LOGIN妹に婚約者も家名も奪われ、すべてを失った公爵令嬢リリアナ。追い出されるように王宮を去った彼女の手元には、亡き王妃から密かに託された一通の遺言状が残されていた。そこに記されていたのは、王家の相続を覆す衝撃の真実。リリアナを捨てた王宮では、わずか三日後、王位と財産を巡る争いが始まり、妹も元婚約者も破滅へと転がり落ちていく。だがリリアナが望むのは復讐ではない。奪われた人生を、自分の手で取り戻すことだった。
View More王妃エレオノーラ陛下の葬儀から、七日が過ぎた。
王宮の廊下には、まだ喪の気配が残っている。 白い大理石の柱には黒い絹布が掛けられ、窓辺の花瓶には、香りの淡い白百合だけが活けられていた。いつもなら朝から女官たちの足音や貴族たちの笑い声で満ちる宮殿も、今日はどこか息を潜めている。 だが、静かなのは表面だけだった。 王妃が亡くなった。 その事実は、王宮の均衡を音もなく崩し始めている。 「こちらの箱は東翼書庫へ。王妃陛下の私的書簡は、封を確認してから年代順に分けてください。銀の小箱には触れないで。鍵の所在が確認できていません」 エレノア・ヴァレンシュタインは、黒の喪服の裾を押さえながら、女官たちに指示を出していた。 声は落ち着いていた。 泣き腫らした跡もなければ、疲労で取り乱す様子もない。 そのせいで、人はいつも彼女を冷たいと言う。 氷の令嬢。 王太子妃には硬すぎる女。 可愛げのない公爵家長女。 社交界で囁かれる言葉を、エレノアは知っている。知らないふりをしているだけだ。 「エレノア様、こちらの文書は……」 年若い女官が、不安げに羊皮紙の束を差し出した。 エレノアは手袋をした指で、封蝋の紋章を確かめる。 「隣国セルベリア王国との非公開書簡です。王妃陛下の署名があるものは、王宮文書庫の第三保管室へ。写しはありませんね?」 「はい。確認いたしました」 「では、誰にも開けさせないで。王太子殿下にもです」 女官が一瞬だけ目を見開いた。 王太子殿下にも。 婚約者であるユリウスに対して、その言い方は冷たいと思われたかもしれない。 けれど、機密文書は機密文書だ。 婚約者であることと、文書管理の権限は別である。 王妃は生前、その線引きを決して曖昧にしなかった。 『エレノア。王宮で一番危ういのは、悪意ではありません。善意の顔をした無知です』 数日前まで聞こえていた声が、ふいに耳の奥で蘇る。 痩せた指。 弱くなった呼吸。 それでも最後まで濁らなかった、あの瞳。 『あなたは、泣く者ではなく、記録を見る者でいなさい』 エレノアは小さく息を吸った。 胸の奥が痛む。 だが、手は止めない。 悲しむ時間がないのではない。悲しむ場所を与えられていないのだ。 王妃が病に伏してからの三年間、エレノアは王太子妃候補という名のもとに、王妃の代理のような仕事を担ってきた。 茶会の席次。 貴族夫人たちの派閥調整。 地方領主から届く陳情の下読み。 孤児院基金の支出確認。 王太子ユリウスの演説原稿の修正。 隣国との書簡整理。 公式には、どれもエレノアの仕事ではない。 だが、誰かがやらなければ王宮は回らなかった。 そして、その誰かはいつも彼女だった。 「お姉様」 甘い声が、扉の方から響いた。 女官たちの動きが、わずかに止まる。 エレノアは振り向いた。 薄桃色のドレスをまとった少女が、扉の前に立っていた。王宮が喪に服しているというのに、彼女の装いはどこか春めいている。もちろん、完全に礼を欠いているわけではない。胸元には黒いリボンが結ばれ、手袋も白ではなく灰色だ。 だが、喪服ではない。 可憐で、柔らかく、守ってあげたくなるような装い。 