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再婚先は偏執大物
再婚先は偏執大物
Author: 白川 露

第1話

Author: 白川 露
柊真帆(ひいらぎ まほ)が鷹宮龍司(たかみや りゅうじ)に離婚を切り出したその日、彼女は世間の非難を一斉に浴び、炎上の中心に立たされていた。

——【星嶺市の有名弁護士、良心なき弁護で障害のある夫を捨てる】

——【薄情な妻、その正体は義妹を死へ追いやった女】

車椅子に座った龍司は、眉をひそめながら手元の離婚協議書をめくっていた。

しかし、龍司はこの離婚を、彼女の一時的な感情のもつれだとしか受け取っていなかった。

「離婚なんてあり得ない。真帆、そんな子供じみたことを言うな」

龍司はどこまでも穏やかで、彼女を包み込むように優しい声で言った。

それは五年前、あの激しい雨の夜、原形を留めないほど潰れたタクシーの中から、命がけで彼女を救い出してくれたときと、何ひとつ変わらないものだった。

自分の脚はすでに血と傷にまみれ、目を背けたくなるほどの惨状だったというのに、彼が最初に口にしたのは、「怪我はないか?」という、彼女を気遣う言葉だった。

それなのに——

そんな温厚で誠実に見えた男が彼女を五年もの間、欺き続けていたのだ。

三日前、龍司の祖父が急病で倒れたという知らせを受け、真帆は手にしていた案件を放り出し、友人宅で商談中だと聞いていた龍司を探しに向かった。

そしてその家の玄関先で、彼女は信じられない光景を目にした。

三年間車椅子生活を送っているはずの夫が、何事もなかったかのように自分の足で立っていたのだ。

室内では龍司の友人たちが数人集まり、冗談交じりに囃し立てている。

「龍司、もう三年も前に完治してるのに、いつまで家族に隠すつもりなんだ?」

「特に奥さんの真帆さんなんて、誰よりも龍司の脚が治ることを願ってたはずだろ」

龍司は脚を組み、長年肌身離さず使っていた車椅子を、まるでガラクタのように部屋の隅へと放り投げた。

穏やかな表情の奥にわずかな複雑さを滲ませながら、低く言った。

「……そうでもしなければ、彼女と別々の部屋で暮らす理由がなくなる」

「は?」

友人の一人が思わず声を荒らした。

「五年も献身的に世話をしてくれた人にそんな仕打ち、よくできるな!」

その言葉を聞いた隣の男が慌てて彼の足を蹴った。

そして、龍司に赤ワインのグラスを差し出しながら、探るような目で問いかける。

「そういえば、江口波(えぐち なみ)の離婚裁判、勝たせたのは真帆さんだったよな。……龍司、お前、まだ彼女に未練があるんじゃないのか?」

龍司は答えなかった。

ただ、視線だけが静かに沈んでいくのを見て、皆が察した。

「彼女にはもう子どももいる。五年前ですら家に反対されたのに、今さら無理だろ」

「それに真帆さんとは、もう結婚して五年だ。あれほど尽くしてくれた人を、他の女のために捨てるのか?」

「……この五年間、彼女に不自由はさせていない。捨てる、という言い方は……」

龍司は言葉を濁したまま、グラスの中身を一気に飲み干した。

彼をよく知る者たちは、こうして曖昧な態度を取る彼の心は、もうすでに別の場所にあるのだと分かっていた。

その会話を、扉の外で立ち尽くした真帆はすべて聞いていた。

五年か。

五年という月日。

彼の脚は、とっくに治っていて、彼はずっと自分を騙していた。

真帆は一歩、また一歩と後ずさりし、逃げるように外へ出た。

唇に伝わったのは、苦くしょっぱい味。

頬に手を当てると、涙で濡れていた。

義母の鷹宮敏子(たかみや としこ)からは、

【龍司は見つかった?】

【道中気をつけなさい】

【ひとまず容体は落ち着いたから】

というメッセージが立て続けに届いていた。

暖かい室内を出ると、冬の寒風が容赦なく吹きつけた。

だが、その冷たい温度でさえ、胸の奥に広がる虚無には及ばなかった。

人命に関わることだから、どれほど顔を合わせたくなくても、彼に知らせないわけにはいかない。

何度も電話をかけたが、龍司は出なかった。

仕方なく、義母のメッセージを転送した。

なぜ、彼女はいつも息子本人ではなく、自分に連絡をさせるのだろう。

「龍司の脚は真帆を助けたせいで傷ついた」

そう信じさせられてきたこの五年間、真帆は幾度も責められてきた。

真冬の寒空の下に彼女を呼び出したのも、きっと息子の代わりに彼女を凍えさせていのだろう。

タクシーで病院へ向かう途中も、友人のあの一言が、頭から離れなかった。

「波に、まだ未練がある」

耐えきれず、弁護士仲間の友人に電話をかけた。

「……波が海外へ行く前のこと、少し調べてもらえない?」

「波?もう離婚裁判は終わったんじゃなかった?」

相手は不思議そうだったが、真帆は詳しく説明せず、調査を頼んだ。

病院に着いたとき、すべてはもう手遅れだった。

病棟の前は、嗚咽と慟哭が渦巻いていた。

——龍司の祖父は、既に亡くなっていた。

真帆は、その場に釘付けになったように立ち尽くし、しばらく何も理解できなかった。

やがて、涙を拭いながら敏子が人混みをかき分けて来た。

「龍司は?」

「連絡は入れました。でも——」

パァン!

言葉を言い終える前に、頬に鋭い痛みが走った。

身体がよろめくのも構わず、憎悪のこもった罵声が、頭上から降り注いだ。

「この疫病神が!」

夫を失い、悲嘆に暮れる龍司の祖母は、腫れ上がった目で真帆を睨みつけた。

「三年前、あんたが現れてから龍司は脚を失った!今度は夫と孫を、最後に会わせもしなかった……あの人は、息を引き取る間際まで孫の名を呼んでいたのに……」

言葉はやがて嗚咽へと変わり、龍司の祖母は泣き崩れた。

周囲の親族たちも、それに合わせるように真帆を責め立てた。

真帆は、頭が割れるように痛かった。

「龍司が彼女を庇って脚を失った」その罪悪感から、彼女は彼との結婚を選んだ。

五年間。

どれほど責められても、彼女は耐えてきた。

唯一、龍司の祖父だけが、彼女を庇ってくれていた。

「天災人災は、人の力ではどうにもならない」と、そう言ってくれた。

——その人が、もういない。

家で唯一、彼女を守ってくれる存在がいなくなった。

それはまるで、ずっと昔と同じだ。

守ってくれる人を失い、自分は不要なものとして、ごみのように追い出される。

真帆は瞬きすら忘れ、乾ききった目で立ち尽くしていた。

一滴の涙も流さない彼女を見て、龍司の祖母の怒りはさらに激しくなった。

「薄情な女め!」

杖を振り上げ、彼女の肩へ叩きつけようとした、その時——

「やめろ!」

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