妹に婚約者も家名も奪われましたが、王妃の遺言状は私を後継者に指名していました〜三日後、王宮は相続争いで崩壊します〜

妹に婚約者も家名も奪われましたが、王妃の遺言状は私を後継者に指名していました〜三日後、王宮は相続争いで崩壊します〜

last update最終更新日 : 2026-08-22
作家:  常陸之介寛浩たった今更新されました
言語: Japanese
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概要

強いヒロイン

裏切り

α(アルファ)

妹に婚約者も家名も奪われ、すべてを失った公爵令嬢リリアナ。追い出されるように王宮を去った彼女の手元には、亡き王妃から密かに託された一通の遺言状が残されていた。そこに記されていたのは、王家の相続を覆す衝撃の真実。リリアナを捨てた王宮では、わずか三日後、王位と財産を巡る争いが始まり、妹も元婚約者も破滅へと転がり落ちていく。だがリリアナが望むのは復讐ではない。奪われた人生を、自分の手で取り戻すことだった。

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第1話

第1話 妹が、私の婚約者を欲しがった日

 王妃エレオノーラ陛下の葬儀から、七日が過ぎた。

 王宮の廊下には、まだ喪の気配が残っている。

 白い大理石の柱には黒い絹布が掛けられ、窓辺の花瓶には、香りの淡い白百合だけが活けられていた。いつもなら朝から女官たちの足音や貴族たちの笑い声で満ちる宮殿も、今日はどこか息を潜めている。

 だが、静かなのは表面だけだった。

 王妃が亡くなった。

 その事実は、王宮の均衡を音もなく崩し始めている。

「こちらの箱は東翼書庫へ。王妃陛下の私的書簡は、封を確認してから年代順に分けてください。銀の小箱には触れないで。鍵の所在が確認できていません」

 エレノア・ヴァレンシュタインは、黒の喪服の裾を押さえながら、女官たちに指示を出していた。

 声は落ち着いていた。

 泣き腫らした跡もなければ、疲労で取り乱す様子もない。

 そのせいで、人はいつも彼女を冷たいと言う。

 氷の令嬢。

 王太子妃には硬すぎる女。

 可愛げのない公爵家長女。

 社交界で囁かれる言葉を、エレノアは知っている。知らないふりをしているだけだ。

「エレノア様、こちらの文書は……」

 年若い女官が、不安げに羊皮紙の束を差し出した。

 エレノアは手袋をした指で、封蝋の紋章を確かめる。

「隣国セルベリア王国との非公開書簡です。王妃陛下の署名があるものは、王宮文書庫の第三保管室へ。写しはありませんね?」

「はい。確認いたしました」

「では、誰にも開けさせないで。王太子殿下にもです」

 女官が一瞬だけ目を見開いた。

 王太子殿下にも。

 婚約者であるユリウスに対して、その言い方は冷たいと思われたかもしれない。

 けれど、機密文書は機密文書だ。

 婚約者であることと、文書管理の権限は別である。

 王妃は生前、その線引きを決して曖昧にしなかった。

『エレノア。王宮で一番危ういのは、悪意ではありません。善意の顔をした無知です』

 数日前まで聞こえていた声が、ふいに耳の奥で蘇る。

 痩せた指。

 弱くなった呼吸。

 それでも最後まで濁らなかった、あの瞳。

『あなたは、泣く者ではなく、記録を見る者でいなさい』

 エレノアは小さく息を吸った。

 胸の奥が痛む。

 だが、手は止めない。

 悲しむ時間がないのではない。悲しむ場所を与えられていないのだ。

 王妃が病に伏してからの三年間、エレノアは王太子妃候補という名のもとに、王妃の代理のような仕事を担ってきた。

 茶会の席次。

 貴族夫人たちの派閥調整。

 地方領主から届く陳情の下読み。

 孤児院基金の支出確認。

 王太子ユリウスの演説原稿の修正。

 隣国との書簡整理。

 公式には、どれもエレノアの仕事ではない。

 だが、誰かがやらなければ王宮は回らなかった。

 そして、その誰かはいつも彼女だった。

「お姉様」

 甘い声が、扉の方から響いた。

 女官たちの動きが、わずかに止まる。

 エレノアは振り向いた。

 薄桃色のドレスをまとった少女が、扉の前に立っていた。王宮が喪に服しているというのに、彼女の装いはどこか春めいている。もちろん、完全に礼を欠いているわけではない。胸元には黒いリボンが結ばれ、手袋も白ではなく灰色だ。

