それは橘冬真と同じく、サミットのレセプションに参加する来賓だと察せられた。最初に降り立ったのは、藤宮家の御曹司、藤宮北斗だった。真っ白なスーツに身を包んだ北斗は、サイドを刈り上げ、トップの髪をバックに流したスタイリッシュな髪型をしていた。色白の肌に、世捨て人のような不機嫌そうな表情を浮かべ、目の下にはクマが目立つ。上まぶたは薄く開いているだけで、まるで寝起きのような様子だった。黒いピアスと口元のリップピアスが、その反骨精神を主張するかのようだ。北斗が姿を現すと、すぐさまメディアが彼を認識した。「あれは藤宮家の養子の北斗さんですね。実の娘が見つかった後も、実子同然に扱われているとか」北斗が18歳の時の事故で入院した際、特殊な血液型であることが判明し、検査の結果、藤宮盛樹と唐沢心音の実子ではないことが明らかになった。藤宮家が真相を追及したところ、心音の出産後、何者かによって赤ちゃんが取り替えられていたことが発覚した。警察も総力を挙げて18年前に行方不明になった子供を捜索。幸いにも夕月が行方不明児童のDNAデータベースに登録していたことから、突破口が開かれた。DNA鑑定の結果、藤宮家は失われた我が子が息子ではなく、娘だったという衝撃的な事実に直面することとなった。そうして夕月が藤宮家の実子として迎え入れられた。一方、北斗の実の両親は今なお行方が分からないままだ。養子と分かった後も、藤宮家唯一の男子として、夫妻は変わらず実子同然に北斗を愛し続けている。メディアの注目を浴びることを殊更楽しむように、北斗はメルセデスの車内へと視線を向けた。報道陣のカメラが一斉に車のドアに照準を合わせる。まだ誰かが中にいるようだ。桜都第一病院に勤務する北斗が、なぜ冬真と共にテクノロジーサミットに姿を見せるのか。そして、彼と同乗していた人物は誰なのか。衆人環視の中、レディースのチャンキーヒールが地面を踏みしめた。ロリポップを咥え、片手をスラックスのポケットに突っ込んだ藤宮楓が、クールな面持ちで降り立つ。一見ラフに見える長い髪は、実は計算された束感を持たせたスタイリング。前髪は空気を含んだようなボリュームで、80年代の映画のヒロインを彷彿とさせる。薄いブルーのメンズシャツに、グレーのストライプタイを緩く首に巻き、
招待状を目にした瞬間、楓の目が丸く見開かれた。係員は夕月の招待状を確認すると、深々と一礼。「藤宮様、どうぞお通りください」招待状を収めると、夕月は楓たちには一瞥もくれず、まるで先ほどの会話など些末なことのように、颯爽とホールの中へ消えていった。「ちょ、ちょっと!」楓は慌てて係員に尋ねる。「確認されました?あれは本物の招待状でしたか?どうして冬真のと違うんです?」「あちらの方がお持ちだったのは、主催者からの特別招待状です。こちらの橘様の招待状は、各企業様向けに発行されたものとなります」係員は丁寧に説明した。「特別招待……企業向けより格が上に聞こえるんだけど」北斗が呟く。冬真の表情が一層冷たくなる。「ALI数学コンテストの金賞受賞者に、サミットの特別招待状が発行されたことなど聞いたことがない。受賞後にサミットに参加したいのなら、大学関係者として招待状を得るのが通例だ」しかし、大学関係者の招待状は、先ほどの夕月が見せたものとは明らかに異なっていた。「まさか偽の招待状じゃ……」楓は意地の悪い笑みを浮かべながら呟いた。「セキュリティコードが入っておりますので、間違いございません」係員は即座に否定した。「へぇ」楓は鼻で笑う。「セキュリティコードだって偽造できるでしょ。ホテルのマネージャーに確認すれば、彼女に資格があるのかすぐに分かりますけど」冬真に続いて立ち去る楓と北斗の背を見送りながら、係員は小さく呟いた。