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第330話
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再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第331話
夕月は顔が火照るのを感じ、声を漏らすまいと下唇を噛んだ。心の中では既にプレーリードッグのような悲鳴を上げていた。涼は切れ長の目を細め、青筋の浮き出た冬真の黒い顔つきを愉しげに眺めていた。「どうした橘社長？笑顔が消えたね。そんなに笑いが苦手かい？」夕月は目眩のせいかと思った。視界の中で冬真の体が激しく震えているように見えた。自分の元夫は、まるで強烈な衝撃を受けたかのようだった。一方、天野は至って冷静だった。世間知らずの彼は、こんなものの存在すら知らなかったのだ。カルテを片手に、もう片方の手でスマホを取り出し、「ピアスの効果」を検索し始めた。なるほど、そんなところに入れるのか！こんな使い方があったとは！容姿も資産も既に並外れているのに、これほど恵まれた男がまだこんなに努力するなんて！検索を終えた天野は、新たな尊敬の念を込めて涼を見つめた。この探究心は、さすがに見習うべきものがある！その時、冬真が罵声を上げた。「このクソ野郎！」冬真は涼を軽蔑するような目つきで言い放った。「まさか桐嶋グループの跡取りが、風俗のホストみたいに瑪瑙なんか入れて女を喜ばせるとはな！」冬真の罵倒に、涼の笑みはより一層深くなった。「嫉妬か？お前には夕月を喜ばせる資格すらないのにな」冬真の心臓が大きく跳ねた。全身に衝撃が走る。まるで体内で核爆発が起きたかのように、その衝撃波が魂まで破壊しようとしていた！涼の笑顔が、意地の悪い勝ち誇りに満ちているように見えた。冬真は喉から軽蔑的な冷笑を漏らした。「私が離婚しなけりゃ、お前の出番なんてなかったはずだ」涼はウインクを投げかけ、極悪な笑みを浮かべた。「やっと俺の番が来たってわけさ。ありがとな、橘・社・長～」冬真は氷の穴蔵に突き落とされたような感覚に襲われた。全ては自業自得だ！夕月を疎かにしたのも、夕月の愛情を使い果たしたのも、全て自分だった。誰よりも痛いほど分かっていた。夕月を遠ざけたのは、紛れもなく自分自身の行為だったことを。天野はまだ半信半疑といった様子で尋ねた。「男性器にピアスを入れるために泌尿器科に行ったのか？」「こういう手術は信頼できる医者にしかやらせない。今日は経過確認だ。もうほぼ回復してるよ」涼は胸を張って答えた。天野は眉をひそめ、小声で言
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第330話
涼の言葉は桜国語として理解できるのか？みんな、同じことを想像しているのか？「どういう意味だ？」天野は困惑した表情を浮かべた。本当に理解できていない様子だった。天野の真摯な表情を見た涼は、手に持っていたカルテを差し出した。「義兄さん、俺の体は至って健康だよ」天野は即座にカルテを開き、手術の詳細な経過を確認した。難解な医学用語の意味が掴めず、涼の顔とカルテを交互に見つめる。「なんで瑪瑙のピアスを体内に……？」冬真が強引にカルテに手を伸ばしてきた。天野は手を離した。カルテに目を通した冬真の表情が、墨よりも黒く沈んでいく。震える指に力が入り、手の甲の血管が浮き出ていた。数枚の紙で構成されたカルテに、無数の皺が刻まれていく。冬真は血走った目で涼を睨みつけた。怨念に取り憑かれた悪鬼のように。「何のためにピアスなんか入れてんだ？！頭おかしいのか！？」冬真は怒号を上げていた。涼が何を意図してピアスを入れたのか、分かっているからこそ、この怒りを抑えられなかった。「もちろん、夕月さんにより良い体験をしてもらうためさ」涼は真剣な面持ちで、実に堂々と答えた。その潔白な態度に天野は一瞬硬直した。なるほど、夕月のためを思ってのことか。天野の胸に溜まっていた涼への怒りが、一気に半減した。天野のためになることなら、なんでも賛成だ！夕月の顔が一瞬にして真っ赤に染まり、震える声で尋ねた。「ど、どのピアス……？」涼は夕月を見つめた。その瞳は金色に輝く湖面のようで、見る者を溺れさせそうな深さを湛えていた。「この前、俺の家でブレスレットを作るときに残った一つさ」夕月は涼の視線に気づき、咄嗟にもう片方の手を背中に隠した。桐嶋幸雄を訪ねた時、書斎に置かれていた瑪瑙の箱を見つけたのだ。安価な瑪瑙でブレスレットを作ろうと提案したのは夕月自身だった。契約恋愛とはいえ、涼の気持ちは分かっていた。恋人という立場を利用して高価な贈り物をされるのを避けるため、先手を打って安価な瑪瑙のブレスレットをねだることにしたのだ。夕月は箱の中から十数個を厳選してブレスレットを作り、深紅の瑪瑙が一つ余った。その玉は熟れた相思子のように艶やかで、白い縞模様が霞のように赤色の中を縫っていた。夕月はその玉が気に入っ
