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凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―
凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―
مؤلف: 手足あせだく

第1話

مؤلف: 手足あせだく
斎場の中は、芯まで冷え切っていた。

弔いの音楽が延々と繰り返され、香炉に落ちる灰の音さえ聞こえてきそうなほど、静寂が重くのしかかっている。

瀬戸実花(せと みか)は父の遺影の前で膝をついていたが、とうに感覚は消え失せていた。指先を掌に強く食い込ませ、辛うじて自分を繋ぎ止めている。今ここで糸が切れたら、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。

背後から、参列者たちのひそひそ話が刺すように届く。

「和真さんはどうしたんだ?まだ姿を見せないが」

「知らないのか?空港だよ。ニュースになってる」

「空港?こんな時に、一体誰を迎えに行ってるんだ。今日は義理の父親の葬儀だぞ」

「例の『忘れられない女』らしい。初恋ってのは、男を狂わせるからねえ」

「まあ、男の甲斐性か。多少の火遊びは仕方ないさ」

無責任な言葉のひとつひとつが、実花の鼓膜を土足で踏みにじっていく。

不意に、喪服のポケットでスマートフォンが震えた。

暗い視界に飛び込んできた通知の文字が、容赦なく瞳を突き刺す。

【速報:瀬戸グループ後継者・瀬戸和真(せと かずま)氏、深夜の空港に現る。百合の花束を手に謎の美女をエスコート】

震える指で画面をタップすると、高画質の写真が展開された。

そこには、仕立ての良い黒のロングコートを纏った和真が写っている。片手には大きな百合の花束を抱え、もう片方の手は隣に立つ女性の肩を抱き寄せていた。

カメラのアングルのせいか、まるで慈しむように口づけを交わしているようにも見える。その女性の横顔は、どこまでも清らかで上品だった。

だが、ふとした瞬間に覗く勝ち誇ったような眼差しを、実花は見逃さなかった。実花は一度、ゆっくりと目を閉じた。

再び瞼を開けたとき、視界は皮肉なほどクリアになっていた。

――知っている。この女を。

高城凛(たかしろ りん)。

裕福な家庭で甘やかされて育った凛は、奔放で傲慢な性格で有名だった。和真はそんな彼女に心酔し、どんなわがままも受け入れ、手の付けられないほどに甘やかしていたという。

かつて凛が店員の不手際で飲み物をかけられた際、その場でグラスを叩き割り、破片の上に膝まずかせて謝罪させたという逸話がある。周囲が凍り付くなか、和真だけが困ったような顔をしながら、甲斐甲斐しく彼女の後始末をしていた。

そんな噂を聞いたときも、実花はどこか他人事だと思っていた。

だって、区役所に婚姻届を出しに行こうと、私の手を引いてくれたのは和真自身だったから。

けれど今、画面の中の二人を見つめる実花の口元には、乾いた笑いさえ浮かんでいた。

斎場の入り口が、にわかに騒がしくなった。

漆黒のマイバッハが静かに停車し、重厚なドアが開く。石段を刻む足音が近づき、やがて二つの影が中へと足を踏み入れた。先頭を歩くのは、凛だった。

混じりけのない白のワンピースに淡い色のショールを羽織り、顔色はどこか青白い。赤く腫らした瞳は潤み、今にも折れてしまいそうなほど儚げな雰囲気を纏っている。その後ろを、和真がぴたりと追う。

隙のない黒のスーツに、完璧に整えられたネクタイ。長身で引き締まったその体躯からは、生まれ持った冷徹な威圧感が放たれていた。和真は真っ直ぐに奥へと進み、参列者の視線を切り裂くようにして義父の遺影の前で足を止めた。一瞬、薄い唇をきつく結ぶ。

「おじさん、安らかに」

和真は淡々と、非の打ち所のない所作で深く頭を下げた。「遅くなってすみません」

その態度はあまりに慇懃だった。

けれど実花には、その「おじさん」という響きが、耐えがたいほど皮肉に聞こえた。妻の父親を義父とも呼ばず、他人のように呼ぶその神経。実花はあえて訂正することもなく、ただ口元に冷ややかな嘲笑を浮かべた。和真の斜め後ろに控えていた凛が、消え入るような声で口を開く。

「実花さん、和真くんを責めないであげて……全部、私のせいなの。フライトが急に遅れて、深夜の到着になっちゃって。和真くん、私を一人にするのは危ないからって、空港まで迎えに来てくれたのよ。お父様のことは本当に急だったから、私たちも急いで駆けつけたんだけど、これが精一杯で……」