妹のリリアナは、そういう加減をよく知っている。 「リリアナ。こちらは王妃陛下の遺品整理中です。用があるなら、後にして」 「ひどいわ、お姉様。私、心配で来たのに」 リリアナは眉尻を下げた。 その表情だけで、周囲の空気がわずかに彼女へ傾く。 昔からそうだった。 リリアナが悲しそうな顔をすると、大人たちはすぐに言った。 エレノア、あなたはお姉様でしょう。 エレノア、リリアナはまだ小さいのよ。 エレノア、あなたは強い子なのだから。 その言葉がどれほど長く、静かに、人を削るかなど、誰も考えなかった。 「心配?」 「ええ。だって、お姉様、ずっと王宮に詰めているでしょう? 王妃様が亡くなられてからも、少しも休まないで」 「休むわけにはいきません」 「でも」 リリアナは部屋の中へ入ってきた。 ふわりと甘い香水の匂いが漂う。 薔薇と蜂蜜。 王妃の部屋には似合わない香りだった。 「お姉様ばかり、いつも難しいことを背負って……見ているこちらが苦しくなるの」 その言葉だけなら、姉を気遣う優しい妹に聞こえただろう。 エレノアも、昔ならそう受け取ったかもしれない。 けれど、今は違う。 リリアナの視線が、机の上を滑った。 王妃の書簡。 王宮の鍵束。 茶会名簿。 王太子妃候補としての執務記録。 そして、エレノアの手元。 彼女が何を見ているのか、エレノアには分かった。 「私なら、もっと皆様に笑っていただけると思うの」 リリアナは小さく笑った。 「王宮は、悲しい場所ではいけないでしょう? 王妃様が亡くなられた今だからこそ、誰かが明るくしないと」 「王宮を明るくすることと、王宮を動かすことは違います」 エレノアが言うと、リリアナは一瞬、目を伏せた。 「……そういうところよ」 「何が?」 「お姉様は、いつも正しいことばかり言うの」 細い声だった。 だが、部屋にいた女官たちは聞いていた。 「ユリウス殿下も、きっと苦しいと思う」 エレノアの指が、書類の端で止まった。 「殿下が?」 「ええ。お姉様は立派よ。誰よりも賢くて、王妃様にも信頼されていて、何でもできて……だから、殿下はおかわいそう」 おかわいそう。 その言葉は、柔らかい布で包まれた針のようだった。 「殿下は次の王になられる方よ。皆に愛されなければいけないのに、お姉様が隣にいると、まるで試験を受けているみたいに見えるわ」 「リリアナ」 エレノアは妹の名を呼んだ。 叱責ではない。 確認だった。 「あなたは、ユリウス殿下の隣に立ちたいの?」 リリアナは答えなかった。 ただ、睫毛を震わせた。 それだけで十分だった。 女官の一人が気まずそうに視線を落とす。 エレノアは、胸の奥で何かが静かに冷えていくのを感じた。 怒りではない。 悲しみでもない。 ああ、そうだったのか、という納得だった。 リリアナは昔から、姉の持ち物を欲しがった。 幼い頃は髪飾り。 次は家庭教師。 その次は父の褒め言葉。 エレノアが我慢すれば、家は丸く収まった。 リリアナが泣き、母が困った顔をし、父がため息をつく。 そのたびに、エレノアは譲った。 譲れば褒められると思っていた。 姉らしいと言われれば、いつか愛されると思っていた。 だが、妹が次に欲しがったものは、婚約者だった。 「殿下は物ではありません」 「そんな言い方、していないわ」 「では、何と言えばいいの?」 リリアナは唇を噛んだ。 その仕草さえ、誰かに庇わせるための合図のように見える。 「私、ただ……殿下が笑ってくださると嬉しいだけ」 「そう」 「お姉様といると、殿下は笑わないわ」 その一言だけは、少し刺さった。 