濡れた白い薄手の服が身体にへばりつき、しなやかな曲線を浮き彫りにしている。佐藤さんの口が大きく開いて、固まってしまった。「奥……奥様?どうなさったんですか?」佐藤さんは心音が何かに取り憑かれたのではないかと疑った。「分からないの?」心音は音楽を流しながら、スマホのカメラに向かって艶めかしく体を揺らす。「盛樹さんへの仕返しよ!」佐藤さんはその画面に気付いた。心音がライブ配信を始めているのだ。「これのどこが仕返しなんです?」佐藤さんは驚きのあまり声が裏返った。心音は腰をくねらせ、胸を突き出す。「盛樹さんが私を愛してくれないなら、私の体を他の男たちに見せてやるの!」佐藤さんは絶句した。藤宮家で大切な鳥籠の中で育てられた奥様は、どうやら普通ではないらしい。「おばあちゃん、まるでおとぎ話の登場人物みたい」悠斗が小さく呟いた。佐藤さんは悠斗を抱えたまま、心音から遠く離れて歩く。「坊ちゃま、こんな大雨です。車まで抱っこしていきましょう」「いやだ!下ろして!」車椅子に座らせようとした瞬間、悠斗は前のめりになり、再び転げ落ちた。「坊ちゃまっ!!」佐藤さんの悲鳴が響く。地面に這いつくばったまま動けない悠斗に手を伸ばすと、「触らないで!」と叫ぶ。「坊ちゃま、地面は冷たいですよ!」氷の粒のような雨が悠斗の顔を打ち付け、凍えた頬はもう感覚がない。「触らないでっ!絶対に触らないで!」心音の行動にヒントを得た悠斗は、このまま地面に這いつくばっていれば、きっとママは見捨てられないはずだと信じていた。心音と悠斗を追い払おうとしていた警備員の目の前に広がる光景は——地面に這いつくばって泣き叫ぶ男の子。土砂降りの中、艶めかしく踊り続ける女。正気を失った祖孫に、もはや声をかける勇気も失せていた。十六階で、夕月はカーテンを開け、下の光景を見るなり、すぐに閉めた。五歳の子供が駄々をこねるのはまだ理解できる。でも心音の行動は理解の域を超えていた。夕月は、この夫婦のことを思い出して鼻で笑った。人でなしの男と、頭の弱い女。夕月は心の中で呟いた。「ほんと、救いようのないバカップルね」携帯が鳴る。見知らぬ番号に、夕月は何か強い予感がした。受話器を耳に当てながら応答ボタンを押す。「もしも
病院に戻った頃には、悠斗の声は枯れ果てていた。もう声も出ない。小さな顔は苦痛に歪んでいた。激しい感情の起伏に、雨に濡れ、転倒したことで体の炎症が再発し、悠斗の頬は真っ赤に染まり、全身が震え始めた。様子の異変に気付いた冬真は、すぐに医師を呼んだ。数人の医師がベッドを囲み、緊急治療を開始する。大奥様が駆けつけ、医師たちに囲まれたベッドを目にして、胸に手を当てながら声を上げた。「悠斗くんに何があったの?佐藤さんはどこへ連れて行ったの?」「夕月に会いに行ったんだ」冬真は苛立ちを隠せない声で答えた。「あの薄情な女に会いに行っただけで、どうしてこんなことに?」大奥様は動揺を隠せない。「夕月が悠斗に何かしたの?」「あの女は悠斗を許そうとせず、雨の中に放置した」冬真の声は氷のように冷たかった。「なんてことを!」大奥様は気を失いそうになった。「すぐにマスコミを集めましょう。あの女が母親失格だということを大々的に報道させます。有名人になったからって、調子に乗らせません。名声は諸刃の剣。持ち上げられた分だけ、惨めに落ちていくのを見せてやります!」「好きにしろ」冬真は病室の方を向き、疲れ切った表情を見せた。夕月という名前は、心臓に刺さった棘のよう。完全に埋まり込んで、血管の中を這い回っている。彼女のことを考えるだけで、全身が痛みを覚えた。息子の同意を得られたと思った大奥様は、急に表情を明るくした。「今日の青司家のお嬢様とのお見合いは、どうでした?」突然の質問に、冬真は幻聴かと疑った。「母さん、医師団が必死に治療している最中ですよ」たった今まで悠斗の容態を案じていた大奥様が、一転して息子の結婚話を持ち出すとは。「治療は医師に任せて、新しいママを探すことだってできるでしょう!」大奥様は続けた。「早く新しいママを見つけて、悠斗の面倒を見てもらわないと。青司家のお嬢様なら医大出身で、漢方もお得意よ。少し年上だけど、私の体調が悪い時も診てもらえるわ」冬真に近づき、声を潜めて耳打ちする。「悠斗の体はもう完治は難しいかもしれない。健康な子供を早く作らないと……」冬真の眼差しが氷のように冷たく、嫌悪を露わにする。「母さん!もういい加減にして!悠斗の回復を願ってないんですか?」「そんなことないわ!」冬真の反応
