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5.名を呼ばれたら、息が詰まった

مؤلف: 中岡 始
last update تاريخ النشر: 2025-08-21 11:19:12

廊下に灯された蝋燭の光が、壁に揺れる影を描いていた。

夜会もすでに終盤を迎え、人の気配はまばらだった。賓客たちは次々と馬車に乗り込み、中原家の使用人が忙しなく足音を響かせている。

屋敷の裏手へと伸びる廊下は、普段は使用人が行き来するだけの場所だ。細く長く、窓は小さく、光の届かぬ角には闇が澱む。

その廊下の中ほどで、薫は足を止めた。

遠くから、足音がひとつ。革靴の音だ。ゆっくりと、だが確かに近づいてくる。

振り返ると、礼司がいた。

漆黒の燕尾服、白手袋を外した手には、丸められたハンカチを握っていた。

「……薫」

その名を呼ばれた瞬間、空気が止まった。

薫の胸がかすかに跳ねたが、表には出さず、ただ静かに会釈を返した。

「遅い時間に申し訳ない」

「いいえ、礼司さんこそ」

声は低く穏やかだった。けれど、礼司の喉がかすかに鳴ったのを、薫は見逃さなかった。

「さきほどは、あまり話せなかったから」

「……お忙しいお立場ですから」

「いや、それは関係ない。……ただ、君と話すときは、どうにも、言葉を選んでしまう」

「僕のせいですか?」

冗談のように笑った薫の声に、礼司は目を細めた。

蝋燭の明かりに照らされたその顔は、どこか濡れたように美しかった。陰影の中で浮かび上がる輪郭、細い鼻梁、結われた黒髪の艶。

ふと、礼司の鼻先を、微かに香がかすめた。

薫が動いたのだ。すれ違うように半歩、近づいたその瞬間、彼の髪の奥から香りが立ちのぼった。

どこか懐かしく、しかし甘すぎない香り。異国の街角のような、夜の静けさの中に溶けるような香。

礼司の呼吸が、止まった。

「……薫」

二度目の名を呼ぶ声は、ほんのわずかに掠れていた。

薫は何も答えなかった。ただ、視線だけを向けてきた。

その瞳の中には、なにも問いかけてこない、なにも押しつけてこない、けれど…全てを知っている者の静けさがあった。

礼司は目を逸らした。

今、確かに、自分の体が応えていた。

目の奥が熱を持ち、心臓が強く打った。

目の前にいるのは、かつての弟ではない。

男の姿をした、欲望の引き金だった。

「……君は、あまりにも変わったな」

言葉を絞り出すように言うと、薫は肩をすくめて笑った。

「変わってしまったのか、それとも、もとからこうだったのか……」

「どちらが怖いですか?」

その問いに、礼司は答えられなかった。

ふたりの間には、ほんの数歩の距離しかない。けれどその距離が、どこまでも深く、底のない谷のように感じられた。

「薫…」

「はい」

「なぜ、何も言わない」

「言葉にしないほうが、伝わることもあります」

礼司は思わず、手に持ったハンカチを強く握りしめた。

「君は…僕を試しているのか」

「試してなどいません」

「では、これは何だ」

薫の目が、わずかに動いた。蝋燭の炎がその瞳の奥にゆらめいた。

「礼司さんが、僕の名を呼んだとき……」

「……」

「息が詰まりました」

それが、どちらの胸に走った痛みだったのか。

礼司には、わからなかった。

けれど、その言葉の余韻が胸に残り、熱を伴って沈んでいくのを感じた。

「礼司さん」

もう一度、名を呼ばれた。今度は低く、囁くように。

その音だけで、背筋がわずかに震えた。

何かが、始まりつつあった。

それは、まだ言葉にはならない。

けれど、もう後戻りはできないことだけは、礼司にもわかっていた。

その夜、月は雲に隠れていた。

誰にも見られずに、ふたりはそこに立っていた。

言葉の少なさが、どれほど雄弁にすべてを語るか。

それを、ふたりは確かに知っていた。

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  • 光を描くひと、家を継ぐひと~明治を生きたふたりの物語   33.沈黙を連れて帰る

    玄関を開けたとき、夕焼けに染まった空気がほんの少しだけ礼司の肩に残っていた。まだ完全に夜になりきらぬその薄闇のなかで、美鈴は音もなく立ち上がり、襖の向こうに立つ夫の気配を迎えた。礼司の外套の裾がわずかに揺れ、靴の音が板の間に沈む。ごく自然な帰宅の仕草だったが、美鈴の目にはそのすべてが異質に映った。「おかえりなさいませ」そう告げた美鈴の声に、礼司はわずかに顔を向ける。「ただいま」その返事はいつもよりも穏やかで、妙に柔らかかった。それなのに──美鈴の胸の奥では、氷のような予感が音もなくひび割れを起

  • 光を描くひと、家を継ぐひと~明治を生きたふたりの物語   27.約束の指先

    午後の日差しがやわらかく庭を照らし、アトリエに近い廊下までも淡い光が届いていた。中原邸の奥に続く廊下は静まり返っていて、礼司はその静寂の中を歩いていた。石の床に落ちる自分の足音が、揺れる光の影と混じり合いながら、重なるように、奥へ奥へと誘われた。扉の前に立ち、礼司は一度息を吐く。心臓が穏やかに高鳴っているのを感じて、その余韻が痛いほどに熱かった。アトリエの前にて、薫と最後に交わした問いかけが胸に染みていた。描くことを了承することは、ただの承認ではない。透明なコミットメントが、そっと心に火を灯していた。扉を開けると、薫がそこに立っていた。窓からの光に包まれて

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