LOGIN結局のところ、咲夜の制止に抗えず、千暁は振り上げた拳を下ろした。氷点下まで冷え切った貌で、彼は咲夜の手を荒々しく振り払う。その峻烈な拒絶に、彼女は彼が激昂していることを悟った。それも、他ならぬ自分に対して。千暁の切れた口角から滲む鮮血が視界に入り、咲夜の胸を鋭い痛みが貫く。思わず、彼の方へ一歩踏み出そうとした、その時だった。咲夜が足を動かした刹那、千暁は一瞥もくれず、無言で彼女の傍らを通り過ぎた。彼は駆けつけたマネージャーへ、凍てつくような声で命を下す。「……こいつらを叩き出せ。今後、二度と『Fittro』の敷居を跨がせるな」吐き捨てるように言い残すと、千暁は背を向け、そのまま個室を後にした。咲夜はその場に釘付けになったまま、遠ざかる背中を呆然と見送ることしかできなかった。――私、何か間違ったことをしたのだろうか。そうでなければ、なぜ彼はあんなにも冷淡な眼差しを私に向けたのか。マネージャーは主人の命を拝受するや否や、即座にスタッフを率いて室内の者たちの排除にかかった。洸は赤く腫れ上がった眼で、晴南を支えながら立ち上がらせる。晴南の顔面は血に塗れ、見るも無惨な有様だった。それでもなお、彼の憎悪に満ちた視線は咲夜に縫い付けられている。殊に、咲夜が千暁の背中を心細げに見送る姿を目にした瞬間、彼は瞳を細め、冷酷な声を絞り出した。「咲夜……お前、いつから千暁とデキていたんだ?突然別れるだの、婚約を解消するだのと言い出した理由が、ようやく腑に落ちたよ。そういうことだったんだな。お前と千暁は昔から水と油の関係だったはずだ。それがいつの間に、俺の知らないところでそんな卑しい関係に成り下がっていたんだ?」咲夜と千暁の間に「不適切な関係」でもない限り、今夜の千暁のあの激昂――愛する女のために理性を失ったかのような狂態――に説明がつかない。そう決めつけた晴南の瞳は陰湿に濁り、彼は己が「裏切られた」という被害妄想に完全に支配されていた。この女、俺を裏切りおったか……!晴南のあまりに支離滅裂な言いがかりを耳にして、咲夜はもはや失笑を禁じ得なかった。彼女は視線を戻すと、晴南を真っ向から射抜き、毅然と言い放った。「……まず第一に。私があなたとの別れを選んだのは、あなたの不貞と、私たちの関係を軽んじた不誠実
咲夜は、隠しようのない嫌悪を瞳に宿し、彼と洸を一瞥した。「……二人とも、殴られるに足る十分な理由があるわ。わざわざ目の前に現れたのだもの、遠慮なくこの破廉恥な二人組を叩かせてもらっただけよ。たとえもう一度チャンスがあっても、私は迷わずあんたたちを殴るわ」「また殴る」という咲夜の不敵な宣告に、晴南の顔色は怒りと屈辱で刻一刻と様相を変えていった。千暁は両手をポケットに突き込んだまま、その長身でさりげなく咲夜を庇うように立ち、晴南を挑発的に見据えた。「……なるほど、森崎社長の趣味は随分と風変わりなようだ。自らクズに成り下がり、わざわざ殴られに馳せ参じるとは」「千暁!貴様、言葉を慎め!」晴南は拳を固く握りしめ、浮き出た青筋がその怒りの深さを物語っていた。咲夜への苛立ちに千暁の毒舌が加わり、彼の堪忍袋の緒はついに切れた。怒りが頂点に達し、もはや理性を保つことは不可能だと判断した晴南は、吠えるようにして千暁へ拳を突き出した。千暁の身のこなしならば、避けることなど造作もなかった。しかし、すぐ隣にいる咲夜の存在が目に入った。彼は咄嗟に体を翻し、彼女を抱き寄せるようにしてその逞しい胸の中に守り抜いた。直後、千暁の背中に晴南の重い拳がめり込んだ。視界が不意に暗転し、咲夜の頬は彼の厚い胸板に押しつけられた。耳元からは、規則正しくも力強い鼓動の音が響いてくる。同時に、頭上から千暁の押し殺したような苦悶の呻きが漏れた。彼女はようやく気づいた。千暁が自分を盾にして、晴南の攻撃を身代わりに受けたのだということに。「千暁……!」咲夜は慌てて顔を上げ、目の前の男を見つめた。「大丈夫!?怪我はないの?」――どうして私の前に立ったりしたの?晴南に狙われていたのに。これではまるで、私が傷つくのを恐れて守ってくれたみたいじゃない。「……平気だ」千暁は咲夜を安心させるように微かな笑みを浮かべ、短く応じた。それから、彼は咲夜を離すと、背後に控えていた瞳の方へと促した。「下がっていろ」兄が袖を捲り始める動作を見ただけで、瞳はすべてを察した。彼女は咲夜の手を引き、速やかに数歩後退した。断っておくが、これは決して兄を案じていないわけではない。千暁が「実力行使」に及ぶ際、その邪魔にならないよう気を利かせたに過ぎなかった。千暁