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第329話
涼は冬真の挑発には応じなかった。彼の出現は想定内だったようだ。涼の視線は冬真の肩越しに、夕月の姿を捉えていた。その瞬間、涼の表情が凍りついた。夕月が彼のもとへ駆け寄ってきた。その瞳には涼を思いやる色が満ちていた。夕月は涼の傍らに立ち、彼の手首を握った。涼は俯いて、自分の手を握る夕月を驚きの表情で見つめ、長い睫毛が微かに震えた。夕月は涼の方を振り向き、「泌尿器科に来たのは知ってるわ」と告げた。涼が夕月を見つめ返すと、その深い瞳に感情の波が揺れた。何か言いかけた瞬間、夕月は雛を守る親鳥のように涼を背後に庇い立った。「橘冬真、私たちのことに首を突っ込まないで！」二人の男の表情が、同時に変化した。涼の唇が歪んで笑みを浮かべる一方、冬真の表情は底知れぬ暗さを帯びていた。冬真は平静を装おうとしていたが、夕月と涼が「私たち」となり、元夫の自分が完全な他人として扱われた瞬間、呼吸が苦しくなるのを感じていた。力なく手を下ろし、指先が微かに震えた。何かを必死に抑え込もうとするかのように……かつて自分に夢中だった夕月は、冬真の日常生活のあらゆる細部まで手帳に書き留めていた。彼女は、自分にしてくれたように涼の世話をするのだろうか？冬真は、この現実を受け入れられないことに気づいた。まるで檻の中に閉じ込められた獣のように。目の前の女性に近づこうとしても、見えない壁に阻まれる。心の中の感情を無視しようとしたが、居た堪れない痛みは刃となって言葉に姿を変えた。「お前の前の男は俺だ。性機能障害の男に本気で惚れるわけがない！」冬真は冷笑を浮かべ、瞳の奥に狂気じみた赤みが広がっていった。「お前ら、本当は付き合ってなんかいない！」彼は怒りに任せて吠えた。「契約関係なんだろう！」夕月は唇を固く結び、警戒の色を滲ませた眼差しで冬真を見つめた。冬真が涼の受診を執拗に追求するのは、きっと桐嶋グループによる藤宮テックの買収を妨害するためだ。そんな冬真の思惑は、絶対に阻止してみせる！天野が歩み寄り、眉間に深い皺を寄せながら涼に詰め寄った。「一体何しに病院に来たんだ？」「お兄さん！」夕月が制止しようとしたが、天野は毅然とした表情を崩さなかった。「分かってる。お前が桐嶋の嘘に加担してるんだろう。本人の説明が聞きたいん
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第328話
冬真は戦場に立たされたような錯覚を覚える。目には見えない火薬の煙が渦巻く中、天野の深い瞳が獣のように危険な光を放っていた。エレベーター内の空気が、一瞬にして凍りついた。「夕月を降ろせ」天野の声が低く轟く。エレベーターの出口を塞がれ、逃げ場のないことを悟った冬真は、夕月を下ろした。胸を押さえながら、激しい吐き気と闘う夕月。冬真に吐き掛けてやりたい衝動に駆られるも、喉まで上がってきた胃液が再び流れ込んでいく。天野は夕月を後ろに庇うように引き寄せる。「橘、『出て行け』という言葉の意味が分からないのか？」天野は心の中で何度も『殺人は違法だ』と唱え、冬真の頭を潰してやりたい衝動を抑え込んだ。だが冬真は、その場を去る気配すら見せない。封筒を天野に差し出し、「見てみろ」天野は眉をひそめ、冬真から何も受け取るつもりはなかった。「泌尿器科のカルテ一枚で、私と桐嶋さんの提携関係が揺らぐとでも？随分と甘い考えね」夕月が言う。冬真は何かを察知したように、即座に問いかけた。「お前、本当は桐嶋と付き合ってるわけじゃないな？恋愛関係なんてないんだろう？」夕月が黙り込むと、冬真は追及する。「本当に好きなら、泌尿器科の件なんて気にならないはずがない」夕月の表情が氷のように冷たくなる。