冬真はゆっくりと目を開け、スマートフォンを手に取った。楓が作った「桜都会」のグループチャットには、未読メッセージが99を超えていた。普段から楓は他の名門の若旦那たちと下らない話で盛り上がっているが、今日の異常な盛り上がりは、間違いなく自分に関係していることだろう。そんな予感が冬真の胸をよぎった。グループを開くと、誰かがALIコンテストの予選順位表を投稿し、楓にメンションしていた。「首位が君の姉さんって本当か?」「楓さん、お姉さんってそんな天才だったの?今まで一言も聞かなかったぞ」場を煽るような投稿も現れた。「離婚したばかりで全国区の数学コンテストを制覇とは。ここで@橘冬真、元ご主人様からの喜びの声をどうぞ」その時、楓が割って入ってきた。冬真へのメンション付きで:「7日に夕月姉さんが桐嶋さんと一緒にいたの、覚えてる?あれがコンテストの日だったんだぞ!」「確か、その日姉さんはブルー・オーシャンを出たはずだろ?ネット遮断したって言ってたじゃないか。どこでコンテストに?」冬真は即座に返信した。「桐嶋家だ。一日中そこにいた」楓は驚愕の絵文字を送ってきた。「マジかよ……桐嶋家で受験したのか?桜都大数学部長の桐嶋幸雄教授がいる場所で?これは流石に……」楓の一言で、グループの話題は一気に別の方向へと傾いていった。「まさか……コンテスト中に桐嶋教授が指導してたとか?」藤宮パパ(藤宮楓):「知るかよ!ALIって確かオンライン試験だけど、ネットで資料は見られるんだよな。問題漏洩と相談はNG。でもネット試験なんて抜け道はいくらでも……」グループは一気に盛り上がった:「それだ!七年も専業主婦やってたのに、そんな数学力が残ってるわけない。桐嶋家で受験して、教授が手助けしてた可能性大だろ!」楓が更に投稿する。「そういえば、桐嶋教授って姉さんの大学時代の恩師だった!」数秒後、慌てた様子で追加メッセージ。「あ!この発言撤回しようとしたのに、消しちゃった!」「いや、桜都大数学部長ともあろう方が、不正なんてするわけ……」意味ありげな発言に、メンバーの思考は更に膨らんでいく。しかしグループは突如として静まり返り、予選首位の話題は途絶えた。程なくして、冬真の携帯が鳴った。楓からだ。「なあ、本当に夕月姉さんが不正をする
冬真の表情が一瞬で強張った。漆黒の瞳の奥に、今にも嵐が荒れ狂いそうな暗雲が立ち込めていく。全国中を騒がせた「七年間の専業主婦がALI数学コンテストで首位」というニュース。その栄光の陰で、疑惑の声も次第に大きくなっていた。藤宮夕月の名前は、一日中トレンドの上位に居座り続けた。桜国放送局のインタビューによって、その注目度は最高潮に達していた。その夜、影響力のあるSNSアカウントが爆弾発言を投下した。夕月の指導教官が桜都大学数学部長の桐嶋幸雄教授だという情報だ。フォロワー数百万を誇るこのアカウントは、内部情報として、予選当日、夕月が桐嶋教授の自宅でオンライン試験に臨んでいたと暴露した。投稿では、夕月が問題を桐嶋教授に見せ、教授がホワイトボードで解答を書き出し、それを夕月が書き写したのではないかという疑惑が提起された。「これこそが、夕月が予選で突如として首位を獲得した真相なのではないか」と。「七年もの間、専業主婦をしていた人間が、ALI数学コンテストでこれほどの高得点を取るなんて、常識では考えられない!」この投稿をきっかけに、ネット上の世論は一気に様相を変えた。あるネットユーザーは、試験当日の夕月が桐嶋教授宅付近にいたことを示す衛星写真のスクリーンショットを投稿。さらに、桜都大の学生たちが次々と証言を始めた。夕月は桐嶋教授が最も期待を寄せていた学生だったこと、花橋大学から夕月を引き抜くため、桐嶋教授が花橋大の教授と激しい口論になったことまでもが明らかになった。間もなく、桜都大学の掲示板に、数学科の学生が新たな投稿を寄せた。「藤宮さんは頻繁に桐嶋教授のお宅に来ていて、私たちと一緒に問題を解いていました。ALIコンテストの準備期間は一ヶ月足らずでした。確かに桐嶋教授は彼女を特別扱いしていました。以前、藤宮さんが結婚のために中退して教授の期待を裏切ったにもかかわらず、教授は自宅での個人指導を快く引き受けていたんです」その投稿の信憑性を裏付けるように、学生は密かに撮影した夕月が桐嶋邸にいる写真も添付していた。これで、藤宮夕月と桐嶋教授の密接な関係は、もはや疑いようのない事実となった。投稿から10分と経たないうちに、匿名アカウントが新たな憶測を書き込んだ。「この専業主婦、藤宮夕月を取り巻く大騒動の黒幕は桐嶋教授に他な