 だが、喪服ではない。

 可憐で、柔らかく、守ってあげたくなるような装い。

 妹のリリアナは、そういう加減をよく知っている。

「リリアナ。こちらは王妃陛下の遺品整理中です。用があるなら、後にして」

「ひどいわ、お姉様。私、心配で来たのに」

 リリアナは眉尻を下げた。

 その表情だけで、周囲の空気がわずかに彼女へ傾く。

 昔からそうだった。

 リリアナが悲しそうな顔をすると、大人たちはすぐに言った。

 エレノア、あなたはお姉様でしょう。

 エレノア、リリアナはまだ小さいのよ。

 エレノア、あなたは強い子なのだから。

 その言葉がどれほど長く、静かに、人を削るかなど、誰も考えなかった。

「心配?」

「ええ。だって、お姉様、ずっと王宮に詰めているでしょう? 王妃様が亡くなられてからも、少しも休まないで」

「休むわけにはいきません」

「でも」

 リリアナは部屋の中へ入ってきた。

 ふわりと甘い香水の匂いが漂う。

 薔薇と蜂蜜。

 王妃の部屋には似合わない香りだった。

「お姉様ばかり、いつも難しいことを背負って……見ているこちらが苦しくなるの」

 その言葉だけなら、姉を気遣う優しい妹に聞こえただろう。

 エレノアも、昔ならそう受け取ったかもしれない。

 けれど、今は違う。

 リリアナの視線が、机の上を滑った。

 王妃の書簡。

 王宮の鍵束。

 茶会名簿。

 王太子妃候補としての執務記録。

 そして、エレノアの手元。

 彼女が何を見ているのか、エレノアには分かった。

「私なら、もっと皆様に笑っていただけると思うの」

 リリアナは小さく笑った。

「王宮は、悲しい場所ではいけないでしょう? 王妃様が亡くなられた今だからこそ、誰かが明るくしないと」

「王宮を明るくすることと、王宮を動かすことは違います」

 エレノアが言うと、リリアナは一瞬、目を伏せた。

「……そういうところよ」

「何が?」

「お姉様は、いつも正しいことばかり言うの」

 細い声だった。

 だが、部屋にいた女官たちは聞いていた。

「ユリウス殿下も、きっと苦しいと思う」

 エレノアの指が、書類の端で止まった。

「殿下が?」

「ええ。お姉様は立派よ。誰よりも賢くて、王妃様にも信頼されていて、何でもできて……だから、殿下はおかわいそう」

 おかわいそう。

 その言葉は、柔らかい布で包まれた針のようだった。

「殿下は次の王になられる方よ。皆に愛されなければいけないのに、お姉様が隣にいると、まるで試験を受けているみたいに見えるわ」

「リリアナ」

 エレノアは妹の名を呼んだ。

 叱責ではない。

 確認だった。

「あなたは、ユリウス殿下の隣に立ちたいの?」

 リリアナは答えなかった。

 ただ、睫毛を震わせた。

 それだけで十分だった。

 女官の一人が気まずそうに視線を落とす。

 エレノアは、胸の奥で何かが静かに冷えていくのを感じた。

 怒りではない。

 悲しみでもない。

 ああ、そうだったのか、という納得だった。

 リリアナは昔から、姉の持ち物を欲しがった。

 幼い頃は髪飾り。

 次は家庭教師。

 その次は父の褒め言葉。

 エレノアが我慢すれば、家は丸く収まった。

 リリアナが泣き、母が困った顔をし、父がため息をつく。

 そのたびに、エレノアは譲った。

 譲れば褒められると思っていた。

 姉らしいと言われれば、いつか愛されると思っていた。

 だが、妹が次に欲しがったものは、婚約者だった。

「殿下は物ではありません」

「そんな言い方、していないわ」

「では、何と言えばいいの?」

 リリアナは唇を噛んだ。

 その仕草さえ、誰かに庇わせるための合図のように見える。

「私、ただ……殿下が笑ってくださると嬉しいだけ」

「そう」

「お姉様といると、殿下は笑わないわ」

 その一言だけは、少し刺さった。

 ユリウスが自分の隣で笑わないことを、エレノアも知っていたからだ。

 婚約が決まったのは十年前。

 まだ彼が少年で、エレノアも少女だった頃だ。

 最初の頃、ユリウスはよく笑っていた。剣の稽古を抜け出して庭園に隠れたり、勉強を嫌がって教師を困らせたりする、華やかで少しわがままな王子だった。

 エレノアは、そんな彼を支えるのが自分の役目だと思っていた。

 だが、いつからか彼はエレノアを見るたびに顔を曇らせるようになった。

 会議の前に資料を渡すと、眉をひそめる。

 失言を避けるための注意点を伝えると、ため息をつく。

 式典での立ち位置を確認すると、「分かっている」と苛立つ。

 それでもエレノアは続けた。

 婚約者だから。

 未来の王妃として、彼の失敗を防ぐことが自分の役目だから。

「リリアナ」

 エレノアは静かに言った。

「殿下を笑わせることは、王太子妃の務めの一部かもしれません。でも、それだけでは国は守れない」

「また、そういう難しい話をする」

「難しい話を避け続ければ、いつか誰かが代わりに傷を負うことになります」

「お姉様はいつも、私を子供扱いするのね」

「そうではありません」

「そうよ」

 リリアナは目を潤ませた。

「お姉様は、何でも自分だけで抱え込んで、私には何もさせてくれない。お父様もお母様も、皆、お姉様は立派だって言うわ。でも、私だって……私だって、誰かの役に立ちたいの」