離婚した今、もう取り繕う必要も我慢する理由もない。だが、涼との関係が契約に基づくものだと冬真に暴露されれば、買収案にも悪影響が及びかねない。「人のプライバシーを侵害するなんて、最低ね！でもそれがあなたらしいわ。そうよ、見られたならはっきり言ってやる。あまりにも激しすぎて、彼が怪我をして診察を受けたの」冬真の頭の中で轟音が鳴り響き、耳元で爆発が起きたかのような衝撃が走る。目を見開いたまま、信じられない様子で夕月を見つめる。「何だと？何を、どう激しくした？」夕月は焦点の定まらない漆黒の瞳を見据えたまま言い放つ。「恋人同士で何をするか、分かってるくせに。そんな無邪気なふりをしないで」エレベーターを出ながら、天野に向かって声を上げた。「警備を集めて。この男を叩き出しなさい！今後、藤宮テックへの出入りを一切禁止よ！」追い払おうとする夕月の言葉も虚しく、冬真はエレベーター内に立ち尽くしたまま。「桐嶋は今日も泌尿器科の予約を入れている。病院まで来て、医者に直接、機能障害の原因を聞いてみる
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第327話
これほど苦しいことはない。かつて手の中にあったものを大切にせず、失って初めてその価値に気づき、忘れられない執着を抱く——真剣な面持ちで尋ねる。「桐嶋を選ぶつもりなのか？」夕月はビジネスライクな口調で告げる。「私たちは桐嶋グループと既に合意に至りました。来週、正式な買収契約の調印式を行う予定です」まるで取るに足らない存在を扱うかのような、軽くて冷淡な口調。「橘社長、もう手遅れですわ。半年前なら、買収を持ちかけてきたのはあなただけでした。でも今は、どんなに良い条件を出されても、お断りします。仮にあなたが約束を守り、心変わりしないとしても——600円億も1000億円も、2000億だって、全てお断りします」いくら大金を積まれても無駄なことだった。感情というものは、一度失われてしまえば、二度と取り戻すことは難しい。千本もの冷たい針が体を突き刺すような痛みが、冬真を襲う。眉間に深いしわを刻み、彼は声を荒げた。「桐嶋を選べば、後悔することになるぞ！」夕月は相手にする気も失せ、「お父様、お客様をお見送りください。自分から退出なさらないなら、警備を呼びますが」椅子に座ったまま、冬真は微動だにしない。さらに一歩譲歩するように、「藤宮テックの買収競争から手を引こう。だが条件がある。今すぐ桐嶋と別れろ」夕月は失笑する。「あなた、何様のつもり？世界の支配者にでもなったつもり？」冬真は革の封筒を取り出す。「これを見てくれ」夕月には見る気など、さらさらなかった。冬真は封筒から書類を取り出し、夕月の前に置いた。「桐嶋涼」の文字が、彼女の目に飛び込んでくる。これは涼のカルテ？盛樹や他の役員たちも、好奇心に駆られてカルテを覗き込む。夕月は即座にカルテを手に取った。一読すると、怒りの眼差しを冬真に向ける。「正気を失ったの？」「中身は読んだか？」冬真が問う。「これが本物なら、あなたは訴えられる。偽物でも、同じことよ」「本物だ」冬真は一字一句、噛みしめるように告げる。「この目で見た。桐嶋は泌尿器科に——」「もう聞きたくありません」夕月は冷たく言葉を遮る。「一枚のカルテで、桐嶋さんとの提携も関係も変わりはしない！」彼女は男性器の不調を示すカルテを見ても、まだあの男を選ぶのか？「ならば直接、本人と対面
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第326話
夕月は笑みを浮かべた。盛樹は三本の指を立てて見せる。「冬真くんが600億円で買収を持ちかけてきたんだ！」両手を机に置き、盛樹は興奮気味に続ける。「藤宮テックが橘グループの傘下になれば、私たちも橘グループの取締役会に入れるんだ！」これは涼が買収の際にも約束しなかった条件だった。「冬真くんが直々に作った買収計画書だ。目を通してくれ」分厚い計画書を夕月に差し出す。橘グループの提示した金額と条件は、かなり魅力的だった。夕月は計画書を受け取ったものの、一瞥もせずに一枚目を千切り、シュレッダーに入れた。続いて二枚目、三枚目も同じように引き裂かれていく。シュレッダーに紙を入れる仕草は、ゆっくりと優雅だった。冬真が徹夜で作り上げた計画書など、眼中になかった。「夕月！何をする！」盛樹の怒声が響く。冬真の表情が凍りついた。「私への恨みは分かる。だが600億円の買収案を見もしないとは、感情的すぎるんじゃないか」夕月の行動を見た冬真が言う。「600億円では足りないのか。1000億円でどうだ」盛樹の心臓が跳ねる。落ち着いていられなくなった。涼の提示額の倍以上という破格の値段。「冬真くん、その金額なら、藤宮テックを代表して——」「お父様、もうあなたに決定権はありませんよ」夕月の一言で、盛樹は椅子に座り直すしかなかった。藤宮テックの決定権を失った経緯を思い出し、盛樹は楓への憎しみを募らせた。「夕月、我が社の将来のことを考えてくれ！冬真くんとの提携が、何か悪いことでもあるのか？七年連れ添った仲だぞ、お前を粗末には扱わないはずだ！」夕月は半分に裂かれた計画書を机の上に投げ出した。椅子に座った冬真が夕月を見上げる。あの日、監禁されていた時と同じ表情——彼を足で踏みつけた時の、冷たく傲慢な、まるで女王のような、彼を眼中にも置かない表情。「離婚の時、たった12億円でさえ、あなたに土下座同然でお願いしたのに。今じゃ600億円、いいえ1000億円だって出すというの……」夕月の目から冷ややかな笑みが漏れる。「言っておきますが、2000億円出したところで、あなたとは手を組みませんよ。あなたは裏切り者で、優柔不断だから。離婚合意書にサインする時、セレブ体験カードをくれたかと思えば、一ヶ月も経た
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第325話
楓は尊大な冷笑を浮かべる。「私は藤宮家の次女なのよ！」秘書はスーツのシワを伸ばす。社長秘書の職に相応しい装いとして、数十万円もかけてオーダーメイドしたスーツだった。「副社長からの言付けです。アシスタントになった以上、それ相応の振る舞いを。勤務時間中の社内の徘徊は、もう許されませんよ」楓は目を細め、自分に逆らう秘書を睨みつける。クルリと身を翻すと、廊下の椅子と花瓶を蹴り倒した。「このゴミみたいな目に遭いたいわね？」楓は秘書を凶々しい目つきで睨みつける。言い終わるや否や、花瓶を壁に蹴り飛ばし、バリバリと砕け散る音が響いた。その眼差しは、ますます横柄さを増していく。秘書は冷静さを崩さない。楓の威圧的な態度にも動じず、スマートフォンを取り出して言い放つ。「副社長の方針です。社内での暴力行為、器物損壊には三倍の賠償金を。三点以上の損壊には警察通報。楓様は先日も留置場から出られたばかり。今回また拘留となれば、より重い処分になりますよ」「それと、副社長からのメッセージです——今度留置場に入ったら、橘社長は果たしてまた手を差し伸べてくれるかしら、と」まるで弾丸に胸を撃ち抜かれたような衝撃。夕月は自分の一挙手一投足まで読んでいたのだ。息が詰まり、胸が激しく上下する。顔すら合わせていないのに、こんな風に嘲られるなんて。「賠償金ですって？ふん！この会社は全部うちのものよ！自分の家の花瓶を壊して、何が悪いっていうの？！」秘書は冷静な口調で告げる。「副社長の指示では、三倍の賠償金をお支払いいただけない場合、盛樹様の口座から差し引かせていただきます。会社は全てご家族のものですから、楓様が400万円の花瓶を壊されて、会長が1200万円お支払いになるのは、至極妥当ではないでしょうか」今の楓にとって、盛樹の名前を出されることが最も堪えられなかった。先日もバーで誰かが「藤宮盛樹さんらしき人を見かけた」と言っただけで、テーブルの下に隠れ込んでしまったほどだ。「ダメ！お父さんの口座からは絶対取らないで！」楓の声が震え始める。夕月の就任式で大騒ぎを起こした後、盛樹は楓を完全に勘当していた。以前、甘えて買ってもらった家さえ、もう住むことを許されていない。もし経理部が盛樹の口座から1200万円も引き落としたら——楓は背筋が凍る。
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第324話
涼は口元を歪め、電話の向こうの医師が尋ねる。「警察に通報する？」「俺の泌尿器科での手術を、世間の噂にしたいのか？」電話の向こうで医師が吹き出す。「もう手遅れだな。データを盗まれた以上、お前がEDだってことは、すぐに桜都中の噂になるぞ！」長く綺麗な指が、ハンドルを軽く叩く。バックミラーに映る黒いマイバッハに目を向けながら。「今日の経過診察は予定通りでいい」「心配ないのか？」電話の声が不安げだ。涼はアクセルを踏み、車を転回させる。「これは、蛇を穴から出す手だよ」涼の車が去るのを見届けると、冬真が車から降りた。高級な黒のスーツに身を包んだ男の表情は冷たく、深い瞳は冬の夜の淵のように底知れない闇を湛えていた。冬真はエレベーターのボタンを押す。扉が開き、彼が中に入ると同時に——夕月の警護を担当する私服のボディーガードが数名、駐車場から姿を現した。彼らにとって冬真は、最も警戒すべき危険人物だった。ボディーガードの一人が天野に電話をかける。「天野様、橘が藤宮グループに入りました」*社長室に明るい日差しが差し込む中、夕月はデスクチェアに座り、書類に目を落としていた。漆黒の髪を肩に流して一つに束ね、はぐれた数本の髪が頬に添うように垂れている。白いブラウスは優雅な落ち感を見せ、緩やかに開いた襟元からは、すらりとした首筋と繊細な鎖骨が覗いていた。「失礼します」新しく昇進した秘書がドアをノックする。秘書は入室するなり報告を始めた。「藤宮副社長、藤宮楓様がお会いしたいとおっしゃっています」夕月は顔を上げることもなく、「会えないと伝えて。もし騒ぎ出したら、警察を呼びなさい。手加減は無用よ」就任パーティーの日、社員たちは楓が盛樹に殴られ、顔が腫れ上がる様子を目の当たりにしていた。盛樹が楓を娘として見捨てた以上、彼らも楓を藤宮家のお嬢様として扱う必要はない。むしろ楓に敬意を払い、特別扱いすることは、夕月の機嫌を損ねかねなかった。今や会社の実権を握っているのは、紛れもなく夕月なのだから。「かしこまりました」秘書は丁重に返事をする。去り際、秘書は夕月の姿を何度か振り返った。ここ数年、藤宮テックの内部は腐敗の一途を辿っていた。盛樹が社長室で愛人の秘書と不倫するのも、もはや周知の事実
再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない 第323話
多くのビジネスマンが、涼は女性のために軽率に大金を投じるような男ではないと見ていた。夕月との派手な交際宣言には、何か別の目的があるに違いないと。夕月が涼の瞳を覗き込むと、そこに映る自分の姿が見えた。自分の心臓が激しく鼓動しているのが聞こえた。「ドクン！ドクン！ドクン！！」胸の表面が震えるほどの動悸。血潮が逆巻き、この激しい鼓動が周りにも聞こえてしまいそうで——思わず後ずさり、車の窓に背中を押し付けながら、できるだけ涼との距離を取ろうとした。涼は彼女の仕草に気づき、その瞳に一瞬、切なさが流れ星のように過ぎった。「すまない」一歩後ろに下がり、夕月との距離を完全に取った。二人とも分かっていた。これは人目を気にしての演技なのだと。だが、身体の反応は決して相手を欺けない。夕月の唇の上に薄い汗が浮かぶ。「大丈夫よ……」涼は突然の接近に彼女が居心地の悪さを感じたのだと思っているだろう。だが実際は、激しい心臓の鼓動が彼に聞こえてしまうのではないかと怖かったのだ。彼の視線が、血の気で真っ赤に染まった彼女の耳に注がれる。唇の端を上げ、「エレベーターが来ましたよ」と声をかけた。夕月は慌ただしく彼から逃げるように、「先に行くわ」エレベーターに乗り込み、振り返ると、涼はまだその場に立ち、彼女を見つめていた。喉までもが心臓と共鳴するように、ドクドクと震えているのを感じる。扉が閉まった瞬間、夕月は大きく息を吐き出し、一歩後ろに下がってエレベーターの壁に背中を預けた。熱く染まった頬に手を当て、金属の壁に映る自分の姿を見つめる。潤んだ瞳。二十七歳にもなって、まるで初恋の少女のような表情を浮かべている自分に、戸惑いを感じずにはいられなかった。*涼はエレベーターの階数表示が上がっていくのを見つめていた。駐車場の奥を見やると、鋭い鷹の目に危険な光が宿る。黒いマイバッハが、獲物を狙う野獣のように隅に潜んでいた。駐車場に入ってきた時から、あの車には気付いていた。オーナーが誰なのかも分かっている。今この瞬間も、冬真があの中に座っているはずだ。涼は唇の端を吊り上げ、傲慢な笑みを浮かべた。夕月の元夫である冬真は、もう完全に失格者だ。相手にする価値すらない。彼にとって冬真など、ライバルですらなかった。車
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