LOGIN絢子は咲夜の目の前まで歩み寄ると、車椅子の肘掛けを両手で強く掴んだ。「咲夜、千暁が持っている株を売ってはだめよ。あれは、あの子が天志に対抗するために残された唯一の切り札なの」千暁が荻野グループを離れると決めたことだけでも、絢子はすでにひどく失望していた。それなのに今度は、咲夜がその株まで売ろうとしているのを、千暁自身が黙って許している。絢子にとって、何より受け入れ難いのはそのことだった。咲夜は眉をきつく寄せた。「さっき、私が千暁のことをどれくらい知っているのかと聞きましたよね。では、絢子さんは?母親である絢子さんは、彼のことをどれくらい分かっているんですか?」咲夜は目の前の絢子をじっと見つめた。その鋭い眼差しは、まるで彼女の心の奥底まで見透かそうとしているかのようだった。絢子は意味が分からないという顔で、その視線を受け止める。「どういう意味?」自分が息子である千暁を理解していないとでも言いたいのだろうか。咲夜は表情を変えず、そのまま言葉を続けた。「絢子さんにとっては、あの株こそが千暁を守るための力であり、天志さんと戦うための切り札なんでしょう。でも、千暁自身はどうなんですか?絢子さんは一度でも本人に聞いたことがありますか?それが本当に彼の望んでいるものなのかって」もし先ほど絢子から、千暁が荻野家でどれほど精神的に追い詰められてきたのかを聞いていなければ、咲夜もここまで早く気づくことはできなかったかもしれない。なぜ千暁が、これほど手間をかけてまで一連のことを進めてきたのか。けれど、たった今、咲夜の中ですべてがつながった。ようやく千暁の本当の気持ちが理解できたのだ。そして理解できたからこそ、今の咲夜は彼がたまらなく不憫に思えた。絢子を見る咲夜の眼差しも、次第に変わっていった。「本当に彼を理解していないのは、絢子さんのほうですよ」その声には、すでにわずかな怒りが滲んでいた。そう考えれば、先ほどまで絢子が自分に浴びせていた非難など、ひどく滑稽に思えてくる。絢子の顔色が一変した。怒りに満ちた目で咲夜を睨みつける。「でたらめを言わないで!自分の息子のことを、私が分からないはずないでしょう!あの子に好かれているからって、いい気になって勝手なことを言わないでちょうだい!」咲夜の言葉など、到底認められ
まだ幼稚園に通うような年齢だったのに。天志は、どうしてそんなことができたのだろう。絢子は咲夜の前で、自嘲するように笑った。「これで終わりだと思った?天志はね、その野良猫のうち一匹を私に料理させたの。そして何も知らない千暁を言いくるめて、スープを何口か飲ませた。千暁が警戒を解いたところで、碗の中に入っているのは、あの子が自分の手で殺した猫だと教えたのよ。それから、スープも肉も全部残さず食べろと強要した」当時の光景を、絢子は今でもまともに思い返すことができなかった。まだ幼かった千暁はその場で口から泡を吹いて倒れ、救急搬送されて胃洗浄を受けることになった。その猫の肉には、何らかの有害物質が含まれていたのだ。それ以来、千暁は小さな動物を見かけるだけで怯え、わざわざ遠回りして避けるようになった。自分が善意で手を差し伸べたせいで、またその動物たちに取り返しのつかない災いが降りかかるのではないかと恐れていたからだ。咲夜は天志の常軌を逸した行為に、心の底から嫌悪を覚えた。胃の奥から込み上げてくる吐き気を必死に堪えながら、絢子を制した。「もういいです。私はそんな話まで聞きたくありません」絢子はかすかに笑った。「でも、私はあなたに知ってほしい。いいえ、あなたは知らなければならないの。咲夜、こんなのはまだ始まりにすぎないわ。千暁が私の首を絞めて殺すよう強要されていた姿なんて、あなたは見たこともないでしょう。私と子供たちは、天志にとって、互いを縛りつけて牽制するための二つの駒だったのよ。天志は、二人の子供の命を盾にして私の尊厳を踏みにじるのが大好きだった。そして実際、あの人はそれに成功した。同じように、子供たちにも何度となく私の首を絞めさせて、『そのまま殺せ』と命じたわ」天志は、他人の生死を自分の手で操ることを、まるでゲームのように楽しんでいた。とりわけ好きだったのは、絢子が子供たちを守るために膝をつき、泣きながら必死に許しを乞い、最後には自ら地下室へ向かって罰を受ける姿を見ることだった。千暁に対しても同じだった。もし千暁が命令に従わず、絢子の首を絞めて意識を失う寸前まで追い込まなければ、今度は瞳が首を絞められる。天志は瞳と絢子を千暁の前に並べ、どちらか一人を選べと迫ったのだ。咲夜は、ただ話を聞いているだけ
