星奈は小雪が入ってきたことに驚き、反射的にスマホを隠した。薬のせいで確かに眠かったが、うとうとする合間に千笑にまだおやすみのメッセージを送っていないことを思い出し、慌てて一言送ろうとしていたのだ。もちろん、それを母に言うつもりはなかった。「別に、何も見てないよ」目をこすりながら言う。「ママ、どうしてこっちに来たの?パパと一緒に寝ないの?」小雪は唇を引き結び、その話には触れず星奈がスマホを置いたのを見てから言った。「夜お腹がまた痛くなるかもしれな
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第9話
自分とのトークは、ずっと下のほうに埋もれていた。小雪は唇を噛み、千笑とのトーク画面を開き、履歴を遡っていく。見れば見るほど心が沈んでいった。道理で、今朝の星奈があんなに機嫌が良かったわけだ。星奈が身支度を終えた気配がしてから、小雪は無表情のままスマホを置き寝室を出た。ドアを閉める瞬間、視界の端に、洗面所から出てきた星奈が、またスマホを手に取り嬉しそうに画面を見つめる姿が見えた。おそらく千笑と話しているのだろう。小雪は振り返らずにその場を離れた。主寝室の前を通ると扉は開いたままだった。中は誰もおらず、シーツもきれいに整っていた。朔人は昨夜帰ってこなかったのだ。先ほど見た千笑とのやり取りと重ね合わせ、うっすらと何かに思い至る。小雪の足が思わず止まった。つまり昨夜彼の言っていた「用事」とは、千笑のところへ行くことだったのか。二人は昨夜一緒に過ごしたのだろうか。唇をきつく結ぶ。彼には千笑と過ごす時間はあっても、自分の話を最後まで聞く時間はないらしい。朔人があからさまに千笑ばかりを優先することなど、もう考えるだけ無駄だった。ちょうどいい、彼が戻ってきたら離婚の話をそこで片付けよう。拳を握りしめ小雪は階下へ下り、キッチンで星奈の朝食を作り始める。田中が手伝いに入った。しばらくして料理が仕上がったが、星奈はまだ下りてこなかった。小雪は呼びに行く気になれず、田中に呼んでもらうことにした。田中は一瞬戸惑った。今まで星奈のことは何でも小雪自身がしていたのに、今日はどうしたのだろう、と。それでも2階へ向かった。「お嬢様、ご飯ですよ。遅れてしまいますよ」星奈はちょうど千笑との会話に夢中になっていたところで、邪魔をされて機嫌を損ねた。けれど、来たのが田中だと知ると何となく気恥ずかしくなり、不機嫌そうに小声で返事をしてスマホを手に階下へ下りていった。ダイニングに行き、小雪の向かいに座る。小雪の顔色が少し冷たいことには気づかず、テーブルの上の蒸しパンの皿を見ながら言った。「ママ、蒸しパン包んで、レッスンバッグに入れてくれる?」小雪は一瞬固まったが、田中がまだ2階にいるのを見て、彼女を煩わせるまでもないと自分で包みに向かった。包み終えて戻ってくると、星奈は急いた様子で朝食をかき込みながら外の気配
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第10話
背後で、朔人は遠ざかっていく小雪の背中を見つめながら、ハンドルを握る手をわずかに止めた。以前なら、彼らを見送ってから家に戻っていたはずなのに。今日はどうしたのだろう……実家の父親の病気のせいだろうか。朔人は片眉を上げただけで特に気に留める様子もなく、車を発進させた。星奈も母の様子がいつもと違うことに気づいたのか、身を乗り出して聞いた。「ママ、怒ってるのかな?」朔人が言う。「気にするな。怒ってるなら戻ってお前の世話をしたり、朝ご飯を作ったりしないだろう」星奈は納得したように頷き、それ以上考えるのをやめた。代わりにレッスンバッグの中に入れた千笑への蒸しパンの包みをそっと撫で、機嫌が良くなっていく。今日の蒸しパン、ちょっと少なかったな。今度はママにもっと作ってもらおう!……屋敷の中、小雪は2階の書斎に上がり、引き出しからあの離婚協議書を取り出すと袋に入れた。それから寝室へ行き、自分の荷物をまとめ始める。離婚したら、もうここには戻らない。荷物は思いのほか多く、細々とした思い出の品が溢れていた。結婚した当時は本気で朔人と一生を共にするつもりだった。けれど、相手はそう思っていなかったのだろう。結婚から1年も経たないうちに心変わりしてしまったのだから。小雪は深く息を吐き出した。すべてを持ち出すつもりはなかった。面倒だ。わずかな衣類だけをまとめ、スーツケースを引いて、小雪は最後にもう一度5年間住んだこの家を見渡した。振り返ることなくその場を離れた。清掃業者にマンションの掃除を頼むメッセージを送りながら、階下へ下りていく。あのマンションは、結婚前、初めて取得した技術特許で得たお金で買ったものだった。女性も、自分の家くらい持っておくべきだ。ただそれだけの思いで手に入れた部屋だった。まさか本当にこんな形で使うことになるとは思っていなかった。清掃の予約を終え、スマホを閉じようとしたところで、三郎からメッセージが届いた。【大和が今日、警察特殊部隊から戻ってきたんだ。うちに顔を出してみないか?】あの男の名前を再び目にした小雪の黒い瞳が、わずかに揺れた。だが、すぐにその思考を振り払った。伊瀬大和(いせ やまと)に会うつもりはない。それに大和のほうも、自分に会いたいとは思わないだろう。彼
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