 綺麗な言葉だった。

 だからこそ、厄介だった。

 役に立ちたい。

 愛されたい。

 選ばれたい。

 その願いの奥に、誰かから奪ってでも、という幼さが見え隠れする。

 エレノアは机の上の書類を整えた。

「役に立ちたいなら、学びなさい。王宮の仕事は、望めばすぐにできるものではありません」

 リリアナの頬が赤くなった。

 恥じらいではない。屈辱だ。

「……お姉様は、本当に冷たい」

 彼女は小さく呟いた。

「だから、殿下も苦しくなるのよ」

 その時、扉の外から足音が聞こえた。

 侍従が姿を見せ、深く頭を下げる。

「エレノア様。王太子殿下より、今宵、南翼の謁見室へお越しくださるようにとのお達しでございます」

 リリアナが顔を上げた。

 ほんのわずかに、口元が緩んだ。

 エレノアはそれを見逃さなかった。

「今宵?」

「はい。急ぎのご用件とのことです」

「分かりました」

 侍従が去る。

 部屋に沈黙が落ちた。

 リリアナは指先でリボンをいじりながら、姉を見た。

「殿下、きっとお姉様を心配していらっしゃるのね」

「そうだといいわね」

「……お姉様」

「何?」

「怒らないでね」

 エレノアは、妹を見つめた。

 リリアナは笑っていた。

 泣きそうな顔で、笑っていた。

「私、お姉様にも幸せになってほしいの。本当よ」

 その言葉を最後に、リリアナは部屋を出ていった。

 甘い香水の残り香だけが、王妃の部屋にしばらく漂っていた。

 女官たちは誰も口を開かなかった。

 エレノアも、何も言わなかった。

 ただ、机の引き出しに手を伸ばす。

 奥にしまっていた黒い封筒を取り出した。

 黒封蝋には、王妃個人の紋章である月桂樹と百合が刻まれている。

 王妃エレオノーラが亡くなる前夜、エレノアに託したものだった。

『私が死んだあと、すぐには開けてはなりません』

 王妃はそう言った。

『あなたが王宮に居場所を失った時、あるいは、この国があなたを切り捨てた時。その時に、王弟カインへ見せなさい』

 あの時、エレノアは意味が分からなかった。

 自分が王宮に居場所を失うなど、考えたこともなかった。

 王太子の婚約者として十年。

 王妃に仕え、王宮に尽くし、公爵家の名に恥じぬよう生きてきた。

 それが、たった一晩で崩れるはずがない。

 そう思っていた。

 けれど今、胸の奥で嫌な予感がしていた。

 リリアナの涙。

 王太子からの急な呼び出し。

 父と母から何の連絡もないこと。

 すべてが、ひとつの場所へ流れている。

「エレノア様……?」

 女官長マルタが、控えめに声をかけた。

 王妃に長年仕えてきた年配の女官だ。彼女だけは、エレノアを氷の令嬢とは呼ばなかった。

「お顔の色が優れません」

「平気です」

「少し、お休みになっては」

「休める時に休むべきでしたね」

 エレノアが言うと、マルタは痛ましそうに眉を寄せた。

「今からでも遅くはございません」

「いいえ」

 エレノアは封筒を胸元の内ポケットにしまった。

「今夜、何かが決まります」

 自分の声が、思ったより静かだったことに驚いた。

 怖くないわけではない。

 ただ、取り乱しても何も変わらない。

 それを、エレノアは王宮で学びすぎていた。

 日が傾き、王宮の窓が紫色に染まる頃、エレノアは王妃の部屋を後にした。

 廊下を歩くたび、靴音が冷たく響く。

 南翼の謁見室は、王太子が私的な会談に使う場所だった。公式の玉座の間ほど大きくはないが、王家の権威を示すには十分すぎるほど豪奢な部屋である。

 扉の前に立つ騎士たちは、エレノアを見ると一瞬だけ視線を揺らした。

 いつもなら、婚約者である彼女には礼を尽くす。

 だが今夜は違う。

 気まずさ。

 同情。

 そして、すでに結末を知っている者の沈黙。

 エレノアは、その全てを読み取った。

「開けてください」

 騎士が扉を開く。

 中へ入った瞬間、空気の重さが肌に触れた。

 部屋の奥に、王太子ユリウスが立っている。

 金の髪に、青い瞳。華やかな容姿は相変わらずだ。だが、その表情にはどこか落ち着きがない。

 彼の隣には、リリアナ。

 昼間よりも慎ましい装いになっている。白に近い薄桃色のドレス。胸元には黒いリボン。目元は少し赤く、いかにも泣いた後のようだった。

 さらに、父グレゴール公爵。

 母セレスティア。

 王太子の側近たち。

