桐嶋涼がLunaを連れてきたと言い出してから、楓の表情は終始作り笑いのままだった。「さすが元桜国最強の女性ドライバー、偉そうなこと」冗談めかした口調で言いながら、楓の胸の内では別の思いが渦巻いていた。——引退して五年以上も経つのに、まだ自分が女王様気取りなの?「彼女は負けない」桐嶋涼は場内の者たちを一人一人見渡し、冬真のところで視線を止めると、より意味ありげな笑みを浮かべた。「ここにいる誰一人として、彼女に勝てる者はいない」桐嶋涼がコロナに向かって歩き出した。「もしLunaが一位を取れなかったら、コロナを私に貸してよ」楓は腕を組みながら、彼の背中に向かって声を投げかけた。涼の足が止まるのを見て、楓は内心で小さな勝利を噛みしめた。だが、振り向いた涼の整った顔立ちは一瞬にして冷気を帯び、吹き抜ける山風に楓は背筋が凍るのを感じた。「井の中の蛙が大きな口を叩くな」彼は楓には一瞥すら与えなかった。「何ですって?」楓が聞き返す中、周りの連中は腹を抱えて笑い出した。「ははは!桐嶋さんに言われちまったな!」「黙れよ!」楓は近くの仲間に蹴りを食らわせた。涼はポケットに手を入れたまま、首を傾げて橘冬真の方を向いた。「Lunaが来たからには、賞品を増やしてみませんか?」今回のレースの優勝賞品は、16億円相当のランボルギーニ・ヴェネーノだった。冬真は涼がLunaを使って自分の懐を痛めつけようとしているのを察していたが、気にする様子もなかった。「もしLunaが優勝したら、私のガレージから好きな車を三台選んでいい」御曹司たちから驚きの声が上がった。「さすが橘さん、太っ腹!」「ふん」涼は鼻で笑う。「三台の車に加えて、橘社長による洗車サービス一回というのはどうです?」「ちょっと、それは言い過ぎよ!」楓が即座に抗議の声を上げた。冬真は涼の挑発的な態度を見抜いていたが、自分なりの思惑もあった。「いいだろう」彼はためらいもなく条件を飲んだ。「冬真!あなたがまさか人の車を洗うなんて、そんな屈辱的な……」楓が焦りの色を見せた。冬真は大股で愛車「ブラックホール」へと向かった。涼は片唇を上げ、コロナの運転席に座る夕月と視線を交わした。夕月が親指を立てているのが、かすかに見えた。二人ともレーシングスーツ
だが冬真にとって、この勝負に執着はなかった。プロのドライバーでもない自分が「ブラックホール」を走らせるのは、ただ天国の汐への手向けだった。コロナの助手席に腰を下ろした涼は、夕月が「ブラックホール」を見つめて物思いに沈んでいるのに気付いた。「どうした?」夕月は長いまつげを瞬かせた。ヘルメット越しには、その表情を読み取ることはできない。「あの車……好きじゃないの」「へぇ」涼は投げやりな口調で言った。「一位を取れば、橘さんのガレージから三台も選べるんだ。ブラックホールを選んで、スクラップ工場送りにしてやればいい」夕月は思わず笑みを漏らし、覆っていた暗い影が晴れていくようだった。あの日、橘家のガレージで「ブラックホール」に魅了された彼女は、施錠されていない運転席に座ってみた。内装に触れた瞬間、冬真に強く引きずり出された。双子を身籠っていた夕月は、大きなお腹を抱えたまま、尻もちをついてしまった。彼は車のドアの傍らに立ち、見下ろすような冷たい眼差しを向けた。まるで鉄壁のように、冬真の周りには近寄りがたい雰囲気が漂っていた。「車を汚すな」「冬真、私はあなたの妻よ……」彼女は言いかけた。レースのことは自分にも分かる。まさか橘家のガレージにこんな改造スーパーカーがあるなんて。同じ趣味を持つ人に出会えた喜びが込み上げていた。この車を見たとき、思わずコロナと並走する姿を想像してしまった。夫の妻である自分が、家のガレージで夫の車に座るぐらい、何が悪いというの?「ブラックホールはお前より価値がある。二度と触るな」妻に対する非情な警告だった。冬真は車に鍵をかけ、夕月の横を通り過ぎた。彼女を助け起こそうとする素振りすら見せない。地面から体を起こそうと車に手をかけようとした瞬間、凍てつくような冷気が矢のように彼女を貫いた。振り返ると、エレベーターの前に彼の姿があった。高圧的な態度で立ちつくす夫からの威圧感は、まだ夕月を包み込んでいた。夕月の指先が震え、触れようとした手を引っ込めた。大きなお腹を抱えながら、もう片方の手で地面を押し、やっとの思いで立ち上がった。「コースマップを見てたんだけど、かなり難しいコースで、私……」夕月は我に返り、不安を口にした。丸六年、オフロードレースから遠ざかっていた。