「主婦なんかに数学コンテストを受ける資格はない!」ALI数学コンテスト実行委員会の電話は、予選名簿が公表されて以来、鳴り止むことがなかった。ALIグループが数学コンテストを主催して以来、これほどの信用危機に直面したことはなかった。藤宮夕月の成績を疑問視する声がネット上で日増しに大きくなる中、コンテスト実行委員会は緊急会議を招集した。「オンライン試験を何年も実施してきて、五台のカメラで五つの角度から受験者を常時監視している我々を、なめているんじゃないのか?」「正体の知れない連中が署名運動だなんて言っているが、実際に出場した受験者は一人も名乗り出てこない。学校の名前を勝手に使って。学校の面子を丸つぶれにしているのは、むしろ彼らの方だ!」「我々試験監督チームは藤宮さんの解答プロセスを三度も確認したが、不正の痕跡は一切見つからなかった。ネットの連中は今回、よっぽど痛い目に遭いたいようだな」「夏目理事長、一言お願いします!このまま黙っていたら、舐められますよ!」その言葉に、普段は温厚な七十歳の夏目那岐(なつめ なぎ)理事長の表情が一変した。机を強く叩いて立ち上がると、即座に指示を下した。「確かに、世間に説明責任を果たすべきだ。各メディアプラットフォームに連絡を取れ。明日、藤宮夕月の試験監視映像を全て公開する。彼女が本当に不正をしたのか、みんなの目で確かめてもらおうじゃないか!」夜も更けた頃、藤宮夕月の携帯が鳴った。桜国放送局の記者からだった。「藤宮さん、トレンドはご覧になりましたか?予選の成績について、疑問の声が相次いでいますが」「ええ、確認しました」夕月は淡々とした口調で答えた。「桐嶋教授のお宅で予選を受験されたのは、本当なのでしょうか?」「はい、事実です」電話の向こうで、記者が息を呑む音が聞こえた。その記者は春川栞(はるかわ しおり)。以前、桜井幼稚園の前で夕月と瑛優のために声を上げてくれた女性記者だった。「証拠もないまま、桐嶋教授の自宅での受験イコール不正だと決めつけるのは間違っています。確かに今回の件で桐嶋教授にご迷惑をおかけしましたが、あの時は教授宅以外に選択肢がなかったんです」夕月は説明した。「どうしてですか?なぜ教授のお宅でなければならなかったんでしょう?」春川が食い入るように尋ねた。夕
着信に応答すると、夕月は淡々とした声で告げた。「桐嶋さん」その素っ気ない口調は、深夜の通話が醸し出す甘い空気を一瞬で払拭した。磨きのかかった男性の声が響く。「トレンド、見ました」「桐嶋教授は……大丈夫でしょうか?」夕月は急いで尋ねた。「もう就寝されました」桐嶋教授がネット上の噂に動じていないと知り、夕月はほっと胸を撫で下ろした。「安定剤を二錠、こっそり飲ませました」涼が続けた。夕月は言葉を失った。「教授は……ネット上の書き込みを見て、怒っていらっしゃいましたか?」夕月は恐る恐る尋ねた。「不正に加担したという中傷よりも、四年前の斎藤鳴との確執を蒸し返されたことの方が、震えるほど怒っておられました。みんな、教授が優秀な人材を妬んで斎藤を潰そうとしたと思い込んでいる」桜都大を中退して以来、後ろめたさと良心の呵責から、夕月は大学に関する全ての情報を意識的に遮断していた。そのため、自分が去った後の桐嶋教授の経験したことを、何一つ知らなかった。「斎藤鳴なら、私も存じ上げています」夕月は静かに言った。斎藤鳴は橘京花の夫で、家族の集まりで何度か顔を合わせたことがあった。黒縁メガネをかけた、どちらかといえば整った顔立ちの男性で、質素な身なりだった。寡黙ながら場の空気をよく読み、几帳面な性格で、橘家の年長者からも文句のつけようがないほどだった。藤宮家という後ろ盾を持つ夕月と比べれば、斎藤鳴は本当に何一つ持っていなかった。北方の地方都市の出身で、貧しい家庭に育ち、必死に勉強して花橋師範大学に合格。さらに努力を重ね、桜都大の博士課程まで進み、そのまま教壇に立つことになった。京花は彼の「知的で魅力的な頭脳」に完全に魅了されていた。今年の初めには、京花が誰彼構わず自慢していた。斎藤鳴の学部長就任は確実で、桜都大最年少の学部長になるのだと。斎藤鳴も数学科だったはずだと、夕月は記憶を辿った。「斎藤鳴と斎藤教授の間に、何かあったんでしょうか?」「四年前に斎藤鳴が発表した論文、ご覧になっていないでしょう?送らせていただきます」夕月が困惑の表情を浮かべていると、手元のノートパソコンに通知が届いた。涼から送られてきたファイルだ。斎藤鳴の論文を開き、まだ四分の一も読み進めていないうちに、マウスを握る夕月の手が
