LOGINスタジオに足を踏み入れると、咲夜の助手である宝井晶子(たからい あきこ)がすぐさま後ろに付き従った。晶子は不安を隠しきれない表情で、咲夜に問いかける。「咲夜さん、森崎グループが突然資金を引き揚げるって言ってきたんですけど……一体どういうことなんですか?」どうやら影響を受けたのは花江グループだけではなかった。咲夜と晴南が共同で運営しているこのスタジオにまで、その余波が及んでいたのだ。咲夜も、この可能性をまったく想定していなかったわけではない。だが、現実として突きつけられると、やはり胸の奥が鈍く痛んだ。自分がこのスタジオにどれほどの心血を注いできたか、晴南は誰よりも近くで見てきたはずだった。それにもかかわらず、こうもあっさり資金撤退を告げてくる。たとえ自分から手放す覚悟を決めていたとしても、いざ現実となれば心が揺らぐのは避けられない。「森崎グループと締結した当時の契約書を用意して。あとで私から直接、向こうへ交渉に行くわ」咲夜は落ち着いた口調で晶子に指示を出した。契約締結時、ある条項を盛り込んでいたはずだった。スタジオ側の過失ではなく、森崎グループ側の都合によって一方的に撤退する場合、スタジオ側がゲームの全権利を買い戻す権利を有する――という内容だ。つまり森崎側がこのゲームから手を引くのであれば、スタジオは新たな提携先を探し、プロジェクトを存続させることが可能になる。晶子はスタジオ設立当初から、常に咲夜の傍らにいた。咲夜の仕事の進め方を熟知し、その思考速度にも即座に対応できる存在だった。だからこそ資金引き揚げの知らせを受けた直後、晶子はすでに契約書を取り出し、該当条項に正確に付箋を貼った状態で準備を整えていたのである。晶子から手渡された契約書に目を通し、咲夜はわずかに口角を上げた。「行きましょう。森崎グループへ」晶子はすぐに後へ続きながら、困ったように言い添えた。「実は、あちらには真っ先に連絡を入れたんですが……代表の秘書から『社長は不在で、当面の間は予約も受け付けていない』って言われまして」その対応を聞けば、咲夜が晴南に接触してくるのを意図的に避けていることは明白だった。咲夜は足を止め、その可能性に思い至る。スマートフォンを取り出して晴南へ発信したが、呼び出し音は鳴るものの応
雅紀の胸は、娘への不憫さでいっぱいに満たされていた。咲夜は静かに首を横に振った。「辛くなんてないわ。ただ……もうこれ以上は続けられないだけ。お父さん、晴南は私の運命の人じゃなかったの。勝手に決断してごめんなさい。私のわがままよね」これまで必死に押し殺してきた感情が、父を前にした瞬間、ついに堰を切った。咲夜の瞳は赤く潤み、今にも零れ落ちそうな涙を湛えていたが、それでも父の前で泣き崩れるまいと懸命に耐えていた。その健気な姿が、雅紀の胸をいっそう強く締めつけた。雅紀は震える手を伸ばし、咲夜の目尻に滲んだ涙をそっと拭った。「咲夜は……よく、頑張った。わがままなんかじゃ……ない。もう、いいんだ。無理に続けなくて……いいんだよ」そう言うと、雅紀は咲夜を静かに抱き寄せ、その背を優しくぽんぽんと叩いた。本当に謝らなければならないのは、父親である自分の方だった。自らの不徳がグループをここまでの窮地へ追い込み、何よりも大切に育ててきた娘を、会社のために森崎家の前で卑屈な立場へ立たせてしまったのだから。雅紀は咲夜を不憫でならず、それ以上に、かつての自分の過ちを深く悔いていた。咲夜は父の腕の中で、声を殺しながら静かに涙をこぼした。どんな決断を下そうとも、父だけは無条件で自分の味方でいてくれる。だからこそ彼女は、よほどのことがない限り、雅紀の前で弱さを見せたくはなかった。雅紀は、押し殺された咲夜のすすり泣きを聞きながら、やり場のない思いを胸に抱え、ただ黙って寄り添い続けた。やがて気持ちが落ち着くと、咲夜は父の腕からそっと身を離した。そして雅紀をまっすぐ見つめ、力強く言った。「お父さん、安心して。森崎家の助けがなくても、私は絶対に花江グループを潰させたりしない。持てる力のすべてを尽くして、必ず支えてみせるから」現状がどれほど持ち堪えられるのか、咲夜自身にも確信はなかった。それでも、このまま敗れるつもりなど微塵もなかった。雅紀は咲夜の肩を軽く叩いた。「そんなに……自分を、追い詰めなくて……いいんだ。お父さんは、咲夜を信じているよ」そう言って、穏やかな微笑みを向ける。「お父さんは……味方だ。咲夜は、とても……優秀な子だ。お前なら……きっと、できる」雅紀は心から咲夜を信頼していた。たとえグループを