静まり返っていた場内に、再びさざ波のような私語が広がる。

「ほら、あの方がニュースの……高城さんでしょう?」

「こんな場所にまで付いてくるなんて、相当な自信ね」

実花はようやく顔を上げ、二人を冷淡な眼差しで射抜いた。

「……どなた?」感情を削ぎ落とした、平坦な声だった。

凛が毒気を抜かれたように固まる。「実花さん、私よ、凛……」

「彼に聞いてるの」実花は凛の言葉を遮り、視線を和真へと向けた。

和真が不快そうに眉をひそめる。「実花、凛だよ。……凛、こっちは実花だ」

「実花、に、凛?」実花は低く、独り言のように繰り返した。

彼女は立ち上がろうとしたが、痺れた足に力が入らずによろめく。それでも強引に身体を支え、二人を正面から見据えた。「ずいぶんと親しげな呼び方ね」

さらに一歩、凛の方へと視線を移す。「それから――私の父の葬儀に、あなたを招待した覚えはないけれど?」

凛の顔からスッと血の気が引き、その大きな瞳にはみるみるうちに涙が溜まっていく。「実花さん、私……ただ和真くんが疲れているのが心配で、一緒にお父様にお焼香をあげたいって思っただけなの。もし迷惑なら、今すぐ帰るわ……」

消え入りそうな声でそう言うと、彼女は今にも倒れそうなほどおぼつかない足取りで後退りした。

和真が反射的にその肩を支える。「凛、危ない」

「一つ、どうしても聞きたいことがあるの」実花が唐突に口を開いた。

和真を真っ直ぐに見つめるその瞳は、恐ろしいほど静まり返っている。「森科製薬の抗がん剤――あの治験枠、結局誰に譲ったの?」

和真の動きが止まった。

隣にいた凛の表情も一瞬で強張り、隠しきれない動揺が走る。

斎場の隅で、参列者たちがひそひそと顔を見合わせた。「森科?こないだニュースになってた新薬か。確か枠が少なくて、相当なコネがないと入れないって話だぞ」

「私の親戚から聞いたんだけど、高城家の身内がそのリストに入ったらしいわよ。瀬戸社長が裏で手を回したって噂で……」

「まさか、そんな……」

疑惑の視線が、次々と和真に集まっていく。

実花は指先が白くなるほど拳を握りしめ、言葉を絞り出した。「あなたはあの時、なんとかするって約束してくれた。枠を確保するために動くって言ってくれた。だから、私はあなたを信じたの」

一歩、また一歩と彼に歩み寄る。「その後、病院から『枠が埋まった』と連絡が来た時も、あなたは最善を尽くしてくれたんだって、自分に言い聞かせて納得させたわ」

実花は一字一句、噛み締めるように問い詰めた。「和真。最後にもう一度だけ聞くわ。父に用意されるはずだったあの枠……高城家の親族に譲ったのは、あなたなの?」

和真の喉が小さく上下した。薄い唇を固く結んだまま、沈黙が場を支配する。

しびれを切らしたように凛が口を挟んだ。「実花さん、そんな風に和真くんを責めないで!私なの、私がお願いしたの。従兄にとってはそれが唯一の希望だったから……お願い、彼を悪く言わないで……」

「あなたには聞いていない」実花は再び、冷徹にその言葉を遮った。

視線がぶつかり合い、火花が散る。

長い沈黙の末、和真は重い口を開いた。「……おじさんは、あの時すでに末期だった。たとえ新薬を使ったところで、生存率はゼロに等しかったんだ。僕は――」

「だから、あなたが勝手に父の寿命を選別したっていうの?」実花がその言葉を冷たく引き取った。

ふっと、体温の感じられない笑みが彼女の唇に浮かぶ。「そう。あなたにとって私の父の命は、そんな風に計算式で弾き出せる程度のものだったのね」

凛の瞳がみるみるうちに赤く染まった。「実花さん、そんな言い方……和真くんだって、板挟みになって本当に苦しんでいたのよ。彼はただ――」

「さっきから聞いていれば」実花は淡々と彼女を見据えた。「ここに来てから、あなたは三回も『和真くんが心配』だと言ったけれど、私の父については一度も触れていないわね」

一歩、凛に歩み寄る。「あなたは本当に弔いに来たの?それとも、自分の立場を誇示しに来ただけ?」

凛の顔が屈辱で赤らむ。

和真が不快そうに眉をひそめた。「実花、今日は感情が昂りすぎている。話は帰ってからにしよう」

実花は深く息を吸い込み、胸の内で渦巻く屈辱、怒り、そして身体を引き裂くような苦痛をすべて心の奥底に押し込めた。

彼女は再び、父の遺影の前で静かに膝をつく。「……来たからには、お焼香を」

感情を排した声が、静まり返った斎場に響く。「それが済んだら、瀬戸さん、高城さん。お二人ともお引き取りください」

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