ユリウスが自分の隣で笑わないことを、エレノアも知っていたからだ。 婚約が決まったのは十年前。 まだ彼が少年で、エレノアも少女だった頃だ。 最初の頃、ユリウスはよく笑っていた。剣の稽古を抜け出して庭園に隠れたり、勉強を嫌がって教師を困らせたりする、華やかで少しわがままな王子だった。 エレノアは、そんな彼を支えるのが自分の役目だと思っていた。 だが、いつからか彼はエレノアを見るたびに顔を曇らせるようになった。 会議の前に資料を渡すと、眉をひそめる。 失言を避けるための注意点を伝えると、ため息をつく。 式典での立ち位置を確認すると、「分かっている」と苛立つ。 それでもエレノアは続けた。 婚約者だから。 未来の王妃として、彼の失敗を防ぐことが自分の役目だから。 「リリアナ」 エレノアは静かに言った。 「殿下を笑わせることは、王太子妃の務めの一部かもしれません。でも、それだけでは国は守れない」 「また、そういう難しい話をする」 「難しい話を避け続ければ、いつか誰かが代わりに傷を負うことになります」 「お姉様はいつも、私を子供扱いするのね」 「そうではありません」 「そうよ」 リリアナは目を潤ませた。 「お姉様は、何でも自分だけで抱え込んで、私には何もさせてくれない。お父様もお母様も、皆、お姉様は立派だって言うわ。でも、私だって……私だって、誰かの役に立ちたいの」 綺麗な言葉だった。 だからこそ、厄介だった。 役に立ちたい。 愛されたい。 選ばれたい。 その願いの奥に、誰かから奪ってでも、という幼さが見え隠れする。 エレノアは机の上の書類を整えた。 「役に立ちたいなら、学びなさい。王宮の仕事は、望めばすぐにできるものではありません」 リリアナの頬が赤くなった。 恥じらいではない。屈辱だ。 「……お姉様は、本当に冷たい」 彼女は小さく呟いた。 「だから、殿下も苦しくなるのよ」 その時、扉の外から足音が聞こえた。 侍従が姿を見せ、深く頭を下げる。 「エレノア様。王太子殿下より、今宵、南翼の謁見室へお越しくださるようにとのお達しでございます」 リリアナが顔を上げた。 ほんのわずかに、口元が緩んだ。 エレノアはそれを見逃さなかった。 「今宵?」 「はい。急ぎのご用件とのことです」 「分かりました」 侍従が去る。 部屋に沈黙が落ちた。 リリアナは指先でリボンをいじりながら、姉を見た。 「殿下、きっとお姉様を心配していらっしゃるのね」 「そうだといいわね」 「……お姉様」 「何?」 「怒らないでね」 エレノアは、妹を見つめた。 リリアナは笑っていた。 泣きそうな顔で、笑っていた。 「私、お姉様にも幸せになってほしいの。本当よ」 その言葉を最後に、リリアナは部屋を出ていった。 甘い香水の残り香だけが、王妃の部屋にしばらく漂っていた。 女官たちは誰も口を開かなかった。 エレノアも、何も言わなかった。 ただ、机の引き出しに手を伸ばす。 奥にしまっていた黒い封筒を取り出した。 黒封蝋には、王妃個人の紋章である月桂樹と百合が刻まれている。 王妃エレオノーラが亡くなる前夜、エレノアに託したものだった。 『私が死んだあと、すぐには開けてはなりません』 王妃はそう言った。 『あなたが王宮に居場所を失った時、あるいは、この国があなたを切り捨てた時。その時に、王弟カインへ見せなさい』 あの時、エレノアは意味が分からなかった。 自分が王宮に居場所を失うなど、考えたこともなかった。 王太子の婚約者として十年。 王妃に仕え、王宮に尽くし、公爵家の名に恥じぬよう生きてきた。 それが、たった一晩で崩れるはずがない。 そう思っていた。 けれど今、胸の奥で嫌な予感がしていた。 