 数名の重臣。

 まるで、すでに裁定が下された場に呼ばれた罪人のようだ。

 エレノアは、礼を取った。

「お呼びと伺い、参りました」

 ユリウスはすぐには答えなかった。

 彼はエレノアを見て、それから視線を逸らす。

 昔、彼がまだ少年だった頃。

 叱られる前には、いつも同じ顔をした。

 エレノアはふと、それを思い出した。

「エレノア」

 ユリウスがようやく口を開く。

「君には、長い間、王太子妃候補として務めてもらった」

「はい」

「王妃も、君の働きを高く評価していた」

「恐れ入ります」

「だが……」

 彼の声が詰まる。

 リリアナがそっと彼の袖を掴んだ。

 まるで、勇気を与えるように。

 その仕草を見て、エレノアは静かに悟った。

 ああ。

 本当に、そういう場なのだ。

 ユリウスは息を吸った。

 そして、言った。

「エレノア。君との婚約を、今日限りで破棄する」

 部屋の空気が止まった。

 誰も驚かなかった。

 つまり、驚いていないのはエレノアだけではなかった。

 全員、知っていたのだ。

 父も。

 母も。

 妹も。

 側近たちも。

 エレノアだけが、今日まで知らされていなかった。

 胸の奥で、何かが音もなく落ちた。

 だが、涙は出なかった。

 怒鳴る言葉も出なかった。

 ただ、王妃の声だけが耳に残っている。

 泣く者ではなく、記録を見る者でいなさい。

 エレノアは静かに、王太子を見た。

「理由を、お聞かせいただけますか」

 ユリウスはわずかに眉を寄せた。

 泣かれると思っていたのだろう。

 責められると思っていたのだろう。

 あるいは、縋られると。

 だがエレノアがあまりにも平静だったため、彼は苛立ったように唇を引き結んだ。

「君は……冷たい」

 その言葉は、思ったより軽かった。

 十年の婚約を終わらせる理由としては、驚くほど軽い。

「君はいつも正しい。だが、正しすぎるんだ。私が何をしても、君は文書を差し出し、規則を口にし、間違いを指摘する。君といると、私は王太子ではなく、出来の悪い生徒になった気分になる」

 リリアナが目を伏せる。

 父は黙っている。

 母は、なぜか少し安堵した顔をしていた。

「リリアナは違う」

 ユリウスの声が少し柔らかくなる。

「彼女は人の心が分かる。私を責めず、笑ってくれる。民に愛される王妃には、彼女のような女性がふさわしい」

 エレノアは妹を見た。

 リリアナは震える声で言った。

「ごめんなさい、お姉様。私……こんなつもりじゃなかったの。でも、殿下が苦しんでいらっしゃるのを見ていられなくて」

 嘘ではないのだろう。

 リリアナは本当に、そう思っている。

 姉から奪うのではない。

 苦しんでいる王太子を救うのだと。

 だからこそ、たちが悪い。

「お前は長女だ」

 父グレゴールが低い声で言った。

「家のために、最善を選ぶ義務がある」

 エレノアは父を見る。

 父は一度も、娘を見る目をしていなかった。

 公爵家の資産。

 王宮との接続。

 便利な駒。

 それが、父にとってのエレノアだった。

「リリアナは、王太子殿下に望まれている。ならば、お前は姉として道を譲るべきだ」

 母セレスティアも続けた。

「あなたは強い子でしょう、エレノア。リリアナは繊細なの。ずっとあなたの陰で苦しんでいたのよ」

 エレノアは、不意に笑いそうになった。

 苦しんでいた。

 妹が。

 姉の陰で。

 では、姉はどこにいたのだろう。

 王妃の病床のそばで徹夜し、王太子の失策を修正し、妹の我儘を飲み込み、父の期待に応え、母の無関心に耐えていた自分は。

 どこにいたことになっているのだろう。

「分かりました」

 エレノアは言った。

 あまりにも静かだったため、ユリウスが目を瞬かせた。

「承知いたしました。王太子殿下との婚約破棄を、お受けいたします」

「……エレノア?」

「リリアナ」

 エレノアは妹へ向き直った。

「王太子妃候補として、明日からの業務をあなたに引き継ぎます」

 リリアナの表情が、ほんの少し固まった。

「え……」

「王妃陛下の崩御に伴い、現在、王宮内には未処理案件が複数あります。明朝の茶会席次、隣国セルベリア王国大使との会談準備、王妃基金の支出承認、王妃陛下の遺産目録確認、地方貴族からの陳情整理、王太子殿下の次回演説原稿。王太子妃候補として、殿下を支えるなら必要な業務です」