「なんなんですかね、あの方たち……」そして無線で主催者側に連絡を入れる。「特別招待者の藤宮夕月様が到着されました」会場二階、連絡を受けたスタッフが紫金の大扉をくぐる。紫檀の椅子が並ぶ会議室には、国内有数のテック企業のトップたちが揃っていた。ALI数学コンテスト実行委員会の理事長を務める夏目那岐は、ドローン業界最大手の主任顧問でもある。彼が言葉を交わしているのは、世界的な情報工学会議の主催者であり、桜国科学院の文献情報センター長だ……だが、これら学界の重鎮たちの中でひときわ存在感を放っているのは、上座に座る橘凌一だった。古典的な屏風を背に、まるで一枚の水墨画のように凛として座る男。中華風の立襟にアレンジされたスーツを纏い、襟元から続く盤釦には極細の金糸が交差し、繊細な輝きを放っている。
「スターワールドは自動車メーカーでしょう?なぜ人材の争奪戦に?私が先に!先に!」まるで紳士とは思えない取っ組み合いが、扉の前で勃発。誰一人譲る気配はない。会場に足を踏み入れた夕月の前に、シャンパンを載せたトレイを持つウェイターが現れる。一脚のシャンパンを手に取ると――「瑛優ちゃんのお母様!」幼稚園のママ友の金沢夫人が夕月に声をかけてきた。夕月には覚えがあった。瑛優が桐井園長から退園を迫られた際、散々な言葉を投げかけ、後にSNSの謝罪文まで削除した女性だ。その夫は会社の公式アカウントで夕月に謝罪したものの……今、夫婦揃って驚きの表情を浮かべながら、急いで取り入ろうとしている。「まあ、素敵なドレス!Valenciaのオートクチュールかしら?でも春のコレクションには見覚えがないわ?」「イジーダが非公開のデザインだと」夕月が何気なく答えると、金沢夫人は息を飲んだ。「非公開……まさかValenciaのチーフパタンナーと?!瑛優ちゃんのママ、うらやましすぎます!橘さんってまだこんなにお心遣いを……離婚後もVIPの待遇を受けられるなんて!」この衣装は冬真とは無関係だと説明しようとした瞬間、夕月は鋭い視線を感じ取った。振り向くと、群衆の中から橘大奥様が剣幕で近づいてくる。まるで刃物を振りかざして襲いかかってきそうな形相だ。「どうやって入ってきたの?誰に連れてこられたの?招待状はあるの?」大奥様の矢継ぎ早の詰問が飛ぶ。夕月は悠然と大奥様の前に立ち、スパークリングワインを一口。バラの香り漂う甘美な味わいが広がる。大奥様の細い眉が痙攣するように震える。夕月の余裕綽々とした態度が、まるで挑発のように映ったのだろう。グラスを下ろした夕月の指先が、クリスタルに澄んだ音を奏でる。「お節介も度が過ぎますね」インターコンチネンタルの玄関には、お祓いの火鉢でも置いておくべきだったかもしれない。入場時に穢れを祓えていれば、こんなに見たくもない面々に出くわすことも……夕月は内心で皮肉った。「あなた、私を国家機関に通報するって言ってたわよね?私の名誉を奪おうとして?ふん、女性連盟会に確認したら、そんな通報なんて一つも届いていないそうよ!」大奥様は得意げに告げた。七年も橘家にいた夕月が、何か重大な証拠を握っ
楓の大声に、周囲の来賓が一斉に振り向く。「夕月姉さん!偽の招待状で入場するなんて、藤宮家の恥さらしですよ!」楓が「圭利さん」と呼んだ男性がタブレットを手に近づいてきた。「こちらの方、来賓リストにお名前がございませんが」男性は冷たく言い放つ。「ただちに会場からご退出願います」周囲の来賓たちは、まるでドラマでも見るかのように目を見開いていた。夕月は楓が「圭利さん」と呼んだ男性に穏やかに尋ねた。「失礼ですが、お立場は?」「会場運営責任者です」タブレットを掲げ、断固とした口調で告げる。「来賓リストにあなたのお名前はありません。