楓は橘冬真の車の中で、余裕の表情を浮かべながら、コロナに迫る二台のマシンを見つめていた。レースに参加する御曹司たちにも、それなりの戦術があった。これだけの参加者がいれば、勝利のためには犠牲になる車も必要というわけだ。重いヘルメットの下、夕月の瞳には緊張も恐れも見当たらなかった。素早いシフトチェンジ——右側のタイヤが地面から浮き上がった!涼は急激な視界の変化に目を見開いた。胸の中で心臓が激しく鼓動を打つ。これは……片輪走行!右側の前後輪が完全に地面から離れ、マシン全体が45度の角度で横倒しになったまま、猛スピードで突っ走る。コロナを挟み込もうとしていた一台のドライバーの頭上に、突如として黒い影が覆いかぶさった。助手席の御曹司が振り向くと、窓際に漆黒のアンダーパネルが迫っていた!まるで沼から這い出した怪物が、血に飢えた口を開いているかのよう!黒いタイヤが車の屋根の上で回転している——まさに頭上に突きつけられた剣のように。彼らは怪物の口に落ちていた。タイヤはいつ屋根に接触してもおかしくない!「うわっ!やべぇ!!」レース好きとはいえ所詮は素人の御曹司たち。こんな光景、見たこともない。「はッ……!」歓声を上げていた観客席から、一斉にため息が漏れた。これはスタントドライビングの技だ!オフロードレースで、こんな危機的状況でスタントを決めるなんて——コロナのドライバーは一体どれほどの実力の持ち主なんだ?コロナの片輪走行を目の当たりにした悠斗の小さな世界観が、大波に呑まれたように揺らいだ。鳥肌が立ち、思わず体が震える。黒い瞳が揺れ動いた。反対側から迫ってきたマシンの助手席の御曹司も、コロナの屋根とタイヤが宙に浮くのを目撃した。「マジかよ!」御曹司の頭の中が真っ白になる。本能が叫んでいた——逃げろ!このまま追い詰めれば、コロナの浮いたタイヤがもう一台の車の屋根を直撃する。そうなれば、ただの接触事故では済まない。これは心理戦、臆病者のゲーム。死の影を前に、二台のマシンは引き下がるしかなかった。二台が急いでコロナから距離を取ると、コロナは片輪走行を解除し、全開で前進を続けた!コロナの排除に失敗した二台は、はるか後方に取り残された。助手席の御曹司二人は、まだ生きた心地がせず、荒
「フルスロットル、左ハンドル」「右カーブ3、下り坂、アクセルオフ!」夕月はコースマップを必死に頭に叩き込んでいたが、この速度では考える暇など無かった。今の彼女にとって、涼こそが頭脳だった。涼は的確な指示を次々と繰り出す。鐘山の複雑なオフロードコースが、彼の頭の中で3Dマップとして構築されているかのようだ。まるで将棋盤を前に全体を見渡す指し手のように、夕月の進路を導いていく。「冬真!攻めて!」楓は橘冬真がスピードを上げるのを見て、興奮気味に叫んだ。コ・ドライバー用のコースマップなど、とうに忘れてどこかに置きっぱなしだ。助手席で、ただ冬真の伴走者に徹している。しかし冬真には楓のナビゲートは必要なかった。常に自分の判断だけを信じてきた男だ。鐘山のレースコース——その設計にも関わった冬真は、誰よりもコースの複雑な状況を把握していた。「ブラックホール」は他のマシンと並走していたが、第二集団はすでにコロナに大きく引き離されていた。ヘアピンカーブで、コロナが完璧といえるほどのUターンドリフトを決める。冬真の暗い瞳が大きく見開かれた。かつてレース場で、コロナの走りを目にしたことがある。コロナの元オーナーは謎に包まれた存在で、Luna という女性ドライバーだということ以外、冬真には何も分からなかった。徹底的に調査を試みても、彼女の素性も容姿も、一切の個人情報にたどり着けなかった。まさか自分がコロナと対峙する日が来るとは。「お兄様!Lunaを私たちのチームにスカウトして!師匠になってもらいたいの!」汐の声が耳に響く。仲介人を通じてLunaへの連絡を試みた時、帰ってきたのは引退を決意したという知らせだった。その後、コロナがオークションに出品された日、冬真も会場にいた。購入の意思はあったが、競売開始と同時に途方もない価格が提示された。ビジネスマンとしての冬真は、たとえレースを愛していても、市場価値を大きく超える価格でコロナを手に入れることは非合理的だと判断した。採算の合わない取引はしない。数回の値上げの後、彼は競りから撤退した。そして、コロナを法外な値段で手に入れたのが桐嶋涼だった。五年の時を経て、元オーナーのLunaまでレースに呼び戻すとは。長年にわたり打ち負かしたいと思い続けてきたラ