リリアナの涙。 王太子からの急な呼び出し。 父と母から何の連絡もないこと。 すべてが、ひとつの場所へ流れている。 「エレノア様……?」 女官長マルタが、控えめに声をかけた。 王妃に長年仕えてきた年配の女官だ。彼女だけは、エレノアを氷の令嬢とは呼ばなかった。 「お顔の色が優れません」 「平気です」 「少し、お休みになっては」 「休める時に休むべきでしたね」 エレノアが言うと、マルタは痛ましそうに眉を寄せた。 「今からでも遅くはございません」 「いいえ」 エレノアは封筒を胸元の内ポケットにしまった。 「今夜、何かが決まります」 自分の声が、思ったより静かだったことに驚いた。 怖くないわけではない。 ただ、取り乱しても何も変わらない。 それを、エレノアは王宮で学びすぎていた。 日が傾き、王宮の窓が紫色に染まる頃、エレノアは王妃の部屋を後にした。 廊下を歩くたび、靴音が冷たく響く。 南翼の謁見室は、王太子が私的な会談に使う場所だった。公式の玉座の間ほど大きくはないが、王家の権威を示すには十分すぎるほど豪奢な部屋である。 扉の前に立つ騎士たちは、エレノアを見ると一瞬だけ視線を揺らした。 いつもなら、婚約者である彼女には礼を尽くす。 だが今夜は違う。 気まずさ。 同情。 そして、すでに結末を知っている者の沈黙。 エレノアは、その全てを読み取った。 「開けてください」 騎士が扉を開く。 中へ入った瞬間、空気の重さが肌に触れた。 部屋の奥に、王太子ユリウスが立っている。 金の髪に、青い瞳。華やかな容姿は相変わらずだ。だが、その表情にはどこか落ち着きがない。 彼の隣には、リリアナ。 昼間よりも慎ましい装いになっている。白に近い薄桃色のドレス。胸元には黒いリボン。目元は少し赤く、いかにも泣いた後のようだった。 さらに、父グレゴール公爵。 母セレスティア。 王太子の側近たち。 数名の重臣。 まるで、すでに裁定が下された場に呼ばれた罪人のようだ。 エレノアは、礼を取った。 「お呼びと伺い、参りました」 ユリウスはすぐには答えなかった。 彼はエレノアを見て、それから視線を逸らす。 昔、彼がまだ少年だった頃。 叱られる前には、いつも同じ顔をした。 エレノアはふと、それを思い出した。 「エレノア」 ユリウスがようやく口を開く。 「君には、長い間、王太子妃候補として務めてもらった」 「はい」 「王妃も、君の働きを高く評価していた」 「恐れ入ります」 「だが……」 彼の声が詰まる。 リリアナがそっと彼の袖を掴んだ。 まるで、勇気を与えるように。 その仕草を見て、エレノアは静かに悟った。 ああ。 本当に、そういう場なのだ。 ユリウスは息を吸った。 そして、言った。 「エレノア。君との婚約を、今日限りで破棄する」 部屋の空気が止まった。 誰も驚かなかった。 つまり、驚いていないのはエレノアだけではなかった。 全員、知っていたのだ。 父も。 母も。 妹も。 側近たちも。 エレノアだけが、今日まで知らされていなかった。 胸の奥で、何かが音もなく落ちた。 だが、涙は出なかった。 怒鳴る言葉も出なかった。 ただ、王妃の声だけが耳に残っている。 泣く者ではなく、記録を見る者でいなさい。 エレノアは静かに、王太子を見た。 「理由を、お聞かせいただけますか」 ユリウスはわずかに眉を寄せた。 泣かれると思っていたのだろう。 責められると思っていたのだろう。 あるいは、縋られると。 だがエレノアがあまりにも平静だったため、彼は苛立ったように唇を引き結んだ。 「君は……冷たい」 その言葉は、思ったより軽かった。 