LOGIN石油ストーブの灯油臭さが立ち込める事務所内には、重苦しい沈黙が落ちていた。 煙管をくわえた集積所の責任者――五十嵐は、灰皿の縁にとんとんと雁首を打ちつけると、薄汚れた帳簿に視線を落としたまま顔も上げようとしない。 「帰んな、お嬢ちゃん。片桐の爺さんの顔を立てて事務所に上げてやっただけでもありがたいと思いな」 「五十嵐さん、頼みます!」 真白は濡れたボストンバッグを床に置き、深く頭を下げた。 「私たちが立ち入りたいのは、保護区域外の旧鉱床跡です。密猟をするつもりはありません。国が迎える新しい時代の式典で、この糸魚川の石を……日本の原初の魂を冠に据えたいんです!」 「能書きはいいんだよ」 五十嵐は苛立ちを隠さず、真白を睨みつけた。 「俺たち零細の山持ちはな、東京の黒羽グループ……征四郎副総裁の息がかかった商社に鉱石の定期買い付けを支えてもらってんだ。あそこから『あの女に立ち入り許可証を出したら、糸魚川の石の買い取りを全面停止する』って言われてるんだよ。お前ひとりの我儘で、仲間全員の飯の種を潰すわけにはいかねえ」 「そんな……!」 「おい五十嵐、てめえ」 背後で片桐が野太い声で唸り、一歩踏み出そうとした。だが、真白はその前に腕を伸ばし、片桐を制した。 「片桐さん、待ってください」 「真白、こいつらは話して分かる連中じゃねえぞ」 「でも、力づくで押し通したら、ただの密猟者になってしまいます」 真白は五十嵐の前に進み出ると、リュックから透明なクリアファイルを取り出し、机の上に広げた。 鉛筆と絵の具で描かれた、何十枚にも及ぶティアラの初期構成案。線はまだ荒削りだが、石の輪郭一つひとつに、息を呑むような執念が込められている。 「これは……?」 「設計図です。真ん中に据えるべき石の場所だけが、まだ真っ白です。外国の輸入ダイヤモンドじゃ駄目なんです。この厳しい北陸の雨と雪に打たれ、気の遠くなるような年月を生き抜いてきた糸魚川の翡翠でなければ、この線は完成しません。……お願いします。山に入らせてください」 「駄目なものは駄目だ。警察を呼ぶ前に出て行け!」 五十嵐は図面を一瞥しただけで、乱暴に手で払いのけた。紙片が冷たい土間に散らばる。 事務所の扉が乱暴に閉ざされ、真白と片桐は土砂降りの雨の中へと追
「糸魚川……? 新潟の、あの糸魚川ですか?」 真白は受話器を強く握り締め返した。 『そうだ。日本海へ注ぐ姫川の流域、ヒスイ峡だ』 片桐のしゃがれた声が、電話口の雑音を切り裂いて届く。 『都内の問屋どもが征四郎の鼻息を窺って右往左往してるなら、下らねえ流通など捨てちまえ。日本の国家式典だろ? なら、この列島の骨組みから削り出された、本物の「原初の石」を据えるべきだ。……小娘、お前には泥を掘る度胸があるか?』 「あります!」 迷いは一秒もなかった。 「行きます、片桐さん。今すぐ準備します!」 『おう、明朝五時、上野発の始発に乗れ。糸魚川の寂れた駅前で待ってる』 ツーツーと切れた受話器を置き、真白はすぐにアトリエの奥へ走った。 華やかなドレスも、デザイン画を飾る額縁もいらない。手袋、作業用ルーペ、硬度計、そして母の遺したボロボロのデザインノート。泥に塗れるための厚手の作業着と長靴を、無骨なボストンバッグに詰め込んだ。 靴紐を結び直してアトリエの通用口を開けた瞬間、冷え込む深夜の空気を切り裂いて、黒塗りのセンチュリーが音もなく滑り込んできた。 