グループの件とは別に、咲夜と晴南は共同で所有するゲームスタジオも抱えていた。現時点では、まだそのスタジオにまで直接的な影響は及んでいない。助手からの報告を受けながら、咲夜は深く思索に沈んだ。事態がここまで悪化した以上、スタジオの解体ももはや時間の問題だろう。その前に、打てる手はすべて講じておかなければならない。このまま事業を継続するのか、それとも手放すべきか――咲夜は重大な決断を迫られていた。だが、彼女の胸の内では、すでに一つの答えが静かに定まっていた。咲夜は気持ちを切り替えると車を走らせ、療養所へと向かった。父・雅紀は脳卒中によって半身不随となって以来、この療養所で静養を続けている。到着したとき、雅紀は介護士に車椅子を押され、外気浴に出ているところだった。咲夜はそのまま部屋で静かに待つことにした。十数分後、介護士に付き添われて雅紀が戻ってきた。咲夜の姿に気づいた介護士は、親しげな笑みを浮かべて声をかける。「咲夜さん、いらっしゃい。ちょうどお庭で日光浴をしてきたところなんですよ。雅紀さんも今日はご機嫌がよさそうです」雅紀は当時、激しい怒りと衝撃が重なった末に脳卒中で倒れた。不全麻痺にとどまったのは不幸中の幸いだった。当初は寝たきりで、言葉も判別しづらい状態だった。しかし、雅紀自身が懸命にリハビリへ取り組み続けた結果、今では杖を使えばわずかながら歩行が可能となり、発語もゆっくりではあるものの、以前よりははっきりと聞き取れるまでに回復していた。咲夜は介護士を手伝い、雅紀がベッドに横になるのを支えた。「皆さんに果物を買ってきました。よろしければ、皆さんで召し上がってください」微笑みながらそう告げると、介護士は恐縮した様子で頭を下げた。「咲夜さん、いつもお気遣いいただいてありがとうございます。それでは、私はこれで失礼しますね。何かありましたらナースコールでお呼びください」咲夜が訪れるたびに差し入れを持参するため、介護士も今では遠慮なく受け取るようになっていた。介護士は静かにドアを閉め、部屋を後にした。咲夜はベッドサイドに腰を下ろすと、血行を促すため、雅紀の両足を丁寧にマッサージし始めた。沈黙のなか、咲夜の思考は巡っていた。晴南との決別を、どう父へ切り出すべきか。これほど大
寝室へ戻った途端、咲夜のスマートフォンには真奈美からのメッセージが怒涛のように押し寄せていた。【咲夜、どうしてもそんなに意地を張るつもり?本当に花江家のことなんてどうでもいいの?お父さんやご先祖様が代々築き上げてきたものを、このまま潰して平気だっていうの?】【私やお父さんが死んだあと、ご先祖様にどう顔向けすればいいのよ】【分かってるわ、あなたが辛い思いをしてきたことは。でも、あの白羽さんは晴南さんにとって忘れられない人なのよ。あなたが少し我慢すれば済む話じゃない】【男なんて外で遊ぶものよ。心を繋ぎ止められないなら、せめてお金だけでもしっかり握っておけばいいの】【咲夜、お願いだからお母さんの言うことを聞いて。今もお父さんは病院にいるのよ。もしグループが本当に倒産したら、お父さんにも一族にも合わせる顔がないわ】画面を埋め尽くすメッセージの列を、咲夜は無表情のまま見つめていた。母の言葉の端々に滲む無力感や、縋るような祈りの気配は理解できる。だが、その悲痛な懇願の一つひとつが、鋭利な刃となって咲夜の胸を深く抉った。しばらく感情を押し殺したまま画面を見つめていた咲夜は、やがて静かにスマートフォンをロックする。今は真奈美とこの話題を論じ合う気分には、到底なれなかった。実際、花江家の事業は数多くの分野で森崎家と深く結びついており、一朝一夕で切り離せるような単純な問題ではない。今の彼女にできるのは、両社の業務提携を一刻も早く正確に切り分け、整理することだけだった。そう考え、助手へ電話をかけようとしたその時、スマートフォンが震えた。表示されたのは見覚えのある番号。荻野千暁からの着信だった。番号を登録していたわけではない。それでも、これまで数度連絡を受けるうちに、咲夜は自然と彼の番号を覚えてしまっていた。通話に出ると、受話口の向こうから低く落ち着いた声が響く。「咲夜」なぜか彼に名前を呼ばれるたび、甘く囁かれているような錯覚に陥る。咲夜はすぐに意識を引き戻し、静かに応じた。「はい」このタイミングで千暁が電話をかけてきた理由に心当たりはなかった。だが、用もなく連絡してくるような男ではない。咲夜は黙って、彼が本題を切り出すのを待った。期待を裏切ることなく、千暁は言った。「助けが必要なら、俺を頼
