LOGIN梨乃はすっと立ち上がり、一言だけ残す。「トイレ行ってくる」そう言い残し、一人で歩き出す。泰樹は眉をひそめ、後を追おうとするが、亜実に腕を引かれる。「ほら、飲んで飲んで」「ゲームしようよ。じゃんけんでもサイコロでもいいから、負けた人が飲むの」泰樹の視線は梨乃の背中を追っている。彼女が人混みを縫うように進み、やがてその姿が見えなくなってから、ようやく視線を戻す。「ただ飲むだけじゃつまらないだろ。もっと面白いことしようぜ。負けた奴は相手の質問に答える。嘘はなしだ」「いいわよ」満場一致で決まり、ゲームが始まる。泰樹は手っ取り早い方法を選ぶ。じゃんけんだ。一回戦、麗奈が負ける。泰樹が尋ねる。「小林さん、失恋でもしたの?」麗奈は目を細めて彼を観察する。「やけに気にするじゃない。なに、あの子のことが好きなの?」泰樹は口角をわずかに上げる。笑うと、その瞳には人を惹きつける不思議な魅力があった。「ただの好奇心だよ」麗奈は答える。「失恋はしてないわ。機嫌が悪いのは本当だけど。どうやら、好きな人が婚約するらしいのよね」とにかく、梨乃が電話で飲みに誘ってきた時はそう言っていた。彼女自身は、本当は飲みたくなかった。明日の午後には雑誌の撮影が控えているからだ。だが友人として、梨乃の恋が実らずに終わってしまった以上、多少は付き合ってやるべきだろう。泰樹は納得したように眉を上げ、面白そうに目を輝かせた。梨乃は個室を出て洗面台で手を洗い、ペーパータオルで水気を拭き取りながら、鏡に映るほんのりと赤らんだ自分の顔を見つめる。丸めた紙をゴミ箱に放り込み、深く息を吸い込んでからトイレを後にする。角を曲がったところで突然人影が現れ、梨乃は避けきれずにぶつかってしまう。慌てて相手に謝罪する。「すみません、わざとじゃ……」謝りながら顔を上げ、相手の顔をはっきりと見た瞬間、彼女は息を呑む。どうして章がこんなところに?章の顔立ちは整っていて、どこか冷淡だ。いつもかけている銀縁の眼鏡が、彼の知的で上品な雰囲気を一層引き立てている。梨乃は一目見ただけで、胸の奥が大きく揺さぶられるのを感じた。彼のような人間が、好んでバーに来るとは思わなかった。きっと婚約を控えていて、わざわざお祝いに飲みに来た
梨乃はモデル仲間の細内亜実(ほそうち あみ)、白石麗奈(しらいし れいな)と一緒に飲みに来ていた。ステージの真正面にあるボックス席に陣取る。女三人組。普段からよくつるむ、気の置けない仲だ。小原美奈が業界から干されて以来、この二人の仕事量も急増し、いくつもの広告契約を抱えるようになっていた。「梨乃、ちょっと見て。あそこの彼、かなりイケてるじゃない」「スタイルも抜群だし、うちらの周りにいるメンズモデルにも引けを取らないわね。でも残念。こういう場所で知り合う男なんて、基本は目の保養にするだけで、本気で遊ぶ相手じゃないし」友人たちはダンスフロアで踊るスタイルの良い男たちを眺めながら、次々と品定めをしていく。その眼差しはまるで高性能なスキャナーのように鋭く、一瞥しただけで「あり」か「なし」かを見抜いてしまう。梨乃も二人の視線を追ってみる。どこか見覚えがあるような気がして、目を細め、もう一度じっくりと観察する。間違いない、見覚えがある。この前、危うくしつこく付きまとわれそうになった男だ。確かにルックスもスタイルも申し分ない。「まあ、悪くないんじゃない」梨乃は興味なさそうに呟くと、テーブルに置かれたカクテルグラスを手に取り、一口あおる。視線に気づいたのか、見つめられていた男がこちらへ顔を向ける。「ねえ、こっちに来るわよ」「もしかして私にナンパ?あんなイケメン、いっちゃうべきかな?」隣に座る麗奈に肘で小突かれ、梨乃は手にしたグラスの酒を危うくこぼしそうになる。慌ててグラスをテーブルに置き、顔を上げる。長身で足が長く、洗練されたファッションに身を包んだイケメンが、すでに彼女たちの目の前に立っている。彼はすっと右手を差し出し、妖しげな笑みを浮かべる。「こんばんは。木付泰樹です」男は自ら気さくに名乗る。間近で見ると、その整った顔立ちはさらに際立って見える。麗奈は満面の笑みを浮かべて立ち上がり、彼の手を握り返す。「白石麗奈よ」「細内亜実です」二人は次々と自己紹介を済ませ、泰樹に対してやけに愛想良く振る舞う。結局のところ、世の中顔が全てだ。もしこれが平凡なルックスの男なら、この二人は見向きもしなかったに違いない。泰樹は梨乃に視線を移すと、からかうように口を開く。「どうしたの?こ