咲夜は絢子の話を聞き、思わず考え込んだ。確かに、自分は千暁のことをそこまで深く知っているわけではない。それでも咲夜は、千暁を心の底から信頼していた。以前の自分なら、こんなふうに無条件で誰かを信じることなどなかっただろう。なぜ自分はここまで千暁を信じられるのか。改めて考えてみれば、それはきっと、彼の誠実さに心を動かされたからだった。少なくとも千暁は、最初から何の条件も求めずに咲夜を守り、信じ続けてくれた。人の想いは、相手にも伝わるものだ。千暁が見返りを求めず、自分を大切にしてくれたからこそ、今の咲夜もまた、心から彼を信じられるようになったのだ。咲夜は絢子を見つめ、穏やかに笑った。「絢子さん、私はそこまで深く知る必要はないと思っています。千暁が私に話したいと思ったことなら、いつか自分から話してくれるでしょう。もし話したくないのなら、それはまだ彼自身の心の準備ができていないというだけです。私に知られたくないことを、無理に覗こうとは思いません。急ぐ必要もないし、彼がいつか自分から心を開いてくれるまで待てますから」咲夜は、千暁のすべてを何が何でも知りたいと思っているわけではなかった。誰だって何かを背負い、人には言えない秘密の一つや二つを抱えて生きている。それ自体は何もおかしなことではないと、咲夜は思っている。少なくとも今は、目の前にある幸せを大切にできれば、それで十分だった。絢子はそんな咲夜を食い入るように見つめると、歯を食いしばり、さらに踏み込んだ。「たとえあの子の過去が、あなたの想像以上にひどいものだったとしても?それでもあなたは、変わらずあの子を選び続けられるの?」咲夜は眉をひそめ、その表情に明らかな不快感が浮かんだ。自分の考えは、もう十分すぎるほど伝えたはずだ。それなのに、なぜ絢子はこうして何度も念を押すようなことを言ってくるのだろう。しかも絢子の表情を見れば、このあと彼女が話そうとしていることが、自分にとって決して聞きたい話ではないことくらい察しがついた。実際、咲夜の心にはすでに強い拒絶感が湧き上がっていた。咲夜は声を冷たくして言った。「すみませんが、これ以上のお話には興味がありません。人と約束がありますので、これで失礼します」今、車椅子に乗っていて自由に動けない状態でなければ、咲夜はと
もともと絢子は、どういう理由をつけて咲夜と二人きりで話をすればいいのかと悩んでいた。今、千暁が咲夜と同じ病室にいることも知っている。ところが思いがけないことに、エレベーターを待っていたところで偶然にも咲夜と鉢合わせた。せっかく巡ってきたこの機会を、絢子が逃すはずもなかった。千雪はすぐに断ろうとし、咲夜を絢子に近づけまいとした。しかし咲夜は絢子と目を合わせると、「あっちで話しましょう。ここに立っていたら邪魔になりますから」と言った。今、咲夜はまだエレベーターの中にいて、絢子はその外にいる。どう考えても、落ち着いて話をするのに適した場所ではなかった。その言葉を聞いた絢子は、体を横にずらして道を空けた。千雪は咲夜に促され、車椅子を押してエレベーターから出る。絢子はそのあとについていき、観葉植物のそばに小さな丸テーブルと二脚の椅子が置かれた休憩スペースの一角までやって来た。咲夜は千雪を見て言った。「小林さん、悪いけど水を一本買ってきてくれる?」千雪は心配そうな表情を浮かべた。「花江さん、やっぱり私もここに残りましょうか?」そう言いながら、警戒するように絢子へ視線を向ける。咲夜は大丈夫だと伝えるように目で合図した。それを見て、千雪はようやくその場を離れたものの、何度も振り返りながら少し離れたところにある売店へと歩いていった。絢子は鼻を鳴らした。