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第50話: 一歩手遅れ

Auteur: Sunny
last update Date de publication: 2026-08-13 18:29:24

『それと、モロー財団からの出資も、ほぼ決まったよ』

玲の視線が止まる。

『彼女が参加する子どもたちの企画について、もう少し詳しく教えてくれない?』

その瞬間。

午前中の会議が、すべて一つに繋がった。

海外財団。

著名なキュレーター。

断ることのできない関係者たち。

なぜ、今日の午前中へ集中していたのか。

誰が、これほど早く手を回したのか。

玲は、ゆっくり目を閉じた。

「……そういうことですか」

苦笑が漏れる。

ジャンは初めから。

自分が午前中、身動きを取れないように組んでいた。

仕事としては完璧だった。

神崎財団にとっても利益がある。

今後の美術事業を考えれば、会っておくべき人間ばかり。

玲が断る理由はない。

だからこそ、疑わなかった。

その間にジャンは、帰国前の時間を使い、エマへ一人で会いに行った。

昔から、そういうことがあった。

エレナと三人で展覧会へ出向いた時。

ジャンは玲へ、画商や投資家の相手を頼んだ。

『君が話した方が、彼らも安心するから』

もっともらしい理由だった。

確かに、玲が相手をする方が早く話がまとまる。

だから
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    玲の表情は、最後まで穏やかだった。けれど、エマの内側はまるで穏やかではなかった。さっきから、玲が考え込むたびに指先が動いている。親指で、人差し指の側面をゆっくりなぞる。昔から変わらない癖だった。何かを考えている時。答えを急がず、頭の中で一度組み立てている時。玲は、ほんの少しだけ指に動きが出る。八年。人は変わる。声も。表情も。立場も。纏う空気も。それなのに。そういう小さなところだけが、昔のままだった。エマは、それが妙に落ち着かなかった。話はもう穏やかに終わったはずなのに。胸の奥には、懐かしさと。それに似た、息苦しさが残っていた。「じゃあ神崎さん、この件はまた連絡します」浜中さんが資料をまとめながら言った。玲も立ち上がる。「ありがとうございます。お時間をいただきました」丁寧に頭を下げる。「こちらこそ。二作品の件、助かります」浜中さんは朗らかに笑った。エマも、そろそろ立った方がいいのか迷う。もう用事は終わっている。カフェへ戻るなら、今が自然だった。そう考えたところで。玲がこちらを見た。「エマさん」「はい」「お店へ戻られるのであれば、送ります」「いえ、大丈夫です。歩いて——」「少しだけ、お話ししたいので」言葉が重なった。普段なら、人の返事を遮るような話し方はしない人なのに。玲自身も気づいたのか、一瞬だけ口を閉じる。それでも、続けた。「送らせてください」断る理由を探した。けれど。仕事の話もした。浜中さんもいる。ここで強く拒む方が、かえって不自然な気がした。「……分かりました」そう答えると。玲の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。その変化まで見えてしまうことが、また落ち着かない。「じゃあ、エマさんもまたね」浜中さんが手を振る。「はい。今日はありがとうございました」「こちらこそ」そこで浜中さんは何でもないように続けた。「次は動物以外で、また描いてね」エマの身体が固まった。浜中さんも。言った瞬間に気づいたらしい。猫とは、直接的には言ってないものの。私が目の前にあるスケッチを描いた人というのが。わかってしまうには、十分な言葉だった。しまった。そんな顔をした。玲は。何も言わなかった。ただ。静かに笑った。その笑みが。気づいたのか。気づいていないふりをし