涼は頭の中でオフロードコース全体を走破し、目尻に笑みを浮かべた。「この先、コース安定してる。思いっきり攻めていいぞ!」漆黒の闇の中、ライト無しで全開のコロナ。夕月は涼を完全に信頼し、ついに暗闇を抜けて光明を見た。エンジン音が遠くから近づいてくる。フィニッシュラインで待つ観衆が首を伸ばした。マシンがブラックゾーンに入ってからは、観客席後方の大型スクリーンも真っ暗になっていた。誰もが固唾を飲んで見守る。どのマシンが最初にブラックゾーンを抜け、通常コースに戻ってくるのか、誰も予想できない。悠斗は柵に登り、冷たい風の中、遠方を食い入るように見つめていた。突然、漆黒のマシンが視界に飛び込んできた。大型スクリーンが再び明るくなり、観客席からは歓声と悲鳴が響き渡る。コロナだ!ブラックゾーンを抜け、トップに躍り出た。その後ろを追うのは、冬真の操るブラックホール。「Luna!パパ!!」悠斗は声が枯れんばかりに叫び、両手を合わせて祈った。パパもLunaも、どちらも一位になれますように!光が冬真の漆黒の瞳を照らす。目前のコロナに、彼の勝負魂が完全に目覚めた。ビジネスの世界で幾度となく戦い、極限まで追い詰められても、感情を乱すことはなかった。だが、コロナを追いかける中で、アドレナリンが急上昇。最も原始的な本能が全身を支配していく。礼節という仮面が剥ぎ取られ、全力で疾走する野獣は、ただ前を行く獲物の首筋に噛みつきたいだけだった。しかし、フィニッシュまであと二キロを切っている!「シュッ!」コロナがフィニッシュラインを駆け抜けた。待ち構えていた観衆から歓声が沸き起こる。カラフルなテープが噴き出し、黄金の雨のようにコロナのボディを覆った。「うわぁ!!」悠斗は目を丸くし、視界にはコロナしかなかった。胸に手を当てる。まるで金の矢に射抜かれたかのように、コロナとLunaに完全に心を奪われていた。コロナがブラックホールを打ち破った。Lunaがパパを倒した。今日からLunaは、彼の心の中で超えられない神様になった。冬真の操るブラックホールは路肩に停車した。ヘルメットを外し、レーシングスーツのジッパーを下ろしたものの、シートベルトを解く力さえ残っていない。シートに深く沈み込み、荒い息を繰
コロナが終点に到着した時、夕月はまだ夢心地だった。両手でステアリングを握ったまま、現実感が戻らない。「Luna!優勝だ!!」夕月が我に返ったように顔を向けると、ヘルメットを脱いだ桐嶋涼の切れ長の瞳が、星のように輝いていた。彼が手を伸ばし、夕月のヘルメットを外す。絹のような黒髪が、なだれ落ちるように肩に零れた。夕月は極限状態から戻ろうと、荒い息遣いを落ち着かせようとしていた。顔を上げると、涼の琉璃色の瞳に映るのは、自分だけだった。「おかえり、Luna」涼の眼差しには、宝物を見るような温もりが滲んでいた。「俺の中で、お前はずっとチャンピオンだ」涼の声には確信が満ちていた。まだグランドエフェクトの興奮が収まらないのか、胸が大きく上下し、車内の温度が上がっていく。夕月は真剣な面持ちで彼を見つめた。「コロナを見た時から気になってたんだけど、私がLunaだって、どうして分かったの?」藤宮家に戻る前、天野夕月として生きていた頃、レーシングライセンスもその名前で取得していた。レーサーとしての素性は、完璧に隠しているはずだった。涼は左肩をシートに預けるように体を傾け、真っ白な歯を見せて笑った。「月光レーシングのオーナーが俺だからさ」夕月の瞳が大きく見開かれた。「月光レーシングクラブにスカウトしたのが、あなただったの!?」「ああ」切れ長の瞳を細め、男は魅惑的な笑みを浮かべた。夕月は桐嶋涼を見つめたまま、呟いた。「私をLunaにしてくれたのは、あなただったのね」当時、夕月がクラブに入る時に出した条件はたった一つ。