「安心して。あの数ヶ月は暇だったから、ちょっとからかって遊んでただけ。仕事が始まったら、男の相手をしてる暇なんてないわ」電話の向こうから聞こえる笑い声に、絵里は笑う気になれず、むしろ少し心配になる。長年の付き合いだ。絵里は彼女のことを知り尽くしている。梨乃がこれほど多くを語るのは、感情を隠すためだ。もちろん、自分からそれを指摘するわけにはいかない。「やっぱり梨乃はサバサバしてるね。男が稼ぐことより重要になるわけないもんね。でも、仕事は仕事として、体には気をつけてよ。梨乃、どんな時でも、あなたには私がいるってことだけは忘れないで」絵里の言葉には嘘偽りがなく、すべて心からのものだった。梨乃は鼻の奥がツンとするのを感じ、顔を上げて涙をこらえると、泣き笑いのような声を漏らす。「うわ、今のすごくキザ。でも、そういうキザなところ、好きよ。絵里、私も同じ。あなたには私がいるってこと、忘れないでね」絵里は彼女を不憫に思う。この数年間、彼女はあまりにも辛い思いをしてきた。今すぐ梨乃を強く抱きしめてあげたかった。だが、彼女の性格をよく分かっている。意地っ張りで、自分の弱い部分を他人に見られるのを何よりも嫌うのだ。電話を切った後、梨乃はスマホを手に取り、章のLINEを開く。最後のやり取りは、一週間前。章から、忘れずに再検査に行くようにというメッセージが届いていた。以前と同じように、二、三言交わしただけで会話は終わっている。梨乃は何を言えばいいのか分からず、トーク画面を閉じてSNSのタイムラインをスクロールする。少しスクロールすると、花音が一時間前に投稿した記事が目に留まる。【人生、すべてが完璧じゃなくてもいい。価値観を分かち合える人と出会えたなら、それだけで幸せ。私の人生に現れてくれて、本当にありがとう】添えられた画像は、二つのグラスに注がれた赤ワインの写真だった。背景から察するに、自宅で撮られたものだろう。梨乃はSNSを閉じると、無性にイライラしてきて、いっそ友達を誘ってバーへ飲みに行くことにする。同じ頃、裕也と章、そして隆は二階のフロアにいた。今回は篠も同席している。彼らはグラスを傾けながら談笑していた。「裕也と絵里のことは一旦置いといて、章、お前本当に婚約するのか?」隆は信じ
和也は激しく動揺する。裕也の言葉に込められた容赦のなさ、そして明確な殺気すら感じ取っていた。実の兄が、自分を殺そうとしているのか?殴られた顔は痛みと痺れが残り、頭の中までぼんやりとしている。もともとここへ来たのは、父の療養について裕也と話し合うためだった。それが、秘書から絵里がいると聞き、南からの脅迫が頭をよぎったせいか、気が動転して衝動的に彼女を抱きしめてしまったのだ。絵里はまだ、自分に未練があるはずだと思い込んでいた。あの時、本当に彼女を救ったのが誰なのかを知られさえしなければ。そして、二人が離婚さえしてくれれば……そうすれば、過去のことは水に流して、また彼女とやり直してやってもいい。だが現実は、絵里に平手打ちされたばかりか、裕也にまで容赦なく打ちのめされた。自分はなんて滑稽なピエロなのだろうか。「……いいだろう、覚えておけよ」和也は床から這い上がり、憎々しげに二人を睨みつけると、踵を返して部屋を出て行く。彼が去ると、健が清掃員を呼び、片付けを指示する。裕也は振り返って絵里と向き合う。「手、痛まないか?」絵里は首を横に振る。だが、どこか訝しげな視線を裕也に向ける。先ほどの彼の言葉には、何か別の意味が隠されているような気がしてならなかった。裕也はその視線に気づかないふりをして彼女の手を取り、ソファへと引いていって座らせる。清掃員が片付けを終え、健と共に退室する。扉が閉まるのを見届けると、裕也は真剣な眼差しに変わる。「話があると言っていたな。どうした?」絵里はスマホを手に取り、画面を数回タップして、高木警部から提供された通話録音を再生する。静かな執務室に、南と和也の会話が響き渡る。数分間の音声には、ボイスレコーダーを和也に渡した件だけでなく、美月の死についても言及されていた。何より重要なのは、南が和也を脅迫しているという事実だ。「南は金のために、美月の死をネタにして和也を脅しただけでなく、本物のボイスレコーダーを彼に渡したわ。でも、南は録音の内容を知っている」絵里の表情は険しい。「和也のことだから、身の安全を守るために南の口封じをするんじゃないかって……」裕也は頷く。確かに、今の和也ならやりかねない。以前の彼ならいざ知らず。藤原家でこれほど多くの問