教え子に裏切られたと思い込んでいた教授は、夕月が自ら研究成果を斎藤鳴に譲渡したと信じていたのだ。それゆえに、五年後の再会の時、桐嶋教授は複雑な思いを抱え、何かを言いたげな表情を浮かべていたのだった。「論文の下書きは、まだ手元にありますか?」涼が尋ねた。夕月は疼く目を手で覆った。「昔使っていたパソコンに牛乳をこぼしてしまって……起動不能になって……結局、家政婦さんが処分してしまったんです……」当時、まだ幼かった悠斗を抱いていた時のことだった。彼が誤って牛乳をキーボードに零してしまったのだ。その瞬間、夕月の最初の反応は子供を守ることだった。パソコンから悠斗を遠ざけ、火傷していないか確認し、泣き止むまでずっと抱きしめていた。やっとパソコンを拭こうとした時には、既に画面は青一色に変わっていた。必死に冬真に助けを求めた。技術者に修理を依頼してもらえないかと。「うちのエンジニアはお前のパソコン修理なんかする暇はない。自分で何とかしろ」「大学時代の研究データが全部入ってるのよ!」「退学した身分で、学部生程度の戯言が研究だと?」酒に酔った男の声は、いつもより低く怠惰に響いた。傍らで楓の陽気な笑い声が聞こえる。「冬真、誰からの電話?」「ただの迷惑電話だ」電話が切れる音と共に、熱い涙が頬を伝い落ちた。夕月は起動不能のノートパソコンを抱えて、修理店を巡り歩いた。店を訪れるたびに、技術者たちは首を横に振るばかり。四軒目の修理店に向かおうとした夜、携帯が鳴った。橘家の大奥様からだった。「どこを出歩いているの?なぜ子供の面倒を見ていないの?」「お手伝いさんがいますから……」「悠斗があなたを探して泣いているのよ。今何をしているかは知らないけど、すぐに戻ってきなさい!」夕月は椅子に腰掛け、膝を抱え込んだ。かつては、子供のことを何よりも大切に思っていた。でも今、結婚して子供を産んで、自分は何を得たのだろうと、考えずにはいられなかった。滝のように流れ落ちる漆黒の髪。膝に頬を押し付けながら、むせび泣く鼻をすすった。「私、桐嶋教授を裏切ってしまった……」唇を噛みしめる。斎藤鳴が研究成果を盗んだことを知っても、それを証明する手立てはない。「こぼれた牛乳を嘆いても仕方ありません」涼の声には温もりが滲
夕月の容姿に、視聴者たちは度肝を抜かれた。あれこれ批判しようと構えていた配信者たちは、思わず言葉を失い、顎に手を当てたまま固まる者も。眼鏡を掛け直して画面に食い入る者もいれば、夕月の姿を目にして思わずニヤけてしまう配信者まで現れた。五台のカメラに映し出されたのは、無垢材のテーブルに向かう夕月の姿。雨に濡れた上着は着替える暇もなく、湿った髪が額に張り付いていた。凍えた手を擦り合わせ、息を吹きかけて温めてから、やっとキーボードに触れる。まるで凍りついた雪だるまのような佇まいだったが、その瞳の奥には燃えるような決意の炎が宿っていた。視聴者たちは、夕月がALI実行委員会に状況を報告する声に耳を傾けた。「ブルー・オーシャン住宅での停電のため、急遽、桐嶋幸雄教授宅で受験させていただいております」夕月は桐嶋教授宅での受験を、実行委員会に対して隠すことはしなかった。「藤宮さん、不可抗力による特殊事情と判断し、委員会での協議の結果、試験継続を認めます。ただし、B問題用紙を改めて配布します」「既に試験開始から三時間が経過しています。追加の試験時間はありません。他の受験者と同様、残り五時間で提出していただきます」「承知いたしました」夕月は毅然とした態度で応じた。そして、すぐに解答に取り掛かった。彼女の視線は、パソコンと計算用紙の間を行き来するだけ。途中、ALI実行委員会のスタッフが桐嶋教授宅を訪れ、試験環境の確認を行った。一度だけトイレに立った以外、夕月は監視カメラの視界から離れることはなかった。パソコン画面の右下を一瞥した夕月。残り時間を気にする様子が窺えた。不正の証拠を探そうとしていた配信者たちは、夕月の微細な表情の変化を一つ一つ分析し始めた。「普通に考えて、この時間じゃ全問回答は無理なはずだ」「予選は八時間。つまり、決勝進出に必要な得点が取れる得意分野だけに集中すれば良いわけだ」「調べた限り、藤宮さんはALIコンテスト初参加。試験のストラテジーには慣れてないはず」配信者が冷静な分析を続ける一方で、多くの視聴者はもはや不正探しなど忘れ去っていた。「ウェブカメラ越しでもこんなに美しいなんて……!自分を殴りたい!あんな失言して後悔してる!」「時間との戦いなのに、一秒も無駄にしていない……!
