私を狂人に仕立てた夫へ――今度はあなたが壊れる番です

私を狂人に仕立てた夫へ――今度はあなたが壊れる番です

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By:  6jayUpdated just now
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夫に精神を病んだ女へ仕立て上げられ、巨額の遺産まで奪われかけた美月。閉鎖病棟に囚われながらも証拠を集め、裏切った夫と愛人、悪徳医師を法廷へ引きずり出す。失った名誉も自由も人生も、すべてこの手で取り戻す。これは、彼女が自分の人生を奪い返す痛快な復讐劇。

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Chapter 1

1話. 幻覚剤入りのジュースと民間救急車

クリスタルのグラスの中で、氷がからんと鳴った。その向こうで、夫の相沢修司がわずかに口の端をつり上げた。

「美月、ずいぶんやつれたな。ご両親が遺した10億円規模の財産、もうすぐ名義の整理だろ。最近、気を張ってばかりだったもんな。好きなザクロのビタミンジュース、冷たくしておいたよ。これ、ちゃんと全部飲んで。今日こそゆっくり寝てくれ」

夫が差し出した、濃い紫色の飲み物。

見た目は、毎朝食卓に置かれていた甘いフルーツジュースと変わらない。それなのに、表面に細かく浮かぶ灰色がかった泡と、鼻先をかすめる苦い鉄のような臭いが、妙に引っかかった。

「……何、この味。いつもよりずっと苦いし、変な臭いもするんだけど」

「気のせいだよ。オーガニックの濃縮液を、いつもより濃くしただけ。残さないで、さっさと飲んじゃいな」

修司の目に、一瞬だけ焦りと粘りつくような欲がよぎった。

その薄気味悪い視線に気づいた瞬間、私はとっさにグラスを唇へ運ぶふりをして、テーブル脇にある大きな観葉植物の鉢へ、半分以上をそっと流した。

けれど、唇を濡らし、喉の奥へ落ちたたったひと口だけで、世界が激しく揺れ始めた。

どくん、どくん、どくん――。

心臓が肋骨を突き破りそうな勢いで暴れだす。頭の中の神経が、一本残らず白く焼け切れていくようだった。

リビングの壁紙も大理石の床も、不気味にねじれ、黒い沼となって私をのみ込んだ。手足から力が抜け、指先から冷たいしびれが広がっていく。息を吸うたび、肺の奥に焼けるような痛みが走った。

「しゅ、修司……これ……いったい、何の薬を入れたの……?」

床に倒れ込んだ私の耳に、寝室のドアが開く音が届いた。

むっとするほどのマグノリアの香水とともに、白いシルクのスリップドレスを着た女が、ヒールを鳴らして現れる。

篠原玲奈。

修司が大学時代から忘れられず、ずっと想い続けてきたという初恋の相手。そして、今は不倫相手だった。

「まあ、修司さん。すごい効き目ね。やっぱり製薬会社に勤めてると、こんなお薬を持ち出すのも簡単なんだ?」

玲奈は媚びるように笑い、修司の首に腕を絡めた。

修司は床で息をあえがせる私を、汚い虫でも見るように見下ろしながら、玲奈の腰を乱暴に引き寄せた。

「あと1週間の辛抱だ。あいつの親が遺した、港区のビルを含む10億円規模の資産。俺が成年後見人にさえなれば、まず金の流れを押さえられる。そのあと委任状も使えば終わりだ。手始めに、麻布台のペントハウスを見に行こう」

「修司……玲奈……あなたたち……どうして、私に……こんな……」

言葉も続かず、血を吐くようにあえぐ私の顎を、修司が冷たい靴のつま先で蹴った。鈍い衝撃が顎先に走り、唇の内側が切れた。

「相沢美月。お前は今日から、重度の統合失調症の患者だ。親を亡くしたショックで包丁を握って、夫を刺そうとした危険な狂人。私立の精神科病院の閉鎖病棟にぶち込まれて、一生、大量の鎮静剤を打たれながら腐ってろ」

