Masuk瑛優の小さな体が、ほんのわずかにこわばった。それでも何でもないような顔を必死に取り繕おうとしている。「いかないよ。星来お兄ちゃんのおうちで宿題するだけだもん。それにね、私がお兄ちゃんに折り紙を教えてあげる約束なんだ! 動物の折り方、いーっぱい知ってるから」夕月はゆっくりと歩み寄り、玄関で娘と同じ目線になるようにしゃがみ込んだ。「瑛優」その声は柔らかかったが、決して誤魔化しを許さない真剣な響きがこもっていた。「悠斗のことが心配なのは、ママにもよく分かっているわ。でもね、あなたも星来くんもまだ小さな子どもでしょう? 危ないことは、全部大人たちに任せてくれないかな」瑛優は目を瞬かせ、下唇をぎゅっと噛んで黙り込んだ。「もしも何か手がかりを思いついたとしても、絶対に自分たちだけで動いたりしないで。必ず一番に大人に相談してちょうだい」夕月は娘の小さな両手を包み込み、優しく、しかしはっきりと言い聞かせた。「約束できるわね?」瑛優は力強く何度も頷いた。夕月に心配をかけるようなことだけは、絶対にしたくなかったからだ。「……うん。ママ、約束する」夕月はその丸い額に優しいキスを落とした。「いい子ね。それじゃあ行ってらっしゃい。気をつけてね」ドアが閉まり、廊下に一人残された瑛優は、母親の唇が触れた額に手を当てていた。胸の奥に、ちくりとした罪悪感が走る。実は、彼女と星来の二人で独自に周辺の捜索マップを書き上げていたのだ。そして今日の午後、例の廃工場エリアの周辺へ自分たちの足で探索に行こうと計画していることを、夕月には内緒にしていた。「ママ、ごめんなさい」瑛優は誰にも聞こえないような声で小さく呟く。「だけど……私にも、もうちょっとだけ、できることがあるから!」小さな決意を胸に秘めたまま、リュックを揺らしてタタタッとエレベーターへ向かって走っていった。*瑛優は小さなリュックを背負ったまま、慣れた足取りで凌一の暮らす邸宅の玄関を抜け、室内へと上がり込んだ。家中はひっそりとしていて、廊下の突き当たりからわずかな物音が微かに漏れ聞こえてくるだけだ。音を頼りに進んでいくと、書斎のドアがほんの少しだけ開いている。そっと顔を覗き込ませた瑛優の視界に真っ先に飛び込んできたのは、壁一面を覆い尽くす巨大な黒板だった。
瑛優は悪戦苦闘の末にようやく卵の殻を拾い上げ、「ふう」と大きく息を吐き出してから、二つ目の卵に挑戦し始めた。今度は少しマシだった。殻は落ちなかったものの、中身がコンロに少し飛び散ってしまった。慌てて布巾を取って拭こうとした拍子に、うっかり脇に置いてあった小皿にぶつかってしまい、真っ白な塩が調理台の上にぶちまけられる。「ああっ!ど、どうしよう!どうしよう!」パニックになりながら両手で塩を集めようとするが、やればやるほど散らかるばかりで、ついにはパジャマの袖にまで生卵の黄色い液体がべったりとついてしまった。その様子があまりにもおかしくて、夕月はたまらず小さく吹き出した。キッチンに響いたその笑い声に、瑛優がびくっと肩を揺らして振り返る。入り口に母親が立っているのを見つけると一瞬目を丸くし、それから「やばい」と言わんばかりにきまずそうな顔を浮かべた。自分が盛大に汚したコンロを隠すように、咄嗟に両手を背中の後ろに回す。「マ、ママ……どうしてこんな早くに起きちゃったのよ……!」見つかってしまった気恥ずかしさが、その小さな声ににじみ出ていた。夕月はゆっくりと歩み寄り、踏み台の上から娘を抱え下ろした。そのまま目線を合わせるようにしゃがみ込み、鼻の頭に浮かんだ汗の粒を親指でそっとぬぐう。「何してたの?」その声は驚くほど優しく、自分でも気づかないうちに微かに震えていた。瑛優はうつむいたまま、エプロンの端をぎゅっと握りしめた。「……ママに、朝ごはん、作ろうと思って。昨日の夜、ママすっごく疲れてたから……少しでも長く寝かせてあげたくて」瑛優がそろりと顔を上げる。その澄んだ瞳は、まっすぐで真剣だった。「涼おじさんが、パンとスープを準備してくれてたんだけど。私、ママに『目玉焼き』を作りたかったの。ママ、前に作ってくれたでしょ?『これを食べたら元気になるよ』って。だから、ママにも食べてもらって……少しでも、元気になってもらいたかったの」夕月は、一瞬にして目の前が涙で滲むのを感じた。コンロの上に目をやると、そこにはいびつな目玉焼きが二つ並んでいた。一つは火が通っておらず黄身がだらしなく流れ出し、もう一つは縁が真っ黒に焦げて鍋底にへばりついている。その横には、大きさのバラバラなフルーツが盛られた小さなボウルが置かれていた
