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第3話

Penulis: すっぴん
翌日、結菜は娘を幼稚園に送った後、タクシーで市役所へ向かった。

彰吾と結婚してから、彼女は一度も働いたことがなかった。家の全ての支出は、彼女が賄う必要はなかったからだ。彼女の手元にはまだ結婚前の貯金がいくらか残っており、娘を連れてしばらく外で生活するには十分な額だった。それに、杏奈との生活費を稼ぐために、仕事を見つけるつもりだった。

八時過ぎには、結菜はもう到着していた。

彼女は入り口の隅に立ち、出入りする人々を眺めていた。

愛を誓い合うカップルもいれば、罵り合って別れていく者たちもいる。

そんな人々を見ていると、結菜は五年前、彰吾と婚姻届を提出した日のことを思い出さずにはいられなかった。

彼女は期待に胸を膨らませて手の中の婚姻届を眺め、彼に話しかけようとした途端、彼が冷え切った顔で、鋭い嫌悪に満ちた視線を彼女に向けていることに気づいた。

「あらゆる手を使ってこの地位を手に入れたんだ、ようやく願いが叶ったな。桐生夫人の座、せいぜい死守することだな」

彼の口にした「桐生夫人」という言葉には、悪意さえ込められていた。

あの日、彼がどれほど憎しみに満ちた目で自分を見ていたか、彼女は一度も忘れたことがなかった。そしてその日を境に、彼女は自分が彼の目には、目的のためなら手段を選ばない、悪質で自己中心的な女にしか映っていないのだと知った。

しかしこの数年、彼女は何度も考えてしまう。一体どうして、私たちはこんなことになってしまったのだろう?私たちだって、愛し合っていたはずではなかったか?