ガチャッ。

ドアロックが外れる荒い音とともに玄関が開き、屈強な民間救急の搬送員が3人、なだれ込んできた。

男たちは容赦なく私の両腕を背中へねじり上げ、分厚い革の拘束ベルトを締めた。

冷たいストレッチャーに縛りつけられ、エレベーターへ運ばれていく間も、玄関の奥から修司と玲奈の笑い声が聞こえた。まだ私に聞こえていることさえ、気にもしていない笑い方だった。

けれど、あの2人は肝心なことを知らない。

私は薬を全部は飲まずに持ちこたえたこと。

そして、下着の裏地の奥に、特殊な暗号化チップを内蔵した超小型スマートウォッチを隠していることを。

闇の中に遠ざかっていく家を見つめ、薄れていく意識の中で、私は歯を食いしばった。

必ず、生きてここから出る。

今日したことを、あなたたちがその口で否定できないようにしてやる。

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1話. 幻覚剤入りのジュースと民間救急車
クリスタルのグラスの中で、氷がからんと鳴った。その向こうで、夫の相沢修司がわずかに口の端をつり上げた。「美月、ずいぶんやつれたな。ご両親が遺した10億円規模の財産、もうすぐ名義の整理だろ。最近、気を張ってばかりだったもんな。好きなザクロのビタミンジュース、冷たくしておいたよ。これ、ちゃんと全部飲んで。今日こそゆっくり寝てくれ」夫が差し出した、濃い紫色の飲み物。見た目は、毎朝食卓に置かれていた甘いフルーツジュースと変わらない。それなのに、表面に細かく浮かぶ灰色がかった泡と、鼻先をかすめる苦い鉄のような臭いが、妙に引っかかった。「……何、この味。いつもよりずっと苦いし、変な臭いもするんだけど」「気のせいだよ。オーガニックの濃縮液を、いつもより濃くしただけ。残さないで、さっさと飲んじゃいな」修司の目に、一瞬だけ焦りと粘りつくような欲がよぎった。その薄気味悪い視線に気づいた瞬間、私はとっさにグラスを唇へ運ぶふりをして、テーブル脇にある大きな観葉植物の鉢へ、半分以上をそっと流した。けれど、唇を濡らし、喉の奥へ落ちたたったひと口だけで、世界が激しく揺れ始めた。どくん、どくん、どくん――。心臓が肋骨を突き破りそうな勢いで暴れだす。頭の中の神経が、一本残らず白く焼け切れていくようだった。リビングの壁紙も大理石の床も、不気味にねじれ、黒い沼となって私をのみ込んだ。手足から力が抜け、指先から冷たいしびれが広がっていく。息を吸うたび、肺の奥に焼けるような痛みが走った。「しゅ、修司……これ……いったい、何の薬を入れたの……?」床に倒れ込んだ私の耳に、寝室のドアが開く音が届いた。むっとするほどのマグノリアの香水とともに、白いシルクのスリップドレスを着た女が、ヒールを鳴らして現れる。篠原玲奈。修司が大学時代から忘れられず、ずっと想い続けてきたという初恋の相手。そして、今は不倫相手だった。「まあ、修司さん。すごい効き目ね。やっぱり製薬会社に勤めてると、こんなお薬を持ち出すのも簡単なんだ?」玲奈は媚びるように笑い、修司の首に腕を絡めた。修司は床で息をあえがせる私を、汚い虫でも見るように見下ろしながら、玲奈の腰を乱暴に引き寄せた。「あと1週間の辛抱だ。あいつの親が遺した、港区のビルを含む10億円規模の資産。俺が成年後見人にさえなれば、まず金の流れを押さえられ
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2話. 夫婦の寝室でワインを飲む悪魔たち