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、寝室のフローリングの床に細い線を引いている。部屋全体はまだ薄暗く、微かに埃が舞っていた。夕月はひどく長い夢を見ていた。深い霧の中で、誰かが「ママ」「ママ」と叫んでいる。しかし、いくら声のする方へ手を伸ばしても、濃い霧に阻まれて姿を見つけることができなかった。ゆっくりと目を開く。覚醒した直後の数秒間、ひどい目眩のような感覚に襲われ、自分が今どこにいるのかまったく分からなかった。ただ、朝の光が暖かく、枕の表面に見知らぬ清潔な香りが微かに残っていることだけが感じ取れる。夕月は無意識のうちに、その枕にそっと頬をすり寄せた。シダーウッドにミントを少し混ぜたような、冷たくて淡い香り。それが引き金となり、昨夜の記憶が冷水のように一気に脳裏へなだれ込んできた。悠斗が消えた。楓が警察に連行された。橘家で監禁されたこと。吹き荒れる夜風の中で、警察からの知らせを待ち続けたこと。極限まで張り詰めた精神と疲労の限界が重なり、帰りの車中で泥のように眠りに落ちてしまったのだ。夕月は弾かれたように上体を起こし、部屋の中を見回した。そこにいるのは自分一人だけだった。ふと視線を動かすと、ナイトテーブルの上に保温ポットが置かれている。中には、すぐに飲めるように温度が調整された白湯が入っていた。そしてポットの横には、ボールペンで重石をされたレモンイエローの付箋が横たわっている。付箋を取り上げると、見覚えのある文字が目に飛び込んできた。力強い筆圧でありながら決して主張しすぎず、払いの部分に独特の丸みを帯びるその筆跡は、間違いなく涼のものだった。『パンとスープはキッチンに置いてある。温めるだけで食べられるから。今日は冷え込むから、外に出る時は必ず一枚多く羽織ること』昨夜、意識を手放す直前の最後の光景が鮮明に蘇る。ソファの横の低いスツールに腰を下ろした涼の姿。オレンジ色の間接照明が、普段は鋭い彼の横顔をひどく柔らかく照らし出していた。彼は一言も発さず、ただ静かな瞳でこちらを見つめていた。あの時、すでに睡魔に抗えずにまぶたが落ちかけていたが、ずり落ちたブランケットを彼が丁寧に掛け直してくれたことだけはぼんやりと覚えている。その時、顎の輪郭をかすめていった涼の指先は、少しだけ冷たかった。夕月はその小さな付箋を見つ
「社長、警察の動きはこちらでもすべて追っています。捜索隊が夜通し山狩りを行いましたが、橘家の坊ちゃんの痕跡はまったく見つかっておりません」「警察の取り調べは?」涼の声が一段と冷気を帯びる。「例の寝返った運転手は、藤宮楓との協力関係についてはすべて自供しました。しかし、途中でトラックから坊ちゃんを連れ去ったのは自分ではない、と」涼の指先が、ハンドルを軽く叩く。「楓以外に、裏で糸を引いている別の黒幕がいるとでも?」「本人は『いない』と主張しています。現在、坊ちゃんを連れ去った『第三者』の行方を引き続き追跡中です」部下はその先を待ち、じっと沈黙した。しかし、涼からはなかなか言葉が返ってこない。「……社長?」しばらくして、涼が口を開いた。「ここ一ヶ月における海外送金の履歴をすべて洗え。金額にして六桁から七桁のもの、特に匿名口座から暗号資産ウォレットを経由している資金の流れを重点的に徹底調査しろ」受話器の向こうで、部下が完全に狼狽する気配が伝わってきた。「しゃ、社長……それでは対象が膨大すぎます……!」涼はシートに深く背中を預けた。車内の薄暗い照明が、彼の端正な輪郭の彫りをひときわ深く見せている。その眉間には薄氷のような冷徹さが張り付いていた。一見すると静かな冬の湖面のようだが、その底には得体の知れない激しい水流が渦巻いている。