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第362話

Auteur: こふまる
しかしある日を境に、彼は夕月のそういった仕草を拒絶するようになった。

彼女の親密な仕草のすべてを。

夕月の瞳に映った寂しげな影を見過ごすことは簡単だった。あの時は。

かつて見向きもしなかった幸せが、今は永遠に手の届かない場所にある。

自らの手で投げ捨てた愛は、他人の胸に灯る光となった。

涼が夕月に向けた満面の笑みを目にした瞬間、冬真の胸の中で、埋めようのない暗い空洞が広がっていく。

必死に視線を逸らしながら、何度も何度も自分に言い聞かせた。

たかがブローチ一つ。

夕月は昔、自分にも数え切れないほどプレゼントをくれた。

桐嶋のことなど、妬む必要などない。

ネクタイピン、ブローチ、腕時計……夕月からの贈り物は山ほどあったはずなのに。

それらの品々が今どこにあるのか、もう思い出すことすらできない。

かつて夕月から贈られたものが、一体どんなデザインだったのか。冬真は思い返そうとしたが、何一つ思い出せなかった。

そうだ。一度も大切にしたことなどなかったのだから。

夕月が期待に胸を膨らませて贈ってくれた品々を、手に取ることすらせず、夕月に適当な場所に片付けるよう言いつけていた。

開封した贈り物に、嫌味な言葉を投げかけたこともあった。

夕月からのアクセサリーは、一度も身に着けることはなかった。

今この瞬間、冬真は狂おしいほどの衝動に駆られていた。今すぐにでも家に戻り、夕月からの贈り物を全て身に着けて、桐嶋の前に立ちたかった。

涼は冬真の方を向き、切れ長の瞳に狡猾な笑みを浮かべた。「似合うでしょう?」

明らかな挑発だった。

「夕月さんのセンスは抜群ですからね」

彼は夕月が付けてくれたブローチに指を添え、まるで宝物のように愛おしげに撫でた。

夕月は自然な仕草で、桐嶋の腕に手を添えた。

桐嶋は隣に立つ彼女を見下ろす。二人の体が寄り添い、温もりが混ざり合う。

「気にする必要なんてないわ」冬真のことを口にした途端、夕月の声音は冷たさを帯びた。

会社に入った時、冬真が盛樹の直筆の招待状を手に現れたという連絡を受けた。警備員は盛樹の署名を確認し、調印式の会場に通したのだという。

そして今、盛樹からメッセージが届いた。冬真に招待状を書いたこと、そして冬真がまだ夕月への未練を残しているように見えると。

盛樹はまだ諦めきれない様子で、夕月に「冬真
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