自主的に退場なさらないのでしたら、警備員を呼ばせていただきます」「申し訳ありませんが」夕月は冷静に返す。「私は一般の来賓ではなく、特別招待者です。企業関係者のリストに名前がないのは当然かと」「リストに名前がない時点で、この会場に居る資格などありません」責任者は嘲るように言い放つ。彼の合図で、二人のスタッフが夕月の背後に立った。「お嬢様、ご退場願います。ご協力いただけない場合は、強制的にお連れ出しさせていただきます」スタッフの警告に続いて、大奥様が口角を上げながら言い放つ。「外にはメディアが溢れているわ。追い出されたら、桜都一の笑い者になるでしょうね」「まあ、このまま残してあげましょうか」大奥様は両手を胸の前で組み、にこやかに続ける。「夕月、トレイを持って端で給仕でもしていれば?」冬真と離婚し、橘家の血を引く子供を連れ去り、しかも孫娘の姓まで変えるという不埒な女。大奥様は今こそ、橘家を出た後の夕月の立場――社会の最下層であることを思い知らせてやろうと目を光らせる。今宵このレセプションでトレイを持つことを許されたのも、大奥様の慈悲あってこそ。でなければ、警備に担ぎ出されるのが関の山。夕月は手首を軽く返し、グラスの中でスパークリングワインが優雅に揺れる。そっと冬真の顔を視線で掠める。冬真の表情が強張る。まさか助けを求めているのか?「ねぇ、圭利さん」楓は意味ありげな微笑みを浮かべながら首を傾げた。「夕月姉さんを追い出すのは止めにしましょう」親切そうな口調で続ける。「ほら、大奥様のご厚意よ。ここのスタッフは皆二十代前半なのに、特別に残れるなんて。天に感謝すべきです
「藤宮さん!」階段から数名の年配紳士たちが駆け降りてくる。その姿に、周囲の来賓たちが慌てて道を開けた。彼らの登場に、会場の視線が一斉に集中する。まるで競争でもするかのように、誰が一番先に夕月の元へ辿り着けるかと急ぐ様子が見て取れた。夏目那岐は面識があったが、他の紳士たちは花橋大学や桜都大学の講演ポスターで見かけた顔ぶれだった。「お迎えが遅れ、申し訳ありません」那岐は夕月に向かって手を差し出した。夕月は謙虚に両手で那岐の手を包み込むように握手を交わす。「夏目理事長、お目にかかれて光栄です」他の年配紳士たちは夕月を見るほどに満足げな表情を浮かべる。その中の一人が喜びを抑えきれない様子で声をかけた。「藤宮さん、上階でゆっくりとお話させていただけませんでしょうか」その言葉が響くや否や、会場からどよめきが起こった。二階——それは下階の来賓たちには立ち入りが許されない特別な空間だった。会場に集まった来賓たちは皆、階段の先にある紫金色の大扉を目にしていた。テクノロジーサミットの超大物たちだけが、あの扉の向こう側に足を踏み入れることを許されていた。会場にいる者たちは知っていた。二階に集うことを許される重鎮は二十名にも満たず、一般のビジネスマンや研究者には到底手の届かない存在だということを。そして今、ニュースでしか見たことのない学界の重鎮たちが、一階の宴会場に揃って姿を現していた。彼らは夕月を取り囲み、まるで渇きを癒すかのような眼差しを、夕月にのみ向けていた。「そんな!」楓が足を踏み鳴らさんばかりの勢いで声を張り上げる。「偽の招待状を使って紛れ込んだ人間が、どうして上階へ行けるというの!」サミットの主催者である永川理事長が即座に反論した。「偽の招待状だと?藤宮さんの招待状は私が直筆で書いたものです。偽物なんてあり得ません」楓は慌てて圭利さんの方を振り向く。「でも圭利さんの手元のリストに夕月姉さんの名前はなかったはず!」橘大奥様は顔色を変え、名だたる重鎮たちの一挙手一投足から目を離せない。主催者の永川理事長は桜都商工会議所の副会長でもあり、雲の上の存在とも言われ、橘大奥様ですら数十年の桜都暮らしで面識を得られなかった人物だった。彭川理事長は会場責任者には目もくれず、冷ややかに言い放った。「特別招待客