細かな鉄格子のはまった小窓から、冷たい明け方の空気が忍び込んでいた。四方を分厚い防音パッドで隙間なく覆われた、4畳ほどの隔離室。民間救急車に乗せられ、埼玉県郊外の人里離れた私立精神科病院、その閉鎖病棟へ連れ込まれてから、まる3時間がたっていた。病衣の中へ入り込む冷気が、体中の関節にしみる。壁には、前にいた患者が爪で引っかいたのか、ぞっとするような血の跡と引っかき傷が、いくつも残っていた。ここは人を治療する病院じゃない。金さえ払えば、まともな人間でも永遠に社会から消せる、違法な私設の監獄だった。ガチャ、ギイ……。重い鉄の扉が開き、白衣にマスク姿の看護師が、太い注射器を持って近づいてきた。後ろからは、いかつい体つきの男性職員が2人。出入り口をふさぐように立つ。「おとなしく横になってください。鎮静剤を打ちます。暴れたら、手足を革のベルトでベッドに固定しますよ」冷えきった声だった。私は焦点の合わない目で宙を見つめ、震える手をやみくもに振った。口の端からよだれを垂らし、薬で頭がすっかり壊れ、ひどく錯乱している患者を演じる。「う、うう……火、火が……天井に、化け物が……こっち見てる……助けて……!」「まったく、まだ若いのに、完全にいかれちゃって。相沢課長から特別に頼まれて、最大量で処方してるんだから。あと何日かすれば、自分の名前だって思い出せなくなるわ」看護師が私の左腕に針を刺した瞬間、私は急にけいれんしたふりをして、腕を激しくねじった。針が抜け、薬液が肌とシーツにこぼれる。看護師は悪態をのみ込みながら、残った分だけを慌てて注入した。鉄の扉が閉まり、看護師と職員たちの足音が廊下の向こうへ消えると、私は注射の跡を押さえ、血を止めた。全部は入っていない。頭は重い。それでも、まだ考えられる。全身に鈍く刺さる痛みの中で、私の理性は、ぞっとするほど冷たく研ぎ澄まされていった。両親が不可解な高速道路の交通事故で亡くなってから、葬儀のときもずっと私に寄り添い、優しい涙を流していた夫、相沢修司。あの涙も、献身も、何もかも。両親が遺した港区のビルを含む10億円規模の遺産をのみ込むための、周到な芝居だったのだ。相続財産の名義を整理する手続きが1週間後に迫り、修司は私を、正常な意思決定ができず成年後見を必要とする人間に仕立て上げようとした。私立病院と手を組み
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3話. 舌の下の薬、下着の中のスマートウォッチ
ギイ……。鉄格子の扉にある重い配膳口が、がたんと開いた。プラスチックの薬用カップと、ぬるい水が1杯、差し入れられる。「朝のお薬の時間です。相沢美月さん、起きて飲んでください」夜勤を終える前の看護師が、格子の向こうから厳しい目で私を見張っていた。カップの中には、赤や黄色の向精神薬のカプセルが3つ。私の状態などお構いなしの高用量の薬を飲まされ続けたら、ひどい眠気と認知機能の低下で、まともに判断することさえ難しくなるかもしれない。私はぼんやりと焦点の合わない目をしばたたかせ、ふらつく足で配膳口の前へ立った。「おくすり……ごっくん……したら、おうちに帰してくれる……? だんなさんに、会いたい……」幼い子のようなたどたどしい口調で言い、3つのカプセルをまとめて口へ放り込んだ。紙コップの水を含んで、上を向く。でも、薬は喉を通さなかった。3つとも素早く舌の裏の奥へ押し込み、水だけをごくりと音を立ててのみ下した。「口を開けて。舌も上げてください」看護師の鋭い指示に、私は舌先を少し持ち上げるふりをしながら、カプセルを舌の付け根の奥、奥歯と歯茎の隙間へ器用に押しやった。その視線が口の中から外れるまで、ろくに息もできなかった。「はい、いいですよ。ベッドでおとなしく横になっていてください」鉄の扉が乱暴に閉まり、規則正しい足音が遠ざかる。私はすぐに部屋の隅のトイレへ走り、口の中に隠したカプセルを3つとも便器へ吐き出した。唾液に濡れた薬が、渦巻く水にのみ込まれていく。