 リリアナは目を見開いた。

 ユリウスも顔をしかめる。

「待て、エレノア。そういう話をしているのではない」

「いいえ、殿下。そういう話です」

 エレノアは、初めてユリウスの言葉を遮った。

「私が王太子妃候補でなくなる以上、王太子妃候補として行っていた業務は、次の候補者へ移ります。当然のことです」

「君は……」

 ユリウスは何か言いかけて、口を閉ざした。

 父が不愉快そうに眉を寄せる。

「エレノア。最後まで嫌味を言うつもりか」

「事務引き継ぎです」

「お前は本当に可愛げがない」

「そうですね」

 エレノアは父を見た。

「それは、もう十分伺いました」

 部屋の空気が冷えた。

 母が小さく息を呑む。

 リリアナは泣きそうな顔になっている。

 だが、エレノアはもう手を伸ばさなかった。

 この場で妹の涙を拭えば、自分はまた同じ場所に戻る。

 譲る姉。

 耐える娘。

 便利な婚約者。

 王宮の影。

 もう、そこへ戻ることはできなかった。

「それでは、私は失礼いたします」

「待て」

 ユリウスが言った。

「君は、何も言わないのか」

「何をでしょう」

「私に……何か」

 エレノアは少し考えた。

 十年分の思いを、言葉にすることはできただろうか。

 なぜ信じてくれなかったのか。

 なぜ私の仕事を見てくれなかったのか。

 なぜ一度でも、隣にいる私の名前を、正しく呼んでくれなかったのか。

 言いたいことは、なかったわけではない。

 だが、どれも今さらだった。

「殿下」

 エレノアは礼を取った。

「リリアナを選ばれたのであれば、どうか最後までお守りください」

 ユリウスの顔に、苛立ちと戸惑いが浮かぶ。

「当然だ」

「では、安心いたしました」

 エレノアは背を向けた。

 胸元の内ポケットに、黒封蝋の遺言状がある。

 重い。

 紙一枚のはずなのに、まるで王妃の手がそこに置かれているようだった。

 扉へ向かう途中、リリアナが震える声で呼んだ。

「お姉様」

 エレノアは振り向かなかった。

「私、本当に……お姉様にも幸せになってほしいの」

 今度こそ、エレノアは少しだけ笑った。

 それは誰にも見えない、小さな笑みだった。

「ええ」

 扉の前で立ち止まり、静かに告げる。

「私も、そう願っています」

 扉が開く。

 廊下の冷たい空気が流れ込む。

 エレノアは謁見室を出た。

 その瞬間、自分の背後で一つの人生が終わったのだと分かった。

 王太子の婚約者。

 公爵家の従順な長女。

 妹に譲る姉。

 王宮を支える影。

 それらが、音もなく剥がれ落ちていく。

 だが、胸の中にはまだ残っているものがある。

 王妃の遺言状。

 そして、彼女が最後に託した言葉。

『あなたが王宮に居場所を失った時、王弟カインへ見せなさい』

 エレノアは廊下の先を見た。

 夜の王宮は静かだった。

 静かすぎるほどに。

 まるで、嵐の直前のようだった。

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第1話 妹が、私の婚約者を欲しがった日
 王妃エレオノーラ陛下の葬儀から、七日が過ぎた。 王宮の廊下には、まだ喪の気配が残っている。 白い大理石の柱には黒い絹布が掛けられ、窓辺の花瓶には、香りの淡い白百合だけが活けられていた。いつもなら朝から女官たちの足音や貴族たちの笑い声で満ちる宮殿も、今日はどこか息を潜めている。 だが、静かなのは表面だけだった。 王妃が亡くなった。 その事実は、王宮の均衡を音もなく崩し始めている。「こちらの箱は東翼書庫へ。王妃陛下の私的書簡は、封を確認してから年代順に分けてください。銀の小箱には触れないで。鍵の所在が確認できていません」 エレノア・ヴァレンシュタインは、黒の喪服の裾を押さえながら、女官たちに指示を出していた。 声は落ち着いていた。 泣き腫らした跡もなければ、疲労で取り乱す様子もない。 そのせいで、人はいつも彼女を冷たいと言う。 氷の令嬢。 王太子妃には硬すぎる女。 可愛げのない公爵家長女。 社交界で囁かれる言葉を、エレノアは知っている。知らないふりをしているだけだ。「エレノア様、こちらの文書は……」 年若い女官が、不安げに羊皮紙の束を差し出した。 エレノアは手袋をした指で、封蝋の紋章を確かめる。「隣国セルベリア王国との非公開書簡です。王妃陛下の署名があるものは、王宮文書庫の第三保管室へ。写しはありませんね?」「はい。確認いたしました」「では、誰にも開けさせないで。王太子殿下にもです」 女官が一瞬だけ目を見開いた。 王太子殿下にも。 婚約者であるユリウスに対して、その言い方は冷たいと思われたかもしれない。 けれど、機密文書は機密文書だ。 婚約者であることと、文書管理の権限は別である。 王妃は生前、その線引きを決して曖昧にしなかった。『エレノア。王宮で一番危ういのは、悪意ではありません。善意の顔をした無知です』 数日前まで聞こえていた声が、ふいに耳の奥で蘇る。 痩せた指。 弱くなった呼吸。 それでも最後まで濁らなかった、あの瞳。『あなたは、泣く者ではなく、記録を見る者でいなさい』 エレノアは小さく息を吸った。 胸の奥が痛む。 だが、手は止めない。 悲しむ時間がないのではない。悲しむ場所を与えられていないのだ。 王妃が病に伏してからの三年間、エレノアは王太子妃候補という名のもとに、王妃の代理のような
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第2話 「君は冷たい。リリアナは人の心が分かる」