後部座席のドアが開き、漆黒のチェスターコートを羽織った蓮が降り立つ。 無言のまま真白の足元――泥作業用の頑丈なブーツと、膨らんだボストンバッグを見下ろした。 「……夜逃げの準備か」 「違います」 真白は顎を上げ、蓮の鋭利な瞳を見据えた。 「片桐さんと糸魚川へ行きます。市場で手に入らないなら、山から直接、私の手で最高の石を掘り出してきます」 「糸魚川の翡翠峡は、国の天然記念物に指定されている区域も多い。立ち入りを誤れば密猟として即座に警察送りだ。それに、今の時期の北陸の山間部は初冬の雪混じりの豪雨が降る。崖崩れで毎年遭難者が出るような危険地帯だぞ」 淡々と、だが一切の誇張なく危険を突きつけてくる。 冷酷な総帥の視線は、真白がどれほどの覚悟でその足を踏み出そうとしているのかを、容赦なく測っていた。 「分かっています。危険も、寒さも承知の上です。でも、一条先生は今この瞬間も、命を削って『至高』を創り出そうとされている。安全な東京の部屋で指をくわえて待つくらいなら、泥水に飛び込んで死に物狂いで探す方を選びます」 真白の瞳に揺らぎはなかった。 蓮は
南青山の『BLANC』本店アトリエ。 受話器から返ってきた冷たい電子音は、真白の耳の奥に鉛のように重く沈殿した。 都内の貴金属問屋、宝石の輸入商社、地金の精錬所――片っ端から掛け直した電話は、ことごとく同じ返答だった。 『申し訳ありません、組合の通達で……』 『黒羽副総裁のお名前が出ている以上、うちのような規模では逆らえません』 『頼むから、もう電話をかけてこないでくれ!』 最後には、受話器越しに怯えと拒絶をぶつけられ、ガチャリと切られた。 「……電話で頭を下げて回れば、石が転がり込んでくるとでも思っているのか」 振り返ると、重厚な革靴の足音とともに蓮が姿を現していた。 長身を包むスリーピースのスーツには乱れ一つなく、その眼光は冬の刃のように鋭利だった。高杉が控える背後から、冷ややかな空気がアトリエへ流れ込んでくる。 「黒羽さん……」 「征四郎の差し金だ。国内宝飾貴金属組合の理事長は、叔父の長年の飼い犬だからな。都内の流通ルートは完全に塞がれた。期日までに特級プラチナも、極上のダイヤモンドも、国内正規ルートからお前の手元に届くことはない」 「そんな……コンペまで、もう一ヶ月もないのに……!」 真白は唇を噛み締めた。 国家式典で用いられるティアラには、最高純度のプラチナと、傷一つない特級の宝石が不可欠だ。どれほど崇高な設計図を描こうと、形にするための金属も石もなければ、ただの机上の空論で終わってしまう。 「泣き言を言うな」 蓮は無駄のない足取りで真白の前に立つと、冷ややかに見下ろした。 「相手は貴族ぶったお嬢様ではない。生き残りのために泥水を啜ってきた老獪なハイエナだ。正攻法で来るはずがないことくらい、最初から織り込み済みで挑むのが戦場だぞ」 厳しい言葉だったが、真白を突き放す調子ではなかった。 蓮は内ポケットから万年筆を抜き、手帳に流麗な文字でいくつかのサインを走らせると、破り取って真白の作業台に置いた。 「黒羽グループのプライベートルートを動かす。アントワープのシンジケートとチューリッヒの精錬所へ直通で手配をかければ、四十八時間以内に最高純度のスイスプラチナと五カラット級のダイヤが手に入る。それで戦え」 破格の支援だった。 財閥総帥の権力を使えば、征四郎の敷いた国内の包囲