個室内の空気は、一瞬にして凍りついた。晴南の接近に身を固め、咲夜は握りしめた酒瓶に力を込める。だが、その白く細い指先は、隠しきれぬ緊張に微かに震えていた。――ドォォォン!!不意に、個室のドアが凄まじい衝撃と共に蹴破られた。鼓膜を震わせるその轟音に、室内にいた全員の視線が吸い寄せられるように入り口へと向かう。咲夜と晴南もまた、弾かれたようにそちらを振り向いた。そこに立つ人物の姿を認めた瞬間、晴南の顔色は先ほどよりもさらに苦々しく沈んだ。対照的に、咲夜は呆然と立ち尽くし、その瞳には信じがたいものを見るような驚愕の色が浮かんでいた。「お兄ちゃん、こいつよ!この救いようのないクズが、咲夜をいじめてるの!」瞳は千暁の手を引くようにして、足早に咲夜のそばへと駆け寄った。実は先ほど、咲夜が激昂して晴南を張り倒した際、瞳は直感していた。二人きりでは数的不利に陥り、状況が悪化することを。現場が混乱し、制御不能に陥った隙を突いて、彼女は密かに個室を抜け出していたのだ。本来ならマネージャーを呼び、警備員を連れて場を制圧させるつもりだった。ところが、外に出た瞬間に、入り口から入ってきたばかりの千暁と鉢合わせしたのである。兄がなぜここにいるのかなどと訝しむ余裕もなく、瞳は彼の腕を掴むなり、この個室へと殴り込みをかけたのだった。千暁は妹の切羽詰まった様子を見て、今夜彼女が咲夜を連れて遊びに来る予定だったことを思い出した。この慌てぶりからして、咲夜に何かがあったのは明白だ。その懸念が脳裏をよぎった瞬間、千暁の全身から極寒の吹雪を思わせる冷気が放たれた。彼は瞳の後に続き、歩を早める。ドアを蹴破った彼の目に飛び込んできたのは、晴南が咲夜に詰め寄ろうとしている光景だった。彼の表情はさらに冷たく凍てつき、鋭い眼差しが射抜くように晴南を捉えた。千暁の突如たる降臨に、個室内にいた取り巻きたちの顔色は一様に土気色へと変わった。特に、瞳が密かに抜け出して彼を連れてきたのだと悟り、一同は凍りついた。……あのお嬢様に手を出さなくて本当に良かった。さもなければ、今頃どうなっていたか分かったものではない。男たちは内心で、安堵の溜息を漏らしていた。千暁は、咲夜が今にも振り下ろさんばかりに酒瓶を握りしめていることに気づき、わずかに目
洸を完膚なきまでに叩きのめした咲夜は、視線を落とすことすらなく、そのまま晴南のほうへと歩を進めた。地に伏した洸の傍らを通り過ぎる刹那、彼女はその手の甲を躊躇なく踏みにじる。ようやく床に手をつき、這い上がろうとしていた洸は、無慈悲な衝撃に再び床へと叩きつけられた。その絶叫はもはや悲鳴の域を超え、断末魔の叫びとなって個室中に轟いた。その凄惨な光景に、周囲の者たちは蛇に睨まれた蛙のごとく、指一本動かすことができずにいた。晴南は傍らにいた瞳を乱暴に突き飛ばすと、野獣のような形相で咲夜へと突進した。その眼差しには陰湿な怒りが燃え盛り、まっすぐに咲夜を射抜いている。「……お前、正気か!?」吠えるが早いか、彼は咲夜に向かって腕を振り上げた。――乾いたビンタの音が、三度。静寂を切り裂くように立て続けに響き渡った。晴南が手を下すよりも早く、咲夜の先制が空を裂いたのだ。正確無比かつ電光石火、そして渾身の力を込めた一撃が、彼の頬を打ち抜いた。晴南の顔は勢いよく横に弾き飛ばされ、そこには幾重にも重なった鮮烈な手形が浮かび上がる。打った咲夜自身の掌が痺れ、感覚が消失するほどに、その一撃は重かった。晴南は顔を伏せたまま、その表情をどす黒い怒りで染め上げた。ゆっくりと顔を上げたその眼差しには、今にも咲夜を八つ裂きにせんばかりの憎悪が渦巻いている。