南翼の謁見室を出たあとも、エレノアの背中にいくつもの視線が刺さっていた。 同情。 好奇心。 侮り。 そして、安堵。 廊下に控えていた侍従や女官たちは、誰一人として声をかけてこなかった。王宮では、沈黙もまたひとつの言葉だった。今のエレノアに声をかけることは、王太子ユリウスの決定に異を唱えることになる。 だから誰も、彼女を慰めなかった。 けれど、それでよかった。 慰めなど受け取ってしまえば、自分が傷ついた人間だと認めなければならない。 エレノアは、まだそこまで弱くなれなかった。 王宮の長い廊下を歩く。 黒い喪服の裾が、磨かれた大理石の床を静かに撫でる。壁に並ぶ燭台の炎が、歩くたびにかすかに揺れた。夜の王宮は美しい。美しすぎて、人の声が消えると墓所のようにも見える。 王妃エレオノーラが生きていた頃、この廊下を何度も歩いた。 朝は書類を抱えて。 昼は茶会の席次表を確認しながら。 夜は王太子の失言をどう修正するか考えながら。 王妃の病室へ向かう時も、いつもこの道だった。『エレノア。あなたは自分の痛みに鈍いのね』 王妃は、あの日そう言った。 薄い絹の寝衣に包まれ、枕に背を預け、息をするだけでもつらそうだったのに、あの方はエレノアの顔色ばかり見ていた。『痛みを感じないふりは、強さではありませんよ』 その言葉を思い出した瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。 感じていないふりをしているだけ。 本当は、痛い。 十年分の婚約が、たった数分の言葉で終わった。 自分は冷たいと、婚約者に言われた。 人の心が分からないと、遠回しに責められた。 そして、自分の妹が、あの人の隣に立つことになった。 それでも涙が出ないのは、心が凍っているからではない。 泣き方を、忘れてしまったからだ。「エレノア」 背後から低い声がした。 振り向かなくても、誰か分かった。 父、グレゴール・ヴァレンシュタイン公爵。 エレノアは足を止め、ゆっくりと振り返った。 父は謁見室から出てきたばかりらしく、濃紺の礼服の襟元を直していた。表情には苛立ちがある。だが、それは娘を傷つけたことへの後ろめたさではない。 思い通りに従わなかった道具を見る目だった。「少し話がある」「この場でよろしいですか」「場所を選ぶ立場か」 父の声に、廊下の侍従がわずかに身を硬くする。
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第3話 王宮から私の机が消えた日
 翌朝、エレノアはいつもより少し遅く目を覚ました。 遅いといっても、夜明けから半刻ほど過ぎただけである。王宮に詰めていた頃なら、もう女官長から届いた書類に目を通し、茶会の席次表を修正し、王太子ユリウスの朝の予定を確認している時間だった。 だが、今朝は誰も彼女を起こしに来なかった。 扉を叩く音もない。 緊急の書簡もない。 王妃陛下の病状報告もない。 王太子殿下が演説原稿をなくされたという侍従の青ざめた声もない。 窓の外では、祖母の旧邸の庭に植えられた樫の木が、朝風に静かに揺れている。 王都の外れにあるこの屋敷は、公爵家の別邸というより、忘れられた古い家に近かった。祖母が亡くなってからはほとんど使われず、最低限の使用人だけが管理していた場所である。 王宮のような華やかさはない。 調度も古く、壁紙もところどころ色褪せている。 けれど、不思議と息がしやすかった。「……朝なのね」 エレノアは寝台の上で、しばらく天井を見つめていた。 何もしなくていい朝。 それが、これほど落ち着かないものだとは知らなかった。 十年間、彼女の朝は常に誰かのためにあった。 王太子のため。 王妃のため。 公爵家のため。 リリアナのため。 国のため。 けれど今朝、彼女の手元には何もない。 いや、正確にはひとつだけある。 枕元の小箱にしまった、黒封蝋の遺言状。 エレノアは起き上がり、箱へ視線を向けた。 開けてはならない。 王妃エレオノーラは、そう言った。 王弟カインへ見せなさい、と。 なら
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第4話 翌日、茶会は崩壊した
 茶会というものは、花と菓子と微笑みでできているように見える。  けれど、実際には違う。  茶会は、刃を布で包んだ社交の戦場だ。  誰を上座に置くか。  誰と誰を隣に座らせるか。  どの家の夫人に最初に茶を勧めるか。  どの話題を避け、どの話題をあえて投げるか。  たった一つの席順で、十年前の婚約破談が蒸し返されることもある。  たった一杯の茶を先に出しただけで、派閥の序列が変わったと解釈されることもある。  たった一言の挨拶が、翌月の婚姻同盟や領地交渉に影を落とすこともある。  エレノアは、それを知っていた。  だから、茶会の席次表を作る時は、招待客の家系図、過去の訴訟記録、婚約の有無、領地の境界争い、宗教儀礼の違い、最近の贈答品の履歴まで確認していた。  だが、その日の王宮庭園に並べられた席は、ひどく美しかった。  美しすぎるほどに、整っていた。  桃色の花。  白いクロス。  銀の茶器。  蜂蜜菓子。  柔らかな風に揺れる薄絹の天幕。  そして、中央には可憐な笑顔を浮かべたリリアナ・ヴァレンシュタインが立っていた。 「皆様、本日はお越しくださり、ありがとうございます」  リリアナは、鈴を転がすような声で挨拶した。  彼女の隣には、王太子ユリウスがいる。  金髪に青い瞳の美しい王太子と、淡い桃色のドレスをまとった可憐な公爵令嬢。  二人が並ぶ姿は、絵画のようだった。  少なくとも、遠目には。 「王妃陛下が身罷られて間もないこの時期に、このような会を開くことに迷いもございました」  リリアナは目を伏せた。  その仕草だけで、周囲の夫人たちの何人かが胸を押さえるような顔をした。 「ですが、悲しみの中だからこそ、皆様