素性と素顔を公表しないでほしい、ということだった。まだ無名の頃だった。女性ドライバーなど珍しく、誰も彼女に投資しようとは思わなかった。そんな彼女に手を差し伸べたのが、月光レーシングクラブのオーナーだった。株で資産を築いていた夕月は、レースへの情熱のままに、稼いだ金を全てつぎ込んで、無敵の走りを誇るコロナを作り上げた。若かった。夢のためなら全てを捧げられると信じていた。何事にも情熱的で、全てを愛していた。人を愛することだってそうなのだと思い込んでいた——自分が熱い想いを注げば、きっと応えが返ってくるはずだと。夕月は俯いた。墨のような黒髪が、表情を雲のように隠した。「ごめんなさい」「謝ることなんて
橘家で丁寧に育てられた坊ちゃまは、大物にも華やかな場面にも慣れているはずなのに、コロナの横に立ってLunaに話しかける時は、緊張で胸が高鳴っていた。しかし、車内の人物からは何の反応もない。「Luna選手?」悠斗はつま先立ちになって、首を伸ばし、好奇心いっぱいの表情で車内を覗き込んだ。藤宮楓は車から降りると、父子揃ってコロナの前に立っている姿を目にして、直感的な危機感が走った。大股で近づきながら、「Lunaさん、噂は聞いていました。大型バイクのライダーとしても有名だとか。私もバイクに乗るんですけど、一対一で勝負してみません?」冬真がLunaに負けた分、楓が取り返そうという魂胆だった。Lunaはプロのレーサーだが、バイクの方は素人レベルのはず。それに、過酷なレースを終えたばかりで体力も消耗している。今なら勝てる——楓はそう踏んでいた。しかし、車内の女性は沈黙を守ったまま。「そんなに冷たくしないでよ。せっかくだから、一戦やりましょうよ」楓は不満げに声を上げた。「えっ!Lunaさん、バイクも乗れるの?!」悠斗の瞳が輝きを増す。その様子を見て、楓は片側の唇を上げた。もしLunaに勝てば、悠斗の視線は自分に戻ってくるはず。冬真は足元に落ちた名刺を見下ろした。身のほど知らずな女が桐嶋に持ち上げられて、舞い上がっているとでも言うのか。「2千万円で買おう。楓の相手をしてくれ」権力者特有の傲慢さで、冬真は金で全てが解決できると思い込んでいた。夕月は思わず笑みがこぼれそうになった。冬真の楓への溺愛は、ここまで来てしまったのか。男は携帯を取り出し、送金用のQRコードを表示させ、Lunaに向かって差し出した。夕月は男の存在を完全に無視し、涼の方に身を寄せて、耳元で何かを囁いた。その親密な仕草に、冬真の眉間に深い皺が刻まれた。二人の距離の近さが、どこか胸につかえた。涼は夕月の言葉に頷き、冬真の方を向いた。「Lunaの提案だが——バイクレースを受けよう、と。ただし彼女が勝った場合、その性別不詳の方には徒歩で戻ってもらう。Lunaとの差がついた距離分をな」「誰が性別不詳だって?」楓は声を荒らげ、車内に向かって怒鳴った。「ちょっと!ヘルメット取って、よく見なさいよ!私だって立派な女よ!」楓は車窓か
母の英語を聞き慣れていた悠斗だったが、楓は鼻で笑い、冬真も息子の言葉を気に留める様子はなかった。悠斗は呆然とLunaの後ろ姿を追いかけた。きっと、気のせいに違いない!あのカッコいいLunaを、あのうざったいママと間違えるなんて、失礼すぎる!大型バイクのレースの話を聞きつけた富豪の息子たちが、我先にとLunaに自分のバイクを勧め始めた。「Luna!僕のバイクを!」「こっちこっち!僕のを使って!」周りを取り囲む富豪の息子たち——夕月は彼らの顔を全て知っていた。もしヘルメットを脱いだら、この熱狂的な態度は一変するだろう。彼らは楓の親友で、18歳で藤宮家に戻った時から敵意を向けられていた。橘家の嫁になってからも状況は変わらなかった。冬真の権力があれば、普通なら彼女への態度も変わるはずだったのに。でも、冬真の態度こそが、この御曹司たちの対応を決定づけていた。楓は愛車を押して現れ、かつての親友たちがLunaの周りに群がる様子を見つめた。その眼差しには、もはや憎しみしか残っていなかった。自分のライディングスキルには絶対の自信があった。今やネットで人気の女性ライダーだ。しかもLunaは借り物のバイク。勝算は更に高まった。楓は観客席の方を見上げた。ある女性が合図を送る。