水を流すと、扉の監視窓からいちばん見えにくい、ベッドと壁の間に身をかがめた。病衣の内側、スポーツブラの裾の二重の縫い目から、爪ほどの大きさしかない特殊な超小型スマートウォッチを取り出す。実家のIT研究所で、セキュリティテストに使っていた超小型のウェアラブル端末だった。リストバンドから本体だけを外し、ブラの裏地に隠しておいたおかげで、持ち物検査でも没収されずに済んだ。電源ボタンを長押しすると、闇の中に青い光がにじんだ。【セキュアOS 起動完了】【eSIMデータ接続成功――暗号化トンネル有効】心臓が激しく打った。コンクリートの壁のせいで電波は弱い。それでも、暗号化通信の回線は生きていた。画面の明るさを最低にし、音も振動も切る。監視窓を一度確かめてから、震える指で送信先を選んだ。両親の
last updateLast Updated : 2026-10-05
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4話. 閉鎖病棟で交わされた醜い取引
午前0時を回ると、閉鎖病棟の廊下からは、ほとんど人の気配が消えていた。ほかの病室から漏れる、薬にもうろうとした患者たちのかすかなうめきと、鎖のこすれる音だけが、冷たい廊下に漂っている。私はスマートウォッチの超小型カメラを起動し、扉の配膳口の隙間から慎重に差し出した。レンズの先にある廊下の様子が、画面にはっきり映る。やがて廊下の突き当たりにある院長室の扉が開き、見覚えのある2人の姿が現れた。高級ブランドのスーツを隙なく着こなした夫、相沢修司。そして、脂ぎった顔に金縁の眼鏡をかけた、この病院の院長、宮田だった。「相沢課長、薬は指示どおり投与している。観察記録も、幻覚と攻撃性の症状が中心になるようにそろえておいたよ。今週末まで記録がたまれば、重度の統合失調症が疑われる、という所見書くらいは作れる」宮田院長が卑しい笑みを浮かべ、修司の肩をぽんとたたいた。修司は内ポケットから分厚い封筒を取り出し、院長の手に握らせる。封筒の口から、ずしりと重そうな一万円札の束がのぞいた。「院長、約束の着手金、1000万円です。裁判所が私を成年後見人に選任して、財産管理の権限を握れたら、成功報酬としてさらに3000万円お渡しします」「はは、相変わらず気前がいいな。ところで、美月さんの実家の弁護士から、病院に電話があったぞ。行方を尋ねていたが?」「ご心配なく。妻はひどく錯乱して家を飛び出したことにして、警察には嘘の行方不明者届を出してあります。神崎蓮司がどれだけ騒いだところで、配偶者の私が同意した医療保護入院の書類までそろえてあるんです。当分、誰も手は出せませんよ」修司の声が、スマートウォッチのマイクにはっきりと記録されていく。続いて修司は、ブリーフケースから分厚い書類の束を取り出した。「それから院長、これは妻名義の印鑑登録証明書と委任状です。不動産の処分と口座管理を委任する書類に、美月の拇印を、無理にでも押させていただきたい」「そんなもの、造作もない。今夜もう一度麻酔で眠らせて、親指を朱肉に押しつければ、それで済む話だ」2人が交わす不法な監禁の取引も、現金1000万円を渡す場面も、委任状を偽造する相談も。スマートウォッチのカメラは、何もかもそのまま捉えていた。【映像・音声ファイル暗号化完了――クラウド自動アップロード/神崎蓮司弁護士への送信成功】送信完了の表
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5話. 10億円の遺産を狙う後見申立てと、ペントハウス見学