大奧様の顔色が真っ白から朱に変わる。周りの来賓たちの顔には、面白そうな笑みが浮かんでいた。先ほど大奧様が夕月をどれほど追い詰めようとしたか、皆の目に焼き付いていた。永川理事長が意図的だったのか偶然だったのか、大奧様に夕月への給仕を命じたのは。大奧様は給仕に必死で目配せをした。誰か気の利いた者が出てきて、このトレイを受け取ってくれないものかと。夕月の目上である自分が、どうして彼女に給仕などできようか。その場の気まずい空気の中、冬真は母親の持つトレイから二つのグラスを手に取った。そのうちの一つを夕月に差し出す。「母上は君の義理の母親なんだ。こういう場では礼儀を弁えて、恥を晒すのは避けたほうがいい」自ら酒を差し出しながらも、その態度は相変わらず傲慢だった。夕月にとって初めての高級パーティーだが、その振る舞いは冬真の期待には程遠かった。夕月はその男を見つめ、クリスタルシャンデリアの光を受けて輝く黒い瞳に星のような光を宿しながら、綺麗な笑みを浮かべた。「冬真さん、笑い者はあなたの方よ」冬真の表情が一瞬にして凍りついた。「夕月!冬真が自ら酒を差し出してくれているのに、何様のつもりなの?」大奥様は怒鳴った。かつて橘家にいた頃、冬真が水一杯くれただけでも感謝感激していたではないか。「彼が笑い者なら、あなたは笑い者を産んだ母親ってことね」夕月は容赦なく言い放った。「夕月姉さん!」楓は大奥様の味方をしようと、彼女の前で好印象を得ようと必死だった。しかし口を開いた途端、夕月に遮られた。「いつも『私が冬真のパパになってやる』なんて大口叩いてたわよね?だったらあなたは笑い者の父親役ってことね。あなたたち親子そろって見せてる醜態といったら!まるで上流階級の仮面をかぶったピエロみたいじゃない?自分の立場も周りの目も考えず、恥知らずな真似を続けるなんて!」大奥様の顔が青ざめては紅潮を繰り返す。手の中のトレイを叩きつけたい衝動に駆られていた。その時、永川理事長が手を伸ばし、大奧様の持つトレイからシャンパンを取った。大奧様の表情が一変し、恭しい態度を装う。そして彼女の目の前で、理事長がそのシャンパンを直々に夕月へと差し出した。大奧様の口元が一瞬にして歪んだ。心中では憤りを覚えながらも、理事長の前では表立って何も言え
三秒後も、夕月の表情には心配の色も、緊張の色も微塵も浮かばなかった。かつては些細な体調不良でさえ、影のように寄り添い、細やかな気遣いを見せていた彼女が。今や彼の血を流す手すら、まるで目に入らないかのように。他人以下の存在として、一瞥すら与えようとしない。永川理事長と夏目那岐は夕月を二階へと招き、立ち去る前に圭利さんに冷たく言い放った。「特別招待客への無礼、このまま済ますとは思わないことです」支配人の顔から血の気が引いた。楓を恨めしく睨みつける。全て彼女のせいで職を失うことになるとばかりに。夕月はグラスを手に、優雅に階段へと向かった。「理事長!」楓は耐えきれずに叫んだ。「姉は無職なのに二階に行けて、冬真はなぜ駄目なんですか!」永川理事長は冷ややかな微笑みを浮かべたまま、足を止めることなく答えた。「橘グループの社長とやらには、まだその資格がありませんね」屈辱の暗い影が冬真の全身を覆い尽くした。「黙れ!」冬真は怒鳴りつけた。楓は初めて見る冬真の激しい怒りに戸惑った。「冬真、私はただ助けようと……」「こんな場所に連れて来るべきじゃなかった」冬真は噛みつくように言い放った。楓は恥ずかしさのあまり、その場に沈み込みそうになった。