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    「彼女は創作が滞ると、たまにイラストを描くことがあって」「どんな絵だったかは、あまり記憶にないのですが....なんとなく思い出してしまいました」胸の奥が、ざらついた。エレナ。また。自分が何かを描けば。そこに彼女が現れる。八年間。名前も。髪も。生活も。描くものさえ変わったつもりだった。昨日の猫には、何の意図もない。昔なら作品とも呼ばなかったような、小さなスケッチだ。玲の記憶の通り。たまに、作品作りで行き詰まったとき。落書きのように、描いていただけ。それなのに。玲は、その中からエレナを見つける。額を見つめる玲の表情は、穏やかだった。愛おしいものへ触れるように、親指が額の縁を一度撫でる。その仕草を見ている方が。似ていると言われたことより、エマには苦しかった。八年経っても。この人の中では。エレナは、まだこんなにも近い。「それでね、神崎さん」浜中さんが自然に会話を戻した。「今日話したかったのは、まさにそのエレナ・カワサキの作品についてなんだ」玲が額を静かに戻す。「二十七作目と、三十四作目」エマの呼吸が、一瞬止まった。番号だけで分かる。二十七作目。三十四作目。どちらも。自分が描いた作品だった。「本当に貸してもらえるんですか?」浜中さんは半ば確認するように尋ねた。「神崎さんがエレナ・カワサキの作品を外部へ貸さないのは、業界では有名な話でしょう。美術館からの依頼でも、財団からの依頼でも、これまではほとんど断ってきたと聞いてます」エマは玲を見そうになり、やめた。知らなかった。玲が自分の作品を集めていることは、保護担当者から聞いている。けれど。貸し出すことさえ拒んでいるとは知らなかった。「はい」玲は淡々と答えた。「今回は、お貸しします」浜中さんの眉が上がる。「本当に?」「そのつもりで調整しています」玲は資料へ視線を落とした。「二十七作目と三十四作目は、今回の展示テーマの解釈にも影響する作品だと思っています。ですから、貸し出しについては早めにお伝えした方がいいかと」「ありがたいよ」「ただ」玲は資料の一部を指で押さえた。「モロー財団が正式に入ったことで、西洋美術側の構成にも調整が入ると思います。新興作家から古典派まで幅を広げるのであれば、エレナの作品をどこへ置くかで意味が変わる

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第65話:私の作品

    理事室の扉が開いた瞬間。エマが最初に見たのは、玲の目だった。いつもと同じ、静かな目。人にも、場所にも、それほど興味を持っていないような、温度の薄い色をしている。浜中さんへ向けていた視線が室内を流れ、エマを捉えた。その瞬間。ほんのわずかに、目の色が変わった。驚きだけではない。何も映していなかった場所へ、急に色が差したような。自分を見つけたことを、隠しきれない変化だった。エマはそれに気づいてしまい、先に目を逸らした。「……こんにちは」「こんにちは、エマさん」返ってきた声も、先ほどより少し柔らかい。気のせいだと思うことにした。玲は浜中さんへ向き直った。「お知り合いですか?」「まあ、ちょっとね」浜中さんは朗らかに笑った。それ以上は言わない。エマがこの町で人知れず倉庫を借りていること。そこで絵を描いていること。描いたものを表へ出したくないこと。事情そのものは知らなくても、浜中さんはエマが隠しているものの輪郭を察している。だからこそ。余計な説明をしなかった。そのことに、エマは少しだけ安堵する。「浜中さん。私はそろそろ——」バッグへ手を伸ばし、立ち上がる。けれど。「すぐに済みますので」玲の声に止められた。顔を上げる。「ちょうどエマさんとも、お話ししたいことがありました。少し待っていていただけますか」「私と、ですか?」「はい」何の話だろう。嫌な予感しかしない。「まあまあ、座ってなよ」浜中さんにまで言われる。「せっかくのお茶も残ってるし」二人から止められてしまえば、帰る方が不自然だった。「……分かりました」エマは仕方なく、もう一度腰を下ろした。玲も浜中さんの正面へ座る。自然に選ばれたその場所は、エマの隣だった。近い。肩が触れるほどではない。それでも、わずかに身じろぎすれば互いの気配が分かる距離だった。エマはお茶へ手を伸ばした。その時。玲の視線が、机の端で止まった。額に入れられた猫のスケッチ。まずい。そう思った時には、もう遅かった。「それでは、神崎さん」浜中さんが資料を開く。「アートフェスティバルの展示における、例の作品の貸し出しについて——」「すみません」玲が遮った。視線は、額から動いていない。「これは、誰のスケッチですか?」一瞬。部屋が静かになった。エマ

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