Mag-log in翌日。あひるの支社に戻った。朝の空気は、いつもと変わらない。エントランスの自動ドア。コーヒーの匂い。少し乾いたオフィスの空調。社員たちの「おはようございます」が交差する声。全部。昨日までと同じ。なのに。愛海の中だけが、どこか違った。案件は終わった。正確には。“終わらせた”。隠蔽も。責任の所在も。あの歪んだ構造も。ようやく片付いた。肩に乗っていた重いものが、少しだけ下りた気がする。本当なら。もっと安心していいはずだった。でも。(……まだ、終わってない)浅井さん。...あの人との関係だけは。まだ何一つ、整理なんてできていない。昨日。ちゃんと言った。“今のままじゃ、できない”逃げじゃない。誤魔化しでもない。ちゃんと考えた上での答え。そう。あれで良かった。そう思ってる。思ってる、はずなのに。「……」デスクに鞄を置きながら、 何度も思い出してしまう。昨日の近すぎた距離。真っ直ぐな目。触れた熱。低い声。“距離は変えないよ”あんな言い方。ずるい。反芻するたびに、 心臓がうるさくなる。その時。後ろから、低い声。「伊藤」びくりと肩が揺れた。振り返る。そして。一瞬、呼吸が止まる。浅井。近い。思っていたより、ずっと。いつも通りのスーツ。少し眠そうな目。何もなかったみたいな顔。なのに。視線だけが、静かに熱い。「……おはようございます」声が少し硬くなる。すると。浅井が小さく頷いた。「おはよう」たったそれだけ。なのに。距離が変わらない。近い。近すぎる。昨日のことが、 まだ身体のどこかに残っているのに。愛海は、少しだけ後ろへ下がった。ほんの数センチ。無意識だった。でも。浅井は気づいている。絶対。なのに。動かない。引かない。ただ。静かに見ている。「会議入ってる」唐突だった。「……何のですか」「新規案件」短く。相変わらず説明が少ない。「急ぎのやつ」「昨日の件の後処理」「代替プロジェクト回す」そこで。少しだけ間が空く。そして。当然みたいに言った。「お前とやる」「……え?」言葉が止まる。「私と?」「他にいない」即答。迷いゼロ。「伊藤が一番早い」「現場理解してる」「意思決定もできる」淡々と
この案件の最終始末として、画面を見ていた。未だに終わったことが実感できない。それでも。作業は止まらない。だからこそ、終わったのだと実感ができないまま。やることだけが増えていく。そんな状況だった。「……まだやってるの」低い声。振り向く。樹。「……何しに来たんですか」冷たく返す。「本当に、最後だから。話したいことがある」「仕事の話ですか?」「……半分は」曖昧な答え。「もう何回目なの?いい加減にしてほしい」一瞬、沈黙。「……すぐ済むから」椅子を引く音。向かいに座る。「……」空気が重い。「伊藤」「今回の件」「お前が見てる通りだ」「……どの通りですか」樹は少しだけ目を閉じる。「補助金の案件」「KMの承認」「松村の会社」「外注先としてのTK Network」一つずつ並べる。「……」愛海は黙って聞く。「全部、繋がってる」「……」「意図的に?」「……ああ」はっきり言う。「……」胸が少しだけ軋む。「最初からじゃない」樹が続ける。「でも、途中からは分かってた」「……」「気づいたんですか」「仕事でな」苦く笑う。「お前と同じだよ」「数字が合わなかった」「……」「調べたら」「親父が出てきたんだ」空気が変わる。若干の、空笑い。「……」「KM側の承認ライン」「松村側の受注」「TKへの資金の流れ」「全部、出来上がってた」「……」「止めなかったんですか」一瞬。沈黙。「止めたら終わってたんだよ」「……何が」「全部」低い声。「会社も」「親父の立場も」「俺自身の今後の在り方も」「……」「で」樹が続ける。「“関係を固定しろ”って言われた」「……関係?」「松村と」一拍。「婚約」「……」「外から見たときに」「ただの取引じゃなくなる」「家族になる」「裏切れなくなる」「説明もつく」淡々と。「……」(そういうこと)愛海の中で、全部が繋がる。みゆ。あの余裕。あの態度。「……みゆは」「知ってたよ」即答。「むしろ」「中で動いてる側だったから」「……」「KMのTK担当として」「松村の窓口として」「数字も触ってる」「……」(最初から)「……」「じゃあ私は」「邪魔だったってことですか」樹が、止まる。「……ああ」
前の日の温度感を保ったまま。次の日も、本社の会議室にいた。監査チーム、本社法務、経理、外部関係者。全員が揃っている。空気が今までにないくらいに重い。「本日は最終報告を行います」資料が配られる。ページがめくられる。「本件において、中間業者を経由した資金の不正流用が確認されました」静かなざわめき。「資金は複数法人を経由し、最終的にTK Network関連口座へ流入」「さらに松村ホールディングス関連ファンドへの接続も確認されています」完全に。事実として、繋がった。「承認前の情報を基にした資金移動も確認されており、内部関係者の関与が認められます」沈黙が続く。逃げ場はない。この関係者が誰に示すのかまで、明確だった。「関係者への最終確認を行います」視線が向く。樹へ。「高山さん」「……はい」立ち上がる。迷いはない。「今回の資金移動について、あなたの関与はありますか」一瞬の間。「……あります」はっきりと。ざわめきが広がる。そのような状況でも、樹は冷静だ。そして、止まらない。彼は、淡々と話し始めた。「承認前情報にアクセスできる立場にありました」「その情報を外部と共有しました」「設計は誰ですか」「……松村ホールディングス側です」空気が壊れる。みゆの表情がわずかに歪む。「本件は社内処分および外部報告へ移行します」決定が出る。すべてが確定した。会議が終わる。人が散っていく。ざわめき。私は動けない。(終わった)やっと。全部。「愛海」振り向く。樹。さっきまでと違う。どこか、落ち着いている。「少し話せる?」「……少しだけなら」外へ出る。人気のない通路。静か。「……」樹が口を開く。「思ってたより、軽いな」「……何が」「処分」少しだけ笑う。「グループの案件だから」「御曹司だから」「そんなに大事にはならないのは知ってた」その言葉。一瞬で、冷める。自分がやってきたことあっさりと認めて。私の人生を、大きく変えておきながら。自分は軽い処分で済んだことだけを語りたかったのか。あまりにも、軽すぎて。思わず、想像以上の不快感が私に覆い被さる。「……それ言いに来たの?」「違う」一歩近づく。「終わったから」「やっと普通に話せると思って」「……」「全部整理できた
夜になる。本社の会議室の灯りが、まだ落ちていない。作業をしていたら時間が経ってしまった。正確な証拠と整合性を持たせるために。やることが多過ぎる。静かすぎる社内。席を立ち廊下に出る。会議室の中から低い声が聞こえる。樹の声だ。「……五年前の件から、構造は同じです」ドア越しに、言葉だけが届く。「補助金の事前情報を握る人間がいて、中間業者を使って資金を一度外に逃がす」「その後、別名義の投資ファンドに戻す」「表面上は完全に切り離されているように見えるが、資金の流れは繋がっているんです」息を止める。五年前。浅井さんの過去。(前に聞いた話と同じだ)部屋のドアに手を伸ばしかけて、止める。今、入るべきか。迷う。「伊藤」背後から声。振り向く。浅井さん。「……聞こえてましたか今の」正直に言う。「うん」短く頷く。「……部屋に入りますか?」「いや」首を振る。「もう少しで終わるはず」「……」沈黙。でも。前みたいな距離じゃない。「……五年前の件って」小さく聞く。一瞬、視線が揺れる。でも。「前に話した件のこと」低く言う。「今回と関係ある」「……」やっぱり。繋がっている。「……聞いてもいいですか」一歩だけ踏み込む。「……」少しだけ間が空く。そして。「……伊藤に」短く言う。「今話してもいいよ」「……」拒絶じゃない。でも。私は浅井さんのタイミングを待つべきだ。「……分かりました」だからこそ。それ以上は踏み込まない。でも。その距離が、少しだけ変わっている。そのとき。ドアが開く。樹が出てくる。顔色が悪い。でも。目は、どこか静かだった。「……終わった」小さく言う。「一次は」「……」私を見る。そして。「全部話した」はっきりと。「五年前の件も」息が止まる。浅井さんの視線が、一瞬だけ動く。「……そう」それだけ。でも。空気が変わる。「……ごめん」「……親のこともあって」「……どうかしてた」たどたどしく、こぼすように。樹が言う。「遅すぎるのは分かってる」「……」言葉が出ない。でも。「……ありがとう」小さく言う。それだけ。樹が一瞬、驚いた顔をする。でも。何も返さない。「……もう行く」背を向ける。止まらない。自分で進ん
みゆが来てから、数日後。今度は私と浅井さんが、本社に来ることになった。以前訪れたときよりも、空気が重い。誰も大きな声で話さない。コピー機の音だけが、やけに響いている。「伊藤」浅井さんに呼ばれる。「はい」「会議室、今すぐ」いつもよりも、急かす様子で。その声で分かる。何かが、出た。会議室には、監査チームの担当者が二人。浅井さん。そして、私。机の上には、追加資料。中間業者の取引履歴。TK Network関連口座。松村ホールディングスの関連ファンド。「確認が取れました」監査担当者が言う。「補助金の一部が、中間業者を経由して、別法人に流れています」ページがめくられる。「その後、TK Network関連口座を経由し、松村ホールディングス側の投資ファンドに流入しています」息が止まる。ついに、事実として繋がった。追っていたものが。想像していた通りに、形になった。「加えて」担当者が続ける。「承認前に資金移動が発生しています」「つまり」浅井さんが低く言う。「承認予定を事前に把握していた人間がいる」「その可能性が高いです」監査担当者が頷く。「関係者への追加ヒアリングが必要になります」「……高山さんも対象ですか」思わず聞く。担当者は一瞬だけ私を見る。「はい」胸の奥が沈む。分かっていた。でも、言葉にされると重い。樹は、もう逃げられない。彼はこの件を。意図的に隠蔽していたのだ。「松村側も?」浅井さんが聞く。「対象になります」静かに。でも、確実に。何かが崩れ始める音がした。会議が終わる。廊下に出る。足元が少しだけ浮いているような感覚。ここまで来た。本当に。そのとき。「愛海」声。振り向く。樹。顔色が悪い。いつもの余裕がない。今回の件で。急いで支社まで来ていたのが伝わる。「……今は無理」「少しだけ」「仕事なら会議室で」「違う」即答だった。その言葉だけで、嫌な予感がする。「愛海」樹が一歩近づく。「頼む」「俺だって」「隠さなくていいなら」「隠したくなかった」「……」その顔。初めて見る。崩れかけている。「ここまで来たら。もう止められない」低く言う。「監査が入ったから、全部出すことになる」「そうだね」「分かってる?どれだけ、大事なのか」
支社の空気は、張り詰めたまま。 でも、監査チームは一度引いた。 本社で正式に。 この件について協議するとのこと。 終わったわけじゃない。 むしろ、これから。 「伊藤さん」 山川さんが小声で呼ぶ。 「来てます」 「……誰がですか」 一瞬戸惑う。 誰が来たのかは、なんとなくわかる。 でも、聞く。 「別部署の...女性の方です」 「会議室に」 「……」 息を吸う。 吐く。 (来た) 「分かりました」 立ち上がる。 足は止まらない。 でも。 心臓は、うるさい。 会議室の前。 ノックをする。 「どうぞ」 聞き慣れた声。 ドアを開ける。 そこにいたのは。 想定通り、みゆだった。 わざわざ、あひるの支社に。 「久しぶり、愛海」 笑っている。 昔と同じ。 でも。 目は冷たい。 「……久しぶり」 声が、少しだけ硬い。 その隣。 スーツ姿の男。 名刺が出される。 TK Network 偶然ではない、タイミング。 確実にわざと。今だから、ここまで来ている。 「本日は、お時間ありがとうございます」 男が言う。 「今回の件について、正式に確認に参りました」 「……」 視線をみゆに向ける。 「私の案件で来たの?」 小さく聞く。 「そうに決まってるじゃない」 あっさり返す。 「じゃなきゃ」 「こんなところ来るわけないでしょ」 その言い方。 完全に線を引いている。そして、苛立ちが滲み出ている。 「……」 「座って」 促される。 向かいに座る。 距離がある。 でも。 もっと遠いのは、心の距離だった。 「今回の補助金案件ですが」 男が話し始める。 「いくつか事実確認をさせていただきたく」 「はい」 仕事として返す。 感情は、出さない。 今必要なのは、事実の確認だけだなら。 「この中間業者について」 資料が出される。 「実態の確認が取れていないとの報告を受けています」 「その通りです」 「つまり」 少し間が空く。 「不正の可能性があると」 「現時点では否定できません」 「……」