南青山の『BLANC』アトリエ。深夜二時を回り、静まり返った作業場には、鉛筆の先が紙を激しく擦る音だけが響いていた。カリカリ、サッ、サッ……。床には、丸められたクロッキー用紙が無残に散らばっている。真白は拡大鏡を頭上に押し上げ、真っ白な紙を睨みつけていた。目の下には濃い隈が落ち、握りしめた二〇二〇番のデッサン用鉛筆を持つ指先は、疲労でわずかに震えている。「違う……これじゃない……!」ビリリ、と乾いた音を立ててスケッチを破り捨てた。描けども描けども、紙の上に現れるのは「どこかで見たようなティアラ」だった。格式を求めれば、一条麗華が体現する王道・完璧なシンメトリーの焼き直しになり、奇をてらえば国家の式典という神聖な儀礼の品格を損なう。一条麗華という巨大な山を意識すればするほど、真白の鉛筆は迷走し、線の生気を失っていた。「……その程度の下らない落書きに、一体何時間浪費している」氷のように冷徹な声が、作業場の入口から突き刺さった。真白が息を呑んで振り向くと、コートを脱いだ蓮が腕組みをして立っていた。冷淡な眼差しが、足元に散乱する破れた紙屑を見下ろしている。蓮は無駄のない歩調で机に歩み寄ると、真白が手元に残していた唯一のスケッチを容赦なく引き抜いた。「黒羽さん……」「一条麗華の亡霊に怯えて、指先が縮こまっているな」蓮はスケッチを一瞥するなり、冷ややかに机へ放り出した。「最高級のダイヤモンドを無難に並べただけの、中身のない飾り物だ。誰の首に乗せるつもりだ? 石の価値にすがっただけの抜け殻など、一条麗華の爪の垢にも及ばんぞ」「っ……!」容赦のない言葉が、真白の胸をえぐるように抉った。寝食を忘れ、指を痛めて必死に絞り出した三日間の成果だった。涙が滲みそうになるのを、真白は唇を強く噛みしめて押し戻した。蓮の言う通りだったからだ。怖かった。国家という看板の重みに怯え、一条麗華の圧倒的な存在感に呑まれ、無意識に「減点されない無難なデザイン」へ逃げ込んでいたのだ。「泣き言を垂れる暇があるなら、頭を冷やせ」蓮は無造作に、持参していた魔法瓶から湯気の立つ濃いブラックコーヒーをマグカップに注ぎ、真白の目の前にドンと置いた。「技術や格式の歴史で、お前が一条麗華に勝てるはずがない。あの女は生まれ落ちた瞬間から美の頂点に立ち、何万時間という修練を重ねて
「白河真白との一騎打ち、ですか……」東條参与は苦々しい表情で額の汗を拭った。改元に伴う国家慶祝式典の公式ティアラ。それは皇室の格式と国の威信を世界に誇示する至高の象徴だ。これまでなら、名門一条家の当主にして至高の美を体現する一条麗華に特命発注が下り、無風のまま儀礼の準備が進むはずだった。「一条先生、式典の期日はすでに決定しております。失敗は万に一つも許されない。実績のない新興ブランドを巻き込んでの指名コンペなど、前例がございません」「前例なら、今ここで作ればよろしいでしょう」一条麗華は東條の懸念を一刀両断にした。真紅のスーツを完璧に着こなし、背筋を一寸の乱れもなく伸ばしたその佇まいは、まさに気高き女王そのものだった。「無風の椅子に座って手に入れた栄冠など、私には一片の価値もありませんわ。一条の誇りにかけて、私が宮内庁に納めるのは、過去の焼き直しではなく世界中の誰もがひれ伏す真の至高です。……そして今、この国で私の美意識を刺激し、私の牙を研ぐに足る気迫を持つ相手は、そこの泥臭い娘ただ一人よ」麗華の怜悧な視線が、真白へと向けられる。それは他者を蔑む目ではない。自らの高みへと挑む資格があるかを見定める、誇り高き絶対者の苛烈な光だった。