「あなたのアシスタント、ずいぶん忠実なのね」千雪が自分を警戒していることくらい、絢子にも当然分かっていた。まるで次の瞬間にも絢子が感情を爆発させ、咲夜に危害を加えるのではないかと疑っているような目だった。以前の絢子なら、そんな偏見に満ちた視線をひどく気にしていただろう。天志に精神疾患を理由に治療施設へ送り込まれ、治療を受けさせられたことを、彼女は今でも覚えている。退院したあと、周囲の人々から向けられる視線が針のように突き刺さり、ひどく居心地の悪い思いをしたものだ。けれど、何度も繰り返されるうちに、絢子もすっかり慣れてしまった。今では、周囲から狂人扱いされることを、それほど恥ずかしいとも思わない。どうせここまで来てしまったのだ。狂人なら狂人で構わない。むしろ狂人というのも悪くない。少なくとも、狂っていると思われれば、何をしてもまともには扱わ
咲夜は一本の電話を受けると、千暁に声をかけた。「ちょっと出てくるね」千暁は彼女を見た。「俺も一緒に行こうか?」咲夜が誰からの電話を受けたのか、千暁は知らなかった。見るかぎり、咲夜の顔色が特に悪いわけでもない。それでも千暁は、やはり心配だった。咲夜は首を横に振った。「大丈夫。あとで今泉さんと話すことがあるんでしょう?私はちょっと外の空気を吸ってくるだけだから。小林さんも一緒だよ」咲夜はすでに千雪に連絡を入れていた。花江グループが破産した以上、本来なら千雪も職を失っているはずだった。しかし彼女は今も変わらず、咲夜のそばにいる。実は花江グループが破産した直後、真澄が千雪を荻野グループへ引き抜いていた。今の千雪は真澄のもとで働いている。仕事内容はいたって単純で、咲夜のそばについて、彼女の指示に従えばいい。しかも給料は、花江グループで働いていた頃の二倍だった。これまでと変わらず咲夜のそばで働けるうえに、給料まで大幅に上がったのだから、千雪は今の仕事にかなり満足していた。もちろん、ときには真澄について荻野グループの仕事を手伝うこともある。千雪は今の仕事に大きなやりがいを感じていた。何度か真澄と一緒にハードな仕事をこなしたことで、彼女が何より感心したのは真澄の圧倒的な仕事ぶりだった。自分にはまだ真澄から学ばなければならないことが山ほどあると痛感しており、彼のもとで学びながら一緒に仕事ができることに、大きな充実感を覚えていた。咲夜がそこまで言うのならと、千暁もそれ以上は引き止めなかった。実際、このあと智哉と良太が来て、千暁と話し合う予定になっていた。それから十分ほどして、千雪が病室へやって来た。千暁に挨拶を済ませると、そのまま咲夜の車椅子を押して病室を出る。「花江さん、どうして千暁さんに内緒で会いに行く必要があるんですか?」千雪が不思議そうに尋ねた。咲夜は彼女を見上げた。「今泉智哉も桜ノ宮市の人でしょう?今泉家は向こうの名家とも付き合いが深いから、彼の顔を知られてる可能性があるの。もし見つかったら困るから」先ほど咲夜に電話をかけてきたのは、香織だった。そう、桜ノ宮市の鷹司家の香織だ。以前、貴重な生地を快く咲夜に譲ってくれた、あの香織である。香織はこのところずっと海外を飛び回っ
瞳は答えた。「咲夜と千暁兄ちゃんが荻野家のことを全部片づけた頃かな」そう言ったあと、瞳は自嘲気味に笑った。「……って、それじゃ無理か。私、父から荻野グループの株を5%もぎ取ったばかりだし、もうすぐ荻野グループで働き始めなきゃいけないんだった」確かに、北川市に長く滞在することはできない。長くても、あと一週間ほどだろう。休暇が終われば、瞳は荻野グループへ戻り、これまでとはまったく違う立場で働き始めることになる。何しろ、自分の幸せを犠牲にしてまで手に入れた権利なのだ。それなら堂々と胸を張り、華々しく荻野グループへ戻ってやるつもりだった。咲夜は少しでも明るい気分にさせようと、わざと軽い口調で祝福した。「瞳が戻ってきて初出社する日は、小林さんに頼んで花籠をずらっと並べてもらおうかな。オフィスの中から本社の正門前の交差点まで、ずーっと。うちの瞳はこんなに優秀なんだから、盛大にお祝いしなきゃ。