冬真は階段の先にある紫金の扉を見上げた。ビジネスの世界で生きる者たちにとって、この国際サミットで紫金の扉の向こう側に立つことこそが、最高の栄誉だった。冬真もその目標に向かって邁進してきた。あと五年、いや、三年もあれば十分だ。橘グループを時価総額ナンバーワンに押し上げれば、必ずや主催者から招待状が届くはずだった。なのに夕月は、こんなにも簡単に——理解を超えていた。まさか元妻の彼女に、こんな力があるとは。紫金の扉が、夕月を迎えるかのように、ゆっくりと開いていく。「藤宮夕月、お前が三十年必死に努力したところで、私と肩を並べることなどできやしない」かつて冬真が放った言葉が、突如として夕月の脳裏に蘇った。階段の中程で、夕月は足を止めた。下のホールを見下ろす。今この高さに立って初めて、全てを見下ろすことができた。ホールで立ち尽くす冬真も、今や彼女を見上げている。夕月は明るく微笑んだ。冬真さん、これからもあなたは私をこうして見上げることになるわ。今宵は、
「冬真君、藤宮さんとの関係修復は、まだうまくいっていないのかな?」先ほどの大奧様の夕月への当たり方、そして夕月の冬真への態度を、株主たちは全て目撃していた。すでに何人かの株主は、大奧様に直接説得を試みていた。「永川理事長も夏目博士も直々に出迎えに来られたというのに、あんな態度を取るなんて何を考えているんですか!」株主たちには大奧様の行動が理解できず、先ほどは自分が代わりに夕月の義母になってやりたいとさえ思ったほどだった。「あの子が私を見下すような目で見てきたのよ!」大奧様は先ほどの夕月の眼差しを思い出し、まだ腹立たしげだった。自分の態度に何の問題もないと思い込み、むしろ自分が不当な扱いを受けたと信じているようだった。「私は所詮、あの子の姑なのよ!」「元姑です!」株主が即座に訂正した。「あの子は七年間も私の嫁だったのよ。一日の師は一生の父というでしょう?七年も姑をしてきたんだから、もう少し孝行してもいいはずよ。そもそも離婚を騒ぎ立てて迫ってきたのは、あの子の方でしょう」大奧様は唾を吐くような仕草で続けた。「田舎育ちの娘なんて、七年教え込んでも、礼儀作法の何もわかっちゃいない」株主たちは一様に不快そうな表情を浮かべた。「藤宮さんは今やサミットの上客なんですよ。社長まで追い出される羽目になりたいんですか?」「永川理事長だって、ただの脅しでしょう……」大奧様は聞く耳を持たなかった。株主たちは諦めて、傍らに立つ楓に視線を向けた。「藤宮さんの妹さん」ある株主が冷ややかに警告した。「冬真君に余計な面倒を引き起こすのは、おやめになった方が」別の株主が嫌悪感を露わにして尋ねた。「そもそもビジネス界とは無縁の方が、なぜここにいるんです?誰が連れてきたんですか?」「冬真さんが連れてきてくださいました!」楓は胸を張って答えた。株主たちは再び冬真を詰め寄った。「CTOのオファーはどうなった?先週の食事で和解できたのか?」「和解なんてできてないでしょう。今日の藤宮さんの態度を見れば明らかじゃないですか」株主たちの声が飛び交う中、冬真の険しい表情は闇を帯びていった。「彼女にCTOが務まるとは思えない」冬真は依然として自分の判断を曲げなかった。グループの将来を考えての決断だと信じ込んでいた。「CTOってどんな役職
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット
降り注ぐ淡い陽光の中、冬真の頭の中で無数の蝿が飛び交うような騒がしさが渦巻いていた。*昼時、夕月は涼と共にレストランを訪れていた。涼がメニューに目を落としている間、夕月は何気なく視線を巡らせ、そこで凍りついた。少し離れたテーブルに冬真が若い女性と座っているのが目に入った。今日は厄日だったのか。あの男が視界に入っただけで胸が締め付けられる。「夕月さん、何か食べたいものは?」涼の澄んだ声に、夕月は慌てて視線を戻した。「もう他の男性に目移りですか?」涼が片眉を上げて茶目っ気たっぷりに言った。夕月は思わずナプキンで顔を隠したくなった。「あの人が見えちゃって……」頬を膨らませながら、涼に向かって舌を出す仕草を見せた。涼の目の前で、彼女の表情が途端に生き生きとして、たまらなく愛らしい。「僕の店選びが悪かったね」涼が口元を緩めて言った。「席を替わろうか?」涼の座る席は、ちょうど衝立で隠れていて、冬真からは見えない位置にあった。夕月は首を振った。「もう気付かれてると思う」冬真は席に着くなり、窓際に座る夕月の姿を目にした。スーツ姿の夕月など見たことがなかった。子供の世話に明け暮れていた元妻が、キャリアウーマンのように凛とした雰囲気を纏っているとは。一瞬、目を疑うほどだった。彼の視線に気付いたのか、夕月は顔を逸らした。もしや、自分を観察していたのか。この店は橘グループのビルから近い。夕月は自分を待ち伏せていたというのか。昼下がりの光が夕月の周りを優しく包み込み、束ねた黒髪の端が金色に輝いてい「冬真さん?聞いてらっしゃいます?」向かいに座る女性が彼の様子に気付き、その視線の先を追おうとした。その時、一本のフォークが夕月に差し出された。長く逞しい指をした男の手だった。「味見してみて」涼が切り分けたステーキを夕月の唇元まで運ぶ。夕月は頬を染めた。これは冬真に見せつけているのだろうか。口を開けて、差し出されたステーキを受け取る。瑛優以外の人に食べ物を口移しされるのは、なんだか変な感じ。夕月の頬が薔薇色に染まる。まるで本当に恋をしているみたいだった。涼が分けてくれたステーキは、確かに美味しかった。冬真は突然立ち上がった。向かいの女性が驚いて身を引く。男から放たれる威圧的
楓は期待に満ちた目で彼を見つめた。しかし、男の表情は冷ややかなままだった。「お前は悠斗の人生を台無しにした。刑務所に入らないで済むと思っているのか?甘すぎる」その声に、楓は全身の血が凍るのを感じた。「やだ……刑務所なんて嫌!汐だって、私が刑務所に入るなんて望んでないはず……昔は警察に捕まっても、汐がすぐに助けに来てくれたのに……」楓は涙を流しながら、必死に首を振った。男は彼女の言葉を冷たく遮った。「それは汐の話だ。私は違う。私は悠斗の父親なんだ」冬真は、もはや楓を非難する言葉すら口にしなかった。バイクに悠斗を乗せた彼女の無謀な行動も、あれほど止めていたのに。楓の考えは見え透いていた。悠斗が自分に懐いていれば、どんな面倒を起こしても冬真が庇ってくれると。そして事実、汐との絆を考えて、冬真は何度も彼女を見逃してきた。だが今回は違う。我が子がICUに運ばれるところまで追い詰められた。もう、彼女の行動を許容できる限界を超えていた。楓は彼から放たれる威圧的な雰囲気に萎縮し、赤く腫れた瞼を震わせた。「今日、私が来たのは……汐との約束があったからだ。お前の面倒を見てやってくれと」冬真は差し入れの入った袋をテーブルに置いた。留置場でゆっくり正月を過ごすといい」立ち上がって背を向けた冬真に、楓は必死な声で叫んだ。「私の部屋の化粧台、二段目の引き出しに古い携帯があるの。汐が……最期に残した伝言が入ってるわ」その言葉に、冬真の足が止まった。「本当は教えるつもりじゃなかったの。でも冬真、汐の死の真犯人はまだ罰を受けていないのよ!」冬真がゆっくりと振り返る。その鋭い眼差しは、まるで楓の心の奥底まで見通すかのようだった。「その犯人というのは……」楓は冬真の鋭い視線に震えながら、「私の家に行って、汐の最期の声を聞いて。冬真、また会いに来てね……」もう後がない。楓は、ここまで追い込まれた自分の境遇を肌で感じながら、全てを賭けた一手を打つことを決意した。留置場を出た冬真の携帯が鳴り響く。母親からの着信に、思わず眉間にしわが寄った。無視しようとしたが、執拗に鳴り続ける着信音に、結局応答せざるを得なかった。「はい、母上」「冬真、お見合いの約束を入れたわよ。正午にムードレストランで。お相手は……」冬
「私のため?」盛樹の体が震えた。雅子は髪を弄びながら、シートに片手をついた。深く開いたスーツの襟元には何も着ていない。少し前かがみになると、盛樹の視線は自然とその谷間へと吸い寄せられ、思わず喉が鳴った。目の前で艶やかに揺れる魅惑的な曲線に、盛樹は我を忘れ、ただ真紅の唇の開閉を追いかけるばかり。「藤宮テックを買収したいの」「な、何だって?」盛樹は再び震えた。しなやかな指が彼の太ももに触れる。「盛樹さん、私の願いを叶えて?」盛樹は鼻腔が熱くなり、全身が強張る。もはや自分の言葉すら制御できない。「い、いいとも……」雅子が片方の唇を上げて笑う。対面に座っていた北斗が耐えきれず口を開いた。「父さん、確か買収案件は全て夕月に一任したはずでは?」「夕月?」雅子が首を傾げた。盛樹は北斗を睨みつけながら答えた。「私の娘だ。雅子さん、彼女に関するニュースを見たことがあるだろう?」「海外にいたものでね。国内の話題にはうとくて」雅子は首を振った。盛樹は誇らしげに語り出す。「うちの娘はALI数学コンペで金賞を取ったんだ!それだけじゃない。あの有名なレーサー、Lunaとしても活躍している。この前の国際レース・エキシビションにも出場したんだよ。七年間も主婦をしていたのに、社会に出るや否や八面六臂の活躍ぶり。すごいと思わないかい?」「主婦がコンペの金賞?何か裏があるのでは?」雅子は物思わしげに呟いた。「うちの娘は14歳で花橋大学の飛び級に入った天才なんだ!」盛樹は興奮気味に反論する。雅子は艶のある眼差しを向けながら、「でも、ALIコンペが主婦に金賞を与えるなんて……研究に打ち込む院生や博士たちに失礼じゃないかしら?それに、また主婦に戻るかもしれないのよ?」「そ、それは……」盛樹は言葉に詰まった。「七年も主婦をしていた人が、急にレース界に現れるなんて。プロのレーサーたちはどう思うでしょうね?」盛樹は雅子の言葉に次第に説得され始めていた。「でも夕月は買収案の責任者として、二つの有力な買い手を見つけてきた。ムーンワールドグループ傘下のフェニックス・テクノロジーと桐嶋氏の引力テクノロジーが競合していて、引力は4000億もの高値を提示してきたんだ」「雅子おばさん」北斗が割り込む。「うちの会社、いくらで買収するつもり?」雅
「#楼座雅子帰国#」というトレンドワードが瞬く間にネットを席巻した。「女帝、お帰りなさい!」「楼座雅子様の帰国で、桜都の名門家に激震が走るぞ」「楼座雅子って誰?すごい人なの?」「知らないとか、さては2000年代生まれでしょ」年配のネットユーザーたちが、次々と解説を始めた:楼座家は桜国を代表する財閥の一つ。古くから金融界に君臨してきた名門で、雅子は楼座家が迎えた養女。今年で47歳。25年前、彼女と楼座家三兄弟との愛憎劇は、長編小説が書けるほどの話題を呼んだ。最終的に、雅子は心を閉ざし、楼座財閥の経営に専念。三人の兄は、一人が不具に、一人が精神を病み、もう一人は出家した。25年前、雅子は最も注目された女性実業家で、メディアは彼女の出現を「新時代を切り開く女性の幕開け」と称えた。子供は一人もおらず、結婚歴もない。だが、世界中から才能ある少女たちを養女として迎え入れ、育て上げた。