Share

第2話:天才画家が死んだ夜

Author: Sunny
last update publish date: 2026-08-02 12:09:10

その夜、エレナ・カワサキは、自分の人生が終わることを知らされた。

「もう一度、説明してください」

口にした声が、自分のものではないように聞こえた。

窓のない白い部屋には、エレナのほかに三人の人間がいた。

表情をほとんど動かさない日本人の男。

濃紺のスーツを着た外国人の女性。

そして、数日前からエレナのそばを離れなかった警護担当者。

換気扇の低い音だけが、途切れずに響いている。

エレナは膝の上へ置いた手を見つめた。

爪の際には、落としきれなかった青と黒の絵の具が残っている。

昨日まで、彼女は絵を描いていた。

完成が近かった。

これまでより少しだけ外へ開いた、今までとは違う作品になると思っていた。

それが今、どこにあるのかさえ分からない。

「あなたの作品の一枚が、国際的な美術犯罪組織の資金洗浄と密売を裏づける証拠になっています」

男の説明を受け、外国人の女性が端末をエレナへ向けた。

画面に映ったのは、数年前に描いた作品だった。

濃い青の中に白い建物が浮かび、窓から長い影が伸びている。

欧州の個人コレクターへ売却されたはずの絵だ。

「作品は複数の国と所有者を経由していますが、取引価格と実際の資金移動が一致していません。美術品の売買を装い、違法な資金が動かされていた可能性が高い」

「それは、私には関係ないでしょう」

「そうであればよかったのですが」

作品が保管されていた施設では、犯罪組織の取引記録が修復資料として偽装されていた。

作者であるエレナなら、本物かどうかを判別できる。

修復された箇所の違和感に気づき、証言することもできる。

そして何より。

「あなたが生きている限り、作品が本物であると証明される可能性が残ります」

静かな言葉だった。

けれど、それが何を意味するのかは分かった。

エレナは椅子の背へ身体を預けた。胸の奥が冷え、うまく息が吸えない。

「今朝、あなたの滞在先へ侵入を試みた人間がいました」

警護担当者の言葉に、エレナは顔を上げた。

「私を殺そうとしたんですか」

誰も否定しなかった。

それでも、警察に守ってもらえばいいと思った。

証言もする。作品も探す。安全な場所へ移ればいい。

だが、問題はエレナ一人ではなかった。

男が新しい画面を開く。

両親。

画廊の担当者。

ジャン・モロー。

そして、玲。

車を降りる玲の横顔が映った瞬間、エレナは椅子を蹴るように立ち上がった。

「どうして玲の写真があるんですか」

「あなたと最も近い人物の一人だからです。すでに監視されている可能性があります」

「なら、玲も保護してください」

「神崎玲を正式な保護対象へ入れれば、あなたと接触している人間だと組織に判断される危険があります」

「玲は何も知らない」

「彼らが、そう信じるとは限りません」

エレナはテーブルへ手をついた。

玲へ連絡すれば、彼は必ず動く。

事情を聞き、エレナを探し、危険だと言われても止まらない。

だからこそ、何も知らせてはいけない。

「黙って消えろってことですか」

誰も答えなかった。

「玲には何も言うなと」

「はい」

「生きていることも、どこにいるのかも?」

「はい」

「いつ戻れるかも?」

男は少し間を置いてから答えた。

「戻れる保証はありません」

昨日まで、玲とは数日後に食事へ行く予定だった。

エレナが以前、行ってみたいと言った店を、玲が覚えていてくれた。

制作の合間に何を着ていこうか考え、それを少し楽しみにしていた。

それが、もう二度と会えないかもしれない未来へ変わった。

「どれくらい隠れていればいいんですか。一か月? 半年?」

返事はない。

「何年ですか」

外国人の女性が、わずかに視線を落とした。

「分かりません」

男は二つの選択肢を示した。