暗い閉鎖病棟の隔離室で、夫、相沢修司の頬がぴくりと引きつった。「……は? 美月、お前、今なんて言いやがった?」修司の声が、裂けるように裏返る。冷たく、はっきりと見据える私の目と視線が合った瞬間、手にしていた赤い朱肉の容器が床に落ち、赤い破片が飛び散った。「10億円の遺産が、そんなに欲しかったのかって聞いたの。相沢修司」修司は数秒、ぽかんと私の顔を見たあと、奥歯をかみ締めた。驚きが消えたその顔に、怒りが浮かぶ。「このいかれた女が……! 薬もろくに飲まずに、まともなふりして芝居してやがったのか!」汚い言葉を吐きながら、修司がベッドへ飛びかかってきた。重い体が私の上半身を容赦なく押しつぶし、荒々しい手が病衣の襟元をつかむ。頬をかすめる荒い息には、吐き気がするほどのたばこの臭いと、初恋の女、篠原玲奈の安っぽい香水の臭いが染みついていた。「いくら暴れたって、ここは埼玉の外れにある私立精神科病院の閉鎖病棟だぞ! 院長も看護師も、全員俺の金を受け取ってるんだ。お前なんかに何ができる! お前はここで、一生腐っていく狂人なんだよ!」修司は床に落ちた朱肉を拾い、私の右手の親指を無理やりこすりつけた。赤い朱肉が皮膚に食い込み、べたつく不快な感触を残す。私は激しく抵抗するふりで身をよじりながら、下着の裏地に隠したスマートウォッチの録音とカメラを作動させた。修司が私の指をねじり、書類の下部へ無理やり押しつける。レンズには、ゆがんだ指紋と、私の手首をひねる手が映り、修司が脅しながら吐き出す自白まで、余さず記録された。親指の関節がずきずき痛んだが、手は引き抜けなかった。代わりに、カメラが揺れないよう、体にいっそう力を込めた。「ははは! 押したぞ! ついに押した! これで港区のビルも、10億円の財産も、俺の好きに管理できるんだ!」書類ににじんだ赤い拇印を見て、修司が笑いだした。床に倒れた私を一度見下ろすと、書類を胸に抱え、鉄の扉を乱暴に閉めて出ていった。翌日の午後、スマートウォッチに、蓮司先輩から暗号化メッセージが届いた。【篠原玲奈のSNSライブ、保存した。2人で麻布台のペントハウスのモデルルームに入った】続いて、短い動画ファイルが表示された。画面の玲奈は白いミンクのコートを羽織り、修司と腕を組んでいた。大理石の床、東京湾を見下ろす大きな一枚ガラス、シャン
last updateLast Updated : 2026-10-05
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6話. 夜間巡回の隙を突き、院長室へ
午前2時。閉鎖病棟の廊下は冷え込み、薄氷を踏むような緊張が漂っていた。私立精神科病院の地下1階、重症患者の隔離区画。病衣姿で鎖につながれ、うめく、罪もない被害者たち。その悲惨な泣き声が、防音壁の隙間からかすかに漏れていた。宮田院長が金を受け取り、入院の記録をでっち上げてきたのが本当なら、ここには私以外にも、不当に閉じ込められた人がいるかもしれない。――帳簿さえ押さえれば、少なくとも院長は、知らなかったとは言い逃れできない。暗闇で静かに呼吸を整え、スマートウォッチの画面をつけた。夕方の投薬時、看護師が扉の横のリーダーにカードキーをかざした瞬間、私は端末をできるだけ近づけ、旧式のRFID信号を保存しておいた。警備の甘い病棟だからこそ、できたことだった。保存した信号を、一度だけ再生する。ピピッ、カチッ。緑のランプがともり、固く閉ざされていた鉄の扉のラッチが外れた。私は猫のように足音を殺し、暗い廊下へ滑り出た。廊下の角にある旋回式の監視カメラが反対側を向くのを待ち、突き当たりの院長室へ移動した。今夜が明ければ、宮田院長が虚偽の診断資料や金銭授受の帳簿を処分してしまう可能性が高い。あの人たち自身が残した原本を撮影して、必ず外部に保管しなければならなかった。カチャ。慎重にドアノブを下げる。院長室には鍵がかかっていなかった。夜中も職員が出入りする部屋だから、修司と院長が出たあと、きちんと施錠しなかったのだろう。薄暗い院長室へ入り、壁を見回した。不自然に手前へ浮いている大きな油絵の額を持ち上げると、重厚な鋼鉄の金庫が現れた。そこで行き詰まった。数字のボタンをにらんでいた私は、机へ目をやる。電話機の下に、半分折られたメモが挟まっていた。【4829】まさか、と思いながら、その4つの数字を押した。カチッ、シュー……。分厚い金庫の扉が、滑らかに開いた。中には一万円札の束が何十も積まれ、その横に、分厚い革張りのバインダーが1冊置かれていた。【特別入院VIP極秘管理台帳――相沢美月の件:着手金1000万円受領。架空の症状に基づく観察記録および診断資料の作成】相沢修司の名前と署名が、くっきりと残る違法な契約書の原本だった。私はバインダーを机に広げ、スマートウォッチのカメラで1ページずつ撮影した。焦りで指先が震える。それでも署名と金額、日付
last updateLast Updated : 2026-10-05
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7話. 後見審問の当日、悪魔たちが法廷へ
まぶしいほど澄み切った秋の朝。私は東京家庭裁判所の地下駐車場に停めたワゴン車の中で、タブレットの画面を見ていた。数時間前の明け方、病棟の勤務交代に合わせ、複製しておいたカードの信号を使って裏口まで抜け出した。路地の先には、先輩が手配した車と捜査班の担当者が待っていた。病院側が私の不在に気づく前に安全な場所へ移り、まずは供述を残した。修司には、まだ何の連絡も入っていない。裁判所の前は、すでに報道陣で埋まっていた。『IT資産家の10億円規模の遺産を継ぐ女性に、重い精神疾患の疑い』『妻の成年後見を申し立てた夫、相沢修司氏』先輩が保存しておいた取材映像の中へ、黒いセダンが滑り込んできた。車を降りた修司は、濃紺のスーツを着ていた。玲奈は黒いワンピース姿で、数歩離れてついていく。記者たちのマイクが、修司の前へ一斉に突き出された。「本日、奥様の相沢美月さんについて、後見開始の審問が行われます。今のお気持ちは?」修司はハンカチで目元を押さえた。「妻は両親を事故で亡くしてから、ひどい錯乱と幻覚に苦しんできました。自傷のおそれもあり、どうしても治療が必要なんです。私は夫として、妻と、義父母が遺した財産を守りたい。それだけです」画面を見る私の指先に、力がこもった。数日前、私の指をねじった人間と同じとは思えないほど、悲痛な声だった。玲奈も、カメラが回っている間は、ひと足後ろで目を伏せていた。それなのに、裁判所の玄関へ入る直前。2人は目を合わせ、一瞬だけ笑った。私はタブレットの画面を消した。「最後まで、よくやる……」先輩が、私の前に書類の入った封筒を置いた。「捜査班が提出した証拠で、逮捕状と捜索差押許可状は出ている。ただ、後見開始の申立てを退けるには、お前が直接出席して、自分の状態を見せるのがいちばん確実だ」「わかってます。そのために、ここまで来たんですから」病院を抜け出してから体を洗い、着替えはした。それでも手首には、修司につかまれた赤い跡が残っていた。鏡を見るたび、たった数日で顔が目に見えてやつれたことがわかる。化粧で隠すつもりはなかった。あの人たちが私をまともではないと言い張るなら、自分の口で答え、自分の足で歩いて入る。それが、いちばん単純な反論になる。先輩は、短く要点を告げた。「長々と説明しなくていい。聞かれたことだけ、正確に答え
last updateLast Updated : 2026-10-05
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8話. 審問室の扉を開け、自分の足で現れた相続人
ドン。重い扉が壁のストッパーに当たる音が、審問室に響いた。私は敷居をまたぎ、ゆっくり中へ入った。後ろには先輩と、逮捕状を執行するために来た捜査員たちが立っていた。病院にいる間、何度も思い描いた場面だった。それでも修司の顔を実際に見た途端、心臓が跳ねた。けれど、足は止めなかった。私が怖がってうつむく瞬間こそ、あの男がいちばん見たいものだと思ったから。コツ、コツ――。ヒールの音が、やけに大きく響いた。数日前までは、病衣姿で隔離室の床に倒れていた私が、今は濃紺のパンツスーツを着て、相沢修司をまっすぐ見つめていた。「……み、美月?」修司の顔から、血の気が引いた。玲奈は、握っていたクラッチバッグを床に落とした。「嘘でしょ……宮田院長、あの女、閉じ込めておいたんじゃなかったの!」宮田院長も、腰を半分浮かせたまま口を開けた。「どうして……確かに、地下の病棟にいたはず……」先輩の目つきが、すぐに変わった。低い声が響く。「今の発言も、記録されていますよ、院長」院長が口をつぐんだ。私は修司側のテーブルを通り過ぎ、裁判官の前に立った。手首にはまだ拘束の跡が残っていたけれど、隠さなかった。胸ポケットからマイナンバーカードを取り出し、本人確認のために差し出した。差し出す手が、ほんの少し震えた。親指に残る痛みを意識しながら、指を一度開き、もう一度力を入れる。少なくとも今度は、誰にも手をつかまれ、無理やり拇印を押させられたりはしない。「申立ての対象となっている、相沢美月です。自分の意思で出席しました。私は今、正常に意思を伝え、判断することができます」裁判官は、私の顔と身分証を交互に確かめた。「相沢美月さん、ご本人で間違いありませんか?」「はい」「申立人側は、あなたが重い精神疾患のため、外での活動は不可能だと主張しています」私が答えるより先に、修司が勢いよく立ち上がった。「裁判長、この女は今、正気じゃありません! 病院を勝手に抜け出してきたんです。危険です。すぐにもう一度、保護しなければ!」私は修司を振り返った。「私、人の顔もわからないんでしょ?」「……何?」「なのに、どうして私が病院を抜け出したって、すぐわかったの?」修司の唇が、動かなくなった。私はそれ以上言わず、先輩へ目を向けた。先輩はブリーフケースから、タブレットと
last updateLast Updated : 2026-10-05
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9話. 画面に映し出された、投薬と監禁の計画
タブレットの画面がともると、審問室の物音がぴたりとやんだ。最初の動画は、病院の院長室前で撮影したものだった。画面の中で、宮田院長が修司の肩をたたく。『薬は指示どおり投与している。観察記録も、幻覚と攻撃性の症状が中心になるようにそろえておいたよ。今週末まで記録がたまれば、重度の統合失調症が疑われる、という所見書くらいは作れる』修司が封筒を差し出した。口の隙間から、一万円札の束が見える。『約束の着手金、1000万円です。裁判所が私を成年後見人に選任して、財産管理の権限を握れたら、成功報酬としてさらに3000万円お渡しします』閉鎖病棟で私が聞いた会話が、スピーカーからそのまま流れてきた。宮田院長の顔がこわばった。「それは……前後を切り取ったものです」先輩が、すかさず言い返した。「元のファイル全体とハッシュ値は、捜査機関に提出してあります。編集の有無は、デジタル・フォレンジックで確認できます」2本目の動画が再生された。修司が私の病衣の襟元をつかみ、右手の親指を無理やり朱肉に押しつけている場面だった。『院長も看護師も、全員俺の金を受け取ってるんだ。お前なんかに何ができる!』続いて、指をねじって委任状へ拇印を押させる姿と、修司の笑い声。