目を覚ますと、彼女たちのSNSアカウントは怒り狂うネットユーザーたちのコメントで埋め尽くされていた。「だから謝罪の投稿を慌てて消すなって言ったのに!これからどうするの?」名門の奥様たちは、グループチャットで緊急の対策会議を始めた。「不正がなかったとしても、決勝で上位に入れるとは限らないわ。配信者たちも言ってたでしょう?他の参加者は予選で得点を調整していただけ。だから藤宮が一位を取れたのよ」「しばらく大人しくしていましょう。決勝で大学院生たちに負けて、今度は彼女が叩かれる番よ」昨日までメディアは競って夕月のインタビューを報じようとしていたが、世論の急転換を察知すると、各社は一斉に配信を控えた。そんな中、桜国放送局が真っ先に夕月の特集レポートを公開。編集部は春川記者が夕月と交わした昨夜の電話録音まで放送した。夕月が桐嶋教授宅で受験せざるを得なかった真相を知り、視聴者たちは激怒した。さらに、予選当日にブルー・オーシャンで実際に停電が起きていたことも判明。「あんな最低な元旦那、のたうち回って苦しむ姿が見たいわ!地を這いずり回る虫ケラのくせに!」「クズって言葉がぴったりね」「藤宮さんが若すぎて、人を見る目がなかっただけよ」たちまち「#藤宮夕月の元夫」がトレンド入り。元夫が誰なのか特定できなかったものの、ネットユーザーたちは彼の先祖代々まで遡って罵倒の限りを尽くした。橘グループ本社。「ハックション!」冬真が社長専用エレベーターに乗り込むと、清水秘書が携帯を握りしめながら後に続いた。エレベーターが下降するにつれ、秘書の顔は青ざめていく。「#藤宮夕月の元夫」という文字がトレンドの上位に躍り出ているのを見て、秘書は目を疑った。大変なことになった!思わず冬真の後頭部を何度も見つめる。社長はまだ、自分がネットで笑い者にされていることに気付いていないはずだ。だが、この件をどう切り出せばいいのか……一階に到着し、冬真がエレベーターを出る。ロビーは人で溢れ、社員たちの熱い議論が冬真の耳に届く。「藤宮さんの元旦那、最低すぎる!」冬真の足が急に止まった。後ろの清水秘書も慌てて止まり、額から冷や汗が噴き出す。「まさに美女と野獣ね。いえ、野獣以下かも。野獣の方がまだマシよ」「ハックシ
社員たちと冬真の間で、気まずい視線が行き交う。「社長、風邪でも?」「大丈夫ですか?お顔色が悪くて……額の相まで暗くなってますよ……」社員たちの心配そうな声に、冬真の表情は一層険しくなっていく。清水秘書が社員たちを叱責しようと前に出ようとした時、冬真は既に正面玄関へ向かって歩き出していた。慌てて追いつき、車のドアを開ける秘書。「ロビーで無駄話をしていた社員は全員特定し、給与から減額させていただきます」車内に座った冬真の周りには、まるで冷気が漂っているかのよう。彼が顔を上げると、鋭い眼差しが秘書を貫く。「ほう、私が藤宮夕月の見る目のない元夫だということを、大々的に宣伝したいのか?」秘書の額から大粒の汗が零れ落ちる。その場に凍りつき、唇は震えが止まらない。「い、いえ……そんなつもりは!ただ……ネット上であなたに不利な書き込みが急増していまして……」震える手でスマートフォンを差し出す。画面には、トレンド一位の「#藤宮夕月の元夫」の文字。冬真は侮蔑的な冷笑を浮かべた。まさか自分が藤宮夕月によって有名になる日が来るとは。冬真はトレンドの下のコメントなど見向きもしなかった。足元で蠢く大衆など、一瞥の価値もない。もし夕月が決勝でいい成績を収めたら……冬真は思案する。寛大な心で彼女を会社に迎え入れ、年収2千万の職位を与えて、自分の下で働かせてやるのも悪くない。そんな思考に耽っていると、携帯が鳴った。楓からの着信を確認し、通話ボタンを押す。「冬真、今夜、鐘山でレース大会があるんだ。悠斗を連れて行きたいんだけど」「悠斗には相応しくない」冬真の声音は冷たかった。「夜の山道だから心配?なら、あなたも来れば?……それに、今日が何の日か覚えてる?」楓の言葉が、冬真の心の琴線に触れた。今日は汐の命日。かつて妹の汐がモータースポーツを愛していたからこそ、冬真は鐘山オフロードレースに投資したのだ。「私たちが地上を疾走すれば、空の汐にも見えるはずさ」楓の瞳には、確信に満ちた微笑みが宿る。彼女は知っていた。汐の死は冬真の癒えぬ傷。汐の名を出せば、万年氷河も溶けるということを。 胸に淀んだ鬱憤を、冬真は吐き出す場所を必要としていた。そして今日は、妹の命日。「分かった。悠斗を連れて行く。三十
