Se connecter玲の表情は、最後まで穏やかだった。けれど、エマの内側はまるで穏やかではなかった。さっきから、玲が考え込むたびに指先が動いている。親指で、人差し指の側面をゆっくりなぞる。昔から変わらない癖だった。何かを考えている時。答えを急がず、頭の中で一度組み立てている時。玲は、ほんの少しだけ指に動きが出る。八年。人は変わる。声も。表情も。立場も。纏う空気も。それなのに。そういう小さなところだけが、昔のままだった。エマは、それが妙に落ち着かなかった。話はもう穏やかに終わったはずなのに。胸の奥には、懐かしさと。それに似た、息苦しさが残っていた。「じゃあ神崎さん、この件はまた連絡します」浜中さんが資料をまとめながら言った。玲も立ち上がる。「ありがとうございます。お時間をいただきました」丁寧に頭を下げる。「こちらこそ。二作品の件、助かります」浜中さんは朗らかに笑った。エマも、そろそろ立った方がいいのか迷う。もう用事は終わっている。カフェへ戻るなら、今が自然だった。そう考えたところで。玲がこちらを見た。「エマさん」「はい」「お店へ戻られるのであれば、送ります」「いえ、大丈夫です。歩いて——」「少しだけ、お話ししたいので」言葉が重なった。普段なら、人の返事を遮るような話し方はしない人なのに。玲自身も気づいたのか、一瞬だけ口を閉じる。それでも、続けた。「送らせてください」断る理由を探した。けれど。仕事の話もした。浜中さんもいる。ここで強く拒む方が、かえって不自然な気がした。「……分かりました」そう答えると。玲の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。その変化まで見えてしまうことが、また落ち着かない。「じゃあ、エマさんもまたね」浜中さんが手を振る。「はい。今日はありがとうございました」「こちらこそ」そこで浜中さんは何でもないように続けた。「次は動物以外で、また描いてね」エマの身体が固まった。浜中さんも。言った瞬間に気づいたらしい。猫とは、直接的には言ってないものの。私が目の前にあるスケッチを描いた人というのが。わかってしまうには、十分な言葉だった。しまった。そんな顔をした。玲は。何も言わなかった。ただ。静かに笑った。その笑みが。気づいたのか。気づいていないふりをし
千早奏だけではない。ジャンだけでもない。今度は。親子ほど年の離れた浜中にまで。エマとの距離が近いというだけで、こんな感情を覚えている。「まあ、でも」エマの声に、思考が途切れた。玲は隣を見る。エマが少しだけ笑っていた。先ほどまで作品を語っていた時の硬さが、ふっと抜けている。「神崎さんは、よほどこの作家さんがお好きなんでしょう」「……そう見えますか」「見えます」その答えに。玲は妙に気恥ずかしくなった。「ときには、自分のストーリーや好みを押し通すことも、展示では大事だと思います」エマは会場図から手を離した。「ですから、最終的には判断される方に委ねていいと思いますけど」柔らかく収束させる。勝ち負けにしない。玲の意見を否定したまま終わらせるのでもなく。自分の考えを引っ込めるのでもない。ただ。違うものを違うまま、同じ場所へ置いて終わらせる。その感覚が。玲には妙に心地よかった。エレナとは違う。また。そう思う。顔が似ている。瞳も似ている。時折、線の中に懐かしいものがある。それなのに。知れば知るほど。エマは、エレナではない。違うからこそ。もっと知りたくなる。そのことに気づき。玲の胸の内側が、静かに揺れた。「まあ、僕はエマさんの感性を信頼してるだけさ」浜中さんが朗らかに言った。また。ざらつく。玲は何も言わなかった。「じゃあ、企画展の方はもう少し考えるとして」浜中さんは資料を閉じる。「エレナ・カワサキの二作品については、ありがたく調整させてもらいます」「はい」「僕も楽しみなんだよ。エレナの作品は、ヨーロッパで一度見ただけだから」浜中さんの声を聞きながら。玲の視線は、再び机の端へ落ちた。猫。名もない誰かが描いた、小さなスケッチ。浜中さんが大切そうに額へ入れたもの。玲はそっと手を伸ばし。額縁の端を撫でた。やはり。気になる。輪郭の取り方。柔らかな目。少しだけ遊ばせた尻尾。完成度が高い。短時間で描いたような軽さがあるのに、必要な線を迷っていない。描き慣れた人間の手だ。そして。懐かしい。エレナと同じではない。むしろ、エレナならこんなに柔らかく猫を描いただろうかと思う。だから余計に。分からない。玲は視線だけを横へ動かした。エマは、残ったお茶へ目を落としている