十年の婚約を終わらせる理由としては、驚くほど軽い。 「君はいつも正しい。だが、正しすぎるんだ。私が何をしても、君は文書を差し出し、規則を口にし、間違いを指摘する。君といると、私は王太子ではなく、出来の悪い生徒になった気分になる」 リリアナが目を伏せる。 父は黙っている。 母は、なぜか少し安堵した顔をしていた。 「リリアナは違う」 ユリウスの声が少し柔らかくなる。 「彼女は人の心が分かる。私を責めず、笑ってくれる。民に愛される王妃には、彼女のような女性がふさわしい」 エレノアは妹を見た。 リリアナは震える声で言った。 「ごめんなさい、お姉様。私……こんなつもりじゃなかったの。でも、殿下が苦しんでいらっしゃるのを見ていられなくて」 嘘ではないのだろう。 リリアナは本当に、そう思っている。 姉から奪うのではない。 苦しんでいる王太子を救うのだと。 だからこそ、たちが悪い。 「お前は長女だ」 父グレゴールが低い声で言った。 「家のために、最善を選ぶ義務がある」 エレノアは父を見る。 父は一度も、娘を見る目をしていなかった。 公爵家の資産。 王宮との接続。 便利な駒。 それが、父にとってのエレノアだった。 「リリアナは、王太子殿下に望まれている。ならば、お前は姉として道を譲るべきだ」 母セレスティアも続けた。 「あなたは強い子でしょう、エレノア。リリアナは繊細なの。ずっとあなたの陰で苦しんでいたのよ」 エレノアは、不意に笑いそうになった。 苦しんでいた。 妹が。 姉の陰で。 では、姉はどこにいたのだろう。 王妃の病床のそばで徹夜し、王太子の失策を修正し、妹の我儘を飲み込み、父の期待に応え、母の無関心に耐えていた自分は。 どこにいたことになっているのだろう。 「分かりました」 エレノアは言った。 あまりにも静かだったため、ユリウスが目を瞬かせた。 「承知いたしました。王太子殿下との婚約破棄を、お受けいたします」 「……エレノア?」 「リリアナ」 エレノアは妹へ向き直った。 「王太子妃候補として、明日からの業務をあなたに引き継ぎます」 リリアナの表情が、ほんの少し固まった。 「え……」 「王妃陛下の崩御に伴い、現在、王宮内には未処理案件が複数あります。明朝の茶会席次、隣国セルベリア王国大使との会談準備、王妃基金の支出承認、王妃陛下の遺産目録確認、地方貴族からの陳情整理、王太子殿下の次回演説原稿。王太子妃候補として、殿下を支えるなら必要な業務です」 リリアナは目を見開いた。 ユリウスも顔をしかめる。 「待て、エレノア。そういう話をしているのではない」 「いいえ、殿下。そういう話です」 エレノアは、初めてユリウスの言葉を遮った。 「私が王太子妃候補でなくなる以上、王太子妃候補として行っていた業務は、次の候補者へ移ります。当然のことです」 「君は……」 ユリウスは何か言いかけて、口を閉ざした。 父が不愉快そうに眉を寄せる。 「エレノア。最後まで嫌味を言うつもりか」 「事務引き継ぎです」 「お前は本当に可愛げがない」 「そうですね」 エレノアは父を見た。 「それは、もう十分伺いました」 部屋の空気が冷えた。 母が小さく息を呑む。 リリアナは泣きそうな顔になっている。 だが、エレノアはもう手を伸ばさなかった。 この場で妹の涙を拭えば、自分はまた同じ場所に戻る。 譲る姉。 耐える娘。 便利な婚約者。 王宮の影。 もう、そこへ戻ることはできなかった。 「それでは、私は失礼いたします」 「待て」 ユリウスが言った。 「君は、何も言わないのか」 「何をでしょう」 「私に……何か」 エレノアは少し考えた。 