「どうなのです、真白代表。私の影に隠れて安全な場所で甘んじるのかしら? それとも、この一条麗華を本気で超えにくる気概がおあり?」「一条様……」真白の喉の奥が乾き、心臓が激しく打った。一条麗華。名門の血筋、天賦の才、そして誰よりも過酷な修練によって頂点に君臨し続ける絶対の女王。技術、経験、そして研ぎ澄まされた審美眼のすべてにおいて、立ち上げたばかりの『BLANC』など遠く及ばない。勝てる見込みなど、客観的に見れば万に一つもない無謀な挑戦だった。(逃げ出したい……? いいえ、違う)真白は作業着のポケットの中で、両手を強く握りしめた。指先には、ヤスリを握り、泥まみれになりながら原石を割ったタコと無数の小さな傷痕がある。恐怖はあった。だがそれ以上に、胸の奥底でチリチリと燃え上がる熱い炎があった。あの一条麗華が、自らの地位にあぐらをかくことなく、真向勝負の土俵へ自分を招き入れてくれたのだ。「東條参与」真白は背筋をピンと伸ばし、一歩前へ踏み出した。琥珀色の瞳は澄み渡り、一条麗華の圧倒的な気迫を真正面から受け
合同コレクションでの『白夜の翼』発表から三日が過ぎても、クロハ・グランドシアターの熱気は冷めやらぬまま、連日メディアを賑わせていた。毒石の罠を仕掛けた白河結衣は、現行犯逮捕ののち、殺人未遂および建造物侵入の容疑で東京地検へ身柄を完全に送検された。警察の取調べに対し、結衣は取り乱して喚き散らすばかりで、もはやかつての傲慢な令嬢の面影は微塵も残っていないという。だが、南青山の『BLANC』本店アトリエの奥。真白は世間の喧騒から切り離されたように、作業台に散らばった工具や研磨剤の拭き掃除に没頭していた。キュッ、キュッと、布巾を動かすたびに無垢材の机が艶を帯びる。「……相変わらず、祝勝会のシャンパンより雑巾の絞り汁の方が性に合っているようだな」低く澄んだ声が落ちてきた。顔を上げると、仕立ての良い漆黒のスーツを隙なく着こなした黒羽蓮が、扉の脇に立っていた。鋭利な彫刻を思わせる冷淡な美貌。だが、その漆黒の瞳の奥には、真白だけに向ける微かな熱が宿っている。「黒羽さん。もうお仕事は一段落したんですか?」「結衣の件と、背後にいたオフィディアンの残党への法的手続きは、顧問弁護士団が完璧に包囲した。あの女が二度と塀の外に出ることはない」蓮は無駄のない足取りで歩み寄ると、真白の手から布巾を奪い取り、作業台の上へ放り出した。そして、ポケットから取り出した清潔なハンカチで、真白の指先に残る微かな金属粉を丁寧に拭い去っていく。「いつまでも雑用に手を焼いてはいられないぞ。……客が来ている」「客……? 今日のアポイントはすべて断ったはずですが」「断れる相手ではない。宮内庁、および内閣官房参与の特使だ」蓮の言葉に、真白は息を呑んだ。国家の中枢に関わる機関が、なぜ立ち上げたばかりの新興ブランドである『BLANC』のアトリエを直々に訪れるのか。蓮に促され、真白は奥の応接室へと足を踏み入れた。そこには、濃紺のモーニングを纏った白髪の初老の男が、背筋を凍るほど真っ直ぐに伸ばしてソファに腰掛けていた。男の横には、漆塗りの重厚なアタッシュケースが置かれている。「初めまして、白河真白代表。内閣官房参与、ならびに式典準備委員会の東條と申します」東條と名乗った男は、立ち上がると深々と頭を下げた。その視線は極めて鋭く、真白の佇まい、手の平のタコ、そして作業着の襟元にいたるま