「二十四時間態勢で調べ上げろ。百人で足りなければ、千人投入しろ」「…………」部下は何かを言いかけて、結局それ以上尋ねてはいけないと悟り言葉を飲み込んだ。涼の口角が冷ややかに上がる。部下が何を言いたかったのかなど、痛いほど分かっていた。悠斗は自分の息子ではない。実家である橘家でさえ、これほどの人手と資金を投じてまで捜索してはいないだろうに、と。だが、あの子を見つけ出さない限り。夕月はこれからの人生において、ただの一夜たりとも心安らかに眠ることはできないのだから。「蟷螂の斧を狙う『黄雀』が、一度きりの罠で満足して手を引くわけがない。必ずもう一度尻尾を出す」涼の声は静かだったが、その響きには微塵も揺るがない確信が満ちていた。「ああ、そうだ」何かを思い出したように、涼はひどく何気ない口調で尋ねた。「安井綾子の動きはどうなっている?」「安井さんでしたら、今朝早く橘家の本邸へ向かいました。
瑛優は夕月の脚に乗りかかるようにしてうつ伏せになり、まだ小さな手で母親の服の裾を握りしめている。その呼吸は深く規則的で、一晩じゅう味わった恐怖や不安をすべて夢の底へ溶かしていくようだった。涼はそこから立ち去らなかった。足音を立てないように浴室からお湯を張った洗面器を運び、手で温度を確かめてからナイトテーブルに置く。しゃがみ込み、まずは夕月の顔の汚れを拭い始めた。温かいタオルが頬に触れると、夕月は微かに眉をひそめたが、目を覚ますことはなかった。涼の手つきは、まるで触れれば崩れてしまうような繊細なガラス細工を扱うかのように、徹底して慎重だった。夜の冷たい風にさらされた冷気を拭い去るように、タオルが白い額を滑っていく。暖色の間接照明が涼の横顔を照らし出し、その均整の取れた骨格をくっきりと浮かび上がらせていた。高い眉骨から続く深い目元。長く伸びた睫毛が、目の下に薄い蝶の羽のような影を落としている。すっと通った鼻筋。形の良い薄い唇は今、感情を抑え込んだようにまっすぐに結ばれ、全神経を指先に集中させていた。鋭く引き締まった顎のラインから、しなやかな喉仏の下へと続く首筋。少し開いたシャツの襟元からは、鎖骨の滑らかな曲線が覗いている。徹夜による疲労の色が全体に滲んでいたが、むしろそれが、何かに取り憑かれたような危うく美しい色気を醸し出していた。涼は夕月の上着を静かに脱がせた。その手つきは、壊れやすい宝物に触れるかのように徹底して慎重だった。上着を外すと、少しだけ躊躇う素振りを見せた後、足元の靴下をそっと引き抜く。華奢な足首は、照明の下で透き通るような青白さを帯びていた。それを見つめる涼の指先が一瞬わずかにこわばり、すぐに視線を逸らした。ベッドの端に寝かせた瑛優はひどく深く眠り込んでおり、ここへ運ばれる間も目を覚ますことはなかった。涼は顔の汚れを丁寧に拭い、同じように上着と靴下を脱がせてから布団をしっかりとかける。寝返りを打った瑛優が、空中で何かを探すように小さな手をぱたぱたと動かした。涼がそっと指を差し伸べると、その手がしっかりと握りしめてくる。手のひらに包み込まれた幼い手は、孵ったばかりのひな鳥のように小さくて柔らかい。ふいに、瑛優の唇がもごもごと動き、くぐもった声が漏れた。「……パパ」涼の全身が、まるで時を
夕月はその細い背中を抱きしめ返した。娘のつむじに自分の顎を乗せ、そっと目を閉じる。こんな幼い子に、どうしてこんな残酷な思いをさせなければならないのか。やるせなさと胸をえぐるような痛みが、夕月の心を満たしていた。娘が一人で橘家に乗り込んできた時の場面を思い出し、夕月の目頭がふいに熱くなった。「瑛優。ママね……たまには、そんなに無理して強くならなくてもいいんだよって、言いたいの」夕月の言葉に、瑛優は少し口をつぐみ、やがて顔を上げて聞き返した。「それって、女の子は女の子らしくしなさいってこと?」夕月は横に首を振り、小さな頬を優しく包み込んだ。「ううん。あなたは大事な私の娘で……まだちっちゃなヒナ鳥なんだから。これから何が起きても、ママがこの羽であなたをすっぽり隠して守り抜く」「ママだって、何でもかんでも強くいなくちゃいけないわけじゃないんだよ」瑛優からの思いがけない言葉に、夕月は一瞬言葉を失った。