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第3話:葬ることさえ許されなかった

Auteur: Sunny
last update Date de publication: 2026-08-02 12:38:10

この日、約束の時間を三十分過ぎても、エレナは現れなかった。

玲は個室の向かいにある空席を眺めながら、まだ深刻には考えていなかった。

エレナは、制作へ没頭すると時間を忘れる。

食事の約束も、玲がアトリエまで迎えに行って初めて思い出すことがあった。

今日も、少し乱れた金髪のまま扉を開けるのだろう。

頬や袖に落としきれなかった絵の具をつけて。

『ごめん。あと少しだけって思ったら、止まらなくなった』

そう言って、困ったように笑う。

玲が『せめて連絡して』と伝えれば、『頭の中では送った』と悪びれずに答える。

それが、いつものエレナだった。

午後七時半。

玲はスマートフォンを手に取った。

『まだアトリエ?』

送信して、画面を伏せる。

描いている最中に急かされることを、エレナは嫌った。

それでも玲からの連絡には、気づけば短い返事をよこすことが多かった。

『いま無理』

『あとで』

『色が逃げる』

意味の分からない言葉でも、そこにいることだけは分かった。

八時になっても既読はつかなかった。

玲は一度だけ電話をかけた。

長い呼び出し音。

出ない。

指先が無意識にテーブルの縁を叩く。

以前、エレナに指摘された癖だった。

『玲って、顔には出ないのに、指だけ正直だよね』

『何が』

『落ち着かない時、それする』

笑いながら、細い手を重ねられたことを思い出す。

玲は指を止めた。

八時半を過ぎた頃、店員が控えめに扉を開いた。

「お料理はいかがいたしましょうか」

「もう少し待ちます。彼女が来てからお願いします」

答えながら、玲はエレナとの最後のやり取りを開いた。

『明後日、予定通りで大丈夫?』

その前には、いつものような会話が残っている。

『いま、すごくいい色が出そう』

『食事は?』

『食べた』

『何を食べたの』

『コーヒー』

『それは食事じゃないよ』

『うるさい』

そこで会話は途切れていた。

不自然ではない。

エレナは、自分の中で話が終われば返事をしない。

それでも、九時を過ぎて再び電話をかけた時、今度は呼び出し音さえ鳴らなかった。

電源が入っていないという無機質な案内が流れる。

胸の奥に、冷たい違和感が落ちた。

エレナが約束を忘れることはある。

連絡を返さないこともある。

けれど、仕事の連絡まで遮断するほど長く端末を切ることは、ほとんどなかった。

玲は席を立った。

料理には一度も手をつけなかった。

***

アトリエの扉は閉まっていた。

玲は呼び鈴を押した。

返事はない。

もう一度、今度は少し長く押す。

白い廊下に音だけが響き、中から人の気配は返ってこなかった。

玲はマネージャーへ電話をかけた。

『玲さん』

繋がった声は、わずかに硬かった。

「エレナと連絡が取れません」

『こちらもです』

「いつからですか」

『昨日の朝からです。制作に集中していると思っていたのですが』

「今、アトリエの前にいます。中には入れません」

電話の向こうで、短く息を呑む音がした。

通話を終えた直後、廊下の奥でエレベーターが止まった。

降りてきたのは、暗い色のスーツを着た二人の男だった。

管理会社の人間には見えない。

一人が玲の前まで来る。

「神崎玲さんですね」

「はい」

「少し、お話があります」

玲は相手の目を見た。

「エレナは、どこにいるんですか」

男たちは、すぐには答えなかった。

その沈黙だけで、胸の奥にあった違和感が輪郭を持ち始める。

「場所を移させてください」

「ここでは話せない内容ですか」

「はい」

「では、一つだけ先に答えてください」

玲は声を荒らげなかった。

ただ、視線を外さずに尋ねた。

「エレナは、どこにいるんですか」

男は一度だけ息を整えた。

「エレナ・カワサキさんは、亡くなりました」

言葉は聞こえた。

けれど、意味が頭へ入ってこなかった。

玲は男の顔を見つめた。

冗談を言っている表情ではない。

それでも、現実にはならない。

「もう一度、お願いします」

「エレナ・カワサキさんの死亡が確認されました」

「どこでですか」

「詳細はお伝えできません」

「いつですか」

「現在、捜査中です」

「遺体は、どこにありますか」

男たちは答えなかった。

玲の喉の奥が固くなる。

「僕は確認できますか」

「申し訳ありません。できません」

「なぜですか」

「捜査上の理由です」

「本人を見ないまま、何をもって信じればいいんですか」

身元確認は正式な手続きを経ている。

家族には連絡している。

それ以上は開示できない。

何を尋ねても、同じ言葉が返ってくる。

死んだという結論だけを告げられ、そこへ至るまでのすべてを奪われていた。

玲はアトリエの扉へ目を向けた。

この向こうには、エレナがいた痕跡が残っているはずだった。

描きかけのキャンバス。

床へ置きっぱなしの画材。

飲み残したコーヒー。

ソファに投げた服。

玲が置いていった本。

昨日まで、彼女が生きていた証拠。

「中へ入りたいのですが」

「現在、封鎖されています」

「僕の私物もあります」

「後日、確認いたします」

無理に開けることも考えた。

けれど、本当に事件なら、自分の行動で証拠を失わせるわけにはいかない。

玲はドアノブから手を離した。

「事故ではないんですね」

誰も答えない。

「事件に巻き込まれた可能性がある」

沈黙は、否定よりも残酷だった。

帰るよう促されても、玲はすぐに動けなかった。

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  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第125話:眠っていた色

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