今の身分のまま、期限のない保護下へ入る。

あるいは。

「エレナ・カワサキを、公式記録上死亡した人物にします」

名前も国籍も経歴も変える。

外見を変え、新しい人生を与える。

画家として公に活動することもできない。

「絵を描くなってことですか」

「発表することはできません」

エレナは自分の指先を見た。

絵を捨てる。

玲を捨てる。

名前も、作品も、人生も置いていく。

それでも、玲を生かせる。

「一度だけ、玲に連絡させてください」

「できません」

「何も言いません。声を聞くだけでも」

「接触した事実が残ります」

「手紙は?」

「渡せません」

「私が死んだと聞いたら、玲はどうなるんですか」

今度だけは、誰もすぐに答えなかった。

やがて男が静かに言った。

「生きている限り、いつか立ち直る可能性があります」

残酷だった。

けれど、正しかった。

エレナは玲に生きていてほしかった。

いつか別の誰かを愛して、仕事をして、笑ってほしい。

生きていると知れば、玲は探す。

死んだと信じれば、いつか諦められるかもしれない。

「時間はありません。今夜中に移動します」

警護担当者の言葉を聞きながら、エレナは最後に玲と会った日のことを思い出した。

アトリエへ来た玲は、床に座り、描きかけの絵を長い間見ていた。

帰り際、エレナはなぜか玲を呼び止めた。

『玲』

『何?』

本当は、もう少しそばにいてほしかった。

けれど、次があると思っていたから。

『……何でもない』

そう答えた。

玲は『また来るよ』と言って帰った。

あれが最後だった。

エレナは目を閉じ、ゆっくり開いた。

「私を、死んだことにしてください」

声は震えていた。

それでも、取り消さなかった。

玲を守るため。

その言葉だけを、何度も胸の中で繰り返した。

***

移動は深夜だった。

持ち物は小さな鞄一つ。アトリエへ戻ることも、作品へ触れることも許されなかった。

スマートフォンはすでに回収されていた。

最後に見た画面には、玲からのメッセージが残っていた。

『明後日、予定通りで大丈夫?』

返信も、既読もつけられなかった。

車が信号で止まった時、反対車線に見覚えのある黒い車が並んだ。

後部座席。

端末へ視線を落とす横顔。

玲だった。

「止めて」

エレナはドアへ手を伸ばした。

すぐに警護担当者が手首を掴む。

「開けないでください」

「玲が、すぐそこにいる」

呼べば、きっと顔を上げる。

エレナを見つければ、玲は追ってくる。

危険の中へ入ってくる。

分かっているのに、口が名前の形へ開いた。

「れ……」

「彼を生かしたいなら」

低い声で止められ、エレナは動けなくなった。

二台の車がすれ違う。

窓と窓が並んだのは、ほんの数秒だった。

玲は顔を上げない。

エレナに気づかないまま、赤いテールランプだけが遠ざかっていく。

「……玲」

今度は、誰にも届かない声で呼んだ。

視界が初めて滲んだ。

抱きしめてほしかった。

ごめんと伝えたかった。

何も告げずに消えることを、許してほしかった。

けれど、許しを求めることさえできない。

車は夜の中を走り続ける。

玲のいる街から。

作品を残したアトリエから。

エレナ・カワサキとして生きた人生から、遠く離れていく。

その夜。

天才画家エレナ・カワサキは、公式に死亡した。

遺体は確認されず、葬儀も行われず、墓も作られなかった。

そして誰にも知られないまま。

別の名前で生きる女が、一人、生まれた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第130話:一歩先