「ママだからって、毎回私の前に立って、全部の盾になろうとしなくていいの」瑛優は舌足らずの可愛らしい声で、それでもきっぱりと言い切った。「私、何歳だとか関係ない。ちゃんと一人前の子どもになるんだから。だって、私ってそういう女の子だもん!」その真っ直ぐな瞳に、夕月の目元はたまらず柔らかな笑みでたわんだ。前方を向いている運転席の涼の瞳の奥にも、優しい光が瞬いていた。*やがて車は、夕月が住むマンションのエントランスに滑り込んだ。涼は先に降りて後部座席のドアを開け、瑛優を抱き上げようとした。しかし夕月は首を振ってそれを制し、自分でチャイルドシートから娘を抱え上げた。瑛優は何も言わず夕月の首に小さな腕を回し、その肩口に顔をぺたりと埋めている。「部屋まで送ろう」涼の申し出を、夕月は拒まなかった。エレベーターの箱が上昇し、階数表示が一つ、また一つと点灯していく。三人の間には言葉がなく、まるで嵐の前の静けさのような、重く張り詰めた沈黙が落ちていた。玄関に着くと、夕月は片手を空けて電子錠の暗証番号を打ち込んだ。ドアが開き、中へ入る。そのまま瑛優をリビングのソファに寝かせ、靴を脱がせてから丁寧にブランケットを掛け直した。だが、涼は玄関の土間に立ったまま、帰ろうとしない。「警察の動きは引き続き俺の方の人間にも追わ
「悠斗くん、どうしたの?」クラスメイトたちが心配そうに声をかける。でも悠斗は答えない。衣服を抱きしめたまま、ただひたすら泣き続けた。橘邸に帰った悠斗は、まるで魂が抜けたようにぐったりしていた。佐藤さんでさえ、悠斗の様子がおかしいことに気づいた。「坊ちゃま、どうなさいました?先生から伺ったのですが、今日は休み時間に泣いていらしたとか……瑛優お嬢様に何かされたのですか?」橘家の使用人たちは皆、悠斗の一挙手一投足を注視している。佐藤さんが把握しているのは、悠斗が瑛優と何か話した後、突然泣き出したということだけだった。悠斗は首を振る。「瑛優は僕を叩いてない……もう、一人にして」
彼女が薬を飲ませると、ようやく北斗の容態は落ち着いてきた。北斗は夕月に打ち明けた。この家では、盛樹に殴られたことのない者など一人もいないのだと。楓は幼い頃から盛樹に虐待され、次第に暴力を崇拝するようになった。女性という枠を捨て、男社会に溶け込もうとした。まるで自分も加害者になれば、被害者にはならないと信じているかのように。「心音さんが可愛がられてるように見えるだろ?でも俺は見たんだ。あいつの顔が腫れ上がるまで殴られてるのを。あの人の頭がおかしいのは、殴られすぎたからだと思ってる」「昨夜は、何があったの?」北斗はベッドに横たわったまま、虚ろな目で天井を見つめた。「俺の本当の親
その言葉に、冬真の顔から嘲笑の表情が凍りついた。シャワーを浴びたばかりの夕月は、髪も乾かさないまま飛び出してきていた。濡れた黒髪が肩の布地を湿らせ、数本の髪が白く長い首筋に張り付いている。肌は湯気で桜色に染まり、襟元から鎖骨のラインが鮮やかに浮かび上がっていた。そんな姿に見入る冬真の喉仏が揺れ、呼吸が自然と乱れる。警官たちは意味ありげな視線を冬真に向ける。「はっ」冬真は苦々しく笑う。「わざと私を怒らせてるのか?楓との関係と同じだと言うのか?」「橘さん、まずは手を離してください」警官の一人が促す。「このままでは不法侵入になりますよ」夕月がモップを下ろすと、冬真も鹿谷の襟を手放した。
足元から底冷えするような感覚に襲われながら、夕月は言い放った。「橘冬真……あんた、子供だけじゃなくて、自分の脳味噌までどこかに落としてきたの?」予想外の罵倒に、冬真が目を見開いて絶句する。その隙を与えず、夕月は畳み掛けた。「よく思い出してみたら?今日、幼稚園で大勢の前にもかかわらず悠斗を怒鳴りつけたのは、どこの誰?悠斗を置き去りにしてさっさと帰ったのは誰よ?あの子はね、あんたを追いかけて外に出たの。あんたの目は節穴なの?まだ治ってないわけ?」「いい加減にしろ!」頭に血が上るのを感じながら、冬真は怒鳴り声を上げて夕月の言葉を遮った。彼はズボンのポケットに両手を突っ込み、凍りつくよ