『押したぞ! ついに押した! これで港区のビルも、10億円の財産も、俺の好きに管理できるんだ!』手首がずきりと痛んだ。映像で見せられると、あの日の感覚が鮮明によみがえった。指の関節をねじられた痛み。鼻を突く朱肉の臭い。修司のたばこの臭いまで。修司が、勢いよく立ち上がった。「消せ! 今すぐそれを消せ!」タブレットへつかみかかろうとした修司の前に、出入り口脇で待機していた2人の捜査員が進み出た。「相沢修司さん、動かないでください」「放せ! その動画は違法だ! 美月が狂って作った捏造なんだよ!」私は、その顔をまっすぐ見た。修司は私と画面を交互に見ながら、荒く息をしていた。数日前、隔離室では証拠などないとあざ笑っていた男が、今は自分の声がスピーカーから流れることさえ、耐えられずにいる。「じゃあ、その声も捏造なの?」修司は黙った。3つ目の資料として、私が撮影した48ページの病院の帳簿が表示された。相沢美月。入院依頼人、相沢修司。現金1000万円受領。診断書の作成に関するメモ。私の名前の下
last updateLast Updated : 2026-10-05
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10話. 「私が狂ってるって?」夫と院長にかかった手錠
玲奈が裏の扉から姿を消した直後、出入り口にいた捜査員たちが、修司と宮田院長の前へ進んだ。修司が、一歩後ずさった。「何をするんですか。ここは家庭裁判所ですよ。俺が何をしたっていうんだ!」捜査員が書類を広げた。「相沢修司さん、宮田正隆さん。裁判所が発付した逮捕状です。まず、内容を確認してください」修司の顔が、真っ白になった。私はその姿を見ながら、前へ歩いた。コツ、コツ――。修司の視線が、私の右手で止まった。数日前にあの男にねじられた親指の関節は、まだ少し腫れていた。「相沢修司」「み、美月……待ってくれ。ちょっと話そう」急に、声が低くなった。「ほんの一瞬、金に目がくらんだだけなんだ。本当だよ。俺たち、3年も一緒に暮らしてきたじゃないか。全部、ちゃんと説明するから」「病院では、説明する時間、たっぷりあったでしょ」「……」「私、一生薬漬けで腐っていくんじゃなかった? あなたが後見人にさえなれば、私の財産も好きにできるって、そう言ってたよね」修司が私へ手を伸ばした。私は反射的に一歩引いた。すると、捜査員がその腕を遮った。「接触しないでください」修司が慌てて首を振る。「美月、頼む。玲奈がそそのかしたんだ。俺は、ただ……」「その口で、また人のせいにするんだ」言葉が、ひとりでに冷たく落ちた。「私が狂ってるって言ったよね? いいよ。まずはその言葉を、もう一度法廷で言ってみて。私に薬を飲ませて、病院に閉じ込めたのが誰なのかも、一緒にね」私はスマートウォッチを外し、証拠品用の袋の上に置いた。「録音と映像の元データは、この中にあります。48ページの帳簿を撮影した画像も、すでに提出しています」先輩が捜査員へ、資料の一覧を手渡した。「被害者側から、原データを記録した端末を任意提出します。複製データとの同一性を確認するための資料も、お渡しします」捜査員はうなずき、修司へもう一度令状を示した。「相沢修司さん。監禁、傷害、強要、私文書偽造などの容疑で逮捕します。弁護人を選任できます。また、供述を拒む権利があります」カチャリ。修司の両手に、手錠がかかった。その音は、不思議なくらいはっきり聞こえた。数日前には、私の手首に革の拘束ベルトが締まる音を聞いた。今は修司の手首で、金属の手錠が閉じた。同じ、自由を奪う音なのに、意味はまるで違
last updateLast Updated : 2026-10-05
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