荻野家のお嬢様が堂々の帰還を果たしたって、みんなに知らしめないとね」あまりにも大げさな咲夜の言葉に、瞳は思わず笑った。「そこまでやるなら、いっそのことツインタワーの大型LEDビジョンを全部押さえて、『おかえりなさい』って流したら? いつから咲夜は、そんな心にもないお世辞を言うようになったの?全然あなたらしくないんだけど」以前の咲夜なら、そんなものは形式ばかりで意味がないと真っ先に言っていたはずだ。それなのに今は、その手の演出を全部自分に使って、どうにか機嫌を取ろうとしている。瞳は呆れながらも、笑わずにはいられなかった。咲夜もつられて笑った。「心にもないことじゃないよ。結構いい企画だと思うけど。じゃあ、それで決まりね」「やめて、本当にやめて!」瞳は慌てて止めた。「勘弁してよ。そんな恥ずかしいことされたら、会社にいられなくなる。お願いだから私をそっとしておいて」そこで何かを思いついたらしく、瞳は続けた。「先に言っておくけど、本当にそんなことして私をからかったら、あなたの足が治ったとき、私も横断幕を出すからね。『祝・花江咲夜、完全復活!走って跳んでイケメン選び放題!』って。あなたが恥ずかしい思いをしようが、私には関係ないから。千暁兄ちゃんが嫉妬してあなたを問い詰めても、それも私のせいじゃないし。先に私を盛大に公開処
寝室へ戻った途端、咲夜のスマートフォンには真奈美からのメッセージが怒涛のように押し寄せていた。【咲夜、どうしてもそんなに意地を張るつもり?本当に花江家のことなんてどうでもいいの?お父さんやご先祖様が代々築き上げてきたものを、このまま潰して平気だっていうの?】【私やお父さんが死んだあと、ご先祖様にどう顔向けすればいいのよ】【分かってるわ、あなたが辛い思いをしてきたことは。でも、あの白羽さんは晴南さんにとって忘れられない人なのよ。あなたが少し我慢すれば済む話じゃない】【男なんて外で遊ぶものよ。心を繋ぎ止められないなら、せめてお金だけでもしっかり握っておけばいいの】【咲夜、お願い
晴南も、外の騒がしさにはすでに気づいていた。つい先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みは、咲夜の姿を認めた瞬間に凍りつき、その冷ややかな瞳には露骨な不快感と詰問の色が宿る。咲夜はその視線を真正面から受け止めながら、感情を削ぎ落とした無表情のまま、真奈美の背後に静かに立っていた。「晴南さん、うちの咲夜が分からず屋で本当にごめんなさい。ちゃんとお詫びさせようと思って、連れてきたの」真奈美は卑屈な笑みを顔に貼りつけ、機嫌を窺うような声音で言った。そう言いながら、咲夜の背中を突き飛ばすようにして、彼女を晴南の目の前へ押し出す。晴南はただ冷ややかにその様子を眺めるだけで、自分から口を
実家へ向かう帰路の途中、咲夜のスマートフォンに晴南から着信が入った。受話器越しに響いてきたのは、怒りに我を失った彼の声だった。「咲夜、今すぐ病院に来い。這いつくばってでも洸に謝るんだ」背後では、洸のすすり泣く声がかすかに混じっている。想像するまでもない。晴南は洸を不憫に思うあまり、怒りの矛先をすべて自分へ向けようとしているのだ。咲夜は深く考えることもなく、電話口から浴びせられる怒号を無視し、そのまま通話を切った。しかし晴南は執拗だった。すぐさま何度もかけ直してくる。病院へ来て謝罪するまで決して許さない――そんな執念すら感じさせる勢いだった。苛立ちが限界に達した咲夜は
洸は、咲夜が手にしていたコーヒーを奪い取ると、そのまま自分の顔へとぶちまけた。続けざまに、自らの頬を思いきりひっぱたく。華奢な身体は、計算し尽くされた絶妙なタイミングで床へと倒れ込んだ。額がテーブルの角にぶつかり、生温かい液体が視界を滲ませる。「ごめんなさい……私が悪かったわ。晴南さんに付きまとったりして、本当にごめんなさい。私を打って気が済むのなら、いくらでも打って。抵抗なんてしないから」床に座り込んだ洸は、首を振りながら、しゃくり上げるような声で泣き叫んだ。晴南は、かなり離れた場所にいながらも、ダイニングルームの騒ぎを聞きつけていた。慌てて階段を駆け下りた彼の目