楓は小さく頷き返した。瞳に浮かぶ勝ち誇った笑み。あと10分もすれば、Lunaを神の座から引きずり落としてやる。夕月は人混みの向こうに、涼の姿を見つけた。カスタムバイクを押しながら、こちらへ向かってくる。涼は黒いバイクを見やり、夕月に告げた。「これを使ってくれ」近づいてみると、サイドパネルには三日月のデザインが描かれていた。夕月の胸が高鳴った。まさか、自分のために用意されたものなのか?すぐに思い上がりだと打ち消し、「ありがとう」と涼に伝えた。「賞金の配分は三対七でどう?私が三で」涼は微笑んで言った。「勝ってくれれば、それが俺とこのバイクへの、最高の応えになる」シートを軽く叩きながら、告げる。「名前は『月光レーシング』だ」かつての月光レーシングクラブは消えたが、彼は暇を見つけては、このバイクを手作りで仕上げてきた。地面に座り込んで、一筋一筋、サイドパネルに月のデザインを彫り込んだ日々。ガレージで眠らせたまま、永遠に日の目を見るこ
傍らで見ていた心音も口を挟んだ。「夕月ちゃん、悠斗くんを許してあげて!母親なら子供を許すのが当たり前でしょう!」「ママを許してもらうには、どうすればいいの?」悠斗は声を震わせた。「僕のカードを使っていいよ!」普段から楓が一番欲しがっていたものだから、ブラックカードこそが最も価値があり、誰もが欲しがるものだと思い込んでいた。夕月は深いため息をつきながら言った。「悠斗、許すということは、今回だけじゃないの。もし今日、私があなたを許したとして、これからの毎日、私が料理をして、お粥を作る度に、あなたを許さなければならない。これから楓の名前を聞くたびに、また許さなければならない。あなたのお父さんを見るたび、あの時橘家であなたが私に投げかけた言葉や行動を思い出して、自分の傷と向き合い、何度も何度も寛容な心であなたを許さなければならないの」悠斗の瞳に涙が光っているのが見えた。今、本当に苦しんでいて、もう泣き出しそうだった。「これからは、もうバイクに乗らない?」夕月は尋ねた。「もう絶対乗らない」悠斗は泣きながら答えた。「そうね」夕月は淡々とした声で返した。「私もう怖くて乗れない。一度蛇に噛まれたら十年は縄を怖がる。あなたは体を噛まれ、私は心を噛まれた」「違う!」悠斗は首を振り、大粒の涙を零した。「僕は蛇じゃない、ママの息子だよ……」「……私とパパの結婚生活から、もっと早く抜け出すべきだったの。でも、あなたたちのことが諦めきれなかった。だって離婚したら、二人とも連れて行くことはできないでしょう。どちらも私の大切な子供なのに、どうやって片方だけを選べるの?結局、あなたが私の背中を押してくれたのね。この息苦しい結婚から解放されるように」離婚という選択肢は、ずっと夕月の心の中で渦を巻いていた。準備は万全だった。橘グループの事業形態や流動資金を把握し、離婚を決意した瞬間に離婚協議書と婚姻費用分与案を冬真の前に突きつけられるように。子供を産んでからは、母性本能に突き動かされ続けてきた。子供の泣き声を聞けば胸が痛み、体が自然と授乳へ、あやしへと向かっていく。昼も夜も子供たちのことが頭から離れず、布団が蹴られていないか、お腹は張っていないか、風邪は引いていないか、そればかりを考えていた。五年の間、二人の子供たちが言葉を
夕月の瞳が潤んできた。深く息を吸い込み、瑛優の手を握りしめたまま、断固として先に進もうとした。「ママ!パパと離婚しても、僕はママと一緒に暮らせるでしょう!どうして僕を見捨てるの?!」悠斗の声が焦りに震えていた。夕月の足が急に止まった。まるで見えない鉄線が足首に絡みつき、肉を抉るような痛みを感じた。何度も深呼吸をしたが、その度に心臓と肺が引き裂かれるようだった。空気が喉を通る度に、まるで棘だらけの細い道を無理やり通っているかのように苦しかった。「橘悠斗、忘れたの?私を見捨てたのは、あなたよ」悠斗の小さな体が震えた。これまで夕月に投げかけた言葉の数々が、一気に脳裏に押し寄せ、視界が霞んでいく。『ママの作るご飯なんて豚の餌だよ!』『あれもダメ、これもダメって、ママって完全な支配狂じゃん!』『意地悪なママ!面倒くさいママ!』『ママなんて毎日家にいるだけで、何もしてないくせに!パパと離婚したいなら出てけよ!出てけ!!』