でも、分からなかった。昔の彼は、香織に向けるのと同じくらい、自分を甘やかしてくれていたはずなのに。

彼は彼女の眉に、頬に、耳元にキスをし、唇を重ねながら「君が大好きだ」と愛を囁いてくれた。

彼がなぜ急に態度を変えてしまったのか、本当に分からなかった。

なぜ突然別れを告げ、水瀬家との縁談を進めることになったのか、説明さえなかった。

彼女には理解できず、一時は自分のせいだと思い詰めた。

だが、自分たちの身分の差があまりに大きいことも分かっていたから、別れを告げられても、彼に付きまとうような真似は決してするまいと思っていた。

あの夜の出来事はあまりに混乱していて、今でも、あの朝目覚めた時の光景を鮮明に思い出す勇気はない。

「結菜、お前はそんなに安っぽい女だったのか?そんなにのし上がりたいのか?」

「さすがはしがない家柄だな、薬を盛るなんて汚い手まで使えるとは。本当に卑しい女だ!」

「彰吾が水瀬家と婚約したのを知らないわけじゃないでしょう?結菜、あなたは成り上がるためなら手段を選ばないのね。本当に気持ち悪い!」

あの罵詈雑言が、まるで針のように鼓膜を突き刺し、昨日のことのように蘇る。

結菜は両手で耳を塞ぎ、激しく頭を振った。その言葉を頭から追い出したかった。彼女の顔色は真っ青になり、体は数回ぐらついた。次の瞬間には気を失ってしまいそうだった。

少し離れた車の中、運転席に座る望月誠一(もちづき せいいち)は、思わずバックミラーに映る男に目をやった。

実は、彼らがここに到着したのは八時だった。ただ、ずっと車から降りずにいただけだ。

奥様が到着したというのに、車の中の男は依然として降りる気配がない。

「桐生社長、奥様の体調が優れないようです」

これだけ離れていても、誠一には結菜の様子がおかしいのが見て取れた。

彰吾は終始無表情で市役所の外に立つ女を見つめ、冷たく言い放った。

「別に、ピンピンしてるだろ」

口から出る言葉は相変わらず冷酷だったが、その手はすでにドアの取っ手へと伸びていた。

しかし、ちょうどその時、結菜から電話がかかってきた。

彰吾の視線は窓の外に注がれたまま、電話に出るつもりはないようだ。

結菜は体調の悪さをこらえて彰吾に電話をかけたが、コール音は鳴るばかりで誰も出ない。

もっとも、こんな状況はいつものことだ。

仕方なく、彼女は彼のアシスタントである誠一に電話をかけた。

誠一は画面の表示を一瞥し、バックミラーに視線を上げた。

「……社長、奥様からお電話です」

「出ろ」

「はい……」

誠一はスピーカーをオンにした。「奥様、いかがなさいましたか?」

「望月さん、お忙しいところごめんなさい。今、彼と一緒にいる?」

結菜の言う「彼」が誰を指しているかは明白だった。

誠一はバックミラーを見て、ことの次第を完全に理解した。

てっきり、社長が八時に市役所へ車を出すよう命じたのは、一刻も早く奥様と離婚したいからだと思っていた。

だが、奥様が二十分も前に到着しているのに、車の中で二十分も彼女を眺めているだけで降りようとしないのを見て、誠一は悟った。

もしかしたら社長が一時間も早く来たのは、奥様が本当に市役所へ離婚しに来るのかどうか、確かめたかったのかもしれない。

答えは明らかだった。奥様は本気だ。でなければ、自分のところにまで電話をかけてくるはずがない。

結菜が彼の電話番号を知ったのは五年前だが、この五年間で彼女から電話がかかってきた回数は片手で数えるほどだ。

よほどのことがない限り、結菜が彼に電話してくることはない。

前回彼女から電話があったのは、お嬢様が肺炎で入院し、桐生社長と連絡が取れなくなった時だったが、それももう二年前のことだ。

「奥様、私と社長は今空港におります」

「空港?」結菜の声には、明らかに戸惑いと焦りの色が混じっていた。

「はい、奥様。本日は社長の出張に同行しておりまして。何かご用件でしょうか?」

結菜は唇を噛みしめ、助けを求めるように左右を見回した。そして、ゆっくりとその場にしゃがみ込むと、か細い声で言った。

「望月さん、彼が昨夜のメッセージを見てくれたか、それと、いつ戻るのか、聞いてもらえないかしら?」

その声には、懇願するような響きがあった。

誠一は口元を引きつらせ、バックミラーに目をやった。案の定、後部座席の男の顔色は、先ほどよりもさらに冷たく、険しくなっている。

「いつ戻れるかは、私にも分かりかねます。申し訳ありません、奥様」

電話の向こうで結菜はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「望月さん、じゃあお願いがあるの。もし、そちらに戻ったら、私に知らせてもらえないかしら?彼と一緒にしなきゃいけない、とても大事なことがあるの」

とても大事なこと……離婚、だろうか?

「承知いたしました、奥様」

「ありがとう。じゃあ、お邪魔してごめんね。お手数をおかけした」

結菜は電話を切った。しかし、彼女はすぐには立ち上がらず、頭を下げて自分の体を抱きしめた。

彼女は自分がどれくらいの時間そこにしゃがみ込んでいたのか分からなかった。市役所の職員が何かあったのではないかと心配して声をかけてくるほど、長い時間だった。

「お客様、大丈夫ですか?救急車をお呼びしましょうか?」

結菜はようやくゆっくりと顔を上げた。彼女は職員に向かって首を横に振った。

「いえ、大丈夫です。ご心配をおかけしました」

「では、お立ちになるのをお手伝いします」

「ありがとうございます……」

結菜は支えられて立ち上がると、職員に会釈して礼を述べ、一歩一歩、階段を下りていった。

彼女は道端に立ち尽くす。そよ風が彼女の髪を乱したが、その瞳に浮かぶ潤みと靄を吹き払うことはできなかった。

タクシーが止まるまで、彼女はそこにいた。そして、身をかがめて車に乗り込んだ。

誠一はタクシーが走り去る方向を見つめながら尋ねた。「社長、では、これから……」

彰吾はタクシーが消えた方向を、冷たく陰鬱な目で見つめていた。

「お前はどう思う?あいつは本気で離婚したいのか、ただ拗ねてるだけか?」

誠一は何も言わなかった。奥様は本気で離婚したがっているように思う、などと口が裂けても言えなかった。何しろ、この五年間、彼は奥様が拗ねてるのを見たことなど一度もなかったのだから。

彼の目には、結菜は噂されているような自己中心的で悪質な人間には思えなかった。

むしろ、性格も気立てもとても良い人だと感じていた。

「夏川洸汰(なつかわ こうた)の状況はどうだ?」

「まだリハビリ中です」

その言葉が出た後、誠一は、彼の瞳の冷たさと殺気が、先ほどよりも増したのを感じた。

「あいつの命は、どうしてこうもしぶといのか。三度も手術台に上がって、まだ生きていられるとはな」

誠一がどう返すべきか考える前に、彼の冷え切った声が響いた。

「病院の費用を全て打ち切れ。あいつがどこまで粘れるのか、見せてもらおうじゃないか!」

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