last update最終更新日 : 2026-08-11
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第5話 二日目、隣国大使が帰国を告げた
 王宮茶会が予定より早く終わったという知らせは、その日のうちに王都の社交界を駆け巡った。 誰が最初に漏らしたのかは分からない。 茶会に参加した夫人の侍女かもしれない。 庭園の片づけに入った下働きかもしれない。 あるいは、王宮内で噂を好む若い官吏かもしれなかった。 けれど、噂というものは、出どころよりも形を変える速さの方が恐ろしい。 夕刻にはすでに、王都の貴族街でこう囁かれていた。 新しい王太子妃候補は、初めての茶会で侯爵夫人と伯爵夫人を喧嘩させたらしい。 王妃基金の話題を不用意に出し、財務官夫人が顔色を変えたらしい。 隣国セルベリアの大使夫人を末席に近い場所へ置いたらしい。 王太子殿下は、その場で泣き出したリリアナ嬢を庇い、夫人たちをたしなめたらしい。 そして、最後には皆が前任のエレノア嬢を褒めたらしい。 噂は、最後の一文を特に好んだ。 王宮から追い出された姉の名が、妹の初舞台で何度も出た。 それは、社交界にとって格好の話題だった。 翌朝、王宮は表面上、いつも通りに始まった。 女官たちは廊下を磨き、侍従たちは予定表を持って足早に歩き、官吏たちは文書を抱えて執務棟へ向かう。 けれど、その空気は明らかに昨日とは違っていた。 誰も声を大きくしない。 誰もリリアナの名を口にしない。 そして、誰もエレノアの不在について触れない。 触れないからこそ、そこに空白があることが分かる。 南翼の小会議室で、王太子ユリウスは朝から不機嫌だった。 卓上には、いくつもの文書が積まれている。 茶会に関する報告書。 ハウゼン侯爵夫人からの抗議文。 ミルド伯爵夫人からの丁寧すぎる欠席連絡。
last update最終更新日 : 2026-08-12
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第6話 三日目、王妃の遺産目録が合わない
 王妃エレオノーラの遺品整理は、本来なら厳粛に進められるべきものだった。 王族の死後、身の回りの品は三つに分けられる。 王家へ戻すもの。 遺言に従って譲られるもの。 慈善事業や基金の担保として管理されるもの。 特にエレオノーラ王妃は、生前から慈善事業に熱心だった。王都の孤児院、地方の診療所、戦没騎士の遺児支援、薬草園の維持。そうした事業の一部は、王妃個人の宝飾品や所領収入を担保として成り立っていた。 だからこそ、遺品目録は単なる形見分けではない。 王妃の死後、この国の弱い者たちを支えるための土台だった。 だが、三日目の朝。 王妃の私室に集められた者たちは、その土台がすでにひび割れていることを知ることになった。「もう一度、読み上げてください」 女官長マルタの声は、いつもより硬かった。 王妃の私室は、数日前までエレノアが整理を進めていた場所である。白百合の香りがまだかすかに残っているものの、部屋の主を失った空間はひどく広く感じられた。 中央の大机には、王妃の遺産目録が広げられている。 革表紙の台帳。 封蝋つきの確認書。 宝飾品の写し絵。 所領収入の記録。 王妃基金と紐づけられた担保証明。 その周囲には、王宮財務官、文書官、数名の女官、そしてリリアナがいた。 王太子ユリウスは、セルベリア大使帰国の件で国王への報告に呼ばれている。代わりに、リリアナが王太子妃候補として遺品整理に立ち会うことになった。 彼女は淡い藤色のドレスを着ていた。 王妃の喪に配慮した落ち着いた色合いではあるが、胸元には小さな真珠の飾りが縫い込まれ、袖口には繊細なレースが揺れている。 彼女なりに慎ましくしたつもりなのだろう。 だが、その装いは、この場の重さを理解している者のそれではなかった。
last update最終更新日 : 2026-08-13
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第7話 冷徹宰相カイン、動く
 王宮には、誰も近づきたがらない執務室がある。 北翼の最奥。 陽当たりは悪く、窓の外には庭園ではなく、王宮の外壁と古い監視塔が見えるだけ。豪奢な装飾も、香り高い花も、客人を和ませる柔らかな長椅子もない。 壁一面の書棚。 大きな執務机。 整然と積まれた文書。 火の気の少ない暖炉。 そして、部屋の主の性格をそのまま映したような、無駄のない空気。 そこが、王弟カイン・レオ・グランベルクの執務室だった。 国王の弟。 王太子ユリウスの叔父。 そして、王宮で最も恐れられる冷徹宰相。 貴族たちは彼を「鉄筆の宰相」と呼ぶ。 理由は簡単だった。 カインは情に流されない。 家名に媚びない。 泣き落としを聞かない。 そして、一度署名した命令書は、鉄で刻まれたように覆らない。 その日も、彼はいつも通り机に向かっていた。 王妃の葬儀後、王宮内は目に見えて乱れている。だが、カインの執務室だけは違った。文書は分類ごとに積まれ、報告は時系列順に並び、未決裁案件は赤紐、要確認案件は黒紐、緊急案件は銀の留め具で留められている。 混乱が嫌いなのではない。 混乱の中で、誰が何を隠すかを知っているだけだ。「殿下」 扉の外から、低い声がした。「入れ」 カインは顔を上げずに答えた。 入ってきたのは、彼の秘書官であるオスカーだった。細身で眼鏡をかけた若い官吏だが、王宮内の噂と文書の流れを読む目は鋭い。 彼は数枚の報告書を机の左側に置いた。「王太子殿下周辺の直近三日分の報告です」「読んだ順に話せ」「はい
last update最終更新日 : 2026-08-14
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第8話 追放された令嬢は、祖母の屋敷で眠る
 祖母の旧邸には、王宮のような匂いがなかった。 磨き上げられた大理石の冷たさも、香水と蝋燭が混ざった甘い息苦しさも、廊下を行き交う官吏たちの紙とインクの匂いもない。 ここにあるのは、古い木の床の匂いと、乾いた本の匂いと、庭から入ってくる湿った土の匂いだった。 エレノアは、その朝、窓辺の椅子に座ったまま、しばらく何もしていなかった。 目の前の小さな丸机には、冷めかけた紅茶がある。 アニーが淹れてくれたものだ。王宮で出される一級品ではない。茶葉も少し粗く、香りも強すぎる。けれど、湯気の向こうに誰かの思惑がないだけで、ひどく穏やかに感じられた。 王宮で飲む紅茶には、いつも意味があった。 誰に先に出すか。 どの茶器を使うか。 王妃の喪中にふさわしいか。 隣国大使夫人の好みに合うか。 王太子の機嫌を損ねないか。 リリアナが寂しそうにしていないか。 そんなことばかり考えていた。 けれど今、目の前の紅茶は、ただエレノアのために置かれている。 それが、落ち着かなかった。「お口に合いませんでしたか?」 控えていたアニーが、不安そうに尋ねた。 エレノアは顔を上げる。「いいえ。美味しいわ」「でも、全然召し上がっていらっしゃらないので」「……飲むのを忘れていたの」 そう答えると、アニーは少しだけ目を丸くした。 王宮では、そんな返事をすれば笑われただろう。 可愛げのない冗談だと。 あるいは、疲れているなら休めばいいのにと、軽く流されただろう。 だが、アニーは笑わなかった。「お疲れなのです」 彼女は、
last update最終更新日 : 2026-08-15
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第9話 王妃の遺言状
  夜の屋敷に、馬車の音が近づいてきた。 王宮の馬車ではない。 女官長マルタが使う、目立たない小型の馬車だった。 祖母の旧邸の門前で車輪が止まると、ほどなくして玄関扉が叩かれた。アニーが急いで迎えに出る。廊下の奥まで、冷たい夜気と外套の布擦れの音が流れ込んできた。 エレノアは応接室の中央に立ったまま、扉の方を見ていた。 暖炉には火が入っている。 けれど、部屋の空気は少しも温まらない。 机の上には、黒封蝋の封筒が置かれている。 月桂樹と百合。 亡き王妃エレオノーラの個人紋章。 その封筒がそこにあるだけで、古い応接室は王宮の裁定室よりも重い場所になっていた。 王弟カインは、窓際に立っていた。 腕を組むでもなく、椅子に腰を下ろすでもなく、ただ静かに佇んでいる。彼の秘書官オスカーは、机の端に記録用の紙と筆記具を整えていた。 無駄な動きはない。 誰も声を荒げない。 それなのに、部屋には張り詰めた糸のような緊張があった。「エレノア様」 扉が開き、マルタが入ってきた。 王宮の女官服の上に、濃い灰色の外套を羽織っている。急いで来たのだろう。頬は少し赤く、息もわずかに乱れていた。 しかし、彼女は部屋へ入った瞬間、机の上の封筒を見て、すぐに表情を引き締めた。「……王妃陛下の封蝋でございますね」「はい」 エレノアは頷いた。「王妃様が、私に託してくださいました」 マルタは数秒、封筒から目を離さなかった。 その顔には、驚きよりも深い納得があった。「やはり、何かを残しておられたのですね」「ご存じだったのですか」
last update最終更新日 : 2026-08-16
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第10話 姉の机に座った妹
 リリアナは、姉の机に座っていた。 朝の光が東翼執務室の窓から差し込み、磨かれた机の上を白く照らしている。 昨日までは、この光の中にエレノアがいた。 黒や濃紺の落ち着いたドレスをまとい、背筋を伸ばし、山のような書類に目を通していた。時には羽根ペンを走らせ、時には女官へ短く指示を出し、時には王太子ユリウスの演説草稿を黙々と修正していた。 その姿を、リリアナは何度も見たことがある。 昔は、それを綺麗だと思った。 姉は何でもできる。 姉は誰からも頼られる。 姉は王妃様に信頼され、王太子殿下の隣に立ち、父にも母にも「優秀だ」と言われる。 だから、自分もいつかああなりたいと思った。 けれど、いつからか違う気持ちになった。 なぜ、お姉様ばかり。 なぜ、私には誰も任せてくれないの。 なぜ、殿下はお姉様の隣では笑わないのに、それでもお姉様が選ばれたままなの。 その答えを、リリアナはずっと探していた。 そして、昨日まではこう思っていた。 お姉様が譲ってくれないから。 お姉様が何でも一人で抱え込むから。 お姉様が、私を子供扱いするから。 でも今、リリアナは姉の椅子に座っている。 姉の机も、姉の部屋も、姉が使っていた女官も、姉が持っていた王太子妃候補という立場も、すべて自分の前にある。 なのに、心はちっとも晴れなかった。 むしろ、机の上に積み上げられた書類が、彼女を責めるように見えた。「……どうして、こんなにあるの」 小さく呟いても、返事はない。 机の上には
last update最終更新日 : 2026-08-17
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