勝ち誇ったように、夕月の傷つく表情を楽しみながら、好き放題に言い放っていた。夕月の瞳が赤く潤み、涙を流すのを見て、跳ねるように楓に電話をかけに行った。物心ついてから、どれだけ夕月を傷つけてきただろう。今、ママに戻ってきて欲しいと願っても、もう手遅れなのか。「坊ちゃまはまだ五歳なんです!」佐藤さんは必死に説得を試みた。「子供は母親の良さが分からないものです。楓さまに影響されていただけなんです。今は本当に後悔してるんですよ!」「藤宮さま」佐藤さんは続けた。「親子の仲に夜を越える恨みなんてありませんわ。坊ちゃまと仲直りなさい……こんな大怪我を負って、お心が痛まないんですか?坊ちゃまがお側に戻れば、きっと良くなります。どんな優秀な看護チームだって、実の母親の手には敵いません。母親だけが分かるんです。子供が口を開かなくても、ちょっとした眉間のしわや目の色で、どこが痛いのか分かるんです。坊ちゃまの体に後遺症が残るのを、見過ごせますか?」佐藤さんの言葉を遮るように、夕月は冷たく言い返した。「そんな感情論で私を縛らないで。橘家は最高の医療リハビリチームを雇っているし、佐藤さんだって保育士と栄養士の資格を持つプロでしょう。もしお気に召さないなら、代わりはいくらでもいますよ」「ママ、僕のこと、まだ愛して
それに、男の罪悪感なんて、何の価値もないわ」「夕月ちゃんったら」心音は頬を膨らませた。「更年期なのね。誰にも愛されてないから、そんな意地悪な言葉を吐くのよ」夕月は即座に携帯をしまった。もう北斗に電話する気も失せた。「瑛優、上がりましょう」「ママ!」幼い男の子の声が響き、夕月の心臓が一瞬激しく跳ねた後、どっと沈んだ。振り向かなくても、誰の声かは分かっていた。瑛優が振り返り、驚きの声を上げた。「悠斗!?」車椅子に座る悠斗の体は、まるでミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされていた。首にはネックカラー、頭には毛糸の帽子。普段なら、おしゃれな髪型が崩れるからと帽子を嫌がる悠斗だったのに。今は髪の毛が剃られ、頭に傷があるため、帽子を被らざるを得なかった。血の気のない真っ白な顔に、青ざめた唇。まるで壊れた人形のようだった。「奥様」佐藤さんが悠斗の車椅子を押しながら、落ち着かない様子で夕月に声をかけた。「悠斗くん、病院は?大丈夫なの?どこか痛くない?」子供同士の諍いや張り合いなんて、瑛優にとっては浮かんでは消える雲のようなもの。悠斗のこんな姿を見たら、ただその体を心配するばかり。たとえ兄妹でなくても、ただのクラスメイトでも、こんな痛ましい姿を見れば気遣うのが子供心というもの。けれど、悠斗の視線は夕月だけを追っていた。佐藤さんにたくさんのお金を渡し、必死に頼み込んで、日光浴の機会を利用して夕月の住むマンションまで連れて来てもらったのだ。悠斗はマンションで長い時間、夕月を待っていた。夕月の姿を見つけた時、本当は姿を見せるつもりはなかった。でも、夕月の後ろ姿が視界から消えそうになった時、ほんの一瞬ママを見ただけで、言葉も交わせないなんて——その思いが、悠斗の声を呼び起こした。ママを呼んだのに、夕月は最後まで振り向いてくれなかった。ただ後ろ姿だけを、悠斗に見せている。悠斗の瞳から光が消えた。定光寺の住職の言葉は本当だったのか。今度こそ、ママは自分を見捨てたのか。悠斗の目に涙が滲んだ。青ざめた唇を開き、震える声で懇願した。「ママ、振り向いて……一目でいいから」「目が覚めてから、一度も会いに来てくれなかったよ……」佐藤さんは夕月の冷たい背中を見て、慌てて悠斗の代弁を始めた。「坊ち