    ジャンが。 先に店を出る。「明日で最後だから、また来る」エマは。 カウンター越しに。「仕事してください」と返した。「してるよ」「ここに来るのは仕事じゃないでしょう」「僕には大事」「知りません」ジャンが。 楽しそうに笑って出ていく。玲は。 その背中を一度だけ見た。気に入らない。正直に。 そう思う。ジャンが。エマの知らない部分を。 自分より先に少し知っていること。フランス語で。 あんなふうに気軽に話すこと。けれど。ジャンがいなくなると。エマは。 玲の前へ戻ってきた。「ジャン、最近毎日来るんです」「そうみたいですね」「少し疲れます」思わず笑う。「楽しそうでしたよ」エマが。 少し首を傾げた。「そう見えました?」「はい」「……話しやすくはなりました」胸の奥が。 小さく沈む。でも。「遠慮する意味がない人なので」エマが続けた。玲は。 少し笑う。「それは分かります」「でしょう?」エマも笑う。今度は。 日本語。二人だけの会話だった。「神崎さんは?」「何ですか?」「最近、忙しいんでしょう」「かなり」「なのに来たんですね」「来たかったので」エマが。 少し黙る。玲は。 もう言葉を引っ込めない。「三日も来られなかったので」「三日くらいでしょう」「僕には長かったです」「……そういうの」エマが。 少し困ったように笑う。「本当に、普通に言うようになりましたね」「嫌ですか?」聞いた。エマの表情が。 僅かに止まる。以前なら。きっと。 すぐに答えた。困ります。 やめてください。そう言われても。 おかしくなかった。でも。「……慣れてきました」小さな声だった。玲は。 何も言えなくなる。たったそれだけ。好きだと言われることに。 慣れた。拒絶ではない。それだけで。三日間。 どれだけ会議をしても感じなかった疲れが。少しだけ。 ほどけていく。「それは」玲は。 笑った。「かなり嬉しいです」「そうですか」「はい」エマが。 また少しだけ笑う。その顔を見て。玲は思った。もっと。 この人と話したい。こんなふうに。誰かがいる場所ではなく。二人で。*ビーチハウスへ戻る車の中。次の会議まで。 四十分。加瀬から。

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第129話:知らないエマ

    「玲」ジャンが。 呆れたように笑った。「君、相変わらずだね」今度は。 フランス語だった。玲も。 そのまま返す。「何が?」「重い」「知ってる」「自覚あるんだ」「かなり」コーヒーを準備していたエマが。 フランス語で口を挟んだ。「自覚があるなら、少しは直してください」玲の手が。 僅かに止まる。フランス語。それ自体は。 以前にも聞いている。でも。今の言い方。明らかに。 以前より砕けていた。「……今」思わず。 口から出た。「何ですか?」エマも。 そのままフランス語で返す。「少し、話し方が違いましたね」「そうですか?」「はい」「ジャンがいるからじゃないですか」ジャンが笑う。「僕のおかげ?」「違う」エマが即答する。「あなたに丁寧に話しても疲れるから」「ひどいな」「事実でしょう」「玲、最近ずっとこんな感じだよ」ジャンが。 楽しそうに言った。玲は。 エマを見る。「ずっと?」「ジャンが毎日来るので」エマが。 少し面倒そうに答える。「もう丁寧に話すのを諦めました」「最初はもっと冷たかった」「今も十分冷たいです」「今はだいぶ優しい」「気のせいです」二人のやり取り。自分の知らないところで。ジャンとエマが。 こんなふうに話すようになっていた。胸の奥が。 ざらつく。「玲もそう思うでしょう?」ジャンに振られる。「何がですか」「僕は面倒じゃない」エマが。 先に玲を見る。「それは嘘です」反射的に。 玲は笑った。そして。エマも。 一瞬だけ笑った。「ほら。二対一」「納得いかないな」「諦めてください」エマが。 フランス語のまま。 さらりと言う。その瞬間。ざらついていたものが。 少しだけ形を変えた。楽しい。ただ。 それだけだった。エマが。 自分に対して少し砕けて話した。一緒に。 ジャンをからかった。ほんの数秒。それだけなのに。 嬉しい。エレナを失ってから。仕事。 投資。 作品。 女性。 旅行。何をしても。一定以上。 心が動くことはなかった。なのに。エマに関してだけ。三日会えない。 寂しい。少し笑われる。 嬉しい。他の男が近い。 嫌

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第128話:三日ぶり

    *** ジャンが帰る予定の、二日前だった。まだ残って行って欲しい仕事がある。だからこそ、後一日延ばせないか連絡したものの。まだちゃんとした返事が来ていなかった。でも、そんなことはどうでもよくて。 ここ数日。玲は、思っていた以上にカフェへ行けていなかった。港町へ拠点を移せば。 東京にいるよりは、少し時間ができると思っていた。完全に見込み違いだった。リモートに切り替えたことで。 移動時間が消えた。そして。 その空いた時間へ。 会議が容赦なく詰め込まれた。朝はニューヨーク。 昼間は国内。 夕方から夜はヨーロッパ各所。ビーチハウスの窓から海が見えているのに。ここ三日。 昼間の海をまともに眺めた記憶すらなかった。「次、三十分後です」画面越しに加瀬が言う。「分かっています」「その後、一時間空いてますけど」玲の目が。 予定表の空白へ落ちた。「そこは入れないでください」「珍しいですね」「予定があります」「何の?」「私用です」加瀬が。 少しだけ眉を上げる。「この三日、同じこと言って全部潰れてますけど」「だから今日は潰さないでください」思ったより。 強い声が出た。加瀬は数秒黙ってから。「了解です」とだけ答えた。画面が切れる。玲は。 椅子の背へ身体を預けた。疲れている。でも。一時間半。 あれば行ける。エマに会える。そう思っただけで。 少し気分が軽くなった。自分でも。 単純だと思う。スマートフォンを手に取る。エマとのやり取りは。 相変わらず多くない。最初は。 ほとんど業務連絡だけだった。『展示導線の変更、確認しました』『ありがとうございます』それだけ。けれど。 最近は。少しずつ。 余計な一言が増えた。昨日も。 フェスティバルの資料についてやり取りしたあと。『今日、海がすごく綺麗です』エマから。 そんなメッセージが来た。玲は。 窓の外の海を撮って。『こちらからも綺麗に見えます』と返した。しばらくして。『同じ海なので当然ですね』返ってきた文章を見て。 一人で笑った。ほんの少し。エマの言葉が。 自分に対して柔らかくなった。それだけのことが。 妙に嬉しい。自分の気持ちは。 もう隠していない。好きだと。 惹かれていると。 あな

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第127話:最後の一枚

    その夜も倉庫へ行った。疲れている。明日は朝から仕事。分かっているのに。どうしてもキャンバスを見たかった。棚の奥から、ゆっくりと引き出す。海。そして。まだ輪郭しかない、一人の男。玲。ずっと前から描いている。完成させないために。少しずつ描いているような絵だった。この町の海なのに。光の入り方には、八年前。玲と一緒に見た海が混ざっている。だからこそ、絶対に玲には見せられない。それでも。最近、この絵の色が急に動き始めた。ジャンと展示について話す。光について。余白について。作品と作品の間に。何を残すのかについて。その度に。倉庫へ来ると。試したいことが増えている。「……嫌だな」誰もいない空間で小さく笑った。認めたくない。でも、明らかにジャンに触発されている。エレナだった頃。絵について、遠慮なくぶつかれる人間は。多くなかった。ジャンはその数少ない一人だった。そして今。エマとしてもう一度、その刺激を受けている。ただ。描かれるものは、昔とは違う。筆を取る。昨日置いた、濁った緑を見る。今日はその上に薄い青を重ねる。少し離れる。違う。もう少し暗い。でも、黒にはしたくない。何色かを混ぜる。置く。「……」呼吸が止まった。海が一段深くなった。そして。その海の前にいる玲の輪郭が。昨日よりずっと孤独に見えた。胸が痛んだ。「違う」思わず、声に出す。孤独にしたいわけではない。でも、消すこともできなかった。この絵の玲には。八年前。私が置いていった人が混ざっている。今。目の前でエマに惹かれている玲と。エレナを失った玲。二人が、同じ輪郭の中にいる。だから描き切れない。それでも、筆を置けなかった。一時間。 二時間。気づけば日付が変わっていた。少し離れた場所から、キャンバスを見る。エレナとは、全く違う。昔の私はもっと一つの感情を強く描いた。今は。違うものが。同じ色の中に重なっている。奏への穏やかな感謝。町への愛着。玲への言葉にできない感情。過去への痛み。そして。もう一度、描けるようになったことへの。怖いほどの喜び。それが。少しずつ、今の自分の作風になっている。完成させたい。初めて、はっきりとそう思った。残したいとは、まだ思えない。誰かに見