だが、咲夜は氷のように冷淡な視線でそれを受け流すと、唇を冷ややかに動かした。「謝れ?晴南、いい加減に自分の立場を弁えなさい。あなたなんて、私がいらなくなったただのゴミよ。その程度の身分で、よくも私に土下座しろなんて言えたものね。……で、この『謝罪』のやり方は、お気に召したかしら?」彼女は凛として背筋を伸ばし、傲然とした佇まいを崩さない。己の行いに対し、後悔の念など微塵もなかった。むしろ、長年積み重なってきた鬱屈とした感情を吐き出せたことで、心は晴れやかですらあった。他人がどう思おうと構わない。自分を犠牲にするような我慢は、もう二度としないと決めていた。取り巻きの一人に支えられ、ようやく立ち上がった洸は、無惨に崩れた姿で晴南の元へ擦り寄った。咲夜はそんな二人を冷ややかに見下ろし、痛烈な嘲笑を投げかける。「……猫を被って、いつまでその腐った偽善者を演じるつもり?」その一言
「私に構わないで……!」洸はヒステリーになって慟哭を上げ続けていた。晴南は彼女を抱き寄せ、その背を優しく叩いて宥めている。一歩、また一歩と詰め寄る不穏な足音に、気づく由もなかった。あるいは、視界には入っていたのかもしれないが、今の彼には洸を慰めること以外、何も目に入らなかったのだ。咲夜は二人の前で足を止めた。この世の終わりと言わんばかりに泣き喚く洸を冷徹に見下ろす彼女の口角には、より深い蔑みの色が刻まれている。次の瞬間、洸を抱いていた晴南の肩に強引な力がかかった。咲夜は容赦のない力で晴南を掴み上げると、そのまま横へと放り投げたのだ。あまりに唐突な怪力に、洸は泣くことさえ忘れてしまった。涙に濡れた瞳を上げ、驚愕に顔を歪めて目の前の女を見上げる。理由はわからない。だが、咲夜の凍てつくような眼差しを浴びた瞬間、洸の胸には言いようのない不安が沸き起こった。生存本能が「今すぐここから逃げろ」と激しく警鐘を鳴らしている。洸は導かれるように、そのまま後ずさりして逃げ出そうとした。だが、咲夜がその目論見を見逃すはずもなかった。洸が背を向けようとした刹那、その長い指が伸び、彼女の髪を無慈悲にひっつかんだ。「……キャアッ!」頭皮を引き裂くような激痛が走る。息を呑む間もなく、洸は咲夜の眼下へと引きずり戻された。パニックに陥った洸の視線が、咲夜の氷のごとき瞳と衝突する。咲夜は掴んだ手にさらに力を込め、冷酷な声音で言い放った。「あんたには、もうずっと前から我慢してたのよ。今まで相手にしなかったのは、ただ面倒だったから。それをいいことに、自分の安っぽい手口が通用してるとでも思っていた?私が手を出せないとでも?」一言吐き捨てるたびに、咲夜の指先にこもる力が増していく。「何度も何度も挑発して、そのたびに罪をなすりつけて……あんた、自分が何様だと思っているのよ。私の前で、その薄汚い芝居を繰り返すのはやめなさい」洸は、頭皮がそのまま剥ぎ取られるのではないかという恐怖と激痛に苛まれた。今流している涙は、演技ではない本物の苦痛によるものだ。彼女は両手を振り回し、狂ったように咲夜に掴みかかろうとした。「離して!この野蛮な女、離しなさいよ!」洸の形相は怒りに狂い、今にも咲夜に食いついて殺しかねないほどの憎悪に満ちて
「……おえっ」洸のあまりに白々しい言葉を耳にした瞬間、瞳は深く腰を折り、わざとらしく吐く真似をしてみせた。「だめ、吐き気がする。世の中にこれほど反吐が出るような卑劣な女がいたなんて。二人の幸せのためなら自分を犠牲にする?笑わせないでよ。白羽さんだっけ?二人の関係をぶち壊した元凶はあんたでしょうが。どの面下げて被害者面して、善人ぶっているの?咲夜の幸せに、あんたの自己犠牲なんて一ミリも必要ないわ。どうしても犠牲になりたいなら、その体を使って晴南の『欲求』でも満足させてあげれば?」言葉を重ねるごとに、瞳の毒舌は鋭さを増していく。彼女は洸の内に秘められた薄汚い下心を、容赦なく白日の下に曝け出した。洸の瞳には、瞬時に涙が溜まった。「……そんな、ひどい。萩野さん、同じ女性なのに、どうして私の尊厳を傷つけるような出鱈目を言うの?私と晴南は清廉潔白よ。謝って……今すぐ謝ってちょうだい!」