咲夜が病院を後にして間もなく、真奈美から電話がかかってきた。鳴り続けるスマートフォンを、咲夜は手に取ろうともせず放置したまま、自動的に通話が切れるのを待つ。だが、着信は執拗に繰り返された。出ない限り、母が決して諦めないことなど分かりきっている。結局、咲夜は小さく息をつき、妥協するように通話ボタンを押した。「咲夜、森崎家が資金を引き揚げるって!両家の提携も全部白紙よ。これで満足なの?」電話の向こうから、激情に駆られた真奈美の罵声が飛んできた。これまでどれほど理不尽を押しつけられても耐え続けてきた咲夜が、なぜ今になって意地を張るのか、真奈美には理解できなかったのだ。その言葉を聞きながら、咲夜はスマートフォンを握る手に静かに力を込める。理性を失った母親から浴びせられる罵詈雑言など、咲夜にとってはもはや日常の一部に過ぎない。しばらく黙って聞き続けたのち、彼女はようやく口を開いた。「……引き揚げるなら、そうさせればいいわ。会社のことは、自分でなんとかするから」「簡単に言ってくれるわね!咲夜、森崎家が本当に手を引いたら、花江グループの数万人の社員がどうなると思っているの?彼らの生活なんてどうでもいいっていうの?」真奈美の怒鳴り声が、咲夜の言葉を容赦なく遮る。その言葉に、咲夜は沈黙した。反論することもなく、ただ静かに母の非難を受け流す。ここで真奈美に感情を吐き出させておかなければ、今後数日は平穏が訪れないことを、咲夜はよく理解していた。だからこそ、気が済むまで発散させるに任せたのだ。やがて真奈美は罵倒する気力も尽きたのか、電話越しに悲しげな啜り泣きを漏らし始めた。咲夜は小さく溜息をつく。「お金のことは私がなんとかするから。お母さん、とりあえず切るわね」通話を終えると、咲夜はすぐにグループの現状確認に取りかかった。森崎家が実際に資金を引き揚げ、提携プロジェクトの清算手続きに入っていることを知った瞬間、彼女は悟る。晴南は、こうして自分を追い詰め、屈服させようとしているのだ。かつて心から愛した男が、ついに自分へ刃を向けてきた。咲夜の胸は、生きたまま抉られるような痛みに襲われた。やがてその刺すような痛みがわずかに引くと、彼女は不動産会社へ電話をかけ、マンションの売却状況を確認した。
晴南も、外の騒がしさにはすでに気づいていた。つい先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みは、咲夜の姿を認めた瞬間に凍りつき、その冷ややかな瞳には露骨な不快感と詰問の色が宿る。咲夜はその視線を真正面から受け止めながら、感情を削ぎ落とした無表情のまま、真奈美の背後に静かに立っていた。「晴南さん、うちの咲夜が分からず屋で本当にごめんなさい。ちゃんとお詫びさせようと思って、連れてきたの」真奈美は卑屈な笑みを顔に貼りつけ、機嫌を窺うような声音で言った。そう言いながら、咲夜の背中を突き飛ばすようにして、彼女を晴南の目の前へ押し出す。晴南はただ冷ややかにその様子を眺めるだけで、自分から口を開こうとはしなかった。咲夜が自ら謝り出すのを待っているのだ。これまで何度も衝突を繰り返してきたが、そのたびに身を低くし、折れるように歩み寄ってきたのは、いつも咲夜の方だった。今回も例外ではない――そう信じて疑っていない。そう考えるうちに、苛立ちに満ちていた晴南の気分も、わずかに和らいでいった。咲夜が黙り込んだままでいるのを見て、真奈美は焦ったように彼女の腕を小突く。「咲夜、早く謝りなさい!」必死に目配せを送る真奈美をよそに、咲夜はわずかに口角を引き上げた。「……何について謝れっていうの?晴南、何度も約束を破ったのはあなたであって、私じゃないでしょう。そんなに白羽さんのことを放っておけないなら、いっそ二人を応援してあげるわ」不快げに顔を歪める晴南を真正面から見据えたまま、咲夜は言葉を続けた。「二股なんてして、疲れないの?見ているこっちは、もう心底うんざりしてるの。もういいじゃない。白羽さんを忘れられないなら、正直にそう言えばいい。私はしつこい女じゃないわ。間違ったことをしていない以上、謝るつもりもない。別れるというのは、私が考え抜いた末に出した答えよ」晴南の怒りが徐々に沸点へ達していくのが分かった。それでも咲夜は、もう気に留めようとしなかった。「あなたたちがどれだけドロドロした悲恋ごっこを続けようと勝手だけど、私はもう御免よ。二人の茶番に付き合わされるなんて、まっぴらだわ。ただ不愉快なの。吐き気がするほどにね」咲夜が容赦なく二人の本心を突きつけた瞬間、晴南はついに激昂した。「咲夜!俺と洸は清廉な関係だ。お前が考え