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第175話

Author: 玉酒
弟の言葉が落ちると、病室の中は長い間沈黙に包まれた。

しばらくして、安里は重いため息を漏らし、その声には諦めと疲労が滲んでいた。

美穂は平然とした顔つきで、室内の人間が出てくる気配を察すると、少し下がり、ナースステーションの方へ歩みを移した。

数分後、先日の会食で顔を合わせた柳本家の弟が、果たして扉を押し開けて出てきた。

彼は足早に、不機嫌な様子でエレベーターへ向かった。

しかし階数表示が点滅しており待たねばならないと知ると、苛立った舌打ちを残して、隣の階段へ姿を消した。

その後で美穂は病室へ引き返した。

扉を開けると、安里はベッドの背に半ば身を預け、左腕にはガーゼを巻いていた。彼女は美穂を見て、驚きの色を瞳に浮かべた。「水村さんがいらしたんですか?」

あの日の会食で誠が美穂を紹介したことがある。彼女が覚えていても不思議はない。

美穂は贈り物の箱をベッドサイドのテーブルにそっと置き、何気なく開かれていたカルテに視線を落とした。

診断欄には「左手の軽度骨折、軽い脳震盪」と記されている。

「祖母が、あなたにお礼を言うようにと」淡々とした声が響いた。

安里は一瞬きょとんとし、髪をかき上げて、はにかんだ笑みを浮かべた。「陸川社長の役に立てたのは、私の光栄です」

美穂は軽くうなずき、形式的に体調を気遣い、特に問題がないことを確かめると帰る準備をした。

辞去を告げたその時、安里が彼女の名を呼び止めた。「水村さん」

二人は、一方は立ち、一方は座り、視線を交わした。

「その……」安里は他人の妻の前で夫を気遣うなど、したことがないのだろう。唇を噛み、ためらいがちに口を開いた。「陸川社長は……お加減いかがですか?」

美穂の眼差しは静かな水面のよう。

柳本家の姉弟の会話を聞いていなければ、彼女は安里が純粋に和彦を心配していると思ったかもしれない。

だが今は違う。美穂は相手の逸らす瞳と、布団の下で震える手を見逃さなかった。唇を無造作に上げ、意味深に微笑んだ。「外傷は養生すれば治ります。目を覚ましたら、ご本人から柳本さんに直接お礼を申し上げるでしょう」

安里ははっと顔を上げ、瞳孔をわずかに縮めた。

美穂が何かを知っているのでは、と疑った。

だが美穂は一分の隙も見せず、相手が沈黙しているのを見ると、丁寧にうなずき、そのまま立ち去った。

その細い背中
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