彼女の涙は、まるで自在に操れるかのようだった。震える声、今にも崩れ落ちそうなか弱き姿は、その場にいた男たちの庇護欲と憐憫を強烈に煽り立てた。周囲の男たちが、憤怒の形相で瞳を睨みつける。中には冷徹な表情のまま、威圧するように数歩にじり寄る者もいた。咲夜は、蠢き始めた男たちを牽制するように、再び瞳を背後に庇った。洸は泣きじゃくりながら、執拗に瞳への謝罪を求めている。晴南は氷のように冷ややかな眼差しを咲夜に向け、言い放った。「咲夜、瞳と一緒に洸に謝れ。今夜のお前たちは、あまりにも度が過ぎている」また「謝れ」か。洸が絡むたびに、晴南が自分に謝罪を強要した回数など、もはや数えきれない。咲夜は、心の底から『愚か者への嫌悪』が疼くのを感じた。晴南のこの救いようのない愚昧さが、今はただただ胃の腑が返るほどに不快であった。洸の使い古された手口に、彼は何度でも騙され、そして盲信するのだ。咲夜の胸に澱んだ怒りは、もはや出口を失っていた。晴南を見つめる瞳には、隠しようのない忍耐の限界が滲んでいる。二人は冷たい視線をぶつけ合い、空気は一気に張り詰めた。洸は視線の端で、咲夜に謝罪の意志がないことを察し、その瞳の奥に冷酷な光を走らせた。彼女の泣き声は、次第に制御を失ったかのように激しくなっていく。「晴南、もういいわ……咲夜さんを困らせないで。全部私が悪いの
そんな洸の腹の内など、咲夜にはすべてお見通しだった。同じ手口を何度も繰り返す彼女に、晴南は容易く乗せられても、自分だけは決して乗らない。晴南は眉間に深いしわを刻み、咲夜を値踏みするように見つめた。最近の咲夜という女が、ますます理解できなくなっている。自分の部屋を明け渡すと言えば、彼女は喜んで飛びつき、即座に同意する――そう思い込んでいたのだ。そもそも晴南が自室を譲ろうとしたのには、打算もあった。ここ最近、洸にかかりきりで咲夜を疎かにしていた自覚があり、同じ部屋、あるいは近い距離で過ごすことで、二人の関係を修復できるのではないかと目論んでいたのである。それにもかかわら
真奈美は、念を押すように咲夜へ言い聞かせた。これほどまでに晴南が花江家を助けてくれたのだ。たとえ咲夜の胸にどれほど大きな怒りが残っていようとも、もはや収めるべきだ――それが彼女の考えだった。真奈美の言葉を聞きながら、咲夜は唇を固く結んでいた。母とは、何を話してもまともに意思疎通が成り立たない。その事実が、胸の奥に重く沈む。咲夜は深い無力感を覚えていた。沈黙を貫く娘を見て、真奈美はさらに言葉を重ねる。「私の話、ちゃんと聞いているの?分かっているんでしょうね?」煮え切らない咲夜の態度に、自分の段取りを台無しにされるのではないかと、真奈美は気が気ではなかった。焦りに駆られた彼
晴南が去ったのとほぼ同時に、咲夜は足を止めた。ゆっくりと振り返り、彼が走り去っていった方向を、冷え切った目で見つめる。咲夜はスマートフォンを取り出し、画面のロックを解除した。そこには、つい先ほど投稿したばかりのSNSの更新画面が表示されている。【新居の下見!】添えられていたのは、運転席でハンドルを握る晴南の背中を写した写真だった。目的地に到着する直前、咲夜はさりげなく彼の後ろ姿を撮影し、「洸にだけ見える設定」でタイムラインへ投稿していたのだ。到着後、わざと時間を引き延ばしていたのも、洸がその投稿に気づき、嫉妬に駆られて晴南を呼び戻す電話をかけてくるのを待つためだった
それとも、ただ自分を煙に巻こうとしているだけなのか。咲夜は、晴南が送っていくと言い出すとは思ってもいなかった。わずかに眉をひそめ、思考を巡らせる。あのマンションにはすでに買い手がついており、これから不動産仲介所へ向かい、引き渡し契約を結ぶ予定だった。この土壇場で余計な揉め事は起こしたくない。何より、マンションを売却する決断を下したことを晴南に知られたくなかった。だが、今の晴南の様子を見る限り、このまま大人しく自分を行かせてくれるはずがないことは明らかだった。これまでは、自分の行き先など微塵も気にかけなかったくせに、どうして今になって執拗に付きまとってくるのか。その振る舞