十年分の思いを、言葉にすることはできただろうか。 なぜ信じてくれなかったのか。 なぜ私の仕事を見てくれなかったのか。 なぜ一度でも、隣にいる私の名前を、正しく呼んでくれなかったのか。 言いたいことは、なかったわけではない。 だが、どれも今さらだった。 「殿下」 エレノアは礼を取った。 「リリアナを選ばれたのであれば、どうか最後までお守りください」 ユリウスの顔に、苛立ちと戸惑いが浮かぶ。 「当然だ」 「では、安心いたしました」 エレノアは背を向けた。 胸元の内ポケットに、黒封蝋の遺言状がある。 重い。 紙一枚のはずなのに、まるで王妃の手がそこに置かれているようだった。 扉へ向かう途中、リリアナが震える声で呼んだ。 「お姉様」 エレノアは振り向かなかった。 「私、本当に……お姉様にも幸せになってほしいの」 今度こそ、エレノアは少しだけ笑った。 それは誰にも見えない、小さな笑みだった。 「ええ」 扉の前で立ち止まり、静かに告げる。 「私も、そう願っています」 扉が開く。 廊下の冷たい空気が流れ込む。 エレノアは謁見室を出た。 その瞬間、自分の背後で一つの人生が終わったのだと分かった。 王太子の婚約者。 公爵家の従順な長女。 妹に譲る姉。 王宮を支える影。 それらが、音もなく剥がれ落ちていく。 だが、胸の中にはまだ残っているものがある。 王妃の遺言状。 そして、彼女が最後に託した言葉。 『あなたが王宮に居場所を失った時、王弟カインへ見せなさい』 エレノアは廊下の先を見た。 夜の王宮は静かだった。 静かすぎるほどに。 まるで、嵐の直前のようだった。王太子府の机に、開封されていない封筒が一つ置かれていた。 白い封筒だった。 封蝋には、王妃基金の仮印と、保護記録担当者の細い確認線が入っている。 表には、こう書かれていた。 ――限定記録。 ――閲覧段階、第三段階以上。 ――開封には理由記録が必要。 ユリウスは、その封筒をしばらく見つめていた。 封筒は黙っている。 当然だ。 紙なのだから。 だが、その沈黙がやけに重かった。 王太子府再教育の今日の課題は、限定記録と閲覧権限。 つまり、「知らない義務」を学ぶ日だった。 以前のユリウスなら、その言葉を聞いて首を傾げただろう。 王太子が知らないことを選ぶ? 民を守る立場の者が? 国の中枢にいる者が? むしろ、できる限り知るべきではないのか。 そう思ったはずだ。 実際、今も半分はそう思っている。 知らなかったから、王妃の療養薬は見落とされた。 知らなかったから、ダリウスに利用された。 知らなかったから、王妃基金の不正も、夫人会の別口資金
灰色の少年が、もう一度救貧院へ来た。 その知らせは、フィオナ司祭からの短い伝言として北翼へ届いた。 ――仮名「灰色」の少年、再訪。妹の熱は下がりつつあり。臨時雇用相談を希望。本人より、リリアナ様が同席可能なら話したいことがあるとの申し出。 リリアナは、その紙を読んでしばらく黙った。 手帳を開く手が、止まっている。 灰色。 あの日、本名を言いたくないと小さく答えた少年。 妹が熱を出していると言い、麦と薬草茶を受け取った少年。 名前の代わりに、自分で選んだ仮名。 リリアナが初めて「本名を無理に聞かない記録」を書いた相手だった。「私が同席していいの?」 リリアナは、エレノアを見た。 エレノアは伝言の文面を確認し、静かに頷いた。「本人が望んでいて、フィオナ司祭が同席するなら。ただし、あなたが聞く役ではなく、立ち会う役よ」「立ち会う役」「ええ。話を急がせない。名前を聞き出そうとしない。本人が話す範囲を尊重する」「分かってる」 リリアナは、そう言いかけてから少し言い直した。「分かっているつもり。だから、フィオナ司祭に従います」「それでいいわ」 エレノアは少しだけ表情を柔らかくした。「行く?」「行きます」 返事はすぐに出た。 怖さはある。 けれど、行かないという選択はなかった。 あの日、自分が書いた記録が、次へつながった。 ならば、その次を見届けたい。 救貧院へ向かう馬車の中で、リリアナは手帳を見返していた。 ――灰色さん。妹が熱。薬草茶。仮名記録。本名申告困難。次回、フィオナ司祭担当。