病室の方に目を向けると、医師たちがベッドの周りで慌ただしく動き回っていた。悠斗の容態は……かなり深刻なようだな。「悠斗くんに何があったんだ?」「あの非情な母親が、こんな目に遭わせたんです!」その言葉が終わらぬうち、凌一の鋭い眼光が刃物のように冬真の顔を切り裂いた。頬に寒風が爆ぜたような痛みを覚える。冬真は問いかけた。「叔父上、なぜそんな目で私を見るのです?」自分の言葉が何か間違っていたというのか。「悠斗は夕月に会いに行って和解を求めたんです。母親に一目会いたい、抱きしめてほしいと懇願したのに、夕月は外に放り出して、雨に濡れるのも構わないと見捨てたんです!今、悠斗がこんな状態になっているのに、母親として一片の責任も感じないというのですか?」凌一の類い稀なる端麗な顔には、表情の微かな変化すら見られなかった。「夕月を非難するのに、私を引き込もうというのかね」冬真は真っ直ぐに叔父の瞳を見据えた。「叔父上、あなたも橘家の人間でしょう。よその肩を持つのはいい加減にしていただきたい」底知れぬ深さを湛えた瞳で、凌一は感情を押し殺したように冬真を見つめた。「私は確かに橘家の人間だ。当然、橘家の味方をする……ただし、橘家の者が度を超えた振る舞いをした場合は別だがね」冬真は不快感を露わにし、刺のある声を発した。「夕月は既に私と離婚したんです。叔父上は一体どういう立場で彼女を擁護なさるんですか?」凌一の夕月への関心は、明らかに度を越えていた。それはもう、教師が教え子を気遣う程度を遥かに超えている。そもそも、凌一は夕月の正式な指導教官ですらなかったのだ。「夕月が君と結婚した本当の理由を、君は知っているのかね?」冬真は一瞬固まり、頭の中で耳鳴りのような音が鳴り響いた。「私との結婚に、他に理由があるとでも?彼女は私に惹かれて、私の立場に目をつけて……」「確かに、彼女は君の立場に目をつけた」凌一の底知れぬ瞳には、数え切れないほどの意味が潜んでいた。そんな眼差しに見つめられ、冬真の胸の奥で心臓が大きく波打った。「私は橘グループのトップです。彼女の目的なんて最初から不純でした」「その通りだ」凌一は認めた。「彼女が橘家で七年を過ごしたのは、もっと大きな目的があってのことだ」冬真の息が一瞬止まり、瞳孔が
凌一は無言のまま、深い淵のような冷たい眼差しで冬真を見つめていた。冬真の視線は、凌一の両脚へと落ちた。七年前、深遠がM国から制裁を受け、国家安全リストに載せられた時から、凌一が桜国を離れ、M国との犯罪人引渡条約を結んでいる国に足を踏み入れれば、M国当局に拘束される可能性があった。しかし、桜国の多くの学者にとって、このような制裁はむしろ名誉の勲章のようなものだった。桐嶋幸雄も五年前にM国の入国制限リストに載せられ、M国同盟国のいかなる研究機関への訪問も禁じられた。つまり、世界トップ10の大学は、幸雄や凌一との共同研究を一切禁止されたのだ。とはいえ、桜国で生活する限り、これらの一流学者たちの日常は何ら支障を来すことはなかった。だが、不運は凌一を見舞った。あの交通事故は、明らかに命を狙ったものだった。幸いにも一命は取り留めたものの、凌一は両脚を失うことになった。それ以来、橘家は凌一を遠ざけるようになり、凌一自身も橘グループや一族の誰をも巻き込むまいと、意図的に距離を置くようになった。冬真の認識では、凌一は数多の受験生の中から夕月を選抜し、飛び級クラスに推薦した以外、彼女との関わりは皆無に等しかった。数少ない接点といえば、家族の集まりで顔を合わせた程度。そんな場でも、夕月は凌一に会釈する以外、特段の交流も見受けられなかった。そのため、冬真は長い間、凌一と夕月の関係など、ただの他人同然だと思い込んでいた。だが今、凌一の一言が彼の心臓を鷲掴みにしていた。「その『もっと大きな目的』とやらは、一体なんです?」凌一の澄み切った瞳には、すべてを見通すような光が宿っていた。冬真の動揺と焦燥を見抜いているかのように。これまで信じてきた「夕月は自分を深く愛していた」という確信が、凌一のたった一言で、もろくも崩れ去ろうとしていた。「彼女の任務は既に終わった。橘家の令夫人という立場があれば、普通の生活を送ることができる。橘家の庇護はここまでだ。これからは私が引き受ける。だが、感謝の言葉などかけはしない。君は彼女を娶りながら、まともな夫婦生活すら与えられなかった。橘グループの社長が、家庭という小さな組織すら経営できないとはな。冬真、君は実に無能だ」まるで法廷で判決を言い渡すかのような凌一の言葉は、鋭利な斧となって冬真の
冬真の表情が険しくなった。凌一は冬真の内心を見透かしたように続けた。「星来は君と同世代の従弟だ。従弟に一言謝ることも、橘社長には出来ないのかな?」確かに星来は従弟の立場にあたる。だが、悠斗と同い年だ。それに、星来は凌一の養子に過ぎない。橘家での地位は悠斗より下なのだ。大人の自分が星来に謝るなど、冬真にはとても出来そうになかった。「二度は言わんぞ」凌一の声が冷たく響いた。大奥様が出てきて口を挟んだ。「凌一、何を言い出すの?こんな時に冬真に謝らせるなんて。子供の寿命が縮むって言うでしょう?」最後の言葉は不適切だと自覚したのか、大奥様は声を潜めた。俗世を超越した凌一なら、この失言も大目に見てくれるだろう――そう考えたのだろう。「冬真、手を出しなさい。手のひらを上に向けて」凌一の声は微動だにせず、長老のような重みを帯びていた。冬真は不吉な予感に襲われた。だが、抗いがたい力に突き動かされるように、否応なく手を差し出していた。凌一はアシスタントに目配せをすると、アシスタントは躊躇なく定規を取り出し、冬真の掌を打ち下ろした!「パシッ!」という空気を裂くような音に、大奥様は身を震わせ、病室で泣き叫んでいた悠斗の声も一瞬途切れた。冬真の掌は一瞬真っ白になり、すぐさま血が集まって目に見えるほどの腫れが浮き上がった。定規が冬真の手を打つ音は、大奥様の心臓を直撃した。老婦人は肝を冷やし、唇を震わせた。「あ、あの……これは……」大奥様は言葉を失い、凌一の仕打ちが自分への警告だと悟った。車椅子に端然と座る凌一の背筋は、松のように真っ直ぐに伸びていた。「先日、悠斗くんが星来に無礼を働いた時も罰を与えた。今度は義姉上が不適切な発言をしたから、お前が受けるのだ」さらに凌一は大奥様に向かって言い放った。「義姉上、次にそのような言葉を口にされたら、今度は冬真の口を叩くことになりますよ」大奥様は息さえ満足に出来なくなっていた。冬真の額には薄い汗が浮かんでいた。掌の痛みは蔦のように這い上がり、皮膚を突き破りそうだった。幾度も我慢を重ねた末、冬真は表情を引き締めて凌一に告げた。「母と悠斗、きちんと諭しておきます。ご心配なく」*一時間後、冬真は橘邸に駆け込んでいた。夕月が暮らしていた部屋に突入し、彼女が使って
かつての端正な顔立ちが、深く寄せた眉に歪められ、冬真の表情は一層陰鬱さを帯びていた。「メイドに作らせるぞ」息子のご機嫌取りにも限度がある。悠斗の夕月に対する態度が一変したというのに、なぜ自分が振り回されなければならないのか。こんな些細なことに時間を費やすつもりは毛頭なかった。「ママが作ったお粥がいい!うぅ……っ!」悠斗は頑なに叫んだ。受話器越しに聞こえる息子の泣き声が、幾千もの針となって鼓膜を突き刺すように感じられた。「じゃあ、あいつの手を切り落として粥でも作らせようか?」癇癪まじりに放った言葉に、悠斗は血の気を失った。「パパ、そんなこと言わないで!ママが……」「もう二度と『ママ』なんて言葉を聞かせるな!」冷酷に電話を切った男の胸が激しく上下し、呼吸のたびに心臓が痛んだ。怒りの炎に血が煮えたぎり、携帯を握る手の筋が蛇のように這い、今にも皮膚を突き破りそうだった。まだ信じたくなかった。夕月との結婚生活が、これほど形だけのものだったとは。きっと偶然の重なりに過ぎないはずだ。では、スコッチエッグは?あの手の込んだスコッチエッグは、確かにいつも夕月が手作りしてくれていたはずだ。冬真は今年のキッチン映像を検索し、夕月が自分と子供たちのためにスコッチエッグを作る場面を見つけ出した。映像には、スコッチエッグの工程を一つ一つ丁寧にこなす夕月の姿が映っていた。冬真は椅子の背もたれに身を預け、全身の力を抜いた。唇の端がほっとした様子で緩む。だが突然、モニターに身を乗り出した。映像の中の夕月は、どうやらスコッチエッグを二つしか作っていないように見える。自分と悠斗、瑛優の分なら、三つ作るはずだ。すると夕月は調理の終盤で、冷凍庫から小箱を取り出した。包装を破ると、中から既に揚げられたスコッチエッグが姿を現す。それをエアフライヤーに入れる。程なくして、三つのスコッチエッグが揃った。付け合わせの多い一つ――自分の分は、冷凍庫から出して温め直したものだと気付いた冬真は、その場で凍りついた。まさか……!スコッチエッグまで既製品があるというのか?!いや、だとしても夕月が前もって作ったものなのでは?映像に映った包装を手がかりに、通販サイトで検索してみる。某店の冷凍食品の包装が、夕月が手
藤宮夕月(ふじみやゆづき)は娘を連れて、急いでホテルに向かった。すでに息子の5歳の誕生日パーティーは始まっていた。橘冬真(たちばなとうま)は息子のそばに寄り添い、ロウソクの暖かな光が子供の幼い顔を照らしていた。悠斗(ゆうと)は小さな手を合わせ、目を閉じて願い事をした。「僕のお願いはね、藤宮楓(いちのせかえで)お姉ちゃんが僕の新しいママになってくれること!」藤宮夕月(ふじみやゆづき)の体が一瞬震えた。外では激しい雨が降っていた。娘とバースデーケーキを濡らさないようにと傘を差し出したが、そのせいで自分の半身はずぶ濡れになっていた。服は冷たい氷のように張り付き、全身を包み込む。「何度言ったらわかるの?『お姉ちゃん』じゃなくて、『楓兄貴(かえであにき)』って呼びな!」藤宮楓は豪快に笑いながら言った。「だってさ、私とお前のパパは親友だぜ~?