瑛優が夕月の反対側に駆け寄り、回し蹴りを繰り出そうとした瞬間。「夕月ちゃん……」聞き慣れた声に、瑛優は蹴りを寸止めした。「おばあちゃん?どうしてここに?」瑛優は首を傾げた。夕月は驚きの目で心音の姿を見つめた。真冬だというのに、心音は薄手の白いシルクのワンピース一枚。素足は寒さで真っ赤に染まっていた。夕月には、なぜ母がこんな姿でいるのか理解できなかった。「お母さん、靴は?」心音の頬は真っ赤で、髪は乱れ、瞳には涙が溜まっていた。「うっ……うっ……」拳を握りしめ、涙を拭う。「雅子さんが戻ってきたって聞いて、すぐ盛樹さんに電話したの。でも出てくれなくて……空港まで追いかけたら、盛樹さんと雅子さんが……うぅぅっ……胸が張り裂けそう!」これまで心音は盛樹に大切にされてきた。夕月でさえ、二人は仲の良い夫婦だと思っていた。今日の重役会議での盛樹の様子、出迎えに行った後、午後は会社に姿を見せていなかったことを思い出す。夕月にとって、新任副社長としては盛樹が会社にいない方が都合が良かった。「お母さん、どうするの?あの人と離婚するの?」夕月は尋ねた。夕月はあの男を父と呼ぶのも吐き気がした。大粒の涙を浮かべた心音は甘えた声で叫んだ。「夕月ちゃん、なんてひどいこと言うの!あなたは不幸な結婚生活を送ったからって、みんなにも同じように離婚して、誰からも愛されない女になれって言うの?」夕月は容赦なく母に白眼を向けた。心音とは分かり合えないのだ。心音は盛樹が引き取った孤児で、年の差は十歳。中学を卒業してからは学校に行っていない。初めてそのことを聞いた時、夕月は衝撃を受けた。でも心音は「私、頭が悪くて成績も良くなかったの。盛樹さんが大切に育ててくれて、何不自由なく暮らせたわ」と言うばかりだった。「じゃあ、私のところに来た理由は?」夕月は問いかけた。心音は荒れた唇を尖らせ、真っ赤な指で夕月の服の裾をつかんだ。「夕月ちゃん、なんとかして!あなたは私の娘なのよ!娘なら母のために、パパの心を取り戻すべきでしょう?それが娘の務めよ!よそから来た女狐に、パパを奪われるのを黙って見てるなんて……」「でも、おばあちゃん。ママは私に前のパパの気を引くようなこと、一度も頼まなかったよ」瑛優が口を挟んだ。「もう!おばあちゃん
だが夕月は集中して涼のボタンと格闘していた。ハンドソープで滑るボタンは確かに扱いづらい。冬真の被害妄想じみた言葉など、無視するつもりだった。涼は首を傾げ、軽蔑の眼差しを冬真に向けた。「僕の彼女が服を脱がせてくれて何が悪い?時代錯誤も甚だしいね。そんな化石みたいな価値観で生きてて疲れないのかい?」最後の言葉に込められた皮肉が、空気を切り裂いた。冬真の瞳孔が一瞬で縮む。全身を鈍器で殴られたような衝撃と痛みが走る。「お前、自分の言葉の意味が分かってるのか?」苦笑いを浮かべながら、「離婚してどれだけ経ったと思ってる?」夕月は冬真など眼中にもない。「ふぅん?離婚したのに、あなたのために独り身でいろっていうわけ?笑わせないでよ」涼の手を汚さないよう、自分でシャツを脱がせていく。その体は完璧な均整を保っていた。過剰な筋肉ではなく、しなやかな肉付きが美しい。胸板から腹部にかけての曲線は生まれながらの造形美で、後天的なトレーニングでは到底得られないものだった。夕月は思わず息を呑んだ。男性の魅力が波のように押し寄せ、頬が熱くなる。彼女の頬の薔薇色に気付いた涼は、低く響く声で囁いた。「僕と橘さん、どっちが綺麗?」確実に冬真に聞こえる声で投げかけられた質問に、冬真の呼吸が止まる。夕月は笑みを浮かべた。「あなたよ」さらに追い打ちをかけるように続ける。「肌は透き通るように白くて、筋肉のライン、それに腰の感じも……たまらないわ」涼の腰は確かに美しかったが、その褒め方には何か色めいた響きが混ざっていた。「ん……」涼は唇を舐めながら、自分で罠を仕掛けたことに気付く。血の気が上り、耳まで真っ赤に染まっていく。冬真は内臓を掻き回されるような苦痛を覚えた。ふと目にした鏡の中の自己は、充血した目と殺気立った表情で、まるで別人のようだった。今の自分は一体、何という姿をしているのか。「夕月!彼と付き合うのは、私を苛立たせるためか?」冬真は軽蔑的な笑みを浮かべた。「似合わないぞ。桐嶋のやつ、すぐにお前を捨てるはずだ」両手をポケットに突っ込み、夕月の表情が暗く曇るのを待った。夕月はようやく彼を見た。「橘社長、人の恋愛に首を突っ込むのが趣味になったの?暇そうね。でも、元奥さんの願いはただ一つ。目の前からさっさと消えてく
まるで鈍器で殴られたかのような衝撃が冬真を襲った。涼の罠に嵌まるべきではなかった。だが夕月が涼を擁護する言葉を聞いた瞬間、誰かが錐で胸を刺し貫いたような痛みが走る。飛び散る血が、網膜を真っ赤に染め上げた。涼は夕月を見つめ、無言のまま口角を上げた。夕月には分かっていた。彼が意図的に冬真を挑発していることを。それでも涼は、自分を守ろうとする彼女の姿に密かな喜びを覚えていた。涼は再び冬真に視線を向け、露骨な挑発の色を瞳に宿らせる。夕月の前に立ち、庇うような仕草を見せながら、「ハンドソープを掛けてくるかもしれない」と告げた。冬真の喉まで血が上り、吐き気を催した。ビジネスの世界を渡り歩いてきた彼でさえ、これほどの陰湿な手を使われたことはなかった。しかも男子トイレには防犯カメラもない。夕月の前で自分の潔白を証明する術がなかった。「冬真さん、あなたの性格は分かってる。殺されても桐嶋さんに謝らないでしょう。謝れないなら、スーツ代を弁償して。でなければ警察を呼ぶわ。10万円以上の器物損壊は重大な案件よ。毎日のように警察沙汰にしたいなら、私は止めないけど」涼は身を屈め、夕月の耳に十センチほど近づいた。わざと冬真に聞こえる声で囁く。「夕月さん、優しいね」冬真の拳は力が入り過ぎて、皮膚の下から骨が白く浮き上がっていた。次々とトイレに入ろうとする男たちが、夕月の姿を見るなり慌てて引き返していく。ドアの外から囁き声が漏れ聞こえてきた。「今、橘社長が見えたような……」橘グループのビルに近いこのレストランには、社員たちもよく訪れる。用を足せなくなった男たちは、仕方なく外でタバコを吸い始めた。「話は大体分かった。桐嶋さんが社長の元奥さんと付き合ってて、社長が激怒してハンドソープ掛けて突き飛ばしたんだって」外からの声に、冬真の体が震えだした。もはや濡れ衣を晴らすことなど不可能だった。「美人のためとはいえ、随分と荒れてますね。まあ、藤宮さんのような素晴らしい女性なら、二人の男が争うのも当然か」さらに声が潜められ、「あのさ……さっき聞いたんだけど、桐嶋さんの方が橘社長より、その、ピン……」壁は薄く、全ての噂話が冬真の耳に届く。冬真は外に出て、盗み聞きをしている社員たちを即刻解雇しようと思った。そう思
涼は寂しげに顔を背け、自分の惨めな姿を見られまいとするかのようだった。「どうしたの?」夕月は急いで尋ねる。涼の上半身が何か粘つく液体で濡れているのに気付いた。「この服はどうしたの!?」涼は体を起こし、夕月との距離を取った。「大丈夫だよ。橘さんは関係ない。きっと故意じゃなかったはずさ」男の声音には、強がりが滲んでいた。夕月は事態を悟った。「あの人があなたを突き飛ばしたの!?」涼は唇を引き結び、「本当に大丈夫だよ、夕月さん」と宥めるように言った。「服まで汚されたのね」夕月の声音に確信が滲んだ。涼はポケットを探りながら、説明を避けた。「ここで待っていて。スマートフォンを拾ってくるよ」夕月が男子洗面所に足を踏み入れた瞬間、冬真の顔を目にして、頭の中の血が沸騰した。「橘冬真、あんた正気!?」冬真は唖然とした。涼の口元が僅かに歪み、得意げな笑みが浮かぶ。その表情が冬真の目に刺さった。ゆっくりと身を屈めて端末を拾い上げる涼。画面に入ったヒビを、確実に夕月の目に入るよう手にした。罠にはめられた——冬真は気付いた。今頃夕月は、自分が涼を殴り、突き飛ばし、スマートフォンまで叩き付けた様子を想像しているに違いない。血が逆流し、喉に甘く生臭い味が広がる。涼が夕月の指先に触れるのを、ただ見つめることしかできない。「もう行こう。橘さんは僕らを見るだけで苛立つみたいだし、気にすることないよ」よくも目の前で元妻の手に触れられる——「押していない。端末も投げてない!夕月、彼の嘘が分からないのか?」冬真は息を切らしながら言った。「奴が自分でハンドソープを被ったんだ。私がそんな下らないことをすると思うのか?」夕月の眼差しには何の感情も温もりもない。かつて冬真が彼女を見つめた、あの冷たい視線そのままに。「人を突き飛ばすのは、初めてじゃないでしょう」夕月の言葉が冷たく響く。大きな腹を抱えたまま床に倒れ込んだ彼女の姿が、冬真の脳裏を走り抜けた。「物に当たるのだって、いつものことじゃない」汐が亡くなった年、冬真の感情は制御を失っていた。荒れ狂った後の惨状を、大きな腹を抱えた夕月が黙々と片付けていた。「桐嶋さんはあんなに純粋な人なのに。あなた以外に誰が意地悪するっていうの!?」冬真は息が詰ま
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット