INICIAR SESIÓN眠りに落ちた後も、絵里は寝言を呟いていた。「裕也、本当にずっとそばにいるから。怖がらないで……」普段の冷徹さは消えて、愛らしく温もりを感じさせる彼女の姿が、傷ついた裕也の心をじんわりと温めていく。心の傷を、少しずつ癒すように。俺にはまだ、絵里がいる。それだけが救いだった。ナイトテーブルに置かれたスマホが震える。健からの着信だ。裕也は腰に回された絵里の腕をそっと外し、ベッドを抜け出すと、足音を忍ばせて部屋を出て電話に出る。「社長、洋二様の方に動きがありました。お考えの通り、いつ行動を起こしてもおかしくない状況です」「雪枝が再び警察に捕まったからな。焦っているのだろう。まあいい、そろそろ決着をつけるべきこともある」「計画通りに進めますか?」健が指示を仰ぐ。裕也はためらうことなく、短く答える。「ああ。彼には、とびきりの驚きを用意してやろう」リビングの照明は消えたままだ。裕也は掃き出し窓の前に立ち、向かいの高層ビルから漏れる光が、彼の顔に深い影を落としている。その横顔は冷酷そのもので、瞳には、微塵の温もりも宿っていない。絵里は廊下の壁の陰に立ち、裕也の電話のやり取りをはっきりと聞いていた。裸足のまましばらく立ち尽くした後、再び寝室へと戻り、ベッドに潜り込む。裕也がどんな計画を立てているのかは分からない。だが、直感的に嫌な予感がしていた。翌朝、裕也は早くに目を覚まし、いつもと変わらぬ気品を漂わせてダークスーツに身を包んでいた。その姿を見て、絵里はわずかに眉を寄せる。「怪我をしてるのに、会社に行くの?」「ここ数日、少し処理しなければならないことがあってね。心配しなくていい、ただの軽い怪我だ。問題ないよ」「でもお医者様は、しっかり休んで、傷のケアにも気をつけるようにって……」「会社では重要な案件だけを処理する。ちゃんと休むと約束するから、いいだろう?」裕也の口調は優しかったが、その態度は断固としており、どうしても会社に行かなければならないようだった。絵里には、彼に何かやるべきことがあるのだと察しがついていた。特に昨夜のあの電話が、すべてを物語っている。それ以上は何も聞かず、折れることにした。「絶対に約束を守ってよね。じゃないと、何日も家で大人しくしてもらうから」「分かった」
絵里は裕也の手が怪我をしているのを見て、だからこそ大胆な真似ができたのだ。ところが裕也の眸は熱を帯び、片手で彼女の後頭部を引き寄せると、俯いてその唇にキスを落とした。激しく求められ、息さえ奪われそうになる。絵里がとても耐えきれず、身体をくたりと彼の胸に預けたころになって、ようやく名残惜しげに唇を離した。裕也は息を荒げ、その瞳は濃く、何かを堪えるように揺れている。「続けるか?」先ほどの彼は荒々しいとしか言いようがなく、絵里の唇は紅く熱を帯びている。彼女はとても悪戯を続ける気にはなれず、すりこぎのように首を振り、恨めしげに言う。「もう、わざとでしょ。お湯が冷めちゃうから、早く入って、終わったらちゃんと寝て」裕也は彼女の気まずそうな顔を見て、すっかり上機嫌になった。午後のような胸を刺す痛みはもうない。「はいはい、もうからかわない」小さく笑った。絵里も今日は疲れていると分かっていたので、素直に浴槽へ入り、怪我をした左手を少し持ち上げて、水に触れないようにした。絵里は深く息を吐き、すぐに落ち着きを取り戻した。目の下の赤みもだいぶ薄れていく。それから浴槽のそばにしゃがみ、ボディタオルで彼の身体をそっと拭き始めた。身体を拭きながら世間話をして、午後の出来事を話し始める。「俺が自分の手で彼女を刑務所に送った。彼女は俺を盾にした。これで、彼女に借りていた親子の情も返したことになる」裕也の声は淡々としていて、まるでこの件に何の影響も受けていないかのようだった。それでも絵里の胸はぎゅっと締め付けられた。実の母親が、まさか自分の息子にこんなことをするなんて……世の中に、どうしてこんなに意地の悪い母親がいるんだろう。けれど彼女はそれを口に出せなかった。裕也を傷つけたくなかったから。身体を拭く手を止めず、その動きは柔らかく、眼差しもいっそう優しくなっていく。「彼女が今のざまになったのは自業自得よ。今日あんなふうにあなたに接して、親子の情も顧みなかったんだから、あなたも悲しむ必要なんてない。間違った情は、すぐに断ち切るべきよ」「その通りだな。間違った情はすぐ断ち切るべきだ。惜しいとも思わない」裕也は顔を上げて彼女を見た。整った顔には、すっかり吹っ切れた色が浮かんでいる。絵里と一緒になる前は、生きていても何の意
もう、迷うことはない。あのことを知らなかったとしても、ここ最近の様々な出来事だけで、絵里の心はすでに決まっていた。どんなことにも邪魔されず、彼を、彼のすべてを安心して受け入れる努力をするべきなのだ。「帰ろう」裕也の胸に温かいものが広がる。俺の太陽は本当に愛おしい。ちゃんと俺を気遣ってくれるようになった。絵里の頭をポンポンと撫でると、その手を引いて病院を後にし、清苑へと戻る。裕也は腕を負傷しており、水に濡らすことができない。絵里が自ら名乗り出る。「私がお風呂、手伝おうか?その、嫌じゃなければだけど」裕也は目を細め、熱を帯びた視線を絵里に向ける。「そんなに積極的なのに、嫌なわけないだろ」絵里は言葉に詰まる。冗談を言う余裕があるなら、気分は悪くないのだろう。雪枝のことで引きずってはいないようだ。バスタブにたっぷりとお湯を張り、温度がちょうどいいことを確かめると、振り返って背後の裕也を見上げる。彼が着ているシャツは汚れ、血の跡までついている。今日の出来事を少しでも早く忘れさせたくて、絵里は急かすように彼の服を脱がせにかかる。「服、脱がせるね」絵里が手を伸ばしてシャツのボタンを外し始める。いくつか外しただけで、完璧に鍛え抜かれた筋肉のラインが目の前に現れる。くっきりと割れた腹筋、滑らかにうねる筋肉の筋。すべてのボタンを外すと、その肉体美が露わになる。絵里はごくりと喉を鳴らし、思わず手を止めてしまう。裕也は顔立ちが整っているだけでなく、スタイルも抜群だった。服を着ているとすらりとして見えるのに、脱げば引き締まった身体が露わになる。細身に見えて、その実、全身に無駄のない筋肉がついているのだ。彼女はシャツを脱がせ、負傷した腕を袖口からそっと慎重に引き抜く。裕也は彼女よりずっと背が高いため、終始見下ろす形になる。彼女の頬がみるみるうちに赤く染まっていくのが、はっきりと見て取れる。「どうしてそんなに顔が赤いんだ?どこか具合でも悪いのか?」裕也はわざと尋ねる。心の傷はとっくに彼女によって癒やされており、からかう余裕すら生まれていた。絵里は息を呑み、視線を泳がせながら彼を見る。「ううん、浴室がちょっと暑いだけかも」「そうか?俺は暑くないけど」裕也が身をかがめて顔を近づけると、
「つまり、雪枝はあなたたちに追われたとき、裕也を盾にしたっていうの?」絵里は信じられず、もう一度確認する。高木警部から同じ答えを聞かされた瞬間、胸を刃物で切り裂かれたような痛みが走った。母親なら、たとえ自分の子供を愛していなくても、盾になんてするべきじゃない。だから今日、裕也の様子がどこかおかしかったのだ。明らかにこの件が原因だろう。高木警部もやるせない表情を浮かべていた。裕也ほどの人間が、こんな目に遭うとは思いもしなかったのだろう。これほど優秀な人物なら、本来は母親の誇りであるはずだ。十数年も警察官を務め、様々な人間を見てきた高木警部でさえ、こんなケースは初めてだという。高木警部が用事で署へ戻ってから間もなく、裕也が手洗いから戻ってくる。絵里の前に戻ってきた彼の表情は静かで落ち着いており、普段と何ら変わらないように見える。「よし、帰ろうか」絵里は彼を見つめる。胸の奥がひどく締め付けられ、思わず彼に飛びついてその身体を強く抱きしめる。言葉は出なかった。ただ、彼を思いきり抱きしめたかった。あまりにも痛ましくて、心が張り裂けそうだった。藤原家の中で、賢治以外、誰も彼を愛していないのだから。突然の抱擁に、裕也は驚いたように目を瞬かせる。「どうした?」絵里は彼の胸に顔を埋めたまま、小さく首を横に振る。「ただ、抱きしめたかっただけ」ここは病院で、しかも雪枝の病室の前だ。絵里はどう言葉にしていいかわからなかった。裕也は優しく微笑み、彼女の頭をそっと撫でる。「分かった。じゃあ、抱きしめよう」絵里の心はぎゅっと締め付けられるように痛む。どうしてこんな人がいるのだろう。自分自身が一番辛いはずなのに、それでも私に対してこんなに優しく、穏やかでいられるなんて……当時の彼が経験したことを思うと、涙が抑えきれずに溢れ出る。胸が痛くてたまらず、彼をさらに強く抱きしめ、自分のありったけの愛をすべて彼に注ぎ込みたい衝動に駆られる。涙が裕也の胸元のシャツを濡らしていく。泣きたくはなかったのに、どうしても我慢できなかった。「どうした?どうして泣いてるんだ?」腕の中の華奢な身体が震えているのを感じて、裕也は胸を突かれる。彼女の肩を掴んで少し身体を離し、涙で顔を濡らす彼女を緊張した面持ちで見つめる。「何
和也は今も本部に留まり、洋二の後ろ盾を得て藤原家の次期当主の座に就こうと目論んでいる。だが、もし洋二に知られでもしたら……「裕也……ずっと私のことを裏で嗅ぎ回っていたのね?」雪枝は自身の怪我も顧みず激しく身悶えする。その顔には底知れぬ憎悪が浮かび、ひどく凄惨な形相をしている。狂乱すればするほど、裕也の冷淡さが際立つ。その瞳に宿る凍てつくような冷気に、雪枝は思わず息を呑む。「母さんは、最愛の息子の和也を守るか、それとも愛する男である小針を守るか、せいぜい悩むことだな」「やめなさい!裕也、あの子たちには指一本触れさせないわよ!」雪枝は恐怖に顔を引きつらせ、彼らに危害が及ぶことを心底恐れているのがありありと見て取れる。裕也は心の中で冷笑する。なんて偉大な愛だ。母親の愛情なんてものを、自分は一度たりとも目にしたことがない。だが、もう必要ない。「残りの人生は、刑務所の中からとくと見物するんだな。母さんが和也のために企てたすべてが、水泡に帰す様を」「いや、いやよ!」背を向けて出て行こうとする彼を見て、雪枝は慌てて叫ぶ。「裕也、私はあなたのお母さんなのよ!お願いだから、お母さんのために、あの子を狙うのだけはやめてちょうだい!」裕也の背中がピタリと止まり、その瞳の奥に浮かぶ嘲りの色がさらに濃くなる。「お母さん?藤原雪枝さん、俺にお母さんなどいませんよ」裕也は病室のドアを押し開け、大股で立ち去る。ベッドの上で苦痛に満ちた叫び声を上げる雪枝を置き去りにして。「裕也!そんなこと許さないわよ!認めなくても、私はお母さんなのよ、裕也!」裕也は病室を出る。ドアが閉まり、雪枝の張り裂けるような絶叫が遮断される。絵里はずっと病室の外、廊下の少し離れた場所で彼を待っていた。先ほどドアが開いた瞬間、雪枝の叫び声が漏れ聞こえていた。絵里は小走りで裕也の前に駆け寄り、心配そうな顔を向ける。「何を言われたの?大丈夫?」裕也は胸の奥の痛みを押し殺し、彼女を見つめる。陰鬱だった瞳に、瞬く間に優しい光が戻る。彼はふいに身をかがめて絵里を抱き寄せ、その耳元で低く囁く。「お前がいれば、俺は大丈夫だ」彼女を抱きしめた瞬間、裕也は心の中にぽっかりと空いていた穴が急速に埋まっていくのを感じ、口元に満ち足りた笑みを
裕也はベッドの傍らに立ち尽くしている。すらりとした長身からは冷気が漂い、その冷ややかな瞳は、まるで赤の他人を見るかのように彼女を見下ろしている。「絵里は俺を愛していなくても、俺にはまだ情をかけてくれた。だが、母さんはどうだ?」雪枝は顔を歪め、金切り声を上げる。「私はあんたの母親よ!これまでの年月、私が与えてきたものではまだ足りないと言うの!あんたはもう堂々たる藤原グループの跡取りで、あの巨大なグループの全権を握っているのよ。これ以上、何の不満があるって言うの!それなのに、私たちはこれほど多くのものを与えたというのに、たかが一人の女のために、自分の両親にこんな仕打ちをするなんて!」雪枝は喉を枯らして叫び続け、両目は血走っている。顎のあたりには一筋の傷跡がある。それは彼女が裕也を盾にして銃弾を凌いだ際、飛び散った破片で切ったものだ。あの時はただ一刻も早く逃げ出し、警察の追跡を振り切ることしか頭になかった。裕也は息子なのだから、母親である自分のために弾除けになるのは当然のことだ。裕也の目には深い陰りが浮かび、胸の奥に渦巻く痛みを必死に押し殺している。目の前の女からこのような扱いを受けることには、とうに慣れきっているかのようだ。だが、もう何も感じないはずだった胸の奥が、それでもなお微かに疼いている。彼の瞳が微かに揺れ、低い声が漏れる。「分かっているさ。母さんは俺に和也のための地ならしをさせ、自分の手駒として使いたかった。だが、俺が母さんの制御を超えたからこそ、絵里を殺してでも水原グループを手に入れ、和也の力にしようとしたんだろう。そして俺のことは、和也のための計画の邪魔になれば、最終的には切り捨てるつもりだった。今日、弾除けとして俺を引っ張り出したのも、そのためだろう」そう語る裕也の声は淡々としており、いかなる感情も読み取れなかったが、その顔には氷のような冷酷さが張り付いている。「俺の言った通りだろう?」雪枝は数秒間呆然とし、言葉を絞り出す。「全部知っていたの?」裕也の眼差しは冷え切っている。両脇に垂らした手を固く握り締め、何も答えない。これだけの年月が経てば、嫌でも気づく。「あんたは私の息子で、和也の兄なのよ。今持っているものはすべて私たちが与えたものじゃない。それくらいして当然でしょう」