だからママにはなれないけど、二番目のパパならアリかもな!」彼女の笑い声は個室に響き渡り、周りの友人たちもつられて笑い出した。だが、この場で橘冬真をこんな風にからかえるのは、藤宮楓だけだった。悠斗はキラキラした瞳を瞬かせながら、藤宮楓に向かって愛嬌たっぷりの笑顔を見せた。「で、悠斗はどうして急に新しいママが欲しくなったんだ?」藤宮楓は悠斗の頬をむぎゅっとつまみながら尋ねた。悠斗は橘冬真をちらりと見て、素早く答えた。「だって、パパは楓兄貴のことが好きなんだもん!」藤宮楓は爆笑した。悠斗をひょいっと膝の上に乗せると、そのまま橘冬真の肩をぐいっと引き寄せて、誇らしげに言った。「悠斗の目はね、ちゃーんと真実を見抜いてるのさ~!」橘冬真は眉をひそめ、周囲の人々に向かって淡々と言った。「子供の言うことだから、気にするな」まるで冗談にすぎないと言わんばかりだった。だが、子供は嘘をつかない。誰もが知っていた。橘冬真と藤宮楓は、幼い頃からの幼馴染だったことを。藤宮楓は昔から男友達の中で育ち、豪快な性格ゆえに橘家の両親からはあまり気に入られていなかった。一方で、藤宮夕月は18歳のとき、藤宮家によって見つけ出され、家の期待を背負って、愛情を胸に抱きながら橘冬真と結婚した。そして、彼の子を産み、育ててきたのだった。個室の中では、みんなが面白がって煽り始
藤宮楓は振り返り、橘冬真にいたずらっぽく舌を出した。「夕月、また勘違いしてるわ、今すぐ説明してくるね!」「説明することなんてないさ。彼女が敏感すぎるだけだ」橘冬真は淡々とした表情で、藤宮夕月が置いていった半分の誕生日ケーキをちらっと見て、眉を少しひそめた。橘冬真の言葉で、周りの人々は皆、安心したように息をついた。藤宮夕月は腹を立てて出て行っただけで、何も大したことじゃない。他の人たちは口々に同調した。「夕月はただ気が立っていただけ、冬真が帰ったらすぐに宥めればいいさ」「そうだよ、夕月が本当に冬真と離婚するなんて、あり得ない。誰でも知ってるよ、夕月は冬真のために命がけで子供を産んだんだから」「もしかしたら、外に出た瞬間に後悔して戻ってくるかもね!」「さあさあ、ケーキを食べよう!冬真が帰ったら、夕月はすぐに家の前で待っているだろうね!」橘冬真は眉を緩め、藤宮夕月が怯えて、何も言わずに自分を気遣って立つ姿を想像できた。悠斗は美味しそうに、藤宮楓が持ってきたケーキを食べている。クリームが口の中に広がり、舌がしびれるような感覚がするが、彼は気にしなかった。ママはもう自分のことを気にしない。なんて素晴らしいことだろう。誕生日の宴が終わり、橘冬真は車の中で目を閉じて休んでいた。窓から差し込む光と影が、彼の顔を明滅させていた。「パパ!体がかゆい!」悠斗は小さな猫のように低い声で訴えた。橘冬真は目を開け、頭上のライトを点けた。そこには悠斗の赤くなった顔があり、彼は体を掻きながら呼吸が荒くなっていた。「悠斗!」橘冬真はすぐに悠斗の手を押さえ、彼の首に赤い発疹が広がっているのを見た。悠斗はアレルギー反応を起こしている。橘冬真の表情は相変わらず冷徹だったが、すぐにスマートフォンを取り出して、藤宮夕月に電話をかけた。電話がつながった瞬間、彼が話そうとしたその時、電話越しに聞こえてきたのは、「おかけになった電話は現在使われておりません」橘冬真の細長い瞳に冷たい怒りが湧き上がった。子供がアレルギーを起こしているのに、藤宮夕月は無視しているのか?「運転手、速くしろ。藤宮家へ戻れ!」彼は悠斗を抱えて家に戻った。玄関を見やると、そこはいつも通りではなく、藤宮夕月が待っているはずの場所に誰もいなかった。佐
かつての端正な顔立ちが、深く寄せた眉に歪められ、冬真の表情は一層陰鬱さを帯びていた。「メイドに作らせるぞ」息子のご機嫌取りにも限度がある。悠斗の夕月に対する態度が一変したというのに、なぜ自分が振り回されなければならないのか。こんな些細なことに時間を費やすつもりは毛頭なかった。「ママが作ったお粥がいい!うぅ……っ!」悠斗は頑なに叫んだ。受話器越しに聞こえる息子の泣き声が、幾千もの針となって鼓膜を突き刺すように感じられた。「じゃあ、あいつの手を切り落として粥でも作らせようか?」癇癪まじりに放った言葉に、悠斗は血の気を失った。「パパ、そんなこと言わないで!ママが……」「もう二度と『ママ』なんて言葉を聞かせるな!」冷酷に電話を切った男の胸が激しく上下し、呼吸のたびに心臓が痛んだ。怒りの炎に血が煮えたぎり、携帯を握る手の筋が蛇のように這い、今にも皮膚を突き破りそうだった。まだ信じたくなかった。夕月との結婚生活が、これほど形だけのものだったとは。きっと偶然の重なりに過ぎないはずだ。では、スコッチエッグは?あの手の込んだスコッチエッグは、確かにいつも夕月が手作りしてくれていたはずだ。冬真は今年のキッチン映像を検索し、夕月が自分と子供たちのためにスコッチエッグを作る場面を見つけ出した。映像には、スコッチエッグの工程を一つ一つ丁寧にこなす夕月の姿が映っていた。冬真は椅子の背もたれに身を預け、全身の力を抜いた。唇の端がほっとした様子で緩む。だが突然、モニターに身を乗り出した。映像の中の夕月は、どうやらスコッチエッグを二つしか作っていないように見える。自分と悠斗、瑛優の分なら、三つ作るはずだ。すると夕月は調理の終盤で、冷凍庫から小箱を取り出した。包装を破ると、中から既に揚げられたスコッチエッグが姿を現す。それをエアフライヤーに入れる。程なくして、三つのスコッチエッグが揃った。付け合わせの多い一つ――自分の分は、冷凍庫から出して温め直したものだと気付いた冬真は、その場で凍りついた。まさか……!スコッチエッグまで既製品があるというのか?!いや、だとしても夕月が前もって作ったものなのでは?映像に映った包装を手がかりに、通販サイトで検索してみる。某店の冷凍食品の包装が、夕月が手
冬真の表情が険しくなった。凌一は冬真の内心を見透かしたように続けた。「星来は君と同世代の従弟だ。従弟に一言謝ることも、橘社長には出来ないのかな?」確かに星来は従弟の立場にあたる。だが、悠斗と同い年だ。それに、星来は凌一の養子に過ぎない。橘家での地位は悠斗より下なのだ。大人の自分が星来に謝るなど、冬真にはとても出来そうになかった。「二度は言わんぞ」凌一の声が冷たく響いた。大奥様が出てきて口を挟んだ。「凌一、何を言い出すの?こんな時に冬真に謝らせるなんて。子供の寿命が縮むって言うでしょう?」最後の言葉は不適切だと自覚したのか、大奥様は声を潜めた。俗世を超越した凌一なら、この失言も大目に見てくれるだろう――そう考えたのだろう。「冬真、手を出しなさい。手のひらを上に向けて」凌一の声は微動だにせず、長老のような重みを帯びていた。冬真は不吉な予感に襲われた。だが、抗いがたい力に突き動かされるように、否応なく手を差し出していた。凌一はアシスタントに目配せをすると、アシスタントは躊躇なく定規を取り出し、冬真の掌を打ち下ろした!「パシッ!」という空気を裂くような音に、大奥様は身を震わせ、病室で泣き叫んでいた悠斗の声も一瞬途切れた。冬真の掌は一瞬真っ白になり、すぐさま血が集まって目に見えるほどの腫れが浮き上がった。定規が冬真の手を打つ音は、大奥様の心臓を直撃した。老婦人は肝を冷やし、唇を震わせた。「あ、あの……これは……」大奥様は言葉を失い、凌一の仕打ちが自分への警告だと悟った。車椅子に端然と座る凌一の背筋は、松のように真っ直ぐに伸びていた。「先日、悠斗くんが星来に無礼を働いた時も罰を与えた。今度は義姉上が不適切な発言をしたから、お前が受けるのだ」さらに凌一は大奥様に向かって言い放った。「義姉上、次にそのような言葉を口にされたら、今度は冬真の口を叩くことになりますよ」大奥様は息さえ満足に出来なくなっていた。冬真の額には薄い汗が浮かんでいた。掌の痛みは蔦のように這い上がり、皮膚を突き破りそうだった。幾度も我慢を重ねた末、冬真は表情を引き締めて凌一に告げた。「母と悠斗、きちんと諭しておきます。ご心配なく」*一時間後、冬真は橘邸に駆け込んでいた。夕月が暮らしていた部屋に突入し、彼女が使って
凌一は無言のまま、深い淵のような冷たい眼差しで冬真を見つめていた。冬真の視線は、凌一の両脚へと落ちた。七年前、深遠がM国から制裁を受け、国家安全リストに載せられた時から、凌一が桜国を離れ、M国との犯罪人引渡条約を結んでいる国に足を踏み入れれば、M国当局に拘束される可能性があった。しかし、桜国の多くの学者にとって、このような制裁はむしろ名誉の勲章のようなものだった。桐嶋幸雄も五年前にM国の入国制限リストに載せられ、M国同盟国のいかなる研究機関への訪問も禁じられた。つまり、世界トップ10の大学は、幸雄や凌一との共同研究を一切禁止されたのだ。とはいえ、桜国で生活する限り、これらの一流学者たちの日常は何ら支障を来すことはなかった。だが、不運は凌一を見舞った。あの交通事故は、明らかに命を狙ったものだった。幸いにも一命は取り留めたものの、凌一は両脚を失うことになった。それ以来、橘家は凌一を遠ざけるようになり、凌一自身も橘グループや一族の誰をも巻き込むまいと、意図的に距離を置くようになった。冬真の認識では、凌一は数多の受験生の中から夕月を選抜し、飛び級クラスに推薦した以外、彼女との関わりは皆無に等しかった。数少ない接点といえば、家族の集まりで顔を合わせた程度。そんな場でも、夕月は凌一に会釈する以外、特段の交流も見受けられなかった。そのため、冬真は長い間、凌一と夕月の関係など、ただの他人同然だと思い込んでいた。だが今、凌一の一言が彼の心臓を鷲掴みにしていた。「その『もっと大きな目的』とやらは、一体なんです?」凌一の澄み切った瞳には、すべてを見通すような光が宿っていた。冬真の動揺と焦燥を見抜いているかのように。これまで信じてきた「夕月は自分を深く愛していた」という確信が、凌一のたった一言で、もろくも崩れ去ろうとしていた。「彼女の任務は既に終わった。橘家の令夫人という立場があれば、普通の生活を送ることができる。橘家の庇護はここまでだ。これからは私が引き受ける。だが、感謝の言葉などかけはしない。君は彼女を娶りながら、まともな夫婦生活すら与えられなかった。橘グループの社長が、家庭という小さな組織すら経営できないとはな。冬真、君は実に無能だ」まるで法廷で判決を言い渡すかのような凌一の言葉は、鋭利な斧となって冬真の
病室の方に目を向けると、医師たちがベッドの周りで慌ただしく動き回っていた。悠斗の容態は……かなり深刻なようだな。「悠斗くんに何があったんだ?」「あの非情な母親が、こんな目に遭わせたんです!」その言葉が終わらぬうち、凌一の鋭い眼光が刃物のように冬真の顔を切り裂いた。頬に寒風が爆ぜたような痛みを覚える。冬真は問いかけた。「叔父上、なぜそんな目で私を見るのです?」自分の言葉が何か間違っていたというのか。「悠斗は夕月に会いに行って和解を求めたんです。母親に一目会いたい、抱きしめてほしいと懇願したのに、夕月は外に放り出して、雨に濡れるのも構わないと見捨てたんです!今、悠斗がこんな状態になっているのに、母親として一片の責任も感じないというのですか?」凌一の類い稀なる端麗な顔には、表情の微かな変化すら見られなかった。「夕月を非難するのに、私を引き込もうというのかね」冬真は真っ直ぐに叔父の瞳を見据えた。「叔父上、あなたも橘家の人間でしょう。よその肩を持つのはいい加減にしていただきたい」底知れぬ深さを湛えた瞳で、凌一は感情を押し殺したように冬真を見つめた。「私は確かに橘家の人間だ。当然、橘家の味方をする……ただし、橘家の者が度を超えた振る舞いをした場合は別だがね」冬真は不快感を露わにし、刺のある声を発した。「夕月は既に私と離婚したんです。叔父上は一体どういう立場で彼女を擁護なさるんですか?」凌一の夕月への関心は、明らかに度を越えていた。それはもう、教師が教え子を気遣う程度を遥かに超えている。そもそも、凌一は夕月の正式な指導教官ですらなかったのだ。「夕月が君と結婚した本当の理由を、君は知っているのかね?」冬真は一瞬固まり、頭の中で耳鳴りのような音が鳴り響いた。「私との結婚に、他に理由があるとでも?彼女は私に惹かれて、私の立場に目をつけて……」「確かに、彼女は君の立場に目をつけた」凌一の底知れぬ瞳には、数え切れないほどの意味が潜んでいた。そんな眼差しに見つめられ、冬真の胸の奥で心臓が大きく波打った。「私は橘グループのトップです。彼女の目的なんて最初から不純でした」「その通りだ」凌一は認めた。「彼女が橘家で七年を過ごしたのは、もっと大きな目的があってのことだ」冬真の息が一瞬止まり、瞳孔が
病院に戻った頃には、悠斗の声は枯れ果てていた。もう声も出ない。小さな顔は苦痛に歪んでいた。激しい感情の起伏に、雨に濡れ、転倒したことで体の炎症が再発し、悠斗の頬は真っ赤に染まり、全身が震え始めた。様子の異変に気付いた冬真は、すぐに医師を呼んだ。数人の医師がベッドを囲み、緊急治療を開始する。大奥様が駆けつけ、医師たちに囲まれたベッドを目にして、胸に手を当てながら声を上げた。「悠斗くんに何があったの?佐藤さんはどこへ連れて行ったの?」「夕月に会いに行ったんだ」冬真は苛立ちを隠せない声で答えた。「あの薄情な女に会いに行っただけで、どうしてこんなことに?」大奥様は動揺を隠せない。「夕月が悠斗に何かしたの?」「あの女は悠斗を許そうとせず、雨の中に放置した」冬真の声は氷のように冷たかった。「なんてことを!」大奥様は気を失いそうになった。「すぐにマスコミを集めましょう。あの女が母親失格だということを大々的に報道させます。有名人になったからって、調子に乗らせません。名声は諸刃の剣。持ち上げられた分だけ、惨めに落ちていくのを見せてやります!」「好きにしろ」冬真は病室の方を向き、疲れ切った表情を見せた。夕月という名前は、心臓に刺さった棘のよう。完全に埋まり込んで、血管の中を這い回っている。彼女のことを考えるだけで、全身が痛みを覚えた。息子の同意を得られたと思った大奥様は、急に表情を明るくした。「今日の青司家のお嬢様とのお見合いは、どうでした?」突然の質問に、冬真は幻聴かと疑った。「母さん、医師団が必死に治療している最中ですよ」たった今まで悠斗の容態を案じていた大奥様が、一転して息子の結婚話を持ち出すとは。「治療は医師に任せて、新しいママを探すことだってできるでしょう!」大奥様は続けた。「早く新しいママを見つけて、悠斗の面倒を見てもらわないと。青司家のお嬢様なら医大出身で、漢方もお得意よ。少し年上だけど、私の体調が悪い時も診てもらえるわ」冬真に近づき、声を潜めて耳打ちする。「悠斗の体はもう完治は難しいかもしれない。健康な子供を早く作らないと……」冬真の眼差しが氷のように冷たく、嫌悪を露わにする。「母さん!もういい加減にして!悠斗の回復を願ってないんですか?」「そんなことないわ!」冬真の反応
濡れた白い薄手の服が身体にへばりつき、しなやかな曲線を浮き彫りにしている。佐藤さんの口が大きく開いて、固まってしまった。「奥……奥様?どうなさったんですか?」佐藤さんは心音が何かに取り憑かれたのではないかと疑った。「分からないの?」心音は音楽を流しながら、スマホのカメラに向かって艶めかしく体を揺らす。「盛樹さんへの仕返しよ!」佐藤さんはその画面に気付いた。心音がライブ配信を始めているのだ。「これのどこが仕返しなんです?」佐藤さんは驚きのあまり声が裏返った。心音は腰をくねらせ、胸を突き出す。「盛樹さんが私を愛してくれないなら、私の体を他の男たちに見せてやるの!」佐藤さんは絶句した。藤宮家で大切な鳥籠の中で育てられた奥様は、どうやら普通ではないらしい。「おばあちゃん、まるでおとぎ話の登場人物みたい」悠斗が小さく呟いた。佐藤さんは悠斗を抱えたまま、心音から遠く離れて歩く。「坊ちゃま、こんな大雨です。車まで抱っこしていきましょう」「いやだ!下ろして!」車椅子に座らせようとした瞬間、悠斗は前のめりになり、再び転げ落ちた。「坊ちゃまっ!!」佐藤さんの悲鳴が響く。地面に這いつくばったまま動けない悠斗に手を伸ばすと、「触らないで!」と叫ぶ。「坊ちゃま、地面は冷たいですよ!」氷の粒のような雨が悠斗の顔を打ち付け、凍えた頬はもう感覚がない。「触らないでっ!絶対に触らないで!」心音の行動にヒントを得た悠斗は、このまま地面に這いつくばっていれば、きっとママは見捨てられないはずだと信じていた。心音と悠斗を追い払おうとしていた警備員の目の前に広がる光景は——地面に這いつくばって泣き叫ぶ男の子。土砂降りの中、艶めかしく踊り続ける女。正気を失った祖孫に、もはや声をかける勇気も失せていた。十六階で、夕月はカーテンを開け、下の光景を見るなり、すぐに閉めた。五歳の子供が駄々をこねるのはまだ理解できる。でも心音の行動は理解の域を超えていた。夕月は、この夫婦のことを思い出して鼻で笑った。人でなしの男と、頭の弱い女。夕月は心の中で呟いた。「ほんと、救いようのないバカップルね」携帯が鳴る。見知らぬ番号に、夕月は何か強い予感がした。受話器を耳に当てながら応答ボタンを押す。「もしも
「坊ちゃま!」佐藤さんの悲鳴が響く。「うっ、うっ…ママァ!!」悠斗は両手をついて、夕月の方へ這い寄ろうとした。「ママ、見て!一目だけでいいから!!」涙が溢れ出し、真っ赤な頬を伝う。体中の痛みも忘れ、全身の力を振り絞って前に進もうとする。小雨が降り出し、佐藤さんは慌てて悠斗を抱き上げた。夕月と瑛優がエレベーターを待っている前に、佐藤さんは悠斗を抱えて小走りで追いついた。扉が開き、母娘が中に入る。「ママァッ!!」悠斗は魂を削るような声で叫び、細い腕を精一杯伸ばしたが、エレベーターの扉は容赦なく閉まっていく。小さな拳で扉を叩き、その悲痛な叫びが階段室中に木霊する。「ママ!もう二度と怒らせたりしない!戻ってきて!お願い!戻ってきてよ!!」上昇するエレベーターの中で、夕月は顔を上げた。天井の光が瞳に落ち、その黒く澄んだ瞳に涙が滲んでいた。悠斗に捨てられた料理なら、また作ればいい。破り捨てられたテストや教材なら、また書けばいい。でも、一度捨てられた愛は、取り戻すことはできない。ゴミ箱から拾い集めた砕けた欠片を、いくら繋ぎ合わせても、その傷跡は消えない。これが母親として、子供に教える最後の授業。理不尽な傷つけ方をされても、母親は勇気を出して、加害者となった我が子から離れることができる!*「ママ……」瑛優が小さく呟いた。母の心の痛みが伝わってきた。慰めの言葉を探したけれど、どんな言葉を選んでも、母の心を癒すことはできないと気づいた。夕月の下唇には深い歯形が刻まれていた。顔を下げ、瑛優に「大丈夫」と微笑みかけようとする。でも表情を作ろうとした瞬間、熱い涙が止めどなく零れ落ちた。瑛優の胸が締め付けられ、鼻の奥がつんとした。「ママ、悠斗くんを産んだこと、後悔してる?」夕月は首を振り、しゃがみ込んだ。瑛優が小さな手を伸ばし、母の頬の涙を拭う。「瑛優」夕月は言った。「私はあなたたちに最高のものを与えたかった。橘家はあなたと悠斗に同じ待遇は与えてくれない。だから私は精一杯あなたを支えて、世界中の素晴らしいものを経験させて、自分の目標を見つけ、なりたい自分になれるようにしてあげたい。でも橘家は悠斗には最高のものを与えてくれる。橘家の跡取り息子である限り、誰も及ばないような恵まれた環境が
傍らで見ていた心音も口を挟んだ。「夕月ちゃん、悠斗くんを許してあげて!母親なら子供を許すのが当たり前でしょう!」「ママを許してもらうには、どうすればいいの?」悠斗は声を震わせた。「僕のカードを使っていいよ!」普段から楓が一番欲しがっていたものだから、ブラックカードこそが最も価値があり、誰もが欲しがるものだと思い込んでいた。夕月は深いため息をつきながら言った。「悠斗、許すということは、今回だけじゃないの。もし今日、私があなたを許したとして、これからの毎日、私が料理をして、お粥を作る度に、あなたを許さなければならない。これから楓の名前を聞くたびに、また許さなければならない。あなたのお父さんを見るたび、あの時橘家であなたが私に投げかけた言葉や行動を思い出して、自分の傷と向き合い、何度も何度も寛容な心であなたを許さなければならないの」悠斗の瞳に涙が光っているのが見えた。今、本当に苦しんでいて、もう泣き出しそうだった。「これからは、もうバイクに乗らない?」夕月は尋ねた。「もう絶対乗らない」悠斗は泣きながら答えた。「そうね」夕月は淡々とした声で返した。「私もう怖くて乗れない。一度蛇に噛まれたら十年は縄を怖がる。あなたは体を噛まれ、私は心を噛まれた」「違う!」悠斗は首を振り、大粒の涙を零した。「僕は蛇じゃない、ママの息子だよ……」「……私とパパの結婚生活から、もっと早く抜け出すべきだったの。でも、あなたたちのことが諦めきれなかった。だって離婚したら、二人とも連れて行くことはできないでしょう。どちらも私の大切な子供なのに、どうやって片方だけを選べるの?結局、あなたが私の背中を押してくれたのね。この息苦しい結婚から解放されるように」離婚という選択肢は、ずっと夕月の心の中で渦を巻いていた。準備は万全だった。橘グループの事業形態や流動資金を把握し、離婚を決意した瞬間に離婚協議書と婚姻費用分与案を冬真の前に突きつけられるように。子供を産んでからは、母性本能に突き動かされ続けてきた。子供の泣き声を聞けば胸が痛み、体が自然と授乳へ、あやしへと向かっていく。昼も夜も子供たちのことが頭から離れず、布団が蹴られていないか、お腹は張っていないか、風邪は引いていないか、そればかりを考えていた。五年の間、二人の子供たちが言葉を
夕月の瞳が潤んできた。深く息を吸い込み、瑛優の手を握りしめたまま、断固として先に進もうとした。「ママ!パパと離婚しても、僕はママと一緒に暮らせるでしょう!どうして僕を見捨てるの?!」悠斗の声が焦りに震えていた。夕月の足が急に止まった。まるで見えない鉄線が足首に絡みつき、肉を抉るような痛みを感じた。何度も深呼吸をしたが、その度に心臓と肺が引き裂かれるようだった。空気が喉を通る度に、まるで棘だらけの細い道を無理やり通っているかのように苦しかった。「橘悠斗、忘れたの?私を見捨てたのは、あなたよ」悠斗の小さな体が震えた。これまで夕月に投げかけた言葉の数々が、一気に脳裏に押し寄せ、視界が霞んでいく。『ママの作るご飯なんて豚の餌だよ!』『あれもダメ、これもダメって、ママって完全な支配狂じゃん!』『意地悪なママ!面倒くさいママ!』『ママなんて毎日家にいるだけで、何もしてないくせに!パパと離婚したいなら出てけよ!出てけ!!』勝ち誇ったように、夕月の傷つく表情を楽しみながら、好き放題に言い放っていた。夕月の瞳が赤く潤み、涙を流すのを見て、跳ねるように楓に電話をかけに行った。物心ついてから、どれだけ夕月を傷つけてきただろう。今、ママに戻ってきて欲しいと願っても、もう手遅れなのか。「坊ちゃまはまだ五歳なんです!」佐藤さんは必死に説得を試みた。「子供は母親の良さが分からないものです。楓さまに影響されていただけなんです。今は本当に後悔してるんですよ!」「藤宮さま」佐藤さんは続けた。「親子の仲に夜を越える恨みなんてありませんわ。坊ちゃまと仲直りなさい……こんな大怪我を負って、お心が痛まないんですか?坊ちゃまがお側に戻れば、きっと良くなります。どんな優秀な看護チームだって、実の母親の手には敵いません。母親だけが分かるんです。子供が口を開かなくても、ちょっとした眉間のしわや目の色で、どこが痛いのか分かるんです。坊ちゃまの体に後遺症が残るのを、見過ごせますか?」佐藤さんの言葉を遮るように、夕月は冷たく言い返した。「そんな感情論で私を縛らないで。橘家は最高の医療リハビリチームを雇っているし、佐藤さんだって保育士と栄養士の資格を持つプロでしょう。もしお気に召さないなら、代わりはいくらでもいますよ」「ママ、僕のこと、まだ愛して