絵里はさっき抱きしめられたことを思い出し、まだ腹の虫が収まらず、和也に向かって蹴りを放つ。和也は無意識に避けようとするが、その蹴りは見事に股間に命中する。痛みに耐えかねた和也は股間を押さえてうずくまり、顔を歪ませる。「そうよ、気が狂ったわ。私に潰されるのがどんな気分か、試してみる?」絵里の瞳は冷酷な怒りに満ち、極度の嫌悪感すら滲んでいる。和也は痛みのあまり声も出せず、体を丸め、股間を押さえたまま動けない。その時、オフィスのドアが開き、裕也が足早に入ってくる。その後ろには、緊張した面持ちの健が続いている。目の前の光景を見て、健は目を丸くする。奥様、すごいな!和也様の……あそこを蹴ったのか?自業自得だな!「裕也」絵里は裕也の姿を認め、小さく呼ぶ。彼が大股で自分の前までやって来るのを見つめる。その漆黒の瞳には、優しさだけでなく、深い気遣いが溢れている。「大丈夫か?」先ほどエレベーターを降りた瞬間、秘書が真っ先に駆け寄ってきて、絵里が待っていること、そして和也も一緒にいることを告げたのだ。彼は何か起きていないかと心配していた。中に入り、和也が苦しんでいる様子を見て、ようやく安堵の息をつく。明らかに、何かあったのは和也の方だ。「私は平気よ。何かあるとしたら、彼の方ね」絵里は嫌悪感を露わにして和也を睨みつける。その眼差しには、隠しきれない軽蔑がこもっている。裕也は彼女が和也を愛していないことをとうに知っていたが、その視線を見て、心の中で密かに溜飲を下げる。「手も怪我してないか?殴るなら殴るでいいが、手は使うな」裕也は愛おしそうに言う。絵里は少し考え、自分でもうまく立ち回れなかったと思い、不機嫌そうに眉をひそめる。「あなたの言う通りね。さっき彼に抱きつかれた時、一瞬で気持ち悪くなって、何も考えられなかったの」抱きつかれたと聞き、裕也の瞳が暗く沈む。そして、絵里がまだ手に持っていた空のカップを取り上げ、振り返ると、冷ややかな視線で和也を睨みつける。「兄の妻を抱きしめようとしただと?和也、まだ懲りないのか?」和也は少し痛みが引いてきたものの、まだ迂闊には動けない。顔を上げ、裕也の鋭い視線とぶつかると、思わず後ろめたさを覚える。だが、自分は彼の弟だ。いくら何でも、裕也が本気で
絵里は南の身に危険が及ぶことを恐れていた。今の彼女にとって、南は唯一の希望なのだ。その頃、裕也は数名の取締役たちと対峙している。取締役たちの背後には、殺気を漂わせた男たちが立ち並んでいる。すべて裕也の手の者だ。今や、取締役たちは恐怖でガタガタと震え上がっている。背後の男たちなど、まだ可愛いものだ。何より恐ろしいのは、裕也自身から放たれる陰惨な覇気だった。一歩間違えれば、いつ命を奪われてもおかしくない。そんな錯覚すら抱かせる。ここ数年、裕也がグループを統括してきたその冷酷無比な手腕を、彼らも骨の髄まで思い知っている。だからこそ、洋二と雪枝の口車に何度も乗せられ、裕也を本社から追い出そうと企てたのだ。前回、裕也から警告を受けた際には、見せしめとして他の株主二人が容赦なく排除された。だが今回、洋二は「必ず裕也を蹴落とせる」と自信満々に豪語した。その話に乗った直後、彼らはこの場所に呼び出されたのである。てっきり条件交渉の場だと思っていたが、蓋を開けてみれば、単なる脅迫だった。裕也は氷のように冷たい空気を纏っていたが、電話の向こうの相手に語りかける声だけは、ひどく優しかった。「ああ、俺のオフィスで待っていてくれ」「わかったわ」絵里の返事を聞き届けると、裕也は通話を切り、手元のスマホを弄ぶ。その鋭い視線が冷ややかに彼らを射抜く。低く沈んだ声は鋭利な刃となって、彼らの首筋に突きつけられた。「サインすれば、老後を悠々自適に暮らせるだけの金が手に入る。だが、もし拒むなら、あの世で家族水入らずの再会を果たしてもらう」凄みのあるその一言に、取締役たちの震えはさらに激しくなる。その中の一人が不満を爆発させ、怒りに任せて反抗する。「今は法治国家だぞ!お前の好き勝手にはさせん。俺たちに手を出してみろ、ただじゃ……」裕也はとうに忍耐の限界を迎えている。顎で軽くしゃくる。次の瞬間、その取締役の背後にいた部下が、問答無用で彼の太ももにナイフを突き立てた。大動脈を的確に避けた一撃とはいえ、瞬く間に大量の血が噴き出す。「ぎゃああっ!」取締役は激痛に耐えかねて床に転げ回り、その絶叫が個室内に響き渡る。他の者たちは顔面を蒼白にして震え上がった。裕也はゆっくりと立ち上がり、男の前に歩み寄る。「まだ試すか