傍らで見ていた心音も口を挟んだ。「夕月ちゃん、悠斗くんを許してあげて!母親なら子供を許すのが当たり前でしょう!」「ママを許してもらうには、どうすればいいの?」悠斗は声を震わせた。「僕のカードを使っていいよ!」普段から楓が一番欲しがっていたものだから、ブラックカードこそが最も価値があり、誰もが欲しがるものだと思い込んでいた。夕月は深いため息をつきながら言った。「悠斗、許すということは、今回だけじゃないの。もし今日、私があなたを許したとして、これからの毎日、私が料理をして、お粥を作る度に、あなたを許さなければならない。これから楓の名前を聞くたびに、また許さなければならない。あなたのお父さんを見るたび、あの時橘家であなたが私に投げかけた言葉や行動を思い出して、自分の傷と向き合い、何度も何度も寛容な心であなたを許さなければならないの」悠斗の瞳に涙が光っているのが見えた。今、本当に苦しんでいて、もう泣き出しそうだった。「これからは、もうバイクに乗らない?」夕月は尋ねた。「もう絶対乗らない」悠斗は泣きながら答えた。「そうね」夕月は淡々とした声で返した。「私もう怖くて乗れない。一度蛇に噛まれたら十年は縄を怖がる。あなたは体を噛まれ、私は心を噛まれた」「違う!」悠斗は首を振り、大粒の涙を零した。「僕は蛇じゃない、ママの息子だよ……」「……私とパパの結婚生活から、もっと早く抜け出すべきだったの。でも、あなたたちのことが諦めきれなかった。だって離婚したら、二人とも連れて行くことはできないでしょう。どちらも私の大切な子供なのに、どうやって片方だけを選べるの?結局、あなたが私の背中を押してくれたのね。この息苦しい結婚から解放されるように」離婚という選択肢は、ずっと夕月の心の中で渦を巻いていた。準備は万全だった。橘グループの事業形態や流動資金を把握し、離婚を決意した瞬間に離婚協議書と婚姻費用分与案を冬真の前に突きつけられるように。子供を産んでからは、母性本能に突き動かされ続けてきた。子供の泣き声を聞けば胸が痛み、体が自然と授乳へ、あやしへと向かっていく。昼も夜も子供たちのことが頭から離れず、布団が蹴られていないか、お腹は張っていないか、風邪は引いていないか、そればかりを考えていた。五年の間、二人の子供たちが言葉を
夕月の瞳が潤んできた。深く息を吸い込み、瑛優の手を握りしめたまま、断固として先に進もうとした。「ママ!パパと離婚しても、僕はママと一緒に暮らせるでしょう!どうして僕を見捨てるの?!」悠斗の声が焦りに震えていた。夕月の足が急に止まった。まるで見えない鉄線が足首に絡みつき、肉を抉るような痛みを感じた。何度も深呼吸をしたが、その度に心臓と肺が引き裂かれるようだった。空気が喉を通る度に、まるで棘だらけの細い道を無理やり通っているかのように苦しかった。「橘悠斗、忘れたの?私を見捨てたのは、あなたよ」悠斗の小さな体が震えた。これまで夕月に投げかけた言葉の数々が、一気に脳裏に押し寄せ、視界が霞んでいく。『ママの作るご飯なんて豚の餌だよ!』『あれもダメ、これもダメって、ママって完全な支配狂じゃん!』『意地悪なママ!面倒くさいママ!』『ママなんて毎日家にいるだけで、何もしてないくせに!パパと離婚したいなら出てけよ!出てけ!!』勝ち誇ったように、夕月の傷つく表情を楽しみながら、好き放題に言い放っていた。夕月の瞳が赤く潤み、涙を流すのを見て、跳ねるように楓に電話をかけに行った。物心ついてから、どれだけ夕月を傷つけてきただろう。今、ママに戻ってきて欲しいと願っても、もう手遅れなのか。「坊ちゃまはまだ五歳なんです!」佐藤さんは必死に説得を試みた。「子供は母親の良さが分からないものです。楓さまに影響されていただけなんです。