その養女たちは今や、各界で活躍する著名人となっている。*桜都国際空港。VIP専用ゲートの前で、盛樹は真っ赤なバラの花束を抱え、首を伸ばして待ちわびていた。その横で北斗は両手をポケットに入れ、退屈そうにガムを膨らませては潰す。「パチッ」という音が何度も鳴り響く。「うるさい!」盛樹が苛立ちを爆発させた。「私が雅子を迎えに来てるのに、お前は何しに来たんだ」北斗は艶のある瞳に笑みを浮かべる。「父さんの忘れられない初恋の人が、もしかしたら僕の母親かもしれないじゃない」盛樹が何か言おうとした瞬間、黒いスーツワンピースを纏った女性が姿を現した。漆黒の髪が滝のように流れ、真紅の唇が艶めく。サングラスを外すと、まるで花のように美しい横顔が露わになる。時の流れが彼女だけを特別扱いしたかのように、年齢を感じさせない艶やかな表情。丸みを帯びた顔立ちに、凛とした眉目は妖艶な大人の魅力を漂わせていた。10センチの厚底ヒールを履いた足取りは、まるでランウェイを歩くモデルのよう。「雅子!」盛樹の目が釘付けになる。楼座雅子の後ろには、黒い制服に身を包んだ六人の精悍な男たちが整然と並び、30インチの黒いスーツケースを手に、まるでトップモデルのような佇まいで従っていた。北斗は盛樹と共に歩み寄る。「雅子おばさん」北斗は雅子の顔をじっ
「……もう一つは桐嶋さんが率いる引力テクノロジーからの提案です。買収額400億、全従業員と部門の維持、そして新オーナーの下での独立経営を保証する内容となっています」盛樹は真っ先に引力テクノロジーの企画書を手に取り、数ページ目を捲って呟いた。「400億?なぜ桐嶋さんがこれほどの高額を……」涼は椅子に深く寄りかかり、どこか投げやりな態度で答えた。「美人の笑顔一つのためさ。夕月さんへのプレゼントってところかな」盛樹の疑わしげな視線が、夕月と涼の間を行き来する。「夕月さんは僕の彼女だからね」涼は続けた。「彼女が喜ぶなら、それだけで価値があるさ」盛樹は驚愕の表情で夕月を見つめた。「お前と桐嶋さんが……」実は盛樹は、娘のために離婚歴のある実業家を何人か物色していた。早く夕月を片付けて、藤宮家の利益になる縁戚関係を作りたかったのだ。まさか、あまり期待していなかった長女が、こんな大きな驚きを用意していたとは。「やるじゃないか、夕月」盛樹は満足気に顎を撫でながら、口角を上げた。他の役員たちも内心で思いを巡らせていた。まさか桐嶋が長年独身を通してきたのは、橘冬真の妻を想っていたからとは。盛樹は引力テクノロジーの企画書を手に、零れそうな笑みを必死に押さえ込んだ。「400億か。さすが桐嶋さんだ」「夕月さんのことは随分前から好きでした」涼は率直に言った。「今、やっと付き合えることになった。だから、彼女が喜ぶ数字を出させてもらいました」声のトーンを落として続ける。「藤宮社長、断る理由はないでしょう?」グラスを指先で回しながら、一滴の水も零さない。「断るなんて、少し物分かりが悪すぎますよね」涼は軽く笑ったが、漆黒の瞳に鋭い光が宿る。「冗談ですよ。義父上を脅すわけないじゃないですか」その傲慢な眼差しに、盛樹は凍りついた。「義父上」という言葉に、体が震える。まさか、娘を遊び半分で口説いているわけではない?興奮で手を擦り合わせながら、何か言おうとした瞬間、テーブルの上の携帯が震えた。最初は無視するつもりだったが、画面を見た途端、また体が震えた。慌てて電話に出る盛樹。声が震えている。「も、もしもし……」女性の声が響いた。「盛樹さん、帰国したわ」盛樹は立ち上がった。「会議は一時中断!空港まで行っ
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付