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第2話

Author: 手足あせだく
場内は水を打ったような静寂に包まれた。

和真の顔が瞬時に険しくなり、周囲の参列者たちは思わず息を呑む。

言葉を失った凛は、目に涙を溜めていかにも「悲劇のヒロイン」といった体で震えていた。

和真は結局、無言のまま焼香台へと進んだ。

遺影の前に立つ彼の背筋はあくまで真っ直ぐだったが、どういうわけか、胸の奥が妙に締め付けられるような感覚に襲われていた。

実花は最後まで、一度も彼の方を見ようとはしなかった。

香炉に線香を立て、和真は振り返る。床に膝をつく実花の細い背中を見つめ、迷った末にようやく言葉を絞り出した。「実花……僕は、ここに残るよ」

「和真くん……っ」その時、凛が不意に額を押さえ、崩れ落ちるように身体を揺らした。「……めまいがして、少し気分が……」

和真の袖を掴む彼女の手は小刻みに震え、今にも倒れそうだ。

差し出そうとした和真の手が、空中で一瞬止まる。

数秒の葛藤の後、彼はやはり凛の身体を支えた。「……まずは彼女をホテルまで送ってくる。ここのことは――」

「お構いなく」実花が遮るように、静かに、けれど毅然と言い放った。「父の葬儀ですもの。私一人で十分です」

彼女は視線を落とし、遺影の中の父に向かって、ささやくように告げた。「お父さん。もう、待たなくていいよ」

和真は実花の背中をじっと見つめていた。

結局、彼は何も言わず、凛に肩を貸してその場を去った。

二人が立ち去ると、参列者たちの間で抑えていた私語が再び波のように広がった。好奇心に満ちた、下世話な熱を帯びた声だ。

「瀬戸社長も、あそこまであからさまだとはね……」

「あの高城さんっていう人、相当な手練れよ。あんなに堂々と略奪を仕掛けるなんて。奥様が気の毒すぎるわ」

「でもよく見て。あの二人、どこか目元のあたりが似ていない?」

実花はその言葉を一つ残らず耳にしながらも、決して振り返ることはなかった。

ただ静かに手を伸ばし、遺影の中にある父の穏やかな微笑みを、何度も、何度もなぞる。

「お父さん」心の中で、ぽつりと呟いた。「私、もうあの人を信じるのはやめるね」

誰かが休むようにと声をかけてきたが、実花は首を振って断った。最後の一本の線香が燃え尽き、弔問客がまばらになって散っていくまで、彼女はその場を動かなかった。

祭壇の照明が半分落とされ、重い影が実花の肩にのしかかる。

ようやく立ち上がろうとしたが、感覚の麻痺した足は思うように動いてくれなかった。

実花は震える手でスマートフォンを取り出し、親友の三浦葵(みうら あおい)にメッセージを送った。【葵、前に話してた例の離婚弁護士さん、紹介してもらえるかな?】

すぐに返信が届く。【……本気なのね?】

【ええ】

――離婚する。

葬儀がすべて終わったときには、夜の十時を回っていた。

瀬戸家の邸宅に戻ると、家の中には灯り一つなく、主を失った抜け殻のように静まり返っていた。

玄関のキャビネットにバッグを置き、リビングへ向かおうとした瞬間、スマートフォンが短く震えた。

和真:【家に着いたか?この数日は大変だっただろう。ゆっくり休んでくれ】

実花はその画面を一瞥した。

そのまま無言でマナーモードに切り替え、画面を伏せて置く。

もう、彼の連絡を心待ちにする必要はない。

彼の帰りを、暗い部屋で待ち続ける必要も、もうないのだ。

翌朝。空はどんよりと濁り、重苦しい雲が低く垂れ込めていた。

実花はドレッサーの前に立ち、鏡に映る少し青ざめた自分の顔をじっと見つめている。

ゆっくりと右手を上げ、左手の薬指で光る美しいダイヤモンドの指輪を外した。

ジュエリーボックスを取り出して指輪を収めると、パタンと蓋を閉める。そのまま引き出しの奥深くへと押し込んだ。

この結婚に、もう何の未練もない。

飾り気のないグレーのパーカーに色落ちしたジーンズという身軽な格好に着替え、髪を低い位置で無造作に束ねる。実花はバッグを手に取り、部屋を後にした。

街の南側に建つ、年季の入った雑居ビル。

動くたびに軋み声を上げるエレベーターは、階数ボタンの塗装が指先で擦れてほとんど剥げ落ちている。薄暗い廊下には無数のチラシが雑然と貼られ、どこか埃っぽく澱んだ匂いが漂っていた。

その突き当たりに掛かる『橘鷹法律事務所』という控えめなプレートの周辺だけが、周囲の古びた空気とは対照的に清潔に保たれている。

受付のスタッフに案内された小さな会議室の机には、淹れたてのお茶が湯気を立てていた。

しばらくしてドアが開き、三十代半ばほどの女性が姿を現す。パリッとしたシャツにスラックス姿。短く揃えた髪を後ろに流した、目鼻立ちのくっきりとした女性だ。

「実花さんね。橘薫(たちばな かおる)です」

「橘先生」実花は立ち上がり、差し出された手を握り返した。

「どうぞ、座って」薫は実花の向かいの椅子を引きながら促す。「まずは、おおまかな状況から聞かせてもらえる?」

彼女はそう言って、手元のノートを開いた。

実花は小さく深呼吸をしてから、この三年間の出来事を語り始めた。

話が父の死に及んだとき、ふいに声が掠れた。数秒間言葉を切り、震えそうになる呼吸を整えてから、再び口を開く。

薫は途中で話を遮ることはせず、ただ淡々とペンを走らせていた。

一通り話し終えると、会議室に静寂が下りた。

「この結婚生活を終えるにあたって、あなたが一番に望むものは何?」ノートから顔を上げ、薫が真っ直ぐに実花を見る。

実花は伏し目がちに、膝の上で指をきつく握り込み、そしてゆっくりと解いた。「……自由です」

少しの沈黙を置き、さらに言葉を継ぐ。「それから、瀬戸和真の妻として、私が受け取るべき正当な権利のすべてを」

「家も、現金も、株式も――すべて手に入れます」

その言葉を口にした瞬間、実花自身も少し驚いていた。

自分にもまだ、こんな風に堂々と「欲しいもの」を主張できる強さが残っていたのだ、と。

薫は実花を見つめ、その瞳にわずかな感嘆の色をにじませた。「いいわ、その意気よ」

彼女は手元のノートをパラパラとめくる。「あなたの状況なら、今挙げたものはすべて正当な要求の範囲内。けれど、大きな問題が二つあるわ」

薫は一度言葉を切り、真剣な面持ちで実花を凝視した。

「一つ目は、婚前契約の存在。契約書の内容通りに進めば、あなたが手にできる額は微々たるものになる。

二つ目は、あなたが彼の資産状況を把握していないこと。

瀬戸グループの株主構成は複雑だし、一族経営という側面もある。和真氏個人の資産をどれだけ正確に洗い出せるかが鍵になるわ」

薫の口調は、現実を突きつけるように鋭い。「相手は泣く子も黙る大企業。毎年、天文学的な報酬で雇われているお抱えの弁護士軍団がいるの。ハッキリ言って、今このまま無防備に離婚を切り出しても、一円ももらえずに追い出される可能性が高いわ」

実花は反論せず、爪が手のひらに食い込むのを耐えていた。

それが冷徹な現実だと、痛いほど理解していたからだ。

「だから、私の提案は『今はまだ耐えること』よ」薫はペンを置いた。

「彼の名義の財産をすべて特定するまで、離婚の意志を悟られてはいけないわ。もし不貞行為などの有責事項があれば、こちらが圧倒的に有利になるけれど」

実花の長い睫毛が、微かに震えた。

薫はその動揺を見逃さない。「……何か、心当たりがあるの?」

実花は喉の奥を締め付けられるような感覚を覚えながら、短く答えた。「……はい」

「お察しするわ。辛いでしょうけど、今は牙を研ぐ時よ」

薫は一枚のカードを差し出した。「これがうちの振込口座。着手金の入金を確認次第、正式に手続きを開始するわ。こちらでも彼の資産調査に動くし、裁判所を通した開示請求も進める。時間はかかるわよ。その覚悟はいい?」

「それと、もし不貞の証拠を掴んだら、すぐに私に共有して」

実花は深く頷いた。「分かりました」

彼女は立ち上がり、薫に向かって丁寧に一礼した。

「……よろしくお願いします」

法律事務所を出ると、外はすでに細い雨が舞っていた。街の南側に降る雨は、いつもどこか湿り気を帯びた古びた匂いがする。

実花は軒下に立ち、スマートフォンを取り出して、ずいぶんと開いていなかったトーク画面をタップした。

【先生、アトリエに戻りたいです】

送信ボタンを押した瞬間、わけもなく鼓動が早くなった。

彼女は幼い頃から伝統画の巨匠である篠田先生に二十年近く師事し、一番弟子として最も目をかけられていた。古画の修復技術においては右に出る者がおらず、彼女自身の筆致もまた、見る者を圧倒するほど並外れていた。

しかし結婚してからは、和真を支え、瀬戸家を取り仕切ることに忙殺され、恩師や同門の人々とは次第に疎遠になっていった。盆と正月に型通りの挨拶を送るだけで、それ以上の関わりは絶えて久しい。

こんな身勝手な連絡、きっと返信なんて来ないだろう。

そう思っていたのに、十分もしないうちにスマートフォンが震えた。

篠田:【いつでも戻っておいで。場所はあの時のままだよ】

ごく短い、ありふれた文面。

雨除けの下に佇む実花の目頭が、じんわりと熱を持った。

灰白色の空を見上げ、湿った空気を胸いっぱいに吸い込む。

【実花:ありがとうございます。明日、伺います】

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