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第126話:知りたい人

    翌日。「エマ」ジャンがカウンター越しに私の手を見る。「何ですか」「爪」反射的に、手を引いた。「何が」「色ついてる」親指の爪の脇。昨日使った顔料が僅かに残っていた。「掃除です」「何の?」「なんでもいいでしょう」「うん」意外にもジャンはそれ以上聞かなかった。ただ、少しだけ目を細める。その顔が嫌で。「何ですか」「別に」「なら見ないでください」「君、本当に僕には容赦ないね」「しつこいからです」「それも慣れた」「良かったですね」コーヒーを置く。ジャンが笑う。「そういうところ、エレナとは——」「ジャン」少し低く名前を呼ぶ。言葉が止まった。「前にも言いましたよね」「……はい」「似てるのか何なのか知りませんけど」カップを彼の前へ押す。「別人の故人の話を、私に当てはめないでください」「分かった」今日は素直に引いた。「ならいいです」背を向けようとすると。「でも」また声がする。「今の君の方が面白いよ」足を止める。振り返る。「何と比べてるんですか」「比べてない」「今、比べたでしょう」「言い方が悪かった」珍しくジャンが少し考える。「エマという人間が、思っていたより面白い」「そうですか」「反応薄いな」「あなたに興味を持たれて喜ぶ理由がないので」数秒、ジャンが黙る。そして小さく笑った。「本当に久しぶりだな」「何がですか」「僕にそんな態度取る人」「周りに気を遣わせすぎなんですよ」「多分ね」「改善してください」「それは難しい」「なら知りません」私が離れる。後ろで、ジャンがまた笑っていた。「楽しそうだね」声がして、顔を上げる。奏がいた。「誰がですか」「エマ」「そう見えます?」「うん」奏は、ジャンへ一度だけ視線を向けた。以前なら、それで終わった。最近は終わらない。「結構、仲良くなったね」「毎日来るので、慣れただけです」「そっか」穏やかに笑う。その目が、少しだけ寂しそうに見えた。「今日、何時まで?」「七時です」「じゃあ俺もそのくらいに上がる」「何かあります?」「送る」「歩いて帰れます」「知ってる」すぐに返される。少し困ったように笑った。「でも、俺が送りたい」「……」奏は、少し変わった。いや。多分、態度がわかりやすくなった

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第125話:眠っていた色

    ジャンは、翌日も来た。その次の日も。その日は、玲と一緒に来ていた。四日目になると。 入口のベルが鳴っても、私は顔を上げなくなっていた。「いつもの?」コーヒーマシンの前から聞く。「まだ何も言ってないけど」「違うものなら先に言ってください」「いつもので」「はい」カップを用意する。ジャンは当然のように、いつものカウンター席へ座った。ここ数日。午前中は美術館。 午後はヨーロッパ側との調整。その隙間を縫うように、一日に一度はカフェへ来る。忙しい日は十分。 時間があれば三十分。最初の二日は警戒していたのに。毎日顔を合わせているうちに。 私の方も、少しずつ慣れてしまった。「そんなに暇なんですか」二日目に聞いたら。「暇に見える?」と返された。「見えないから聞いてます」「なら、時間を作ってるんだよ」「どうして」「君が面白いから」あっさり言われた。玲に同じことを言われたら。 その言葉の裏にある感情まで考えてしまう。でもジャンは違う。面白いから。 知りたいから。 話す。少なくとも今は。 それだけだった。だからこそ。 私も少しだけ楽だった。*「今日は随分遅いですね」午後四時を回っていた。「展示室で揉めた」「また?」「僕が悪いみたいに言わないで」「毎回いるなら、原因の一部ではあるでしょう」「照明を妥協しろと言われた」「それは嫌ですね」即答すると。 ジャンの眉が上がった。「そこは僕の味方?」「作品の味方です」「冷たいな」「何を期待してるんですか」コーヒーを置く。ジャンが笑った。「見て」差し出されたスマートフォンには。 同じ作品を異なる照明で撮った二枚の写真。「どっち?」「……右」「早いね」「写真だけなら」画面を少し近づける。「左は色が綺麗に出すぎてます」「綺麗なのは悪い?」「この作品なら」少し考える。「影が残った方がいいと思います」「どうして」「最初に色を見せすぎると、それだけで満足する人がいるので」指で画面を拡大する。「少し沈ませた方が、表面の色じゃなくて、その下にある層を見ようとするでしょう」言ってから。 気づいた。少し話しすぎた。ジャンの指が、画面の上で止まっている。「……何ですか」「いや」私を見る。「やっぱり面白いなと思って」

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status