薬草茶の配布は、朝のうちに止まった。 まだ誰の手にも渡っていない。 救貧院の棚にも、孤児院の保管箱にも、療養施設の湯沸かし場にも届いていない。 だから、被害は出ていない。 ただし、問題は出た。 王妃基金の北翼窓口へ、夫人会から緊急連絡が入ったのは、朝食後まもなくのことだった。 差出人は、デリア・ラングフォード侯爵夫人。 内容は短い。 ――匿名口頭受付にて、療養施設向け薬草茶の香りが前回と違うとの申告あり。 ――配布前に一時停止。 ――薬草品質確認部門へ照会済み。 ――ガスパル氏、乾燥不足の疑いありと仮判断。 ――本日午前、正式確認希望。 エレノアは、その報告を読んだ時、まず安堵した。 止まった。 配る前に。 けれど、その次にすぐ別の重さが来た。 止めたということは、届くはずだった薬草茶が届かないということでもある。 療養施設では、寒さや不眠、胃の不調を和らげるために、その薬草茶を待っている者がいる。 救貧院でも、体を温めるために必要としている者がいる。 不良品を配ってはいけない。 だが、止めたなら、止めた理由を伝えなければならない。 代替品を探さなければならない。 ただ「安全確認のため延期」と書くだけでは、現場は困る。 昨日までの夫人会なら、こう書いただろう。 ――諸事情により配布を延期いたします。 それでは足りない。 諸事情では湯は沸かない。 理由のない延期は、不安を増やすだけだ。 エレノアは、机の上の報告書を閉じた。「オスカー。薬草品質確認部門、夫人会、救貧院、療養施設の担当者を集めてください。小
夫人会の会議室に、小さな木箱が置かれた。 蓋の中央には、紙を差し込める細い隙間がある。 飾りはほとんどない。 鍵は二つ。 一つはデリア・ラングフォード侯爵夫人が持ち、もう一つはミリアム・ローゼン侯爵夫人が持つ。 箱の横には、リリアナが書き直した説明紙が貼られていた。 ――失敗を見つけた時、ここへ入れてください。 ――名前を書かなくてもかまいません。 ――誰かを責めるためではなく、次に直すための箱です。 ――急ぐ内容なら、箱ではなく担当者へ直接伝えてください。 ――「喜ばれた」と書く前に、本当に確認しましょう。 最後の一文だけ少し浮いているが、夫人会には必要な言葉だった。 最初にその文を読んだメイベル準男爵夫人は、困ったように笑った。「最後の一文、胸に刺さりますわ」 ミリアム夫人は平然と言った。「刺さるように書いたのですもの」 デリア夫人は苦笑した。「痛くなければ、また忘れます」 夫人会の部屋は、以前とは少し雰囲気が変わっていた。 壁にかかる花飾りはそのままだが、机の上には菓子皿よりも書類箱が増えた。 香りの強い花も減らされ、代わりに物品仕分け用の札、針仕事用の布見本、支援先一覧表、失敗報告用紙が置かれている。 華やかさが消えたわけではない。 けれど、華やかさの下に実務の匂いが混ざるようになった。 その変化を嫌がる夫人もいる。 逆に、前より居心地がよいと言う若い夫人もいる。 夫人会は、まだ揺れていた。 だからこそ、匿名箱が置かれた。 失敗を報告する。