窓の向こうに広がる庭が、夕刻の雨にしっとりと濡れていた。枝葉に残る雫が風にゆれ、滴が静かに石畳を打つ。晩夏の空気には微かに湿った土と落ち葉の匂いが混じり、和洋折衷の木造館に沁みこんでいた。薫は白磁のカップを手にしたまま、書きかけの手紙を睨むように見つめていた。インクの香りがまだ鼻をくすぐる。文面は途中で止まっている。もう書けることなどなかった。これ以上続ければ、言葉ではなく感情があふれてしまいそうだった。彼はゆっくりと立ち上がり、室内の桐箪笥の前で足を止めた。鏡の中に映る自分は、パリを出たあの日と何も変わっていないように見えた。けれど、確実に違っている。肌の下に沈んだ時間。手の奥に残った熱。描き切れなかった輪郭。桐箪笥の引き出しを開ける。黒地に銀の刺繍が施された羽織を指でなぞったあと、となりに畳まれている洋装にも目をやる。今夜の夜会。どちらを纏うべきか、心はまだ決めかねていた。「和装で行けば、父は満足するだろう。でも…」薫は手を止めた。そのときふいに、扉の外から控えめなノックが響いた。「薫様、お支度のお手伝いに参りました」静かに開かれた扉の隙間から、若い女中が顔をのぞかせた。「ありがとう。…少し、時間をくれますか」「はい。お呼びつけくださいませ」扉が静かに閉まると、室内は再びしんとした空気に包まれた。薫は窓辺に歩み寄り、濡れた庭を見下ろした。軽井沢の夏は、東京よりいくらか涼しく、夕立のあとは特に空気が澄んでいる。石灯籠の上に溜まった雨がぽたりと落ちた。その瞬間、ふとある面影が蘇った。あの人も、あの石灯籠のそばで立っていた。少年だった頃、まだ声変わりもしていなかった自分の手を、あの人は軽く握って笑っていた。「雨が降る前って、風の匂いが違うだろう。…ほら、こうやって吸ってみな」ひとまわり以上大きな手のひらと、低く響く声。兄のようでいて、父よりも柔らかく、けれど背筋を伸ばさせられる何かがあった。その声が、明確に自分の記憶に残っている。身体の奥に染
Terakhir Diperbarui : 2025-08-21 Baca selengkapnya