「私は、そう思いました」エマが言い切ったあと。玲は、ほんの少し笑った。自分でも意外なほど、自然に口元が緩んだ。「嬉しいです」エマが瞬きをする。浜中さんも、わずかに眉を上げた。「エマさんが、こんなにはっきり意見をおっしゃるのを聞いたのは初めてなので」玲はエマから目を逸らさなかった。「新しい一面を知れて」数秒。妙な沈黙が落ちた。エマの瞳が、分かりやすく揺れる。浜中さんまで、玲とエマを交互に見ていた。二人がなぜ驚いているのか。玲には分からないでもなかった。自分が誰かの新しい一面を知れたことを、嬉しいなどと口にする。以前なら、考えもしなかった。それでも。今は、本当にそう思った。だから言った。「ただ」玲は何事もなかったように資料へ視線を戻した。「僕は、残すべきだと思っています」エマも表情を戻す。「そうですか」「この作家の経歴と、この作品が描かれた背景を考慮すれば、むしろシリーズから外すべきではないかと」少しだけ。試したかった。エマが感覚だけで話しているのか。それとも。作品の背景まで理解した上で、先ほどの意見に至ったのか。玲は作家がその作品を制作した時期と、当時の美術界での位置づけを簡潔に説明した。それまで閉じた画面構成を続けていた作家が、評価を大きく広げた時期。国外での活動が増え、作品にもそれまでなかった華やかさが入り始めた。問題の一枚は、その転換点にあたる。「その背景まで含めれば」玲は資料へ指を置いた。「この一枚が外へ開いていること自体に意味があります。前後との差異も含めて、シリーズに置くべきだと思っています」エマの瞳が、僅かに揺れた。知らなかったのか。そう思った。けれど。彼女はすぐには答えなかった。作品を見つめ。何かを頭の中で組み直すように黙っている。そして。「……あの作家の経歴と、あの絵の背景を考えれば」静かな声が落ちた。「なおさら、入れるべきではありませんね」玲は目を上げた。予想していなかった。反論されることではない。その内容に。「どうしてですか」「転換点だからです」エマは淡々と答えた。迷いがない。「あの作品単体を中心に作家の変化を見せる展示なら、神崎さんのおっしゃる通りだと思います。でも、今回は違いますよね」エマの指先が会場図の上を滑る。「今回の
「エレナ・カワサキの作品は、見たことはありますか?」玲の問いに、エマはすぐには答えなかった。ティーカップの取っ手へ置いた指先に、わずかに力が入る。知らない。そう答えることはできた。けれど。浜中さんの前で、あまりにも何も知らない人間を演じる方が危険な気がした。美術館の企画について意見を求められ。現代美術のシリーズを見て、作品同士の流れについてまで話した。そんな自分が、世界的に知られたエレナ・カワサキをまったく知らないという方が、不自然だ。エマは一度だけ呼吸を整えた。「有名な画家ですよね」できるだけ何でもないことのように言う。「作品自体は、画像で見たことがあります」綺麗な嘘だった。完全な嘘ではない。画像でも見たことはある。自分の作品を。それを描いた本人としてではなく。ただ知っている画家について話すように口にした。玲は、しばらくエマを見ていた。疑っているのか。それとも、単に答えを聞いているだけなのか。表情からは読み取れない。やがて。「そうでしたか」玲は静かに頷いた。それだけで終わると思った。けれど。「僕は」玲の声が続く。「エマさんに、エレナの作品を観に来ていただきたいと考えています」エマは思わず顔を上げた。玲の目は、まっすぐこちらを見ている。「フェスティバルで制作される上でも、良いインスピレーションになるかもしれませんし」あくまで仕事のように。あくまで合理的な理由を添えて。けれど。その言葉を聞いた浜中さんが、分かりやすく目を丸くした。玲は気づいていないのか。それとも、気づいていて無視しているのか。エマには分からない。ただ。私情で動かない男として知られている人が。一人のカフェ店員へ、自分が誰にも貸さなかった作品を見に来てほしいと言っている。少なくとも。浜中さんには、その異常さが分かるらしい。「私のような人間に、そんな作品を見せていただくなんて」エマは小さく笑った。「畏れ多いことです」距離を取るための言葉だった。ところが。「それは聞き捨てならないな」浜中さんがすぐに割って入った。エマが振り返る。「浜中さん?」「エマさんが、自分を『私のような人間』なんて言うのはよくない」朗らかな声だった。それでも、思ったより真面目な顔をしている。「絵の感性の話なら」浜中は玲