今は本当に後悔してるんですよ!」「藤宮さま」佐藤さんは続けた。「親子の仲に夜を越える恨みなんてありませんわ。坊ちゃまと仲直りなさい……こんな大怪我を負って、お心が痛まないんですか?坊ちゃまがお側に戻れば、きっと良くなります。どんな優秀な看護チームだって、実の母親の手には敵いません。母親だけが分かるんです。子供が口を開かなくても、ちょっとした眉間のしわや目の色で、どこが痛いのか分かるんです。坊ちゃまの体に後遺症が残るのを、見過ごせますか?」佐藤さんの言葉を遮るように、夕月は冷たく言い返した。「そんな感情論で私を縛らないで。橘家は最高の医療リハビリチームを雇っているし、佐藤さんだって保育士と栄養士の資格を持つプロでしょう。もしお気に召さないなら、代わりはいくらでもいますよ」「ママ、僕のこと、まだ愛して
それに、男の罪悪感なんて、何の価値もないわ」「夕月ちゃんったら」心音は頬を膨らませた。「更年期なのね。誰にも愛されてないから、そんな意地悪な言葉を吐くのよ」夕月は即座に携帯をしまった。もう北斗に電話する気も失せた。「瑛優、上がりましょう」「ママ!」幼い男の子の声が響き、夕月の心臓が一瞬激しく跳ねた後、どっと沈んだ。振り向かなくても、誰の声かは分かっていた。瑛優が振り返り、驚きの声を上げた。「悠斗!?」車椅子に座る悠斗の体は、まるでミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされていた。首にはネックカラー、頭には毛糸の帽子。普段なら、おしゃれな髪型が崩れるからと帽子を嫌がる悠斗だったのに。今は髪の毛が剃られ、頭に傷があるため、帽子を被らざるを得なかった。血の気のない真っ白な顔に、青ざめた唇。まるで壊れた人形のようだった。「奥様」佐藤さんが悠斗の車椅子を押しながら、落ち着かない様子で夕月に声をかけた。「悠斗くん、病院は?大丈夫なの?どこか痛くない?」子供同士の諍いや張り合いなんて、瑛優にとっては浮かんでは消える雲のようなもの。悠斗のこんな姿を見たら、ただその体を心配するばかり。たとえ兄妹でなくても、ただのクラスメイトでも、こんな痛ましい姿を見れば気遣うのが子供心というもの。けれど、悠斗の視線は夕月だけを追っていた。佐藤さんにたくさんのお金を渡し、必死に頼み込んで、日光浴の機会を利用して夕月の住むマンションまで連れて来てもらったのだ。悠斗はマンションで長い時間、夕月を待っていた。夕月の姿を見つけた時、本当は姿を見せるつもりはなかった。でも、夕月の後ろ姿が視界から消えそうになった時、ほんの一瞬ママを見ただけで、言葉も交わせないなんて——その思いが、悠斗の声を呼び起こした。ママを呼んだのに、夕月は最後まで振り向いてくれなかった。ただ後ろ姿だけを、悠斗に見せている。悠斗の瞳から光が消えた。定光寺の住職の言葉は本当だったのか。今度こそ、ママは自分を見捨てたのか。悠斗の目に涙が滲んだ。青ざめた唇を開き、震える声で懇願した。「ママ、振り向いて……一目でいいから」「目が覚めてから、一度も会いに来てくれなかったよ……」佐藤さんは夕月の冷たい背中を見て、慌てて悠斗の代弁を始めた。「坊ち
瑛優が夕月の反対側に駆け寄り、回し蹴りを繰り出そうとした瞬間。「夕月ちゃん……」聞き慣れた声に、瑛優は蹴りを寸止めした。「おばあちゃん?どうしてここに?」瑛優は首を傾げた。夕月は驚きの目で心音の姿を見つめた。真冬だというのに、心音は薄手の白いシルクのワンピース一枚。素足は寒さで真っ赤に染まっていた。夕月には、なぜ母がこんな姿でいるのか理解できなかった。「お母さん、靴は?」心音の頬は真っ赤で、髪は乱れ、瞳には涙が溜まっていた。「うっ……うっ……」拳を握りしめ、涙を拭う。「雅子さんが戻ってきたって聞いて、すぐ盛樹さんに電話したの。でも出てくれなくて……空港まで追いかけたら、盛樹さんと雅子さんが……うぅぅっ……胸が張り裂けそう!」これまで心音は盛樹に大切にされてきた。夕月でさえ、二人は仲の良い夫婦だと思っていた。今日の重役会議での盛樹の様子、出迎えに行った後、午後は会社に姿を見せていなかったことを思い出す。夕月にとって、新任副社長としては盛樹が会社にいない方が都合が良かった。「お母さん、どうするの?あの人と離婚するの?」夕月は尋ねた。夕月はあの男を父と呼ぶのも吐き気がした。大粒の涙を浮かべた心音は甘えた声で叫んだ。「夕月ちゃん、なんてひどいこと言うの!あなたは不幸な結婚生活を送ったからって、みんなにも同じように離婚して、誰からも愛されない女になれって言うの?」夕月は容赦なく母に白眼を向けた。心音とは分かり合えないのだ。心音は盛樹が引き取った孤児で、年の差は十歳。中学を卒業してからは学校に行っていない。初めてそのことを聞いた時、夕月は衝撃を受けた。でも心音は「私、頭が悪くて成績も良くなかったの。盛樹さんが大切に育ててくれて、何不自由なく暮らせたわ」と言うばかりだった。「じゃあ、私のところに来た理由は?」夕月は問いかけた。心音は荒れた唇を尖らせ、真っ赤な指で夕月の服の裾をつかんだ。「夕月ちゃん、なんとかして!あなたは私の娘なのよ!娘なら母のために、パパの心を取り戻すべきでしょう?それが娘の務めよ!よそから来た女狐に、パパを奪われるのを黙って見てるなんて……」「でも、おばあちゃん。ママは私に前のパパの気を引くようなこと、一度も頼まなかったよ」瑛優が口を挟んだ。「もう!おばあちゃん
だが夕月は集中して涼のボタンと格闘していた。ハンドソープで滑るボタンは確かに扱いづらい。冬真の被害妄想じみた言葉など、無視するつもりだった。涼は首を傾げ、軽蔑の眼差しを冬真に向けた。「僕の彼女が服を脱がせてくれて何が悪い?時代錯誤も甚だしいね。そんな化石みたいな価値観で生きてて疲れないのかい?」最後の言葉に込められた皮肉が、空気を切り裂いた。冬真の瞳孔が一瞬で縮む。全身を鈍器で殴られたような衝撃と痛みが走る。「お前、自分の言葉の意味が分かってるのか?」苦笑いを浮かべながら、「離婚してどれだけ経ったと思ってる?」夕月は冬真など眼中にもない。「ふぅん?離婚したのに、あなたのために独り身でいろっていうわけ?笑わせないでよ」涼の手を汚さないよう、自分でシャツを脱がせていく。その体は完璧な均整を保っていた。過剰な筋肉ではなく、しなやかな肉付きが美しい。胸板から腹部にかけての曲線は生まれながらの造形美で、後天的なトレーニングでは到底得られないものだった。夕月は思わず息を呑んだ。男性の魅力が波のように押し寄せ、頬が熱くなる。彼女の頬の薔薇色に気付いた涼は、低く響く声で囁いた。「僕と橘さん、どっちが綺麗?」確実に冬真に聞こえる声で投げかけられた質問に、冬真の呼吸が止まる。夕月は笑みを浮かべた。「あなたよ」さらに追い打ちをかけるように続ける。「肌は透き通るように白くて、筋肉のライン、それに腰の感じも……たまらないわ」涼の腰は確かに美しかったが、その褒め方には何か色めいた響きが混ざっていた。「ん……」涼は唇を舐めながら、自分で罠を仕掛けたことに気付く。血の気が上り、耳まで真っ赤に染まっていく。冬真は内臓を掻き回されるような苦痛を覚えた。ふと目にした鏡の中の自己は、充血した目と殺気立った表情で、まるで別人のようだった。今の自分は一体、何という姿をしているのか。「夕月!彼と付き合うのは、私を苛立たせるためか?」冬真は軽蔑的な笑みを浮かべた。「似合わないぞ。桐嶋のやつ、すぐにお前を捨てるはずだ」両手をポケットに突っ込み、夕月の表情が暗く曇るのを待った。夕月はようやく彼を見た。「橘社長、人の恋愛に首を突っ込むのが趣味になったの?暇そうね。でも、元奥さんの願いはただ一つ。目の前からさっさと消えてく
