LOGIN夫に精神を病んだ女へ仕立て上げられ、巨額の遺産まで奪われかけた美月。閉鎖病棟に囚われながらも証拠を集め、裏切った夫と愛人、悪徳医師を法廷へ引きずり出す。失った名誉も自由も人生も、すべてこの手で取り戻す。これは、彼女が自分の人生を奪い返す痛快な復讐劇。
View Moreクリスタルのグラスの中で、氷がからんと鳴った。その向こうで、夫の相沢修司がわずかに口の端をつり上げた。
「美月、ずいぶんやつれたな。ご両親が遺した10億円規模の財産、もうすぐ名義の整理だろ。最近、気を張ってばかりだったもんな。好きなザクロのビタミンジュース、冷たくしておいたよ。これ、ちゃんと全部飲んで。今日こそゆっくり寝てくれ」
夫が差し出した、濃い紫色の飲み物。
見た目は、毎朝食卓に置かれていた甘いフルーツジュースと変わらない。それなのに、表面に細かく浮かぶ灰色がかった泡と、鼻先をかすめる苦い鉄のような臭いが、妙に引っかかった。
「……何、この味。いつもよりずっと苦いし、変な臭いもするんだけど」
「気のせいだよ。オーガニックの濃縮液を、いつもより濃くしただけ。残さないで、さっさと飲んじゃいな」
修司の目に、一瞬だけ焦りと粘りつくような欲がよぎった。
その薄気味悪い視線に気づいた瞬間、私はとっさにグラスを唇へ運ぶふりをして、テーブル脇にある大きな観葉植物の鉢へ、半分以上をそっと流した。
けれど、唇を濡らし、喉の奥へ落ちたたったひと口だけで、世界が激しく揺れ始めた。
どくん、どくん、どくん――。
心臓が肋骨を突き破りそうな勢いで暴れだす。頭の中の神経が、一本残らず白く焼け切れていくようだった。
リビングの壁紙も大理石の床も、不気味にねじれ、黒い沼となって私をのみ込んだ。手足から力が抜け、指先から冷たいしびれが広がっていく。息を吸うたび、肺の奥に焼けるような痛みが走った。
「しゅ、修司……これ……いったい、何の薬を入れたの……?」
床に倒れ込んだ私の耳に、寝室のドアが開く音が届いた。
むっとするほどのマグノリアの香水とともに、白いシルクのスリップドレスを着た女が、ヒールを鳴らして現れる。
篠原玲奈。
修司が大学時代から忘れられず、ずっと想い続けてきたという初恋の相手。そして、今は不倫相手だった。
「まあ、修司さん。すごい効き目ね。やっぱり製薬会社に勤めてると、こんなお薬を持ち出すのも簡単なんだ?」
玲奈は媚びるように笑い、修司の首に腕を絡めた。
修司は床で息をあえがせる私を、汚い虫でも見るように見下ろしながら、玲奈の腰を乱暴に引き寄せた。
「あと1週間の辛抱だ。あいつの親が遺した、港区のビルを含む10億円規模の資産。俺が成年後見人にさえなれば、まず金の流れを押さえられる。そのあと委任状も使えば終わりだ。手始めに、麻布台のペントハウスを見に行こう」
「修司……玲奈……あなたたち……どうして、私に……こんな……」
言葉も続かず、血を吐くようにあえぐ私の顎を、修司が冷たい靴のつま先で蹴った。鈍い衝撃が顎先に走り、唇の内側が切れた。
「相沢美月。お前は今日から、重度の統合失調症の患者だ。親を亡くしたショックで包丁を握って、夫を刺そうとした危険な狂人。私立の精神科病院の閉鎖病棟にぶち込まれて、一生、大量の鎮静剤を打たれながら腐ってろ」
ガチャッ。
ドアロックが外れる荒い音とともに玄関が開き、屈強な民間救急の搬送員が3人、なだれ込んできた。
男たちは容赦なく私の両腕を背中へねじり上げ、分厚い革の拘束ベルトを締めた。
冷たいストレッチャーに縛りつけられ、エレベーターへ運ばれていく間も、玄関の奥から修司と玲奈の笑い声が聞こえた。まだ私に聞こえていることさえ、気にもしていない笑い方だった。
けれど、あの2人は肝心なことを知らない。
私は薬を全部は飲まずに持ちこたえたこと。
そして、下着の裏地の奥に、特殊な暗号化チップを内蔵した超小型スマートウォッチを隠していることを。
闇の中に遠ざかっていく家を見つめ、薄れていく意識の中で、私は歯を食いしばった。
必ず、生きてここから出る。
今日したことを、あなたたちがその口で否定できないようにしてやる。
それからさらに時が流れ、季節が2つ巡ったころ。港区・芝の小さなオフィスに、新しい看板が掲げられた。【一般財団法人 泰和希望財団】私は、窓辺に置いた両親の写真を、しばらく見つめていた。「お父さん、お母さん。守れたよ」港区のビルを含む、10億円規模の相続財産の名義整理は、すべて終わった。修司が手を出そうとした口座も不動産も、きちんと私の名義になっている。刑事事件とは別に続いている損害賠償の手続きも、先輩の法律事務所が担当していた。その間に刑事事件の控訴手続きも終わり、修司は懲役12年、宮田正隆は懲役10年、玲奈は懲役5年の実刑が確定した。修司との離婚判決も確定した。損害賠償の本案訴訟は残っていたけれど、婚姻関係が私の足を引っ張ることは、もうなかった。私は遺産の一部を、財団の基本財産と運営費に充てた。閉鎖病棟に閉じ込められていたときに見た人たちを、忘れられなかったからだ。お金がなくて、弁護士を頼めない人。家族が入院を強引に進めても、どこに助けを求めたらいいかわからない人。きちんと意思を伝えても、『患者の言うことだから』と取り合ってもらえない人。少なくとも、助けを求められる連絡先がひとつは必要だった。「理事長」後ろから、先輩が呼んだ。「設立式の準備、できたぞ。下に行こう」「たくさん来てますか?」「お前が思ってるよりは」私は、緊張した息を吐いた。「法廷に入るときより、緊張するんですけど」「あのときだって、ちゃんと入れただろ」「あのときは、腹が立ってて、それどころじゃなかったんです」先輩が笑った。「今日は怒る必要ないから。ゆっくりでいい」1階の会場は、支援に協力する弁護士や相談員、被害者支援団体の関係者たちで埋まっていた。病院の極秘帳簿に名前があった人たちも、何人か、家族と一緒に来ていた。捜査機関や関係機関の確認によって、不法な入院の実態が明らかになった人たちだった。中年の女性が1人、私の手を両手でぎゅっと握った。「あのとき、あの帳簿が見つからなかったら、母があとどれだけあそこにいたか……。本当に、ありがとうございます」何と答えればいいかわからず、私はしばらく、その手を握り返していた。「本当に、大変でしたね」それしか、言えなかった。ステージ前の横断幕には、財団が最初に取り組む事業が記されていた。【違法・不当
控訴審を控えた、ある午後。私は東京拘置所の面会室に座っていた。分厚いアクリル板の向こうで扉が開き、相沢修司が入ってきた。数か月の間に、顔はずいぶんやつれていた。頬はこけ、髪も整っていない。それでも、私の記憶にある人の面影は、まだ残っていた。以前なら、その顔を見ただけで、新婚のころの記憶が浮かんだだろう。今回は、不思議と何も重ならなかった。いい思い出を引っ張り出して許す理由を探すことにも、憎むために嫌な場面をたどることにも、もう疲れていた。私を見ると、修司は受話器を奪うような勢いで取った。「美月。来てくれたんだな」私はゆっくり受話器を取った。「話があるんでしょ」「ごめん。本当に、ごめん」修司は、ろくに息継ぎもせず、言葉を吐き出した。「控訴審の前に、示談書だけでも書いてくれないか? 処罰を望まないって意思を示してくれるだけでも、量刑に考慮してもらえるかもしれないって。出たら、一生かけて償う。お前が言うこと、何でもするから」「出たら?」「ああ。もう金なんかに欲を出さない。玲奈にも会わない。会社だっていらない。お前のそばで……」あきれて、笑いが漏れた。「まだ、私がそばに置いてあげると思ってるの?」修司の言葉が止まった。私はバッグから、1枚の書類を取り出した。裁判所の赤い公印が押された、離婚の判決書だった。「今日は、これを見せに来たの」判決書をアクリル板へ押し当てると、修司の目が、その一文を追った。原告相沢美月と被告相沢修司とを離婚する。修司の顔が、くしゃりとゆがんだ。「美月、待ってくれ。それは……まだ確定してないじゃないか。俺が控訴すればいいんだろ」「すれば。最後まで争って。私も、最後までやるから」「俺は、離婚したくない」「私にはもう、この結婚を続けなきゃいけない理由がないの」思っていたより、穏やかな声が出た。私は、次の書類を取り出した。別に進めている損害賠償の訴訟と、修司名義の財産に対する仮差押命令の内容だった。「あなたの預金も、株も、車も、不動産の持分も、もう仮差押えされてる。5億円の損害賠償請求は、本案訴訟で最後まで判断してもらうつもり」「5億円なんて、どうやって払えっていうんだ!」修司が、初めて声を荒らげた。私は一度受話器を耳から離し、それからまた当てた。「私の10億円の財産を奪うのは、簡単に思
数か月後、東京地方裁判所の刑事法廷。私は傍聴席の最前列に座り、被告人席を見つめていた。相沢修司、篠原玲奈、宮田正隆が、並んで立っていた。修司は拘置所で支給された服を着て、顔は明らかに痩せていた。玲奈は化粧気のない顔でうつむき、宮田院長は弁護人の隣で、落ち着きなく指をいじっていた。法廷が静まると、検察官が立ち上がった。「被告人相沢修司は、製薬会社の営業課長として勤務する中で、管理対象の医薬品を不法に持ち出して配偶者に投与し、被害者の財産を管理する目的で私立病院の関係者と共謀し、強制的に入院させました」検察官の声が、法廷にはっきりと響いた。「また、被害者の意思に反して委任状に拇印を押させ、虚偽の診断資料を用いて後見開始を申し立てています。犯行は長期間にわたって準備され、被害者の身体、財産、意思決定の権利を同時に侵害するものでした」膝の上で、私の指がゆっくりと曲がった。検察官は、修司の会社での懲戒処分に関する資料と、病院に対する行政処分の資料を、順に示した。修司は向精神薬の不正な持ち出しが発覚したあと、会社を懲戒解雇されていた。社内の監査資料には、在庫と持ち出し記録の食い違いも残っていた。捜査機関はその記録と病院で確保した医薬品の明細を照合し、修司が職務上のアクセス権限を私的に利用したことも、公訴事実に含めていた。宮田正隆が経営していた病院は、捜査の過程でほかの不法な入院事例も確認され、閉鎖された。関係行政機関では、病院の開設許可と医師免許の取消しの手続きが進められた。玲奈についても、私の持ち物を携えて出国しようとしたところを逮捕された事実や、修司と交わしたメッセージが、証拠として提出されていた。最後に、検察官が求刑した。「被告人相沢修司に懲役15年、宮田正隆に懲役12年、篠原玲奈に懲役7年を求刑します」玲奈の肩が、大きく揺れた。修司はすぐに立ち上がり、裁判官に向かって頭を下げた。「本当に申し訳ありませんでした。被害者には、一生かけておわびします。どうか一度だけ、寛大なご判断をお願いします」一生かけて、おわび。病院では、私が自分の名前すら思い出せなくなるようにすると言っていた男だった。私は表情を変えなかった。今さら、その言葉を信じる理由なんてない。判決の日、裁判長は判決理由を長く読み上げた。被害者を精神疾患のある人間に仕立
数日後、続行となった後見の審問期日に、私は再び東京家庭裁判所へ出席した。修司と宮田院長はすでに勾留されており、審問室には私と双方の代理人だけがいた。裁判官は提出された資料へもう一度目を通し、私を見た。「相沢美月さん、いくつか確認します。現在、ご自身の財産や法律行為について、自分で判断し、処理できますか?」「はい、できます」「誰かに財産の管理を任せたり、成年後見を受けたりすることを望みますか?」「いいえ」私は、はっきり答えた。修司が提出した診断書と委任書類は、その作成経緯が捜査の対象となっていた。私本人の状態を確認した裁判所は、もはや修司の主張だけをもとに後見開始を判断することはできなかった。結局、相沢修司による後見開始の申立ては、却下された。審判書には、私が自ら出席して意思を明確に述べたことと、提出された医療資料の信用性に重大な疑問が生じたことが記されていた。修司がでっち上げた『自分では判断できない人間』という虚像は、私の短い返答だけで崩れた。成年後見の名目で私の財産に手を出そうとした、最初の計画が潰れた瞬間だった。審問室を出ると、先輩が書類を2組、渡してくれた。「ご両親の相続の件も、整理し直した。お前が単独の相続人だということは、戸籍やこれまでの書類で確認できていたし、これで修司が後見人として割り込む道もなくなった。ビルの登記と金融資産の名義変更は、そのまま進めていい」最初のページには、両親の名前の下に、相続人として私の名前が記されていた。私はその1行を、しばらく見つめた。港区のビルを含む、10億円規模の相続財産。修司は、裁判所がひと言認めれば自分の口座に金が流れ込むかのように話していた。けれど、そもそも両親の相続人は、私だった。あの男が狙ったのは、私の判断能力をなかったことにしたうえで、後見と偽造した委任状を使い、財産を動かす権限だった。その権限を、結局、手にすることはできなかった。「それから、こっちも」先輩が、もうひと組の書類を開いた。別途起こした損害賠償請求を保全するために申し立てた、仮差押命令だった。修司名義と確認された預金、株式、車、不動産の持分などについて、請求額5億円の範囲で処分を封じる命令が出ていた。「今すぐ5億円を手にした、という意味じゃないからな」先輩が、先に念を押した。「本案の判決が出