「彼女は創作が滞ると、たまにイラストを描くことがあって」「どんな絵だったかは、あまり記憶にないのですが....なんとなく思い出してしまいました」胸の奥が、ざらついた。エレナ。また。自分が何かを描けば。そこに彼女が現れる。八年間。名前も。髪も。生活も。描くものさえ変わったつもりだった。昨日の猫には、何の意図もない。昔なら作品とも呼ばなかったような、小さなスケッチだ。玲の記憶の通り。たまに、作品作りで行き詰まったとき。落書きのように、描いていただけ。それなのに。玲は、その中からエレナを見つける。額を見つめる玲の表情は、穏やかだった。愛おしいものへ触れるように、親指が額の縁を一度撫でる。その仕草を見ている方が。似ていると言われたことより、エマには苦しかった。八年経っても。この人の中では。エレナは、まだこんなにも近い。「それでね、神崎さん」浜中さんが自然に会話を戻した。「今日話したかったのは、まさにそのエレナ・カワサキの作品についてなんだ」玲が額を静かに戻す。「二十七作目と、三十四作目」エマの呼吸が、一瞬止まった。番号だけで分かる。二十七作目。三十四作目。どちらも。自分が描いた作品だった。「本当に貸してもらえるんですか?」浜中さんは半ば確認するように尋ねた。「神崎さんがエレナ・カワサキの作品を外部へ貸さないのは、業界では有名な話でしょう。美術館からの依頼でも、財団からの依頼でも、これまではほとんど断ってきたと聞いてます」エマは玲を見そうになり、やめた。知らなかった。玲が自分の作品を集めていることは、保護担当者から聞いている。けれど。貸し出すことさえ拒んでいるとは知らなかった。「はい」玲は淡々と答えた。「今回は、お貸しします」浜中さんの眉が上がる。「本当に?」「そのつもりで調整しています」玲は資料へ視線を落とした。「二十七作目と三十四作目は、今回の展示テーマの解釈にも影響する作品だと思っています。ですから、貸し出しについては早めにお伝えした方がいいかと」「ありがたいよ」「ただ」玲は資料の一部を指で押さえた。「モロー財団が正式に入ったことで、西洋美術側の構成にも調整が入ると思います。新興作家から古典派まで幅を広げるのであれば、エレナの作品をどこへ置くかで意味が変わる
理事室の扉が開いた瞬間。エマが最初に見たのは、玲の目だった。いつもと同じ、静かな目。人にも、場所にも、それほど興味を持っていないような、温度の薄い色をしている。浜中さんへ向けていた視線が室内を流れ、エマを捉えた。その瞬間。ほんのわずかに、目の色が変わった。驚きだけではない。何も映していなかった場所へ、急に色が差したような。自分を見つけたことを、隠しきれない変化だった。エマはそれに気づいてしまい、先に目を逸らした。「……こんにちは」「こんにちは、エマさん」返ってきた声も、先ほどより少し柔らかい。気のせいだと思うことにした。玲は浜中さんへ向き直った。「お知り合いですか?」「まあ、ちょっとね」浜中さんは朗らかに笑った。それ以上は言わない。エマがこの町で人知れず倉庫を借りていること。そこで絵を描いていること。描いたものを表へ出したくないこと。事情そのものは知らなくても、浜中さんはエマが隠しているものの輪郭を察している。だからこそ。余計な説明をしなかった。そのことに、エマは少しだけ安堵する。「浜中さん。私はそろそろ——」バッグへ手を伸ばし、立ち上がる。けれど。「すぐに済みますので」玲の声に止められた。顔を上げる。「ちょうどエマさんとも、お話ししたいことがありました。少し待っていていただけますか」「私と、ですか?」「はい」何の話だろう。嫌な予感しかしない。「まあまあ、座ってなよ」浜中さんにまで言われる。「せっかくのお茶も残ってるし」二人から止められてしまえば、帰る方が不自然だった。「……分かりました」エマは仕方なく、もう一度腰を下ろした。玲も浜中さんの正面へ座る。自然に選ばれたその場所は、エマの隣だった。近い。肩が触れるほどではない。それでも、わずかに身じろぎすれば互いの気配が分かる距離だった。エマはお茶へ手を伸ばした。その時。玲の視線が、机の端で止まった。額に入れられた猫のスケッチ。まずい。そう思った時には、もう遅かった。「それでは、神崎さん」浜中さんが資料を開く。「アートフェスティバルの展示における、例の作品の貸し出しについて——」「すみません」玲が遮った。視線は、額から動いていない。「これは、誰のスケッチですか?」一瞬。部屋が静かになった。エマ