まるで鈍器で殴られたかのような衝撃が冬真を襲った。涼の罠に嵌まるべきではなかった。だが夕月が涼を擁護する言葉を聞いた瞬間、誰かが錐で胸を刺し貫いたような痛みが走る。飛び散る血が、網膜を真っ赤に染め上げた。涼は夕月を見つめ、無言のまま口角を上げた。夕月には分かっていた。彼が意図的に冬真を挑発していることを。それでも涼は、自分を守ろうとする彼女の姿に密かな喜びを覚えていた。涼は再び冬真に視線を向け、露骨な挑発の色を瞳に宿らせる。夕月の前に立ち、庇うような仕草を見せながら、「ハンドソープを掛けてくるかもしれない」と告げた。冬真の喉まで血が上り、吐き気を催した。ビジネスの世界を渡り歩いてきた彼でさえ、これほどの陰湿な手を使われたことはなかった。しかも男子トイレには防犯カメラもない。夕月の前で自分の潔白を証明する術がなかった。「冬真さん、あなたの性格は分かってる。殺されても桐嶋さんに謝らないでしょう。謝れないなら、スーツ代を弁償して。でなければ警察を呼ぶわ。10万円以上の器物損壊は重大な案件よ。毎日のように警察沙汰にしたいなら、私は止めないけど」涼は身を屈め、夕月の耳に十センチほど近づいた。わざと冬真に聞こえる声で囁く。「夕月さん、優しいね」冬真の拳は力が入り過ぎて、皮膚の下から骨が白く浮き上がっていた。次々とトイレに入ろうとする男たちが、夕月の姿を見るなり慌てて引き返していく。ドアの外から囁き声が漏れ聞こえてきた。「今、橘社長が見えたような……」橘グループのビルに近いこのレストランには、社員たちもよく訪れる。用を足せなくなった男たちは、仕方なく外でタバコを吸い始めた。「話は大体分かった。桐嶋さんが社長の元奥さんと付き合ってて、社長が激怒してハンドソープ掛けて突き飛ばしたんだって」外からの声に、冬真の体が震えだした。もはや濡れ衣を晴らすことなど不可能だった。「美人のためとはいえ、随分と荒れてますね。まあ、藤宮さんのような素晴らしい女性なら、二人の男が争うのも当然か」さらに声が潜められ、「あのさ……さっき聞いたんだけど、桐嶋さんの方が橘社長より、その、ピン……」壁は薄く、全ての噂話が冬真の耳に届く。冬真は外に出て、盗み聞きをしている社員たちを即刻解雇しようと思った。そう思
涼は寂しげに顔を背け、自分の惨めな姿を見られまいとするかのようだった。「どうしたの?」夕月は急いで尋ねる。涼の上半身が何か粘つく液体で濡れているのに気付いた。「この服はどうしたの!?」涼は体を起こし、夕月との距離を取った。「大丈夫だよ。橘さんは関係ない。きっと故意じゃなかったはずさ」男の声音には、強がりが滲んでいた。夕月は事態を悟った。「あの人があなたを突き飛ばしたの!?」涼は唇を引き結び、「本当に大丈夫だよ、夕月さん」と宥めるように言った。「服まで汚されたのね」夕月の声音に確信が滲んだ。涼はポケットを探りながら、説明を避けた。「ここで待っていて。スマートフォンを拾ってくるよ」夕月が男子洗面所に足を踏み入れた瞬間、冬真の顔を目にして、頭の中の血が沸騰した。「橘冬真、あんた正気!?」冬真は唖然とした。涼の口元が僅かに歪み、得意げな笑みが浮かぶ。その表情が冬真の目に刺さった。ゆっくりと身を屈めて端末を拾い上げる涼。画面に入ったヒビを、確実に夕月の目に入るよう手にした。罠にはめられた——冬真は気付いた。今頃夕月は、自分が涼を殴り、突き飛ばし、スマートフォンまで叩き付けた様子を想像しているに違いない。血が逆流し、喉に甘く生臭い味が広がる。涼が夕月の指先に触れるのを、ただ見つめることしかできない。「もう行こう。橘さんは僕らを見るだけで苛立つみたいだし、気にすることないよ」よくも目の前で元妻の手に触れられる——「押していない。端末も投げてない!夕月、彼の嘘が分からないのか?」冬真は息を切らしながら言った。「奴が自分でハンドソープを被ったんだ。私がそんな下らないことをすると思うのか?」夕月の眼差しには何の感情も温もりもない。かつて冬真が彼女を見つめた、あの冷たい視線そのままに。「人を突き飛ばすのは、初めてじゃないでしょう」夕月の言葉が冷たく響く。大きな腹を抱えたまま床に倒れ込んだ彼女の姿が、冬真の脳裏を走り抜けた。「物に当たるのだって、いつものことじゃない」汐が亡くなった年、冬真の感情は制御を失っていた。荒れ狂った後の惨状を、大きな腹を抱えた夕月が黙々と片付けていた。「桐嶋さんはあんなに純粋な人なのに。あなた以外に誰が意地悪するっていうの!?」冬真は息が詰ま
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット