LOGIN「一雄さん」風香は優しく声をかけた。その声に、一雄はわずかに眉をひそめたが、顔を上げた瞬間、その場で固まった。「……真帆?」目の前に立つ女性を一瞬、真帆と見間違えた一雄は、信じられないというように彼女の名前を呟いた。マスクで顔の半分を隠した風香は、その反応を見て苦く口元を歪めた。目的は果たせた。一雄は自分を真帆さんと見間違えた。けれど、それは同時に、一雄の心も目も真帆だけを映していることを、あらためて思い知らせるものだった。あの女はバツイチで、さまざまな騒動もあり、仕事の面でももう一雄を支えられないのに。いったい何が、そこまで一雄さんを惹きつけるのだろう。一雄はゆっくりと椅子から立ち上がると、一度目を閉じ、ゆっくり目を開いてから目の前の風香を見つめた。そしてすぐに眉を寄せ、不機嫌そうに言った。「どうしてマスクをしている?」その目元は確かに真帆によく似ていたが、風香の瞳には真帆のような澄んだ輝きはなかった。一雄はそれ以上深く考えなかった。もし注意深く見ていれば、整形直後特有のわずかな違和感にも気づいたかもしれない。術後まだ一か月余りしか経っておらず、完全には馴染んでいなかったからだ。だが、一雄はこれまで風香の顔をじっくり見たことがなく、以前とどこが違うのかなど、気づけるはずもなかった。風香はしばらく黙っていたが、マスクを外そうとはしなかった。一雄は返事がないことに気づき、再び顔を上げた。まだマスク姿のまま立っている風香を見て眉をひそめたが、その視線はまた真帆によく似た瞳とばったり合った。ほんの一瞬。胸の奥が不意に揺れた一雄は、反射的に目を逸らすと、小さく咳払いをして平静を装った。「マスクを外せと言っただろう。聞こえなかったのか?」その様子を見て、風香は自分の思惑が成功したことを悟った。それでも嬉しさは湧かなかった。むしろ喉の奥が締めつけられるように苦しかった。風香は深呼吸して声を整えた。「まだマスクは外せません」「どうしてだ?」一雄は短く問い返した。「休暇をいただいた時、病院へ検査に行くとお話ししましたよね」一か月前、休暇を取る理由として使った口実だった。「ああ……」一雄は何かを思い出したように頷いた。「まだ治っていないのか?」風香は静かに頷いた。すると
一雄さんにとって……心安らげる存在に、ならなくちゃ……風香は母の言葉を胸の中で繰り返しながら、無意識に自分の頬へ手を当て、唇をきつく噛み締めた。まるで、何か大きな決心を固めようとしているかのように。これまで彼女が何より誇りに思ってきたもの。それは仕事の能力と、この顔だった。けれど今は、一雄のためにその顔を別の顔に変えようとしている。しかも、自分がいちばんなりたくない相手の顔に。一雄さん……ここまであなたのために尽くしてきたのに、それでも私を見ようとしないのなら……一番罪深いのは、あなたよ。胸の内でそっとそう呟くと、目の奥がじんと熱くなり、こらえきれなかった涙が静かに頬を伝って流れ落ちた。西園寺グループの休暇が明けると、風香は体調不良を理由に会社へ休暇届を出し、「病院で検査をする」とだけ伝えた。浩一郎の後ろ盾もあったため、一雄は何も言わず、直哉に休暇の手続きをするよう指示した。それから一か月余り。車の後部座席に座る風香は、小さな手鏡を手に、自分の顔をじっと見つめていた。この目を見るたびに胸に込み上げてくるのは、嫌悪と、かすかな希望だった。……一か月前。「先生、この写真の人みたいな目にしていただけますか?」美容クリニックで、風香はスマホを医師へ差し出した。医師は人気女優の写真でも出てくるのかと思っていた。しかし、画面に映っていたのはごく普通の若い女性だった。もちろん整った顔立ちの美しい女性だった。だが、目の前にいる風香も決してその女性に劣ってはいない。カルテに目を落とした医師は、穏やかな口調で言った。「葉月さんでしたら、この方のような目に整形する必要はないと思います。むしろ、唇の形を少し整えることをおすすめします」しかし風香は、その提案にはまったく興味を示さなかった。冷たい表情のまま、淡々と尋ねた。「先生、知りたいのは一つだけです。この人のような目にできますか?もしできるなら、どれくらい似せられますか?」その強い意思を見て、医師もそれ以上は勧めずに答えた。「まったく同じというわけにはいきませんが……八割くらいなら近づけられると思います」「それでお願いします」風香は静かに頷いた。「でも、その八割似た状態の中に、私自身の目の特徴は残してください。一目見れば彼女に似ていると
「この世にはね、有名になるために、毎日どれだけの人が別人みたいに顔を変えていると思う?」そう言って雅美は振り返った。その横顔の半分は闇に溶け込み、いつもの穏やかで優しい母親の面影は、そこにはもうなかった。「お母さん……」風香は暗がりに目が慣れて母を見上げた瞬間、急に母がとても遠い存在になってしまったような気がした。「風香、あなたなら、お母さんの言いたいことくらい分かるでしょう?」「それって……」風香は母の考えに気づいた。けれど口にはできなかったし、口にしたくもなかった。まして、それが母親の考えだなんて、信じたくもなかった。しかし、雅美の確信に満ちた眼差しを見た瞬間、風香は目を見開き、思わず声を荒げた。「そんなの無理よ!」真帆に似るよう整形して、一雄さんのそばで真帆さんの代わりになれだなんて、そんなこと受け入れられるはずがなかった。「ほんの少し整えるだけよ。そんなに慌てて拒むことはないでしょう?」雅美は腹を立てることもなく、聞き分けのない子どもを見るような眼差しで娘を見つめた。「よく言うでしょう?目は口ほどに物を言うって。この目というのはね、人の心をいちばん惹きつけるものなのよ……」そう言いながら一歩ずつ近づき、娘の顔をじっくりと眺める。どこから見ても申し分ない顔立ちだった。だが、その瞳の奥には、気づかれないほどの狂気が静かに渦巻いていた。「風香、あなたは望みを叶えたくないの?」「私は……」風香は唇を噛み締めた。さっきまでのように、きっぱり否定することはもうできなかった。娘が迷い始めたのを見て、雅美は畳みかけた。「風香、お母さんにはあなたの気持ちが分かるわ。この世に身代わりになりたい人なんていない。でも、その身代わりが、いつか本物に取って代わらないと、誰に言い切れる?西園寺夫人になって、一雄さんの心をしっかり掴んでしまえば、生きているあなたが、もうこの国にはいない彼女に勝てないはずがないでしょう?」「先に……西園寺夫人になる……?」風香はその言葉を小さく繰り返し、瞳に迷いと期待を宿した。その変化を見逃さず、雅美はさらに優しく語りかけた。「そうよ、風香。あなたは一雄さんと結婚したいでしょう?だったら最終的な目標は西園寺夫人になること。そのために、少しだけ手段を工夫する。何が悪いの?」
足首を捻ってしまった風香は、しばらく西園寺家へ顔を出すことができなくなった。その間、一雄は久しぶりに静かな日々を送っていた。 とはいえ、風香はじっとしていられなかった。部屋で療養していても、心はずっと一雄の元へ飛んでいた。「風香」コンコンとドアを叩き、母の葉月雅美(はづき まさみ)が薬を持って部屋へ入ってきた。風香がスマホを手にしているのを見ると、小さくため息をつく。「そんなふうにスマホを握りしめて待ってばかりいないの」「誰が待ってるなんて言ったの?」図星を突かれた風香は慌ててスマホをベッドに放り投げ、なんでもないふりをして足に目を向けた。「つまらないだけよ」「母親に隠し事なんてできないわ」雅美は苦笑しながら首を振った。「風香、あなたは私が産んだ子よ。分からないと思う?」そう言って腫れた足を自分の膝に乗せ、薬を塗りながら尋ねた。「風香、本当に一雄さんのことが好きなの?」好き……風香はしばらく黙り込み、その問いを自分自身にも投げかけた。一雄を好きなのか。答えは最初から決まっていた。一雄に以前の会社から引き抜かれたあの日から、彼を頂点に立たせると心に決めていた。だから後になって、本当は一雄が自分を利用するためにムニンジュエリーへ引き抜いたと知っても、何とも思わなかった。むしろ、自分が一雄にとって役に立つ存在だったことが嬉しかったほどだ。その後、一雄が麗香と婚約するという噂が流れた時、風香は丸一週間眠れなかった。容姿なら麗香にも負けない。才能に至っては、あの世間知らずのお嬢様より何倍も上だという自負もあった。それでも、自分では麗香には敵わないことも分かっていた。理由はただ一つ。鶴見家には政界に太い人脈があったからだ。あの頃、風香は本気で諦めようと思った。だが、一雄が政府と企業の共同開発地を手に入れたと聞いた瞬間、彼の狙いを悟った。麗香はただの駒。用済みになれば捨てられる駒に過ぎない。風香には、それが自分への道を切り開いてくれているように思えた。だからこそ、彼女は葉月家と西園寺家に接点を作ろうと、積極的に動き始めた。葉月家ももちろん協力的だった。西園寺家ほどの相手と縁戚になれるのなら、誰だって願うことだ。しかし、その矢先に真帆が現れた。一雄は
風香は今にも涙がこぼれそうな目で、歯を震わせながら言った。「わ、私……ほら、足首がこんなに腫れてきて……」大げさに演技しているわけではない。実際、額に汗がにじむほどの痛みだった。その後、風香が何を言ったのか、一雄の耳には入っていなかった。彼の意識は、「当然です」という一言に向けられていた。風香はただ足首をひねっただけで、立ち上がることもできない。一方、真帆は交通事故で全身に重傷を負い、頭にも怪我を負い、脚も骨折していたというのに……目を覚ましてから一度たりとも「痛い」と口にしなかった。「一雄さん……」風香は自分の足首を見てから一雄を見上げ、困ったような表情を浮かべた。「歩けるか?」一雄の表情は冷たく、その声も淡々としており、心配の色はまったくなかった。「こんなに腫れていて、本当に痛いんです……」風香は「歩けません」とは言わず、何度も痛みだけを訴える。つまり、自力では歩けないということだった。ここは庭園で、すぐに誰かを呼ぶこともできない。今この場で彼女を屋敷まで連れて帰れるのは、一雄しかいなかった。一雄は辺りを見回した。普段なら庭師がいるはずの庭園だったが、今日は姿がない。おそらく浩一郎があらかじめ下がらせていたのだろう。その時、不意に冷たい風が吹き抜けた。風香は思わず身震いし、腕をさすった。その様子を見た一雄は、仕方なく自分の上着を脱いで風香の肩に掛けると、身をかがめて風香を抱き起こし、右腕を支えながら立たせた。「これで歩けるか?」風香は片足だけで立ち、痛めた足を浮かせたまま黙っていた。「無理なら、安藤先生を呼んでくる」安藤康太(あんどう こうた)は西園寺家の専属医だ。浩一郎も健康とはいえ高齢のため、万一に備えて屋敷に常駐させていたのである。「い、いえ、大丈夫です」風香は慌てて首を振り、ぎこちなく笑った。「一雄さんに支えてもらえれば……たぶん歩けます」「ああ」一雄は短く頷いた。屋敷へ戻る道中、風香は何度も一雄にもたれかかろうとしたが、一雄は決してその隙を与えなかった。応接間へ戻ると、浩一郎は風香の姿を見てすぐ使用人に安藤先生を呼ぶよう命じ、良江も水を持って来て彼女の足を洗った。「一雄、風香さんはどうしたんだ?お前に任せたはずだろう。どうしてこんな怪
風香はハイヒールを履いていて、脚も一雄ほど長くないため、ついていくのが大変だった。「一雄さん、待ってください……もう少しゆっくり歩いてください」思わず一雄の袖を掴み、慌てて後を追う。屋敷を出たところで、一雄はようやく歩調を緩め、門の前で足を止めた。風香は服を整え、小さく息を切らしながら言った。「一雄さん、私……ヒールを履いていて、そんなに速く歩かれるとついていけません」「疲れたなら、戻ってお父さんとお茶でも飲んでいてくれ」一雄は心の底では、その一言を待っていた。もう自分につきまとわないでくれ、と思っていた。「疲れたわけではありません」風香は首を横に振り、小さくため息をついた。「ただ、少し速すぎるんです。もう少しゆっくり歩いてくれませんか?」お茶を飲みに戻るなんて、とんでもない。浩一郎の機嫌を取るために過ごす一分一秒が苦痛で仕方ない。はっきり言えば、自分が嫁ぐ相手はあんなじじいではないのだから、四六時中そばに付き添う必要などないと思っていた。一雄は彼女に一瞥すらくれようとしなかったが、帰るつもりがないと分かると、仕方なく庭園へ案内した。秋の夜。西園寺家の庭は風こそほとんど吹かなかったが、夜になれば冷気が庭中に広がっていた。風香は一雄の隣を歩きながら、何度も話しかけ、あれこれ話題を振る。だが、一雄の返事は終始そっけなく、どこか上の空だった。それでも彼女は諦めなかった。会社でも何度となく社長室を訪ねたが、そのたびに断られてきた。西園寺家へ来る回数も少なくなかったものの、一雄はいつも「仕事がある」と言って姿を見せず、まともに会うことすら難しかった。今回は浩一郎の頼みだったから、一雄も断れなかった。だからこそ、この機会を逃したくなかった。「一雄さん、見てください。あの菊、とてもきれいじゃありませんか?」風香は笑みを浮かべながら花を指差した。もし彼女を想う人が隣に立っていたなら、その笑顔が庭の花よりも美しく映っただろう。だが、一雄の心には風香の居場所はなく、視界にさえ入っていなかった。彼の胸を占めていたのは、真帆のことだけだった。今ごろ海外では、誰が真帆のそばにいてくれているのだろう……「一雄さん?」風香は彼の目の前で手を振り、眉を寄せた。「何を考えているので







