FAZER LOGINこの日、約束の時間を三十分過ぎても、エレナは現れなかった。
玲は個室の向かいにある空席を眺めながら、まだ深刻には考えていなかった。
エレナは、制作へ没頭すると時間を忘れる。
食事の約束も、玲がアトリエまで迎えに行って初めて思い出すことがあった。
今日も、少し乱れた金髪のまま扉を開けるのだろう。
頬や袖に落としきれなかった絵の具をつけて。
『ごめん。あと少しだけって思ったら、止まらなくなった』
そう言って、困ったように笑う。
玲が『せめて連絡して』と伝えれば、『頭の中では送った』と悪びれずに答える。
それが、いつものエレナだった。
午後七時半。
玲はスマートフォンを手に取った。
『まだアトリエ?』
送信して、画面を伏せる。
描いている最中に急かされることを、エレナは嫌った。
それでも玲からの連絡には、気づけば短い返事をよこすことが多かった。
『いま無理』
『あとで』
『色が逃げる』
意味の分からない言葉でも、そこにいることだけは分かった。
八時になっても既読はつかなかった。
玲は一度だけ電話をかけた。
長い呼び出し音。
出ない。
指先が無意識にテーブルの縁を叩く。
以前、エレナに指摘された癖だった。
『玲って、顔には出ないのに、指だけ正直だよね』
『何が』
『落ち着かない時、それする』
笑いながら、細い手を重ねられたことを思い出す。
玲は指を止めた。
八時半を過ぎた頃、店員が控えめに扉を開いた。
「お料理はいかがいたしましょうか」
「もう少し待ちます。彼女が来てからお願いします」
答えながら、玲はエレナとの最後のやり取りを開いた。
『明後日、予定通りで大丈夫?』
その前には、いつものような会話が残っている。
『いま、すごくいい色が出そう』
『食事は?』
『食べた』
『何を食べたの』
『コーヒー』
『それは食事じゃないよ』
『うるさい』
そこで会話は途切れていた。
不自然ではない。
エレナは、自分の中で話が終われば返事をしない。
それでも、九時を過ぎて再び電話をかけた時、今度は呼び出し音さえ鳴らなかった。
電源が入っていないという無機質な案内が流れる。
胸の奥に、冷たい違和感が落ちた。
エレナが約束を忘れることはある。
連絡を返さないこともある。
けれど、仕事の連絡まで遮断するほど長く端末を切ることは、ほとんどなかった。
玲は席を立った。
料理には一度も手をつけなかった。
***
アトリエの扉は閉まっていた。
玲は呼び鈴を押した。
返事はない。
もう一度、今度は少し長く押す。
白い廊下に音だけが響き、中から人の気配は返ってこなかった。
玲はマネージャーへ電話をかけた。
『玲さん』
繋がった声は、わずかに硬かった。
「エレナと連絡が取れません」
『こちらもです』
「いつからですか」
『昨日の朝からです。制作に集中していると思っていたのですが』
「今、アトリエの前にいます。中には入れません」
電話の向こうで、短く息を呑む音がした。
通話を終えた直後、廊下の奥でエレベーターが止まった。
降りてきたのは、暗い色のスーツを着た二人の男だった。
管理会社の人間には見えない。
一人が玲の前まで来る。
「神崎玲さんですね」
「はい」
「少し、お話があります」
玲は相手の目を見た。
「エレナは、どこにいるんですか」
男たちは、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、胸の奥にあった違和感が輪郭を持ち始める。
「場所を移させてください」
「ここでは話せない内容ですか」
「はい」
「では、一つだけ先に答えてください」
玲は声を荒らげなかった。
ただ、視線を外さずに尋ねた。
「エレナは、どこにいるんですか」
男は一度だけ息を整えた。
「エレナ・カワサキさんは、亡くなりました」
言葉は聞こえた。
けれど、意味が頭へ入ってこなかった。
玲は男の顔を見つめた。
冗談を言っている表情ではない。
それでも、現実にはならない。
「もう一度、お願いします」
「エレナ・カワサキさんの死亡が確認されました」
「どこでですか」
「詳細はお伝えできません」
「いつですか」
「現在、捜査中です」
「遺体は、どこにありますか」
男たちは答えなかった。
玲の喉の奥が固くなる。
「僕は確認できますか」
「申し訳ありません。できません」
「なぜですか」
「捜査上の理由です」
「本人を見ないまま、何をもって信じればいいんですか」
身元確認は正式な手続きを経ている。
家族には連絡している。
それ以上は開示できない。
何を尋ねても、同じ言葉が返ってくる。
死んだという結論だけを告げられ、そこへ至るまでのすべてを奪われていた。
玲はアトリエの扉へ目を向けた。
この向こうには、エレナがいた痕跡が残っているはずだった。
描きかけのキャンバス。
床へ置きっぱなしの画材。
飲み残したコーヒー。
ソファに投げた服。
玲が置いていった本。
昨日まで、彼女が生きていた証拠。
「中へ入りたいのですが」
「現在、封鎖されています」
「僕の私物もあります」
「後日、確認いたします」
無理に開けることも考えた。
けれど、本当に事件なら、自分の行動で証拠を失わせるわけにはいかない。
玲はドアノブから手を離した。
「事故ではないんですね」
誰も答えない。
「事件に巻き込まれた可能性がある」
沈黙は、否定よりも残酷だった。
帰るよう促されても、玲はすぐに動けなかった。
カフェまでの道は、歩けば十分ほどだった。夕方の海沿いは、昼間より風がやわらかい。歩道脇の植栽が小さく揺れ、遠くでは漁船が港へ戻ってきている。玲は、エマの歩幅に合わせて歩いた。話したいことはある。それなのに、不思議と急いで言葉にする気にはならなかった。少し前までなら。相手が何を考えているか分からない状態など、気にも留めなかった。必要なら聞く。必要がなければ、そのままにする。それだけだった。今は違う。隣を歩くエマが、さっきの言葉をどう受け取ったのか。『惹かれているんです。エマさんに』言ったあとから、そのことばかり考えている。困らせたかもしれない。距離を置かれるかもしれない。それでも。『必要があれば、時間は作ります』完全には拒まれなかった。その事実だけで、胸の奥に薄い高揚が残っていた。こんな感覚は久しぶりだった。誰かの言葉一つで。次に会える可能性があるというだけで。景色まで少し違って見える。「今日は、ありがとうございました」カフェが見えてきた頃、エマが言った。「送っていただいて」「いえ」玲は小さく笑う。本当は。もう少し歩きたかった。それを言えば、また困らせるだろう。だから飲み込む。「浜中さんの展示、面白かったですね」玲が言うと。エマは少しだけ考えるように目を伏せた。「はい。作品自体も素敵でした」また。絵の話になると表情が変わる。ほんの少しだけ。普段より目が深くなる。玲は、その変化を見つけるたびに知りたくなる。どこで。何を見てきたのか。誰から教わったのか。そして。なぜ隠すのか。頭に浮かぶのは、やはりあの猫だった。額に入れられた、小さなスケッチ。最初に見た時。エマが描いたものではないと思いたかった。いや。正確には。そうであってほしかった。偶然。ただ、エレナを思い出しただけ。輪郭の取り方も。目の表情の柔らかさも。尻尾へ残した遊びも。全部。自分の記憶が勝手に重ねただけ。そう思いたかった。けれど。描いたのはエマだった。しかも。短時間のスケッチだろうに。線に迷いがない。形を取るだけなら、描き慣れた人間は多い。けれど。あの猫には。ただ写しただけでは出ない温度があった。それが。どうしても引っかかる。黒板。チョーク。展示構成への見方。そ
「惹かれているんです。エマさんに」玲の言葉が落ちたあとも、エマはすぐに返事ができなかった。美術館の廊下には、空調の低い音だけが流れている。窓の向こうでは夏の光が中庭の植栽を照らし、白い床へ葉の影を落としていた。こんなにも真っ直ぐに、誰かから想いを伝えられたのはいつぶりだろう。エレナだった頃ではない。朝倉エマとして。過去を持たない女としてこの町へ来てから、誰かの好意には気づかないふりをしてきた。奏の優しさにも。時折向けられる視線にも。恋愛というもの自体を、自分の人生から遠ざけてきた。だから。今の自分が動揺している。その事実に、エマ自身が戸惑っていた。しかも相手は。誰より近づいてはいけない人だ。この人にだけは、朝倉エマの内側へ入らせてはいけない。やはり、きちんと言葉にしなければ。「神崎さん、私は——」「困らせるつもりはなかったのですが」玲が先に口を開いた。「……つい」珍しく、言葉の終わりが曖昧だった。エマが顔を上げる。玲は少し眉を寄せていた。先ほどまで真っ直ぐに感情を伝えていた男と同じ人とは思えないほど、今度は何かを考え込んでいる。そして。親指が、人差し指の側面をなぞった。また。その癖。「今になって気づきました」玲は少し息を吐く。「エマさんは警戒心が強いですし、人との距離にも慎重なのに」視線が一度だけ逸れる。「こんなことを言えば、今まで以上に避けられる可能性もあったなって」エマは黙って玲を見た。「そこをまったく考慮していなかったことに、今、少し後悔しています」その言葉に。胸の奥が、痛んだ。知っている。この玲を。何を言われても、ほとんど表情を変えない。人前で言葉に詰まることもない。自分の判断を口にしたあとで、相手の反応を気にして慌てることもない。昔からそうだった。少なくとも。エレナの前以外では。玲の整った表情や言葉が乱れるところを、ほとんど見たことがなかった。だからこそ。どうして。エマに対してまで。その問いが、胸の奥に小さな痛みを残した。エレナではない自分に。玲が同じような顔をする。嬉しいのか。苦しいのか。もう自分でも分からなかった。気づけば、エマは少し笑っていた。「神崎さんでも、そんな表情されるんですね」玲が目を瞬く。それから、困ったように苦笑した。
玲の表情は、最後まで穏やかだった。けれど、エマの内側はまるで穏やかではなかった。さっきから、玲が考え込むたびに指先が動いている。親指で、人差し指の側面をゆっくりなぞる。昔から変わらない癖だった。何かを考えている時。答えを急がず、頭の中で一度組み立てている時。玲は、ほんの少しだけ指に動きが出る。八年。人は変わる。声も。表情も。立場も。纏う空気も。それなのに。そういう小さなところだけが、昔のままだった。エマは、それが妙に落ち着かなかった。話はもう穏やかに終わったはずなのに。胸の奥には、懐かしさと。それに似た、息苦しさが残っていた。「じゃあ神崎さん、この件はまた連絡します」浜中さんが資料をまとめながら言った。玲も立ち上がる。「ありがとうございます。お時間をいただきました」丁寧に頭を下げる。「こちらこそ。二作品の件、助かります」浜中さんは朗らかに笑った。エマも、そろそろ立った方がいいのか迷う。もう用事は終わっている。カフェへ戻るなら、今が自然だった。そう考えたところで。玲がこちらを見た。「エマさん」「はい」「お店へ戻られるのであれば、送ります」「いえ、大丈夫です。歩いて——」「少しだけ、お話ししたいので」言葉が重なった。普段なら、人の返事を遮るような話し方はしない人なのに。玲自身も気づいたのか、一瞬だけ口を閉じる。それでも、続けた。「送らせてください」断る理由を探した。けれど。仕事の話もした。浜中さんもいる。ここで強く拒む方が、かえって不自然な気がした。「……分かりました」そう答えると。玲の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。その変化まで見えてしまうことが、また落ち着かない。「じゃあ、エマさんもまたね」浜中さんが手を振る。「はい。今日はありがとうございました」「こちらこそ」そこで浜中さんは何でもないように続けた。「次は動物以外で、また描いてね」エマの身体が固まった。浜中さんも。言った瞬間に気づいたらしい。猫とは、直接的には言ってないものの。私が目の前にあるスケッチを描いた人というのが。わかってしまうには、十分な言葉だった。しまった。そんな顔をした。玲は。何も言わなかった。ただ。静かに笑った。その笑みが。気づいたのか。気づいていないふりをし
千早奏だけではない。ジャンだけでもない。今度は。親子ほど年の離れた浜中にまで。エマとの距離が近いというだけで、こんな感情を覚えている。「まあ、でも」エマの声に、思考が途切れた。玲は隣を見る。エマが少しだけ笑っていた。先ほどまで作品を語っていた時の硬さが、ふっと抜けている。「神崎さんは、よほどこの作家さんがお好きなんでしょう」「……そう見えますか」「見えます」その答えに。玲は妙に気恥ずかしくなった。「ときには、自分のストーリーや好みを押し通すことも、展示では大事だと思います」エマは会場図から手を離した。「ですから、最終的には判断される方に委ねていいと思いますけど」柔らかく収束させる。勝ち負けにしない。玲の意見を否定したまま終わらせるのでもなく。自分の考えを引っ込めるのでもない。ただ。違うものを違うまま、同じ場所へ置いて終わらせる。その感覚が。玲には妙に心地よかった。エレナとは違う。また。そう思う。顔が似ている。瞳も似ている。時折、線の中に懐かしいものがある。それなのに。知れば知るほど。エマは、エレナではない。違うからこそ。もっと知りたくなる。そのことに気づき。玲の胸の内側が、静かに揺れた。「まあ、僕はエマさんの感性を信頼してるだけさ」浜中さんが朗らかに言った。また。ざらつく。玲は何も言わなかった。「じゃあ、企画展の方はもう少し考えるとして」浜中さんは資料を閉じる。「エレナ・カワサキの二作品については、ありがたく調整させてもらいます」「はい」「僕も楽しみなんだよ。エレナの作品は、ヨーロッパで一度見ただけだから」浜中さんの声を聞きながら。玲の視線は、再び机の端へ落ちた。猫。名もない誰かが描いた、小さなスケッチ。浜中さんが大切そうに額へ入れたもの。玲はそっと手を伸ばし。額縁の端を撫でた。やはり。気になる。輪郭の取り方。柔らかな目。少しだけ遊ばせた尻尾。完成度が高い。短時間で描いたような軽さがあるのに、必要な線を迷っていない。描き慣れた人間の手だ。そして。懐かしい。エレナと同じではない。むしろ、エレナならこんなに柔らかく猫を描いただろうかと思う。だから余計に。分からない。玲は視線だけを横へ動かした。エマは、残ったお茶へ目を落としている
「私は、そう思いました」エマが言い切ったあと。玲は、ほんの少し笑った。自分でも意外なほど、自然に口元が緩んだ。「嬉しいです」エマが瞬きをする。浜中さんも、わずかに眉を上げた。「エマさんが、こんなにはっきり意見をおっしゃるのを聞いたのは初めてなので」玲はエマから目を逸らさなかった。「新しい一面を知れて」数秒。妙な沈黙が落ちた。エマの瞳が、分かりやすく揺れる。浜中さんまで、玲とエマを交互に見ていた。二人がなぜ驚いているのか。玲には分からないでもなかった。自分が誰かの新しい一面を知れたことを、嬉しいなどと口にする。以前なら、考えもしなかった。それでも。今は、本当にそう思った。だから言った。「ただ」玲は何事もなかったように資料へ視線を戻した。「僕は、残すべきだと思っています」エマも表情を戻す。「そうですか」「この作家の経歴と、この作品が描かれた背景を考慮すれば、むしろシリーズから外すべきではないかと」少しだけ。試したかった。エマが感覚だけで話しているのか。それとも。作品の背景まで理解した上で、先ほどの意見に至ったのか。玲は作家がその作品を制作した時期と、当時の美術界での位置づけを簡潔に説明した。それまで閉じた画面構成を続けていた作家が、評価を大きく広げた時期。国外での活動が増え、作品にもそれまでなかった華やかさが入り始めた。問題の一枚は、その転換点にあたる。「その背景まで含めれば」玲は資料へ指を置いた。「この一枚が外へ開いていること自体に意味があります。前後との差異も含めて、シリーズに置くべきだと思っています」エマの瞳が、僅かに揺れた。知らなかったのか。そう思った。けれど。彼女はすぐには答えなかった。作品を見つめ。何かを頭の中で組み直すように黙っている。そして。「……あの作家の経歴と、あの絵の背景を考えれば」静かな声が落ちた。「なおさら、入れるべきではありませんね」玲は目を上げた。予想していなかった。反論されることではない。その内容に。「どうしてですか」「転換点だからです」エマは淡々と答えた。迷いがない。「あの作品単体を中心に作家の変化を見せる展示なら、神崎さんのおっしゃる通りだと思います。でも、今回は違いますよね」エマの指先が会場図の上を滑る。「今回の
「エレナ・カワサキの作品は、見たことはありますか?」玲の問いに、エマはすぐには答えなかった。ティーカップの取っ手へ置いた指先に、わずかに力が入る。知らない。そう答えることはできた。けれど。浜中さんの前で、あまりにも何も知らない人間を演じる方が危険な気がした。美術館の企画について意見を求められ。現代美術のシリーズを見て、作品同士の流れについてまで話した。そんな自分が、世界的に知られたエレナ・カワサキをまったく知らないという方が、不自然だ。エマは一度だけ呼吸を整えた。「有名な画家ですよね」できるだけ何でもないことのように言う。「作品自体は、画像で見たことがあります」綺麗な嘘だった。完全な嘘ではない。画像でも見たことはある。自分の作品を。それを描いた本人としてではなく。ただ知っている画家について話すように口にした。玲は、しばらくエマを見ていた。疑っているのか。それとも、単に答えを聞いているだけなのか。表情からは読み取れない。やがて。「そうでしたか」玲は静かに頷いた。それだけで終わると思った。けれど。「僕は」玲の声が続く。「エマさんに、エレナの作品を観に来ていただきたいと考えています」エマは思わず顔を上げた。玲の目は、まっすぐこちらを見ている。「フェスティバルで制作される上でも、良いインスピレーションになるかもしれませんし」あくまで仕事のように。あくまで合理的な理由を添えて。けれど。その言葉を聞いた浜中さんが、分かりやすく目を丸くした。玲は気づいていないのか。それとも、気づいていて無視しているのか。エマには分からない。ただ。私情で動かない男として知られている人が。一人のカフェ店員へ、自分が誰にも貸さなかった作品を見に来てほしいと言っている。少なくとも。浜中さんには、その異常さが分かるらしい。「私のような人間に、そんな作品を見せていただくなんて」エマは小さく笑った。「畏れ多いことです」距離を取るための言葉だった。ところが。「それは聞き捨てならないな」浜中さんがすぐに割って入った。エマが振り返る。「浜中さん?」「エマさんが、自分を『私のような人間』なんて言うのはよくない」朗らかな声だった。それでも、思ったより真面目な顔をしている。「絵の感性の話なら」浜中は玲







